松尾睦のブログです。個人や組織の学習、書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。
ラーニング・ラボ
『道徳の系譜学』(読書メモ)
ニーチェ(中山元訳)『道徳の系譜学』光文社古典新訳文庫
現代における「善や悪」に関する価値観が、いかに生じたのかを論じた書。ロジカルな展開がすばらしい。
もともと「良い」という語には「高貴な」「力強い」「勇敢な」という意味があったが、これが「従順な」「無私の」「自己犠牲」といった意味へと転換されていく。
なぜか?
それは、法治国家において、自由で力強く行動されると秩序が保てなくなるからである。そこで、「自由の本能」は、自己の滅却、自己否定、自己犠牲から成る「疚しい(やましい)良心」へと変換される。ニーチェいわく、疚しい良心とは「自己への暴力」である。
なぜ人は、自己に暴力を振るうのか?
「無私の人、自己を否定する人、自己を犠牲にする人が最初から感じていた悦楽とは、そもそもどのようなものかということである。この悦楽は残酷さにつきものの快楽なのだ。(中略)疚しい良心と、自己の虐待の意志があって、初めて非利己的なものの価値の前提が生まれたのである」(p. 163-164)
「わたしたちは今では自分に暴力をふるっている。このことに疑問の余地はない。わたしたちは、<魂の胡桃割り>なのだ。生きるということは、胡桃を割ることにほかならないのだ」(p. 222)
なお、利他的な行動がマゾヒスティックな快楽に基づいているという思想は、フロイトの考え(人間の良心=攻撃性の内面化)に影響を与えているようである(アインシュタイン/フロイト(浅見昇吾訳)『ひとはなぜ戦争をするのか』講談社学術文庫)。
ただ、自己への暴力だけでは、本来持っている動物的で自由な本能から解放されることは難しい。そこで登場するのが「神」である。
本能とは、「神に対する負い目=罪」であり、「神(キリスト)が人間のために犠牲となって人間の罪を許すという教え」(キリスト教)を信じることで、人間はしばしのやすらぎを手にすることができたという。
本書の最後の方では、「人間は何のために苦悩するのか?」ということが論じられている。
「これまで人間を覆ってきた災いは、苦悩することそのものではなく、苦悩することに意味がないことだった。そして禁欲的な理想は人間に、一つの意味を提供したのである!これが人間の生のこれまでの唯一の意味だった。まるで意味がないことと比較すると、どんな意味でもあるだけまだましだったのだ」(p. 326-327)
「すべての苦悩を罪という観点[遠近法]のもとにもたらしたのである。・・・だがそれにもかかわらずーこれによって人間は救われたのであり、生の意味を手にしたのである」(p. 327)
西欧文化や近代哲学の前提に切り込んだ本書の凄さは理解できるが、2点気になることがあった。
第1に、ニーチェは、キリスト教によって、人間の自由な本能が失われてしまったことを前提にしているようだが、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の観点から考えると、天職意識によって、人間本来のエネルギーが引き出されることもあるだろう。
第2に、キリストの十字架の箇所で「債権者みずからを、債務者のために犠牲にする、それも愛から(しかしそんなことが信じられるだろうか?)、自分に負債を負う者への愛から、みずからを犠牲にするというのだ!・・・」(p. 172)という文があるが、この点については、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という言葉にしたがうべきなのではないか、と思った。
以前『この人を見よ』を読んだときには、「この人大丈夫か?」と思ったが、最盛期に書かれた本書を読み、ニーチェの天才を肌で感じることができた。
現代における「善や悪」に関する価値観が、いかに生じたのかを論じた書。ロジカルな展開がすばらしい。
もともと「良い」という語には「高貴な」「力強い」「勇敢な」という意味があったが、これが「従順な」「無私の」「自己犠牲」といった意味へと転換されていく。
なぜか?
それは、法治国家において、自由で力強く行動されると秩序が保てなくなるからである。そこで、「自由の本能」は、自己の滅却、自己否定、自己犠牲から成る「疚しい(やましい)良心」へと変換される。ニーチェいわく、疚しい良心とは「自己への暴力」である。
なぜ人は、自己に暴力を振るうのか?
「無私の人、自己を否定する人、自己を犠牲にする人が最初から感じていた悦楽とは、そもそもどのようなものかということである。この悦楽は残酷さにつきものの快楽なのだ。(中略)疚しい良心と、自己の虐待の意志があって、初めて非利己的なものの価値の前提が生まれたのである」(p. 163-164)
「わたしたちは今では自分に暴力をふるっている。このことに疑問の余地はない。わたしたちは、<魂の胡桃割り>なのだ。生きるということは、胡桃を割ることにほかならないのだ」(p. 222)
なお、利他的な行動がマゾヒスティックな快楽に基づいているという思想は、フロイトの考え(人間の良心=攻撃性の内面化)に影響を与えているようである(アインシュタイン/フロイト(浅見昇吾訳)『ひとはなぜ戦争をするのか』講談社学術文庫)。
ただ、自己への暴力だけでは、本来持っている動物的で自由な本能から解放されることは難しい。そこで登場するのが「神」である。
本能とは、「神に対する負い目=罪」であり、「神(キリスト)が人間のために犠牲となって人間の罪を許すという教え」(キリスト教)を信じることで、人間はしばしのやすらぎを手にすることができたという。
本書の最後の方では、「人間は何のために苦悩するのか?」ということが論じられている。
「これまで人間を覆ってきた災いは、苦悩することそのものではなく、苦悩することに意味がないことだった。そして禁欲的な理想は人間に、一つの意味を提供したのである!これが人間の生のこれまでの唯一の意味だった。まるで意味がないことと比較すると、どんな意味でもあるだけまだましだったのだ」(p. 326-327)
「すべての苦悩を罪という観点[遠近法]のもとにもたらしたのである。・・・だがそれにもかかわらずーこれによって人間は救われたのであり、生の意味を手にしたのである」(p. 327)
西欧文化や近代哲学の前提に切り込んだ本書の凄さは理解できるが、2点気になることがあった。
第1に、ニーチェは、キリスト教によって、人間の自由な本能が失われてしまったことを前提にしているようだが、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の観点から考えると、天職意識によって、人間本来のエネルギーが引き出されることもあるだろう。
第2に、キリストの十字架の箇所で「債権者みずからを、債務者のために犠牲にする、それも愛から(しかしそんなことが信じられるだろうか?)、自分に負債を負う者への愛から、みずからを犠牲にするというのだ!・・・」(p. 172)という文があるが、この点については、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という言葉にしたがうべきなのではないか、と思った。
以前『この人を見よ』を読んだときには、「この人大丈夫か?」と思ったが、最盛期に書かれた本書を読み、ニーチェの天才を肌で感じることができた。
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