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NO.12 裏に牛小屋がありよくのぞきに行ったものである。

2017-01-13 | 「私がお話し」します。

 3~40センチ角の2.5メートルくらいある柱(90キロくらいか?)を

一人で背負って神社の参道を上がっていかれたのにはおどろいた。

 

 一軒おいて、森口米屋があった。ご主人の宇三郎は頑丈なおじさんで牛を引いて米を運んでいた。裏に牛小屋がありよくのぞきに行った

ものである。私より3歳ほど下の男の子がいた。Kちゃんといった。宇三はんは、向日神社のお祭りに使う、正面のちょうちんを立てる

木で作った土台がある。3~40センチ角の2.5メートルくらいある柱(90キロくらいか?)を一人で背負って神社の参道を上がっていかれた

のにはおどろいた。今は軽トラだ。

 

 その隣は安井鍵屋、饅頭屋だった。表だけは覚えているが、中には入れなかった。同級生の女の子Nちゃんと、4つほど上の姉Kさん、

その3つほど上に兄がいた。Tちゃんと言った。お父さんは、小柄な方だった。

 

 隣りに中西さん兄弟妹三人、その隣は藤野さん娘3人息子1人。


 細い道があって藤崎さん、ここはお父さんが大映の撮影所に行っておられた。近所でもあまりなかったが自動車で会社に通勤していた。

一男四女の子がいた。今はマンションがたっている。


次は大田さんという、牛乳屋があったが、そこの方はあまりしらないが、10歳ほど上の男の兄弟がいた。

 

次は、なぜ「滝松」というのかしらないが、小さいうどん屋があった。

 

次に梶さんという工務店が現在も続いている。その下の家に3年上のHちゃんという無口の子がいた。


そこに吉野という3人家族も一緒に住んでいた。

1年上にHという男の子がいた。随分年上の姉がいて、戦後間もない頃黒人の子どもがいた。いろんな事情があったのだろう。


ちょっと横に入った所に島という家があり同級生のH君と2つほど下の弟がいた。


梶さんの上に東と言う家があり、姉弟妹がいた。妹は聾唖者で喋ることができなかったが、明るい子だった。


 ここまでが向日町だったが、記憶もこの家までである。表で作業をしておられたところはよく覚えているが、戸が閉まっているところは、

住んでいた人は覚えているが、その他の事情はわからない。


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