朝鮮はわずか「30年」で滅びた
江華島条約から乙巳条約(第2次韓日協約)まで要した時間はわずか30年だった。今、韓国を繁栄に導いた脱冷戦の30年が終わり、不吉な新たな30年が始まろうとしている。現在のように朝鮮半島をめぐる力の均衡が急激に変化した19世紀後半、朝鮮の前には数多くの「分かれ目」が待ち受けていた。歴史の新たな分岐点で「朝鮮の分かれ目」を省みることは、2024年の韓国人にも少なからず助けになることだ。
「もし私が幸せに見えるのであれば、(本当に)そうだからです。実に素晴らしい会談でした」
その日、米大統領の夏の別荘であるキャンプ・デービッドには、やわらかい夏の日差しが降り注いでいた。うっそうとした木立の間を通る質素な小道に沿って、韓米日3カ国の指導者が姿を表わした。米国東部時間2023年8月18日午後3時14分、韓国時間では翌日の早朝5時14分だった。中央に立った米国のジョー・バイデン大統領がゆっくりした足取りで演壇に上がり、軽い笑みを浮かべ、「私たちは歴史的な瞬間を作るために、歴史的な場所で会談した」として、「韓米日パートナーシップの新時代」が始まったと述べた。
バイデン大統領の発言は決して誇張ではなかった。この日の韓国は、1948年8月の政府樹立後初めて、朝鮮半島を35年間植民地支配した日本との「軍事同盟」への第一歩を踏みだしたのだ。3カ国は「共同の利益と安全保障に及ぼす地域的な挑戦・挑発・脅威に対する自国の政府の対応を調整するため、各国政府が3者レベルで互いに迅速に協議することを公約する」としたうえで、「私たちの調整された力量と協力を増進するため、3カ国訓練を年単位で定例実施」することを誓約した。外部の脅威が発生する場合3カ国が「迅速に協議する」とし、毎年定期的に訓練を行うことにしたため、その過程で育て上げられた3カ国の連合力を遠からず「共通の敵」に対して行使する選択をすることになる可能性が高まった。
それに対する「反作用」は1カ月も経たずにあらわれた。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長は、その年の9月13日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領と極東のアムール州ボストチヌイ宇宙基地で向き合った。韓米日3カ国が北朝鮮の脅威と中国の浮上をけん制するために本格的な軍事同盟に踏みだしたことで、冷戦終結後のこの30年間は遠ざかっていた北朝鮮とロシアの戦略的協力が一気に強化されたのだ。
金委員長はその後、朝鮮半島全体を驚愕させる発言をした。2023年12月、朝鮮労働党中央委員会第8期第9次全員会議で、韓国に向けて「米国の植民地の手先にすぎない怪異な輩と統一問題を論じることは、わが国の風格と地位に釣り合わない」と述べ、1月15日の最高人民会議第14期第10次会議の施政演説では、「大韓民国は『和解と統一の相手であり同族』という現実に矛盾した既成概念を完全に消し、徹底した他国」とみなすと宣言した。南北が半世紀前の1972年の7・4共同宣言を通じて確認した3大統一原則と、1991年12月の「南北基本合意書」で合意した「統一を指向する過程で暫定的に形成される特殊な関係」という概念を、事実上廃棄したのだ。それによって、韓国の進歩勢力が冷戦後約30年間にわたり推進してきた「太陽政策」は事実上失われ、南北分断が永久化されるかもしれないという恐れが膨らんだ。
朝鮮半島をめぐる情勢が急激に揺れ動く「根本原因」は、この地域を取り囲む力の均衡が急変しているためだ。朝鮮半島は、大陸勢力と海洋勢力の力が正面衝突する結節点に位置する。大陸勢力は中国とロシアで、海洋勢力は日本と米国だ。この力の均衡が変わるたびに、朝鮮半島は筆舌に尽くしがたい苦痛を被った。海洋勢力である日本が大陸勢力である清とロシアを打ち負かす過程で朝鮮は植民地に転落し、第2次世界大戦後はこの2つの勢力が激しく対立し、国土が分断された。
現在進行中の力の変化の核心は、米国の国力の衰退とそれによって発生した国際秩序の多極化だ。ウクライナ戦争はすでに3年目に突入し、ガザ戦争も同じく収拾の兆しが見えない。「米国第一主義」を掲げるドナルド・トランプ前大統領が11月の米大統領選挙で勝てば、今後の国際秩序の不確実性はさらに強まるだろう。この新たな力の再編の過程で、韓米日3カ国同盟と事実上核保有国になった北朝鮮が激烈に対立し、分断が永久化されようとしている。一歩を間違って踏みだした場合、解放(日本の敗戦)後に韓国社会が血の汗を流して成就したすべてのものを失い、想像しがたい苦痛を受ける可能性もある。
振り返ってみると、今と似た殺伐とした力の変化がなされたのは19世紀末のことだった。1876年の江華島条約を通じて朝鮮が門戸を開放し、日本と西欧列強の力が朝鮮半島にずかずかと乗り込んできた。老いた清帝国は「唯一の属邦」を守ろうともがき、明治維新に成功した日本は「朝鮮独立」と「内政改革」を大義名分に掲げ、干渉を始めた。シベリア鉄道の建設を通じて極東に視線を転じたロシアは、満州を手中に収め、日本と対立した。
これらの圧倒的な力に対抗して、朝鮮は独立を維持して国家を近代化する容易ではない課題を同時に解決しなければならなかった。そのためには、国の人的・物的能力を1カ所に集中しなければならなかった。そのために必須なのは国の目標を設定するための公的な意志決定システムと、それを実現できる有能な官僚機構だった。しかし、高宗(1852~1919)が多くの「密旨」や「別入侍」(臣下が王に密に会うこと)などで分別なく権力を行使したため、国家の公的機構はますます有名無実化した。後で問題が生じた場合は、国王は無関係を装い、命令を施行した者は死ぬことになるか島流しになった。
権力に対する信頼がないため、国家の重要な機密文書が相手国にそのまま流出することもあった。1895年から1905年までの10年間に朝鮮の外務大臣に就いたのは何と24人だ。1898年の1年だけで、外務大臣は趙秉稷(チョ・ビョンジク)・兪箕煥(ユ・ギファン)・李道宰(イ・トジェ)・朴斉純(パク・チェスン)から、ふたたび趙秉稷と朴斉純を経て、結局はまた趙秉稷に変わった。国庫は空っぽで、清の北洋大臣の李鴻章は「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と舌打ちした。皇室予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は、国が滅びるときまで変わらなかった。
目前に巨大な「津波」が押し寄せていたが、国家は四分五裂を繰り返した。大院君と明成皇后は互いに対する憎悪をあらわにしていがみ合い、高宗は権力を失うのではないかと戦々恐々としていた。政治エリートたちは、最初は開化が必須かどうかをめぐり(開化派と衛正斥邪派)、次はその方法論(急進開化派と穏健開化派)をめぐり、その後は、どの列強に頼るべきかについて、最後は権力それ自体を独占しようとして、激しく対立した。妥協と折衝を通じて社会的合意を形成する方法を知らなかったため、「冒険的クーデター」と「政治テロ」が横行した。
権力が合理的に行使され、それに民意を反映するためには、立憲民主的な政治改革が「時代の課題」だった。国の運命は最大の危機に達したが、突然登場したものは、皇帝の専制権を明示した「大韓帝国」だった。1899年8月に公布された「大韓国国制」第2条は、大韓帝国の政治は「500年間伝来し、今後も万世にわたり不変な専制政治」だと釘をさしている。高宗は独立維持のために「中立国化」を追求したが、国家的な覚悟と実力が伴わない中立が可能であるはずはなかった。朝鮮の外交権を奪おうとする最後の瞬間、伊藤博文は、「一般人民の意向も確かめなければならない」とする高宗に、「貴国は、万機一切すべて陛下の親裁で決める、いわゆる君主専制国ではないか」と詰問した。朝鮮半島が植民地になったのは、日帝の鉄の杭のためではなかった。朝鮮は日帝の侵略を防ぐことができなかった。冷静に評価すれば、朝鮮は自滅した。
江華島条約から乙巳条約(第2次韓日協約、1905年)まで要した時間はわずか30年だった。今、韓国を繁栄に導いた脱冷戦の30年が終わり、不吉な新たな30年が始まろうとしている。現在のように朝鮮半島をめぐる力の均衡が急激に変化した19世紀後半、朝鮮の前には数多くの「分かれ目」が待ち受けていた。当時の人たちに考えがなかったはずはないのに、なぜ失敗したのだろうか。今年は日清戦争開戦130年、日露戦争開戦120年にあたる年だ。歴史の新たな分岐点で「朝鮮の分かれ目」を冷静に省みることは、2024年を生きなければならない韓国人にとっても、少なからぬ助けになることだと信じる。
キル・ユンヒョン|論説委員 大学で政治外交を学ぶ。東京特派員、統一外交チーム長、国際部長を務め、日帝時代史、韓日の歴史問題、朝鮮半島をめぐる国際秩序の変化などに関する記事を書いた。著書は『私は朝鮮人カミカゼだ』『安倍とは誰か』『新冷戦韓日戦』(以上、未邦訳)『韓国建国に隠された左右対立悲史-1945年、26日間の独立』(吉永憲史訳、ハガツサ刊)などがあり、『「共生」を求めて』(田中宏著)『日朝交渉30年史』(和田春樹著)などを翻訳した。人間に最も必要な力は、自らを冷静に振り返る「自己客観化能力」だと信じている。