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大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

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N0.16 大西さんは一際大きな家で3人姉弟妹だったが、姉が小学校1年のときに同じ組だった。

2017-01-18 | 「私がお話し」します。

タバコ屋の次は郵便局だったが火事で燃えてしまった。

その跡にパチンコ店と肉屋ができた。

 

「紅葉屋」という下駄や服を売っている結構大きな店があった。3歳上の娘さんと随分上の兄がいた。

次が南真経寺へ行く道だ。子供の頃、この道に集まった井上電気の労働者のデモがあったが、向かいの警察に不当逮捕された人を

取り返しに来ていたのだ。

角のタバコ屋は五十棲さん。三人姉妹がいた。中の妹が同級生だった。

次は郵便局だったが火事で燃えてしまった。その跡にパチンコ店と肉屋ができた。当時の肉屋は坂井さん、同級生の息子がいた。

かごとら乾物屋、家の中に井戸があった。向陽小学校の正門前に長谷川本屋、学校の教科書等を売っていた。大分年上の兄弟がいた。

入り口の狭い吉川薬局があった。そして「わた仁・仕出し屋」である。はるこさんという近所で一番太いおばさんがおられた。

辻井さんという 刺繍やがあるがあまりしらない。 万源という酒、醤油屋があった。次は高橋写真館・向日神社御用達だ。

 

 木村紙屋・文房具も扱っていた。上田電気、大西タバコ屋だったが、ここは同級生のT君がいた。きく亭と言う肉やがあったが、このあたりの記憶はあまりない。

富永屋、滝本炭屋、大西さんと続いていた。

大西さんは大きな家で3人姉弟妹だったが、姉が小学校1年のときに同じ組だった。

田中おもちゃ屋があったがそれ以上遠くには行かなかったが、大きな油問屋があった。

ちょっと上に松下のおもちゃ屋だけは知っていた。ここも兄弟がいて下の子が同級だった。

 

この辺までが子供の世界で、小学校5~6年にもなると向日町中に行動範囲が広がったが遠いから物集女まではあまり行かなかった。

 

次からそのあたりのことを思い出すままに書いておこう。 

 

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NO.15 前に常夜灯があった。子どもが紙芝居を見る場所だった。

2017-01-17 | 「私がお話し」します。

銀行の電話番号が、1番、辻山久養堂が9番、大橋が12番、滝仁が13番だった。

 

五辻の隣は理髪店築山三郎さん、おじいさんがめずらしい小動物を飼っていた。男の子が一人Mといった。

吉田さんは、向かいの戸政の職人だった。その前に常夜灯があった。子どもが紙芝居を見る場所だった。3つ上のM君がいた。

左に曲がると阿部電気店、太郎さんというおじさんが、当時としてはハイカラな人だった。娘が2人いたが姉Mちゃんが2つほど下だった。

小山ふとん店があり男の子がいた。その隣が警察だった。

 

片山塩やがあって松本文具店、男の子が2人いたが弟が3年上の子清さんだった。今里屋、小山さんには同級の娘と弟がいた。

そうして向陽小学校の正門と中に役場があった。役場には、安田さんという小使いさんがおり4年上の弟とその兄がいた。

太神楽・獅子舞が廻ってきたときは役場前で少し長い間踊りをした。安田さんが祝儀をはずむからだ。

学校の隣は朝田さんと言う家だった。小野の時計や、中埜の理髪店・3人姉妹、辻山久養堂というお菓子屋があり源氏巻が代表作だった。

ここの3男が同級だった。その兄が二人いた。向日神社、三和銀行、上田、戸川と並んでいた、

Kという同級生がいた。木村豆腐あたりまでしかしらなかった。

 

五辻から東の並びは戸政ガラス、ふーちゃんというおばさんがいた。ガラスが割れたらなおしに来てくれた。右のほうに川島、狩野、岸上と言う家があった。

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NO.14 人体模型を作る家があった。恐いものみたさに、そおーと覗きながら通ったものである。

2017-01-15 | 「私がお話し」します。

 北東の運動場の隅に農協があった。

山田さんという人が住んでいたが2年上の姉Tさんと2年下の妹がいた。

 花久の向かいが片山・はちらはん(八郎)魚屋だった、乾物も置いてあった。男4人兄弟だった。

小林傘屋は今も店を開けている。昔のまま残っている珍しい店だ。 裏に荒木さんの家があった。

その横に乙訓中学校の正門で、正面には、いかにも昔の学校の校舎で趣があった。

今は民家がたっている。その隣の(洛西医院)があるところに人体模型を作る家があった。恐いものみたさに、そおーと通ったものである。

塩崎さん、(野村さん)片山さん そのむこうが石塔寺。

  五辻から東へ

野村酒屋には男の子が3人、最後に女の子が一人いた。3番目が同級でTと言った。子供の私には用がなかったので余りのぞいたことはない。

その隣に田渕さんと言う家があった。お父さんは京都大丸に勤めていたらしい。姉妹と弟が一人いた。妹が同級でAっこさん、3つほど上の姉は

近所でも有名なおてんば娘だった。

 増田自転車やさんも時々覗いて仕事を見ていた。

次に中学校の横門があった。入ったところに蓋のついた井戸があり、新田さんと言う小使いさんがすんでいた。男の子がいた。

校舎が並び北東の運動場の隅に農協があった。山田さんという人が住んでいたが2年上の姉Tさんと2年下の妹がいた。

南北の道を挟んで向日町教会(幼稚園)があるが、学校に行くまでここに通っていた。お爺さんたちが作った教会だ。

森安という牧師が住んでいたが、兄妹がおり妹が同級だった。教会の話をしたら長くなるのでやめておくが、日曜日には礼拝にいていた。

献金を入れるビロウドで作った杓をもって、いすの間をまわって集めた。

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NO.13 松尾石油の前に、山口自動車修理工場があった。

2017-01-14 | 「私がお話し」します。

なぜか、五辻のまわりの家は、養子が多かった。

嶋田・小島・大橋・藤田(横丁)さんなどだ。


 五辻から島坂のほうに向かっては、あまり遊びに行かなかったが、少しは覚えている。角の家が花久文具店、昔はお茶屋だった。

3つ4つ下に男の3兄弟がいた。五辻のまわりの家は、養子が多かった。大橋・嶋田・小島・西田・藤田(横丁)さんなどだ。

花久の隣は藤田、植為八百屋さん、7~8才うえの兄弟がいて、弟がよく走るので近所のヒーローだった。短距離、中距離が得意だった。

最後の30メートルでトップに立った。

その隣に町役場の会計をしている上田さんと言う方がおられた。裏通りに石油店があった、松尾さんという方がおられ、そこのチャーヤンと

いう息子は近所では目だって背が高かった。(180センチくらい)  

忘れていたが松尾石油の前に、山口自動車修理店があった。男3人と女の子が1人いた。ここのガレージでよく遊んだ。

元に戻って、一軒おいて片山という駄菓子屋があった。同級生のTちゃんと弟が1人いた。

古谷という家があり1歳上のNちゃんと妹がいた。大工さんか左官屋だったと思う。

その隣は鎌田の鍛冶屋、松田の鍛冶屋より場所も広く、大きな鉄材がおいてあり、ガスバーナーもあった。リヤカーなども創っていた。

 その横が向日区事務所、舟木さんと言うおばさんが用務員をしていた。同級のM君と姉が一人いた。

その隣は三宅家具店、ここにも同級生のH君、兄も弟もいた。その隣が橘さん、ここもY子さんと言う同級生と3歳上の兄がいた。

お母さんはしっているがお父さんは戦死されたのだと思う。

一軒おいてパリー館という理髪店があった。私はここで子供用の子馬の椅子に座って散髪してもらっていた。

ここもMちゃんという娘の同級生と弟がいた。

続いて勝田、塩谷、野口さんと言う家があったが、野口さんには同級のY君がいたが、不思議にこのあたりまでしかこなかった。

ここから下は上植野でその前の道を「島坂」と言った。島坂にはあまり行かなかった。

 

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NO.12 裏に牛小屋がありよくのぞきに行ったものである。

2017-01-13 | 「私がお話し」します。

 3~40センチ角の2.5メートルくらいある柱(90キロくらいか?)を

一人で背負って神社の参道を上がっていかれたのにはおどろいた。

 

 一軒おいて、森口米屋があった。ご主人の宇三郎は頑丈なおじさんで牛を引いて米を運んでいた。裏に牛小屋がありよくのぞきに行った

ものである。私より3歳ほど下の男の子がいた。Kちゃんといった。宇三はんは、向日神社のお祭りに使う、正面のちょうちんを立てる

木で作った土台がある。3~40センチ角の2.5メートルくらいある柱(90キロくらいか?)を一人で背負って神社の参道を上がっていかれた

のにはおどろいた。今は軽トラだ。

 

 その隣は安井鍵屋、饅頭屋だった。表だけは覚えているが、中には入れなかった。同級生の女の子Nちゃんと、4つほど上の姉Kさん、

その3つほど上に兄がいた。Tちゃんと言った。お父さんは、小柄な方だった。

 

 隣りに中西さん兄弟妹三人、その隣は藤野さん娘3人息子1人。


 細い道があって藤崎さん、ここはお父さんが大映の撮影所に行っておられた。近所でもあまりなかったが自動車で会社に通勤していた。

一男四女の子がいた。今はマンションがたっている。


次は大田さんという、牛乳屋があったが、そこの方はあまりしらないが、10歳ほど上の男の兄弟がいた。

 

次は、なぜ「滝松」というのかしらないが、小さいうどん屋があった。

 

次に梶さんという工務店が現在も続いている。その下の家に3年上のHちゃんという無口の子がいた。


そこに吉野という3人家族も一緒に住んでいた。

1年上にHという男の子がいた。随分年上の姉がいて、戦後間もない頃黒人の子どもがいた。いろんな事情があったのだろう。


ちょっと横に入った所に島という家があり同級生のH君と2つほど下の弟がいた。


梶さんの上に東と言う家があり、姉弟妹がいた。妹は聾唖者で喋ることができなかったが、明るい子だった。


 ここまでが向日町だったが、記憶もこの家までである。表で作業をしておられたところはよく覚えているが、戸が閉まっているところは、

住んでいた人は覚えているが、その他の事情はわからない。

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NO.11 泡がぶつぶつ出てくるところがパンクしている場所だ。一箇所だけではないかもしれないので念いりによく調べる。

2017-01-12 | 「私がお話し」します。

2~30分ぐらいはかかっただろうが、自転車は生き返って走り出す。

 

 その隣は松田の自転車やのテイサンの家だ、五辻の東側にもう一軒自転車屋があったが、そこは増田さん、こっちのほうが有名なのだが、

昔はそんなことはしらなかった。

横丁の松田さんは、戦後ちょっとあとから転居して来たのかよく覚えていないが、パンクを修理すのを何度みたかわからない。

まずハンドルを下に自転車を反対向け立てて、タイヤをはずす。掘り出したチューブに空気を入れて水の中につける。

泡がぶつぶつ出てくるところがパンクしている場所だ。一箇所だけではないかもしれないので念いりによく調べる。

穴の場所がわかればタイヤをきれいに拭いて、乾く間にふるいタイヤで使わないものを3×5センチくらいに切って台の上にのせ、

軽石で表面をこする、穴の開いた場所も軽石でこする。そうしてゴムのりを出してこすった両方に薄く塗る。半乾きのよい頃を見計らってきちっとはる。

そうしてはった上をごしごしこすってしばらく待つ。もう一回空気を入れて水の中に入れもれて、もう泡が出ないか点検しながら、見落としがないか、

タイヤを引張りながら2~3回見直す。大丈夫なのを確認して綺麗にふく。そうして空気を抜いて、タイヤとリムの間に収めて、もう一度空気を入れる、

そのときにゴムの”むし”をかえておく。

これでパンクの修理が終わる。2~30分ぐらいはかかっただろうが、自転車は生き返って走り出す。

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NO.10 白装束で日本刀を作っていたこともあるという。おっさんのちょっちした自慢話も聞かされた。

2017-01-11 | 「私がお話し」します。

長い火箸で取り出して、鉄の台の上に載せてかなづちでたたいて形をつくる。

 その隣は松田の鍛冶屋だった、ここにはよく見に行った。

鎌、各種の鍬、包丁、日本刀まで作っていた。表は2間ほどの間口でガラス戸が4枚ほどあり入って左側にフイゴとコークスを燃やす場所、

その横にコークスがつんである。

右には出来上がった、鍬や包丁が並んでいた。土間全体が、土で作った窯のような形で裏に普通の部屋があったが、

裏に行くのにちょうつがいでとめた動く戸がはめてあった。

その戸の中に狭い引き戸がついていたが、その戸をあけてそこにすわって作業を見学するわけだ。

どんな会話をしていたのかは覚えていないが、30分~1時間見ているのだからいろんな話をしていたのだろう。

コークスが真っ赤になったところへ鉄の塊を入れる。長い火箸で取り出して、鉄の台の上に載せてかなづちでたたいて形をつくる。

冷えてきたらまたコークスの中にいれる。火力が弱ってきたら、ふいごを動かして風を送る。

この操作を何度も繰り返してだんだん鍬や包丁に変わっていく。備中ぐわは3本にわかれているので、鉄をつながなければならない。

真っ赤に焼けた2種類の鉄を重ねて手早くたたく、数回繰り返すと鍬らしくなってくる。

昔は、白装束で日本刀を作っていたこともあるという。おっさんのちょっちした自慢話も聞かされた。

5歳ほど上のAさんともう少し上のRさん姉妹がいた。Rさんは小学校の先生になった。

 

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NO.9 下のわっかは、少し小さめのもので、2つしめるときっちり出来上がる。

2017-01-10 | 「私がお話し」します。

横丁の向かい側の家には、西田の桶や(現在常夜灯がある)、

ここは桶と名がつくものは何でも作っていた。

 道路と家の間に溝があったが、石のふたがありちょっと高くなったところに木戸が6枚はまっていてその2枚ほどが開いているときには、

中でおっさんが仕事をしていた。

向かいの笹江さんより大きいものを作っていた。風呂・下肥を入れる桶・風呂に持っていく小さい桶・何に使うのか知らないが大小いろいろあった。

桶を作るのは、正目のきれいな板を10枚ほどつないで丸くする。下から数センチのところに底をはめるために5ミリほど彫っておく。

底は板を合わせて円形にする。丸く削る特殊なかんながある。

板と板をつなぐのは、竹で爪楊枝の太いようなものをつくり、板の横にきりで穴を開けてその爪楊枝のようなものを打ち込んでつないでいく。

竹は大きなものを、笹江さんと同じように用途に合わせて手際よく割っていく。竹でわっかをつくり底のほうからはめてゆっくり上に移動させる。

下のわっかは、少し小さめのもので、2つしめるときっちり出来上がる。

天秤棒で前と後ろのぶら下げられるように、下肥用は桶の左右の板を長くして引っ掛ける穴を開けておく。

 小さいながらも何度も見ていたので、途中から見ても何が出来上がるか大体わかった。おっさんは質問すれば何でも教えてくれた。

 

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NO.8  横丁は水の弁が悪かったので、火の用心は、子供の頃からの至上命令だった。

2017-01-09 | 「私がお話し」します。

         水汲みは子供の仕事だった。リヤカーに桶を積んで風呂の日は何回も往復した。

      

  タバ健さんの家が小学校の運動場に上がる道の横にあった。ここの道は運動場から向日神社に登っていく道で、現在は閉鎖されている。

南山64番地から剣道場横の道につながっていた。

天文館やその横の住宅は雑木林と藪と畑だった。向陽小の運動場の中には何本も町道があった。切り開いた運動場だから図面上残っている。

だから現在でも一般通行が正門から学童保育所の横をとおり善峰道に通り抜けできるようになっている。

 莨健さんは町議であり名士だった。横丁に住む人の生活用水は、莨健さん宅の裏にあった洗い場にあった湧き水だった。

多量の湧き水がどんどん出ていたが、現在は家が建っている。その水は向かいの梶さんの家の中で出ている。

向陽小学校の運動場隅の下方にあたるので運動場がろ過装置のようになり、地下水が出てくるのだ。

ずーと以前に運動場の排水が悪く工事したことがあったが、地下にはあちこちに栗石を入れた暗渠が走っている。

それが地下水の道になっているのだ。

横丁に暮らす住民の水汲みは子供の仕事だった。リヤカーに桶を4つ積んで水汲みに行くのだが、風呂の日は何回も往復した。

横丁は水の便が悪かったので、火の用心は、子供の頃からの至上命令だった。

町水道が敷設された当時は、水が臭いと言って、飲み水だけは汲みに行っていた。

 横丁の最後の家が川西元明君の家だった。同級生の彼はフクちゃん・当時はやったマンガの主人公によくにていたからだ。

お父さんは大工さん、妹が一人いた。

次にちょっと低くなったところに田んぼがあったが、そこより長岡で、その遠くにはあまり行かなかった。滝仁の田んぼといわれていたが、

冷たい湧き水で、あかはら(いもり)がたくさんいた、中にはいると土が軟らかくぐいぐいにえこむのであまり入らなかった。

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NO.7 いまは、長屋はなくなっている。階段の上り口に湧き水が出ている浅い井戸があった。

2017-01-08 | 「私がお話し」します。

そこのおばさんがきつい人でオタカハンと言った。


その横のなだらかな階段を上がると右側に長屋が4軒その前に大きな家が一軒たっていた。

その階段の上り口に湧き水が出ている浅い井戸があり、2メートルほどの縄がついた金バケツが擱いてあり近所の家庭用水の役割を果たしていた。

 長屋の最初の家が、島津さん、私の7~8歳くらい上の子がいた。野球はあまりうまくないのにノックだけは上手だった。そこのおばさんがきつい人でオタカハンと言った。

近所の人は一目置いていた。息子はオタカハンゆづりだった。怒りっぽいちょっと変わった子だった。

次の家は安田さん、同級生T君がいた。3つ上の兄ともう少し上の姉がいた。

その横は久岡さん、その横が武田さん、武田の叔父さんは警察官だった。"オイコラ"とこわかった。わたしより2 回りほど上の娘が向陽校の先生だった。

恐い先生だったが大人になって偶然出会ったことがあったが、私のことを覚えていた。話を交わしたがよい人だった。

 大きい家は西村さん?といい向陽小学校の溝内先生が下宿?していた。(後でA先生と結婚・共産党府議となったMさんの夫だ)

 

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集合時間に早く来たものからじゃんけんで組み分けしてリレーをした。 

2017-01-07 | 「私がお話し」します。

スコップとかけやとくいがあれば、高いところを低い更地にしてしまうのだ。


 その横の坂を上がると登記所(法務局向日町出張所)があった。(そこは以前第一保育所があった場所) 向陽小学校に裏から入る道でもあった。

小川さんと言う所長が住んでいたが、同い年の小川武彦君がいた、彼は左ききだった。

そこは通学班の集合場所でもあった。事務所の裏には畑が3~4畝あってその間を通れば建物をぐるりと廻ることができた。一周すれば5~60メートルはある。

集合時間に早く来たものからじゃんけんで組み分けしてリレーをした。15~6人集まる。 次の所長は坂本さんと言うかたに変わった。

坂本さんは3人娘がいた。同い年のMっチャンと姉Sさんと妹がいた。

登記所の前にも畑があったが、近くに用水がないので、そこを善峰道の高さまで掘り下げて水ため(用水)がつくられた。小高い崖をつぶすのに全部人力だから、

淵から1メートルくらいのところにくいを打つ、そうしてそのくいをがたがたゆらして土を下に落とす。スコップとかけやとくいがあれば、高いところを低い更地にしてしまうのだ。

いまの南山児童公園であり、その地下ある貯水槽がある由来である。

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NO.5 おばさんは八百屋なのに、スイカが嫌いだったそうな。酒屋が酒飲みで、困ったところもあったようだが、・・・

2017-01-06 | 「私がお話し」します。

兄が戦死して弟がその嫁と結婚させられたこともまれではなかった。


 その隣に笹江さんという、竹屋のおっさんがおられた。竹刀を作ったりしていたが、長い竹を半分にわり、さらに半分にわる。節を鉈の切れない背のほうで起用にはずしていく。

作るかごや、入れ物に合わせて竹の厚さをそろえておく。竹は細いほうから割っていくとまっすぐ割れる(木もと竹うら)ので、細工するのにむいている。Mちゃんという同級生

と姉のSちゃん、下にHちゃんという弟がいた。

その家の片隅に池田時計やの喜作(きさちゃん)さんが店を出した。わた仁の息子で、その隣の藤田さんと言う八百屋には弟の広ちゃんという人が養子に入った。ここは嫁

も養女で植為の娘さんだ。Eちゃんといった。植為も藤田だから、子がなく兄弟の子を育てていたのだ。当時はめずらしくもなんともなかった。兄が戦死して弟がその嫁と結婚

させられたこともまれではなかった。

そこのおばさんは八百屋なのに、スイカが嫌いだったそうな。酒屋が酒飲みで、困ったところもあったようだが、・・・

表の片隅に藁ぞうりをぶら下げて売ってあった。靴などはなく子供はみんな藁ぞうりだった。鼻緒に布の切れ端を入れて編んであるのは、上等の草履だった。

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NO.4  三男の良平は学校にいってからも、時々「おかあ、ちちくれ!」といって母親の胸を開けていた。

2017-01-05 | 「私がお話し」します。

おっさん上手やナー、そら、本職やからなー


 その隣は滝仁(たきに)という仕出し屋があった。表の店と裏に2階建ての離れがあったが、二階のほうはうちのおじいさんが貸していたようだった。ちょっとした宴会もできた。ご主人は、助市といい、誰も助(すけ)やんと呼んでいた。頭のつるつるのおじさんだった。

入り口のまえに商品・魚・乾物などを並べる台があり、右横に台所があり、まな板と流しがある簡単な調理場があり、その前に90センチくらいの高さのところに煙だしをかねた小さな窓があった。その窓を外から覗くと、助やんが毛のない頭にねじり鉢巻をして魚をさばいたり、焼くのを目の前で見ることが出来たし、ええにおいが外へ流れていた。その手さばきが面白いので、外から窓にくらいついて、何時間も見ていたものだ。

感心したのはうなぎをさばくときだ。生きているうなぎをまな板にのせ首に目打ちをつき刺し胴体を押さえながら尻尾に向かって包丁を走らせる、あっという間に骨をとって、一丁上がり、なんという早業、大きなどじょうも同じようにさっと開く、四角い横長の、ひちりんの上で焼く、たれをかけるとじゅうと音を立ててよい匂いが窓の外にでていく。

 おっさん上手やナー、そら、本職やからなー

助やんには、3人の息子がいたが、3人ともなかなかのスポーツマンで、小さい子は野球の球拾いをさせられた。彼の家には9人分のグローブ、ボール、バットがあった。当時は皮製は少なく硬い布のグローブで、ミットは真ん中にボールの形をした薄い皮が張ってあった。・恭市?良平、兄弟が近所の子を集めて遊ばせていた。三男の良平は学校にいってからも、時々「おかあ、ちちくれ!」といって母親の胸を開けていた。

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NO.3  戦後ドサクサの時代だったが、近所の店屋はきっちり詰まっていた。

2017-01-04 | 「私がお話し」します。

12番地の家には19人住んでいたことになる。


 小学校にいく頃の行動範囲は、横丁と学校(運動場は自宅の裏に接続していた)向日神社(運動場に接続していた)だった。 

戦後ドサクサの時代だったが、近所の店屋はきっちり詰まっていた。

横丁は、私の毎日の遊び場であり、社会見学の場であり、私の世界だった。

隣の家は、大橋でお祖父さんさんと叔父さんがいたが、戦前から、代書や・司法書士で今の我が家で呉服屋をしていた。

お祖父さんさんは家に入った左の部屋で長火鉢の前にすわり、新聞や本を読んでいた。孫が来ると火鉢の下の引き出しをあけて、かき餅やあられをくれた。

それをもらうためによく覗いた。

代書屋は、字のかけない人の手紙や、役所にだす書類を代筆する。

司法書士は、遺言から土地売買の書類、財産に関する法律に基づいて書類をつくり法務局にもって行く。

 おばあさんは、スエといって、兄弟・姉妹の最後の子のつもりでつけられた名前だったが、その下にまたできたらしい。大沢(大阪島本町)から嫁にきた。

田舎の子だったから、畑仕事や屋根に登り雨漏りを直したりもできた。爺さん夫婦、叔父さん夫婦、子どもが4人いた。両方の家に仕切りはなく裏は共通で使用していた。

トイレや風呂は2つあった。

 12番地の家には19人住んでいたことになる。いとこの末子を子守するのはいつも私の仕事?でもあった。

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NO.2 まず我が家は? 何年か前に我が家の家系図を紹介したことがあるので簡単に書いておこう。

2017-01-03 | 「私がお話し」します。

呉服屋をしていた。屋号は向日町大丸・福島屋と呼んでいた。

 私の祖父(母方)が115年ほど前に福島飯坂温泉の近くから向日町に引っ越してきて、公務員のあと呉服屋をしていた。屋号は向日町大丸・福島屋と呼んでいた。終戦時でも玄関の入り口の上に向日町大丸と書いたガラスがはまっていた。夜になり中の電気をつけると外からよく見えるようになっていた。家の表には当時としては立派な一間半ほどの大きなガラスが入ったショウウインドウがあり、その前にガラスが割れないように、学校の鉄棒のような安全対策がしてあった。丁度子どもが鉄棒がわりに遊ぶのに都合がよく、そこにぶら下がってあそんでいた。

 家の中で私が覚えているのは、客と話をする畳の部屋と反物を入れる棚や客が座る場所と2階が呉服を保管する中二階のような天井の低い部屋が2つあった。そこには大きい呉服棚が2つ並んでいた。床の間もあった。祖父は隣の家で代書屋(司法書士)事務所を開いていた。

戦後は呉服屋をしていない、幸い昭和のはじめごろの商店街を撮影した映画が向日市の資料館に保管されている。そのコピーのテープを持っている。それをみれば雰囲気がわかる。30年ほど前に大屋根を修理してもらった時に、大橋と書いた小さな瓦が落ちていたので今でも保管している。

 戦後すぐに、その二階に赤井さん一家が引っ越してきた。ご夫婦と子どもが4人もいたので、狭いところで大変だった。戦後の困難な時期にはどこの家もそんなことがあったものだ。赤井さんがなぜ来たのかといえば、叔父さんが呉服屋時代にここで働いていたからだ。しかも福島県の出身で祖父・孝(よし)さんの祖父が赤井という人と結婚しているので親戚になるからだ。大橋五郎さんが書いた家系図にも出ている。

 我が家は父が17年12月6日に死んだので母と兄と妹と私と4人、だから10人で暮らしていたが、赤井さんに5人目の子ができ、一時期は11人だった。

 赤井さんの長女が中学1年?(S11年生まれ?だったと思う)で死亡した。

叔父さんが戦時中炊事兵だったらしくその経験を活かして小さな食堂をはじめた。飯、うどんそば、焼き芋、今川焼き等を売った。醤油やそうめん、アイスキャンデーも売った。私は小学校の高学年になれば商売の手伝いをした。

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