今から500年前の冬の初め、59歳だった室町時代の禅僧・万里集九は、江戸城を離れて、鎌倉へ行き、六浦(金沢)名刹・称名寺を訪れた。その目的は、中国杭州にある西湖から移植された梅を見るためだったと言われている。杭州日報が報じた。
万里集九
元(1271-1368年)や明(1368-1644年)の時代にかけて、日本の禅僧約400人が中国へ渡り、その多くが、杭州へ行った。しかし、当時、 中国への「留学」は決して容易でなく、ほとんどの日本の僧侶が、西湖に行って自分の目で詩に頻繁に出てくる絶景を見ることはできず、ただそれを想像するし かなかった。
五山禅林の禅僧だった万里集九もその一人で、西湖を訪れたことはなく、ただ、西湖の情景に思いを馳せるのみだった。
「五山」とは、中国の南宋時代(1127-1279年)における寺格の一つで、禅寺を五山の最上位に置き、政府が住持(住職)を任命する。鎌倉幕府時代の 日本にもこの寺格があり、「五山十刹」の禅僧がいて、高待遇を受けていた。そして、禅や漢詩を研究する漢文学に参加し、禅宗を通して中国文学に触れ、「五山文学」が生まれた。
「五山文学」の代表的な人物が万里集九。称名寺に来た万里集九は、梅の花がまだ咲いていなかったため、すぐに帰って行ったとされている。
その後、それを知った鎌倉の建長寺の僧侶も称名寺へ行き、梅の花を摘み、江戸城へ送った。万里集九はそれを生まれ故郷の美濃国へ持っていき、梅の花のために枝を描いた。梅の花を見て、杭州の孤山へ行き、詩人・林逋と一緒にそれを見ることを思い描いていたのだ。
日本の文化の西湖に対するあこがれは、今の日本の多くの都市でも見ることができる。例えば、東京の小石川後楽園、旧浜離宮恩賜庭園、広島市の縮景園、和歌山市の養翠園、水戸市の千波湖などがあり、どれもが西湖の縮図だ。
「人民網日本語版」2015年11月26日
西湖の小型遊覧船。撮影・おおはしみつる
「世直しご一緒に」をテーマにいろいろな問題を連載して来ました。
引き続き私の思いをアップして行こうと思いますが、しばらくは、題名のない写真を連載します。特に意味はありませんので、何かを感じてください。
韓国済州島・モルスポアルトウル飛行場。旧日本軍の航空基地、今、零戦モニュメントが置かれている。
あとがきにかえて
私が目指してきた社会は、真に自由な社会です。
一九四六年一一月三日、日本国憲法が公布され翌年五月三日に施行されましたが、私はその年に小学校に入学し、新憲法・教育基本法のもとで行われる初めての教育を受けました。
一九六一年七月、日本共産党第八回大会が開かれ「綱領」「規約」が決定されました。私は、一九六二年四月一〇日、その「綱領と規約」を認め日本共産党に入って活動を始めました。憲法のもとでの小学生、綱領のもとでの共産党員、どちらも正しい方針が決まったばかりでしたから、それをよく学び実践してきました。
私は、父の顔を覚えていません。二歳八ヵ月で病死したからです。母は戦中戦後の大変な時代を、二歳上の兄と二歳下の妹と、私を育てあげました。当時はどこの家も食べていくのに精一杯でした。中学校卒業後、すぐに就職し夜学で勉強しました。だから、子供ながらに自分が目指していた理想の社会は、差別なく、やりたいことが自由にできる社会でした。大人になってその思いはいっそう強く大きくなっていきました。会社に勤めながら労働運動に関心を持ち、共産党に入ったのです。議員選挙に立候補すればどうかとすすめられたときも、素直に受け入れました。
私が実現したいと思っていた社会は、 「日本国憲法」と「日本共産党綱領」の内容が実現され、平和な社会でみんなが人間らしく生きることです。 議員としての四四年間の活動の一つひとつ、一日いちにちをそのために積み重ねてきたのだと思っています。
議会で国際問題を何度も取り上げたのは、「国民主権の民主主義の流れ」が、世界の大多数の国ぐにで政治の原則となり、世界政治の主流となりつつあるのに、日本が遅れた国となり、世界の孤児になってはならない、「もっと世界を知ろう」というためでした。そうして、世界史の発展方向として「戦争の違法化」が明らかにされ、戦争を防ぐために平和の国際秩序を作り上げることが、世界諸国民の緊急切実な課題となっているからです。核戦争をなくし、これ以上人類を滅亡させる放射能被害を出さないために、 原水爆禁止世界大会国際会議にも何度も参加してきました。
いま、アメリカ政府は、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立にとって最大の脅威となっています。平和と進歩をめざす勢力が、それぞれの国でも、また国際的にも、正しい前進と連帯をはかることが重要なのです。日本で私ができること、やりたいことは、韓国・朝鮮・中国との友好連帯を前進させることです。
同時に地球全体の環境問題は、人類と地球上のすべての生物にかかわるものであり、あらゆる課題に優先して考え、対策を立て、手を打たなければならない問題です。
日本共産党が市民多数の支持を得て、民主的な自治体をつくることは、市民の願いを実現する上で最も近道です。また、全国各地で革新・民主の自治体を確立することは、その地方・地域の住民の要求を実現していくことに直結しています。そのことが、国政における民主的革新的な流れを前進させるうえでも、確かな力となると確信します。
今後、社会がさらに新しい発展をとげ、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な社会をつくることが、私の理想です。これからも、そのような社会を目指して全力をつくしたいと思います。
これまで支えていただいたすべてのみなさんに、感謝します。そしてこれからも、よろしくお願い申し上げます。
この本が誕生するきっかけをつくっていただいたのは、岡本種子さんです。ともに向日市のまちづくりに取り組むとともに、 日本共産党後援会の役員として応援していただきました。 夫・宏平さんが京都市会議員をされていたこともあり、妻・美津子ともども親しくしていただき、たいへんお世話になりました。八九歳になられたいまも元気でがんばっておられます。
「大橋さん、長い間ほんまにご苦労さんやった」と、ねぎらっていただいたとき、「活動経験を本にして残さんといかん」と、 言われたのです。本書3章の「まちづくりウォッチング」は、一緒に歩いていただき、その時そのときの思い出を語りあって仕上げました。
最後に、家族に感謝しなければなりません。妻・美津子は二三歳のとき、それまでとまったく違った環境に飛び込んできました。自宅にはいろんな人が訪れ、生活相談をはじめ知らない人からの電話応対も大変です。加えて、姑との同居、旧い町でのご近所の付き合い、地域の活動と、民主商工会事務局員、無認可保育園の経営などの仕事もしながら私を支えてくれました。男三人の子供たちは、事務所のようになっている自宅で育ちました。よその家もこんなものかと思っていたのだそうです。家族みんなの協力があったからこそ激務が続けられたのだと思います。
二〇一二年四月 著者記す
「原子力発電所の安全対策の強化等を求める意見書」に対し
直ちにすべて廃炉方針を示し「賛成討論」 2011年6月議会
「原子力発電所の安全対策の強化等を求める意見書」に対して、日本共産党を代表して賛成討論を行います。
東京電力福島第一原発事故は、日本と世界の人々に大きな衝撃を与え、原発に依存したエネルギー政策をこのまま続けていいのかという重大な問題を突きつけています。そして、原発からの撤退と自然エネルギーへの大胆な転換への世界的な流れは、この事故を契機にさらに大きくなっています。日本国内でも、各種の世論調査で「原発の縮小・廃止」を求める声が過半数を占めるようになっております。六月の一一日・一二日に実施された全国世論調査によると、国内に現在五四基ある原発について、「直ちにすべて廃炉にする」、「定期検査に入ったものから廃炉にする」、「電力需給に応じて廃炉を進める」とした人が合わせて八二%に上り、現状維持の一四%を大きく上回ったと報道されております。
歴代政府が推進してきた原発依存のエネルギー政策をこのまま進めていいのか、抜本的な政策転換が必要ではないのか、真剣な国民的討論と合意の形成が求められていると私は思うのであります。日本で原子力発電が問題になってきたのは一九五〇年代の中ごろからで、一九六〇年代に商業用の原発の稼働が開始されますが、日本共産党は、現在の原発技術は未完成で危険なものだとして、その建設には当初からきっぱり反対してまいりました。その後も、我が党は、 大事な局面ごとに政府や電力業界の振りまく安全神話のうそを追及し、 原発の重大な危険性と、それを管理監督する政府の無責任さを具体的にただしてきました。さらに、福島原発事故を踏まえ、五月一七日には、政府に原発からの撤退を政治的に決断すること、原発をゼロにする期限を切ったプログラムを策定することを求めてまいりました。
この立場から、本意見書の内容を見てみますと、今日までの安全対策を見直しさえすれば原発は安全であるという安全神話の延長線上にある内容であります。しかし、 当面の措置として、政府に要求する項目の一部として一致できる内容がありますので、日本共産党としては賛成するものであります。
私は、さらに進めて、原発からの撤退と自然エネルギーの本格的導入に向けて、きっと改選後の新しい議会の中でも十分話し合いが行われるだろうというふうに思い、以下の討論をさせていただきたいと思うのであります。
福島原発事故が明らかにしたものは何か
まず第一点は、福島原発事故が明らかにしたものは何かという問題です。
第一は、原発事故には、他の事故には見られない異質の危険があるということです。ひとたび重大事故が発生し、放射性物質が外部に放出されると、もはやそれを抑える手段は存在せず、被害は空間的にどこまでも広がる危険があり、時間的にも、将来にわたって被害を及ぼす可能性があり、地域社会の存続さえも危うくしています。被害がどうなるかを、空間的、時間的、社会的に限定することは不可能です。このような事故は他に類を見ることができません。現在の原発という技術は、いったい社会的に許容できる技術なのか、そのことが正面から問われなければならないのではないでしょうか。
第二は、現在の原発技術は本質的に未完成で、危険なものだということです。今、開発されているどんな形の原子炉も、核エネルギーを取り出す過程で莫大な放射性物質、いわゆる死の灰を生み出します。一〇〇万キロワットの原発が一年間稼働いたしますと、広島型原爆一〇〇〇発を超える死の灰がたまります。そして、この莫大な死の灰を、どんな事態が起こっても原子炉の内部に安全に閉じ込める手段を人類は手に入れていません。加えて、現在の我が国のほとんどの原発で使われている軽水炉という原子炉は、運転中はもちろん、運転中止後であっても冷却水で炉心を冷やし続けることによって辛うじて安全が保たれるというものであり、冷却水がなくなると、わずかの時間に炉心が溶け、コントロール不能に陥ってしまいます。
さらに、使用済み核燃料を後始末する方法が全く見つけ出されていないのであります。
同時に、使用済み核燃料の貯蔵プールも冷却し続けることが必要であり、それができなくなったときには、放射能汚染の発火点になることは、福島原発事故で示されたことであります。
こうした原発の技術的な未完成と危険な軽水炉は、もともと原子力潜水艦の動力として開発された軍事技術でありまして、安全など二の次という軍用に開発された原子炉が、そのまま商業用原発に転用されたことに、この原子炉の持つ危険性があると思うのであります。また、放射性廃棄物の処理方法に至っては全く見通しがない、こうした技術を使い続けていいのか、そこが問われているのであります。
第三に、こうした危険性を持つ原発を、世界有数の地震国であり、世界一の津波国である日本に集中立地することは、危険極まりないということであります。地震など外部の要因による原発の重大事故は、内部の要因による重大事故の数倍から一〇倍程度の確率で起こるとの研究もあります。日本で原発に頼ることの危険性は、世界の中でも特別に深刻なものであることは間違いありません。地震予知連絡会は、私たちは、日本海溝ではマグニチュード9級の地震は起きないと思い込んでいました。今回の地震発生で、これまでの地震学の大きな枠組みや専門的な考え方を変えなければならないことがわかりましたと語り、また、原子炉本体は頑丈でも、複雑な配管や装置が取り巻く複合体であり、弱いところに力が集中したら何が起こるかわからない、絶対大丈夫なんてことは、それこそ絶対言えないと述べておられます。
第四に、歴代政権が電力業界の経営陣とともに日本の原発は安全とする安全神話にしがみつき、繰り返しの警告を無視して重大事故への備えをとらなかったことが、こういう深刻な結果をもたらしたのだと明瞭になりました。どういう深刻な結果をもたらすかも明瞭になったわけでありますが、安全神話、これは日本の原子力行政の発足当時から深刻な病弊でありました。とりわけスリーマイル島原発事故、チェルノブイリの原発事故という二つの過酷事故、この教訓を日本政府が全く学ばなかったことは非常に重大であります。日本政府はIAEAの勧告を無視し、一九九二年、原子力安全委員会は日本では過酷事故は起こり得ないとする安全神話に固執する方針を決め、過酷事故を防ぐための備えも、過酷事故が起こった場合にも、その影響を最小限にするための備えも全くとってこなかったのであります。
日本共産党吉井議員が国会質問で、福島原発を名指しして、大地震と大津波が同時に原発を襲えば全電源消失が起こり、炉心溶融の危険性があることを具体的に指摘して改善を求めたにもかかわらず、政府は何らの措置もとってきませんでした。これが原発事故を引き起こした事故後の対策にも数々の問題点を引き起こすことになりました。安全神話で国民を欺き続けてきた歴代政府の責任は極めて重大です。我が党は、政府がこれまでの原子力行政への重大な反省に立って安全神話を一掃し、原発事故の危険を最小限のものとするために、考え得る限り、可能な限りのあらゆる措置を速やかにとることを強く求めるものであります。
第五は、安全な原発などあり得ない、これを許容していいのかということであります。同時に、安全神話を一掃し、原発事故の危険を最小限のものにする最大限の措置をとったとしても、安全な原発などあり得ず、重大事故の起こる可能性を排除することはできないということであります。それは、IAEA自身が、過酷事故が起こった場合を想定した対策を求めていることにも示されております。政府が今回の福島原発事故を教訓にして、あれこれの対策をとったことをもって、これで原発は安全になったという宣伝を繰り返すならば、またもや、新たな安全神話の誤りに落ち込むことになるのであります。安全な原発などあり得ません。ひとたび重大事故が起きれば、取り返しのつかない事態を引き起こす原発、とりわけ、地震・津波の危険な国、日本において、私たち日本国民が社会的に許容していいのか、現在の原発と日本社会は共存し得るのか、それこそが今、福島原発事故が突きつけている問題であります。
原発ゼロのプログラムを
大きな二つ目は、原発からの撤退の決断、これを五年から一〇年以内に原発ゼロのプログラムをつくろうという問題であります。福島原発事故の事実を踏まえて、私は次のことを提案したいと思うのです。
1、原発からの撤退、政治的に決断を行う。
2、 五年ないし一〇年以内を目標に、原発から撤退する計画を策定する。
3、原発ゼロに向け、原発縮小に直ちに踏み出す。
4、危険を最小限にする原子力規制機関をつくる。
なお、日本共産党は、原発からの撤退後も、人類の未来を長い視野で展望し、原子力の平和的利用に向けた基礎的な研究は継続・発展させるべきで、原子力そのものの研究までやめろと言っているわけではありません。
自然エネルギーの可能性に挑戦
第三点目は、自然エネルギーの本格的導入と低エネルギー社会に国を挙げた取り組みをしなければならないという問題です。自然エネルギーの大きな可能性に挑戦するという問題です。
将来に向けて、環境省は、今後、太陽光、中小水力、地熱、風力だけで二〇億キロワット以上発電可能と推定をしています。日本にある発電設備の電力供給能力の約一〇倍、原発五四基の発電能力の約四〇倍であります。世界の自然エネルギーの発電設備容量の合計は、二〇一〇年に三億八一〇〇万キロワットとなり、原発の発電容量三億七五〇〇万キロワットを追い抜きました。原発を二〇二二年までに全廃することにしたドイツでは、発電に占める自然エネルギーの割合を、現在の一六%から二〇二〇年までに三五%、五〇年までに八〇%にするエネルギー基本計画を閣議決定しております。日本の問題は、電力需要も温室効果ガス対策も原発に依存し続けてきた政治のおくれにあります。この五年間に、原子力対策には二兆円以上の税金が注ぎ込まれてきましたが、自然エネルギーは六五〇〇億円にも達しません。予算上でも、重点施策として産業界、学会などの民間との協力体制も強化するなど、国を挙げた取り組みを進めることを強く求めていきたいと思うのであります。
二つ目には、新しい仕事と雇用を創出する本格的な取り組みを行うことであります。自然エネルギーの本格的導入は、エネルギー自給率を高め、新たな仕事と雇用を創出し、地域経済の振興と内需主導の日本経済への大きな力にもなるということであります。
三つ目には、低エネルギーの社会へ、エネルギー浪費型社会からの転換をしようということであります。エネルギー消費削減のかぎは、大量生産、大量消費、 大量廃棄、二四時間型社会などのエネルギー浪費社会の抜本的見直しを進めることであります。低エネルギー社会は我慢の社会ではありません。人間らしい働き方と暮らしを実現し、真にゆとりある生活を実現することこそ、低エネルギー社会に向けた大きな第一歩になると思うのであります。
日本の進む道をただすとき
討論の結びといたしまして、福島原発の大事故を経験して、日本でも世界でも、原発撤退を求める声が大きく広がっています。ドイツ政府は、二〇二〇年までに原発からの全面撤退することを決定し、発電量の四〇%を原発に依存しているスイスも撤退を決めました。大事故を起こした当事国である日本がどうするのか、世界が注目しております。民主党政権は、最高水準の原子力安全を目指して取り組むとするだけで、原発からの撤退も、縮小する方向すら打ち出されておりません。原発を推進してきた自民党や公明党は、政府の事故後の対応のあれこれを追及し、政争にしようとするだけで、安全神話への反省もなく、原発・エネルギー政策をどうするのかについて、まともな提案をいまだしておられません。現時点では、世界と日本国民の期待にこたえられておらず、全国民の運動で日本の進むべき道を正していかなければならないと思うのであります。
私は、今、日本国民として、「原発からの撤退」の一点での共同を広げ、世界へのおわびと新しい時代のエネルギー政策を呼びかけるものであります。日本共産党は、一貫して原発の建設に反対し、安全神話を告発し、原発依存からの転換を求め続けてきた政党として、また、原発建設反対や安全を求める幅広い住民との共同を全国各地で進めてきた政党として、原発からの撤退を決断し、自然エネルギーの本格的導入を求める国民的な運動の先頭に立って奮闘する決意であります。
以上で、本意見書に対する賛成討論といたします。ありがとうございました。(拍手)
6 議会壇上から日本共産党を語る
議員最後の議事録から
二〇一一年六月議会が、私の最後の本会議出席でした。本会議ごとに行われる市長への一般質問は四四年間欠かさず続けてきたのです。退任する議員が市長に質問するのは大変むずかしいものですが、いろいろ考え工夫して市長の基本姿勢をただしました。
また、三月一一日の大震災、原発事故を受けて民主党が出した意見書に対する賛成討論の形で、「原発ゼロ」をめざす私の見解を述べました。
以下、最後の本会議議事録から紹介します。
最後の一般質問 日本共産党を語る
日本の長い歴史の中で 多くの人々の幸せを実現するために、世の中を良くしようと思って活動された方がたくさんおられましたが、私は二二歳のときに、世界の歴史が二〇世紀まで進んできたこの時代に、戦争によるのではなく、平和的に、理性的に、社会科学的に議会制民主主義を貫きながら、世直しをしていく方法はないものだろうか、しかも一部の血気盛んな人間がするのではなく、圧倒的多数の人が賛成する目的に向かって、圧倒的多数の人が賛成し、参加する方法で世直しができないものだろうかと考え、自分の人生の進路を探し始めていました。
そうしたら、同じようなことを考え活動しているひとびとの集団に出会ったのです。その集団の名前が、日本共産党という名前だったのです。
私は生まれたときから日本共産党ではありませんでした。(笑)
わが家の家系をたどってみると
共産党員だと言ってもいろいろな人がいるものです。私の家系はみなさん方の概念で言えば、保守の中の保守でした。
祖父はクリスチャンで、まこと幼稚園・向日町基督教会をつくった中心人物の一人でした、その弟は学習院大学の教授でした。彼の葬儀には天皇陛下から樒にかわる白い布と何かが送られてきたと先日一〇二歳で亡くなった母が言っておりました。
その教授が大正五年九月に書いた「大橋家の家系について」という文書が今も残っています。西暦一三〇〇年頃まで遡っています。先祖が北畠親房だと書かれています。北畠は『神皇正統記』を書いた南朝の有力な指導者だった人です。出身は福島県(霊山町)小字まで地名も詳しく書かれていましたが、私は半信半疑で、二〇一〇年秋、その真相を調べるべく福島県霊山町(合併して伊達市)とその周辺に調査に行ったのですが、書かれていたお寺の名前や地名は全て存在していました。
そこには「北畠」をまつる神社があり、北畠にまつわる歴史研究が多く行われており、「町史」を四分冊、全部買ってきました。
町を歩いてまたびっくりで、合併前の町長さんは日本共産党の大橋さんで、右も左も「大橋」という家が多いのです。もっと時間をとって再調査に行かなければならないと、元町長に再会の約束をして帰ってきました。大地震でどうなっているのかと心配で先日も電話しましたら、近所の公民館には一〇〇人以上の被災者の方が来ておられ、復興支援で忙しいということでした。(注・今は放射能被害で大変です)
それからもう一つ、自分でも保守的な家系だと思っていることですが、私は余り気にしていなかったのですが、伊勢神宮では一〇月中頃に神嘗祭、一一月の終わり頃に新嘗祭というお祭りがあります。
一昨年のことでした。「真夜中の祭りですが、この祭りを見に行きますか」と聞かれて、何にでも興味を持っている私は、「行きましょう」とふたつ返事で二回も伊勢神宮に行ったのです。
池田厚子さん、天皇の姉ですね、小さいおばあさんです。この方が祭主・伊勢神宮の神官の長です。上は白装束に赤い袴、赤い木靴を履いて、足下を杉の木を束ねてつくった松明で照らされながら、先頭を歩き、後ろに三〇人ほどの神主と何種類かの祭具を担いだ神官がゆっくり歩いて、何ヵ所かの場所に止まって決められた儀式をして、お参りされるのです。
私たちが入れない場所もあり、出てこられるまで待っていなければなりませんでしたが、真夜中の一時間半~二時間くらいの儀式でした。
向日神社の宮司さんに伊勢神宮の新嘗祭などに参加されるのですかと話したら、「私は行ったことがない」と言われました。「昔は直接見たら目がつぶれる」と言われたものだと書いた文書を読んだことがありますが、私の目は大丈夫でした。私の身内にはそういうところに行けるルートもあるのです。
だれが言っても良いことは良い
何故こんなことを言ったのかと言いますと、日本共産党の人間も他の人と同じように、区別や差別をすることなく、平等に扱われなければならないということが言いたいのです。
以前の市長は 「共産党」だというだけで、余り毛嫌いされませんでした。
私は、今日まで、向日市を築いてこられた多くの政治家、市役所幹部のみなさん方とご一緒にこの街を全国に誇れる街にするために、活動してきました。
日本共産党の関係者の中では、 知る人ぞ知る市になりましたが、一般的にはまだ、「日向市(ひゅうがし)」と間違われるほどですからもっと努力が必要です。 共産党議員団も努力しますので、市長もぜひご協力をお願いしたいと思うのです。
私がご一緒した市長は、中山仙三さん、民秋徳夫さん、岡崎誠之さん、そうして久嶋さんですが、久嶋さんはまだお若いのであと何年勤められるかわかりませんが、久嶋さんが歴代市長を超えて立派な市長になって頂くために、どうしても直して頂きたいという問題について、別の角度からお聞きしたいと思うのです。
それは、日本共産党員に対する見方、対応の仕方、さらに日本共産党員でなくても、余り好きでない人との接し方についてです。人を差別したり、人を見下したり、反共という立場でものを見るのは憲法を守っている人とは言えないと思うのです。
中山さんは、大橋君、今日は疲れているのと違うか、とよく言葉をかけて頂きました。私が日本共産党の事務所の仕事をしながら議員活動をしていたのを知っておられたからです。そうして私が提案したことにも嫌な顔をせず、他の議員が提案されたことと分け隔てなく、良いことは良いとして実行して頂きました。
こんなことがありました。
昭和四五年、この場に町の庁舎がつくられ、消防署も滝本金物店の隣から本庁舎の東の端に移されました。それでも当時は立派なものでした。
かつて、京都府知事だった蜷川虎三さんは、「消防行政は地方自治の原点」であり、「我が町は自分たちの手で守らなければならない」と強調されていました。私は、その教えを実行するために、市制移行、何年か経ってから当時の消防長に「消火活動で一番大切なことはなんですか」と聞きましたら、「初動の三〇秒です。」と答えられました。私は、庁舎から府道に出るまで何分かかるのですか? と聞くと「三〇秒」だと言われました。それなら府道際に消防署を建てれば物集女にも、上植野の端までも五分以内で行けるようになる、現在の図書館入り口が市有地でしたので、そこに移せばどうかと質問・提案しました。
中山さんは、私の意見に「なるほど良いことだが、もう少し考えよう」と言われ、何日か経ってから、大橋君、京都府に頼んで「たこ公園の所にするよ」といわれ、民秋さんに代わって昭和五六(一九八一)年八月、現在の消防署への移転が行われました。なるほど、私の提案より良い場所だ、さすが中山さんだと思いました。
また、こんなことがありました。今回改修されている、向陽小学校北校舎ですが、長い間避難階段がありませんでした。日本共産党議員団で向陽小学校の視察をしました。北校舎の三階の、廊下の端に木の箱がついているので、あれはなんですかと聞きましたら、避難用の道具だといわれるのです。どのように使うのですかと聞くと、火事などが起こったときに窓からアームを出して、井戸のつるべのようにして子どもを一人ひとり下ろす設備だというのです。
私はびっくりして、消防法はどうなっているのかと聞くと、つるべのようなものでも違法ではないというのです。そうして年に一、 二度訓練しているというのです。
私は、次の訓練の日に、市長と教育長がそれで降りてみてください、どうですか? と聞きました。お二人とも返事がありませんでした。さらに私は、最後の一人はどうして降ろすのですかと聞きました。教育長は答弁出来ず、市長と相談すると答えられ、次の予算に「非常階段建設費」が組まれました。
日本共産党が市政に果たしてきた役割は明確
さらに、いま、向日神社の裏山の崖地工事が三年がかりで五億円以上掛けて行われていますが、この工事のきっかけは昭和五一年三月開設の向陽小学校のプール建設前に、崖の上にある南山六四番地の民家が危険ではないかと質問し、地滑りする前に擁壁工事をして頂きたいと要求したことが始まりなのです。
工事計画は中山さんから民秋さんへ申し送られ、この崖地工事には多額の費用がいることから、必要性はよく理解出来るが予算がない、どうするか、目途がつくまで待ってくれと言われました。しばらくして、工事をすると言われました。
その方法は、向日市内唯一の「土砂災害警戒箇所」の指定を行い、九割国庫負担で行うという内容でした。それ以来、向陽小学校運動場の西側から始まり、さらに延長して向日神社の裏山に進みました、長い時間と多くの関係者の努力があり、京都府が用地買収までして、公費で改修出来るようになったのです。
もし「神社の裏山が宗教施設の境内」というとらえ方だったら工事は出来なかったのです。歴史的な向日神社の景観も、関係する氏子のみなさんのたゆまぬ努力と、日本共産党議員団の努力と、中山さんから民秋さんへのバトンタッチと「大岡裁き」とも言うべき判断があったのだということを、ぜひご理解頂きたいと思うのです。
他にもいろいろなことがありましたが、時間の都合で詳しく述べられませんが、日本共産党と市民の共同で、向日市政そのものを、新しい考えで、憲法が生かされるような町として発展させるために、果たしてきた役割は、歴史の事実として多くの分野で残されています。
年代順不同ですが、いくつか思いつくままに申し上げますと、一九八四(昭和五九)年長岡京遷都一二〇〇年に行われた「平和都市宣言」、同じ長岡京遷都一二〇〇年記念行事で、京都府との関係で図書館・資料館用地の「無償貸与条例違反」問題、共産党議員団が提出した「都市計画税引き下げ条例」がきっかけで値下げが行われました。地下水を守れの運動で「地下水採取の適正化に関する条例」が可決されました。何度か汚職腐敗の事件がありましたが、その解決の先頭に立ってきました。
中でも「水道公認業者規程」を作る過程では、私に「殺したる」という脅迫電話がありました。犯人確認のため向日町警察署にも行きました。
また、倒産した三基建設をめぐる事件、特養ホーム向陽苑の用地買収をめぐる事件、市幹部のゴルフ接待と危機管理問題、等で、独自調査に基づく公正な行政を求める多くの提案を行い、市政が正しく進むようにがんばってきました。
また、議会制民主主義を徹底するために多くの提案をしてまいりました。
これらの事実は、 市民の暮らしを守り、改善していくことには、誰が言っても良いことは良い、特に日本共産党の主張に真理があったということです。人を差別しない、「共産党だと言う理由」で差別しない。このことは、これからの指導者として、一番大切なことだと思うのです。
久嶋市長は、「反共」という見方をしないようにして頂きたいのでありますがいかがでしょうか?
向日市民の幸せを願って
日本共産党議員の発言、意見に対して、その内容よりも「反共」という立場から、自分の考えと異なる意見には、その内容を含めて頭からあまり理解をしようとしておられなかったのではないか、と感じることがありました。
先の市長選挙の事務所前での第一声や街頭宣伝、個人演説会などで、一六年前の初心に返ってがんばりたいとか、議員の皆様の意見をよく聞いて市政運営にあたるということを何度もおっしゃっていました。私が市長にぜひ直してほしいのは、おっしゃった反省に加え、人を差別しない、日本共産党だ、という理由で差別しない。自分の考えと違うということで差別しない。気にくわない、嫌いだということで差別しない、そのことが、全ての市民に責任を持つリーダーの優れた資質だと思うのです。
私は、今後の向日市の発展にとって、「反共の色眼鏡をはずし、誰の意見でも尊重して聞き、自分より異なる意見を言う人ほど耳を傾けるべきだ」と思うのです。ある方が「反共は、戦争前夜の声」と言って、誰も差別されなかったのは本当に立派だと思うのです。
この点で久嶋市長に対する本年の辞職勧告決議は、改めて重大問題として考え直していかなければならない問題だと思うのです。
以上申し上げてきたことをお考え頂き、市長のお考えをお聞きします。
日本共産党は、長い世界の歴史の中で次の時代に役立つものは残し、さらに発展させて世界平和・人類のさらなる発展のために活動している政党です。だから、本来的には市長を含めて全市民のみなさんと、協力できるはずなのです。
また、日本共産党は、日本国民の政党です。
旧ソ連が、解体したとき、世界中で只一つ「双手を挙げて賛成する」という声明を発表しました。当時のソ連は、名前は共産党だったけれども理念も行いも「共産党の原則からはずれたもの」だったからです。それまでに何度も「あなた方の方針は間違っている」と注意していたにもかかわらず、改めなかったからであります。
さらに現在、北朝鮮労働党とは、四〇年にわたって関係が不正常なままですし(一九八三年以降完全断絶)、現在北朝鮮という国と日本共産党は公式な関係は全くありません。彼らの考えや行動は「共産党の理念」からはずれているのです。
日本共産党は、だからといって「日本国」として、国連に加盟している国の中で、嫌いな国とは国交を結ばないというのは、日本国家として、国際問題を正しく解決する上では異常なことだと改善を求めています。
かつて、中国共産党が日本共産党に対して、中国共産党の手下になれと、あくどい攻撃をしてきた時期がありました。日本共産党は、中国共産党が自らの間違いを訂正するまで、中国共産党との関係を断絶していた時期があります。中国が次々と新しい指導部に変わっていく中で、日本共産党に対する抑圧は間違っていたと公式に謝罪してきたので、繰り返し話し合いをして、以前のような友好関係を回復しました。
日本共産党は、相手がどんな大国でも日本国民を守る、日本国民の幸せのために活動するために、自分の頭で考え行動しているのです。「常に国民の立場で真理を探求する政党」だから私は信頼出来るのです。
さて今後の向日市政の発展方向は、市長が何人代わられたとしても、近い将来、市民との共同で必ず市民が主人公の方向に進むと考えています。市民が主人公で平和憲法の理念と内容が生かされる町、そうして原発ゼロの日本に発展すると確信しています。
私は、今後も向日市民の幸せのために努力したいと思います。
さらに向日市の良いところを、 全国に広げていくことにも努力しようと考えています。また、何よりも、世界の進んだ文化や科学を多く知り、身につけ、向日市にお返ししたいと考えています。市長のお考えをお聞きします。以上、質問と致します。
久嶋市長の答弁要旨(市長登壇) 日本共産党議員団大橋満議員のご質問にお答えをいたします前に、ただいま、今期限りでご勇退されるというお話をお聞きいたしまして、私といたしましては、残念であり、少し寂しい思いがしております。大橋議員におかれましては、昭和四二年八月一〇日、向日町議会議員初当選以来、一一期四四年という大変長きにわたり、市民の福祉向上のため、そして、向日市の発展のため、並々ならぬご尽力を賜り、心から深く敬意と感謝を申し上げる次第でございます。ご苦労さまでございました。そしてありがとうございました。
それでは、ご質問にお答えをさせていただきます。(略)ご高齢の方や小さいお子さんをお持ちの方、次の世代を担っていく若者たち、多くの方々がおられ、それぞれが違った考え方、意見をお持ちであります。それらの方々、お一人お一人の考え方や意見をすべて市政に取り入れていくことはできませんが、さまざまな考え方や意見を持った方々と手を携え、協力し合っていくことで、市民の皆様にとって、よりよいまちを築いていくことができると考えております。
今回の厳しい市長選挙の結果、私が引き続き市政を担わせていただくことになりましたが、市民の皆様のために、向日市の明るい未来のために、今まで以上に多くの方の声に耳を傾け、広い視野、柔軟な考え方を持って、市政に取り組んでまいりたいと考えております。
大橋議員におかれましては、今後とも向日市のため、大所高所からご指導、ご鞭撻いただきますようお願いを申し上げます。
(大橋議員登壇)再質問ではありません。一言お礼を申し上げます。市民のみなさん、また議長はじめ議員のみなさん、そして市幹部のみなさん、市職員のみなさん、本当に長い間いろいろお世話になりました。ありがとうございました。(拍手)
■□日朝協会代表理事として
昨年(二〇一〇年)は、韓国「併合」一〇〇年の重要な年でした。
私は日朝協会代表理事として、「西宮女性9条の会」をはじめ、あちこち講演に行きました。
また、日朝協会の代表として原水爆禁止世界大会に参加し、分科会で非核の政府、非核の自治体を作ること、日朝平壌
宣言と六者協議を通して日・朝・韓の正常な発展を実現することが、原水爆禁止二〇一一年世界大会の成功に貢献できる
道であると発言しています。
議員退職後のこれからも、日本と朝鮮、韓国の友好のため、アジアの平和のためにがんばっていきます。
なお、日朝協会は、過去の不幸な歴史を再び繰り返させない日本国民の強い決意のもとに、一九五五年一一月に結成さ
れた日本で最も長い歴史を持つ、韓国・朝鮮の人々との友好運動にとりくむ日本国民の自主的で民主的な団体です。
大韓民国(韓国)・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の在日団体とも交流を進め、北東アジアの平和を確立するために、
隣国との関係を早く正常化するために全力を挙げています。
またハングル講座、史跡巡り、韓国などへの旅行、在日韓国・朝鮮人の方々との交流、各種の勉強会など明るく楽しく朝鮮
問題への関心や要求をもとに活動をすすめている団体です。
■□拉致問題の真相究明
拉致問題の真相究明を求める意見書に対し、次のような賛成討論(要旨)を行いました。
私ども日本共産党議員団は、今回の意見書に対する賛成の第一の理由として、世界平和都市宣言をしている向日市の議会として、 その目的にかなっていると思いますので、賛成をするわけであります。
二つ目の理由は、日本が世界で唯一国交のない北朝鮮と国交正常化交渉の再開が合意されたことは、日朝間に残されている懸案事項が道理ある形で解決され、両国が敵対から協調に変わっていく、可能性が開かれたものとして非常に歓迎すべきもので、今後関係者のご努力を強く期待すると同時に、日本共産党としてもあらゆる努力をする決意です。
その中で解決が図られようとしている拉致問題に当たっては、一九八八年、日本共産党の橋本敦参議院議員が、この問題を国会で初めて取り上げ、当時の梶山国家公安委員長が、これは北朝鮮がやった疑惑が濃厚だというふうな答弁があり、日本の国として初めてこの拉致問題についての疑惑ということを認めた、そういう歴史がございます。
向日市議会の意見書が解決のための力になるよう期待するものです。
■□中国杭州市との友好盟約をどのように発展させるのか
外国の都市と友好をすすめる場合の原則は、対等・平等・互恵・内部問題不干渉・一致点での友好促進です。特に日本帝国主義時代に侵略を繰り広げたアジアの国には、国民感情を大切にし、過去の反省と今後の発展を約束しなければ信頼されません。
中国杭州市との友好盟約をどのように発展させるのかについて、国連憲章、日本国憲法を守るという立場で臨むことを市長に要望しました。
市長へは、杭州市へのあいさつで、
①向日市は既に「世界平和都市宣言」を行い、市長自身が憲法を遵守し、平和で民主的なまちを実現するための施策を進めていること。
②向日市では教育長が、歴史を歪曲した教科書は採用しないと議会答弁していること。
③向日市では、首相の靖国神社公式参拝について、既に議会で反対の意見書を採択していることなどを説明して、盟約に基づいてどういう考えで
杭州市との友好を発展させたいのかをはっきり述べ、国際親善に役立つあいさつをするように求めました。
■□国際情勢を地方議会に
地方議会で国際情勢を語る人は少ないのではないかと思います。
しかし、国まかせで、世界を知らずにいては地方行政にも取り組めないのが現実です。この立場から、特に中国・朝鮮・韓国問題、在日外国人の問題、アジア、アフリカ、ラテンアメリカが相次いで民主化されていく様子などを系統的に発言し、向日市が世界の変化から立ち遅れてはならない、と言い続けてきました。
韓国の金大中大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金正日労働党総書記が、朝鮮半島の南北分断以来五五年を経て、初めて首脳会談を実現し成功させたことについて、「朝鮮半島問題の平和的解決だけでなく、我が国を含む東アジアの平和と安全にとっても極めて重要な意義を持つ」ものと、歓迎の意を表明しています。
日朝国交正常化交渉の成功をはじめ、朝鮮半島を含む東アジアの平和と安定の事業に対し、日本外交が重要な貢献をすることが求められる中で、日本共産党は、そうした方向を促進するために全力を尽くしています。
二〇〇四年九月一一日に京都国際会議場で、外務省主催のタウンミーティングがありました。私は外務省から参加証が届きましたので、川口前外相の話を聞きに行きました。
川口前大臣が「東北アジアと日本」のテーマで話されたのは、
①中国の発展がアジアをリードする、
②東南アジア諸国連合、
③日本・韓国・中国三国間の交流の進展が急速に広がっている、
④東北アジアにおける日本の外交のスタンスは「平和外交」で、北朝鮮の問題を平和的に解決する基本は「日朝平壌宣言」である、の四点です。
その具体的内容を議会で紹介しました。
5 もうひとつのライフワーク
日本と韓国・朝鮮との友好 世界と向日市をつなぐ
私にとって、日本と韓国・朝鮮との友好運動は、青年時代からかかわってきた、もうひとつのライフワークです。
私の家の近くには在日コリアンの人たちが多く暮らしておられ、ちいさなころから日本人も朝鮮人もかわりない友達でした。同じように暮らし、学校に行き卒業しましたが、いくら能力があっても、朝鮮人の友達には就職先がなく土木作業の手伝いのようなところしかありませんでした。「なぜだろう?」と思ったのが、差別の実態や戦前戦後の歴史を知るきっかけになりました。そして、二〇歳の頃から日朝協会(日本と韓国・朝鮮との友好団体)に入って活動してきました。
「朝鮮問題を入り口にそこから世界を知る」という考えは、議員として活動している時にも情勢や歴史問題を理解するのに大変役立ちました。そして、議会そのものが国際社会の一角を担って動いているのだということを発言してきました。
■□ 平和を求めて提出した意見書・決議
北東アジアの平和は、日本と韓国・朝鮮との友好を抜きにしては考えられません。そのためには、まず、歴史・現状・今後の方向と、今何をすべきかを正しく理解しなければなりません。世界の中でも他の地域には見られない複雑な問題が多くありますが、日本人にとっては、一番身近な国際問題として取り組むことが、世直しにつながると考えていました。そこで、向日町・市議会を住民本位に変えるために、平和問題・国際問題を積極的に持ち込みました。今日までにこれらの意見書・決議が可決されています。請願は、「紹介」です。
提出して否決されたものは除いています。
1968年 3月26日 沖縄からB52の撤去を要求することに関する意見書
1970年12月24日 「朝鮮国籍」の書き換え要請に関する決議
1975年 9月28日 米国の朝鮮半島での核戦争準備に反対するとともに
日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化を早期に実現するための決議
1976年 6月26日 朝鮮の自主的・平和的統一実現に関する決議
1979年 3月17日 米・韓合同軍事演習に関する決議
1980年 9月26日 金大中氏の釈放を求める決議
9月26日 日本と朝鮮民主主義人民共和国との友好促進に関する決議
12月20日 在日韓国人および朝鮮人の国民年金適用に関する意見書
1982年12月22日 外国人登録法の改正を求める意見書
1983年 9月26日 大韓航空機撃墜事件に関する意見書
1988年 3月28日 在日留学生対策の充実に関する意見書
1992年 3月26日 従軍慰安婦問題等日本の戦後責任をはたすために、資料公開、謝罪、補償を求める意見書
1994年12月20日 日本人男性とフィリピン人女性との間に生まれた子供たちに日本国籍の取得を求める意見書
1995年 9月26日 再び核兵器全面禁止・核兵器廃絶国際協定の促進、非核三原則の法制化を求める意見書
8月22日 すべての核実験の即時停止を求める決議
9月26日 米兵の蛮行に怒りをもって抗議する決議
1996年 3月26日 定住外国人に地方参政権を付与する特別立法の制定に関する意見書
6月26日 中国の核実験に反対する決議
1997年 3月26日 米軍機による劣化ウラン弾発射事件に関する意見書
9月22日 未臨界核実験反対・核兵器全面禁止国際条約締結を求める意見書
1998年 6月23日 すべての国の核実験全面禁止と核兵器の廃絶を求める意見書
9月24日 朝鮮民主主義人民共和国のロケット発射に抗議する決議
1999年 9月24日 日本国憲法を遵守することを求める意見書
12月21日 新ガイドライン関連法に関する意見書
2000年 3月24日 周辺事態法に基づく戦争協力を行わない決議
6月5日 森首相の「神の国」発言の即時撤回を求める決議
9月21日 在日朝鮮人高齢者・障害者の無年金者に対する救済措置を求める請願
12月21日 民族学校保護者の教育費補助に関する陳情
12月21日 在日朝鮮人高齢者・障害者の無年金者に対する救済措置を求める意見書
2001年 3月16日 民族学校保護者の教育費補助に関する決議
6月22日 京都議定書発効のための国際合意の実現に関する意見書
6月22日 日本国憲法に反する集団的自衛権の行使に反対し、憲法の遵守を求める意見書
9月19日 アメリカ合衆国における同時多発テロ事件に関する緊急決議
12月19日 ILOパートタイム労働条約の批准を求める意見書
2002年 5月31日 「有事法制三法」案を直ちに撤回することを求める意見書
12月19日 アメリカ合衆国の度重なる未臨界核実験に強く抗議し、核兵器廃絶への取り組みを求める決議
2003年 3月18日 米国のイラク攻撃に反対し平和的解決を求める意見書
5月21日 「有事法制三法」案の廃案を求める意見書
9月24日 日米地位協定の抜本的改正を求める意見書
12月18日 イラクへの自衛隊派遣に反対する緊急意見書
2004年 6月23日 劣化ウラン兵器の使用禁止を求める意見書
12月8日 イラクからの自衛隊の撤退と国連を主体とした復興支援を求める意見書
12月20日 シベリア強制労働賃金支払いに関する請願
2005年 6月24日 ふたたび戦争と暗黒政治を許さないために治安維持法の犠牲者に国家賠償法(仮称)の制定を求める意見書
2006年12月19日 憲法を守り向日市世界平和都市宣言に基づく平和行政を進める決議
2007年 3月22日 南アジアの核軍拡競争を防ぐため原子力供給国グループ(NSG)での慎重な対応を求める意見書
2008年 3月18日 海上自衛隊艦艇と漁船との衝突事故に関する意見書
3月18日 米軍人の沖縄県女生徒に対する暴行に強く抗議する意見書
2009年 6月24日 北朝鮮の核実験に強く抗議し、核兵器のない世界を目指し、国際世論をつくる指導的役割を果たすことを求める意見書
3月24日 「慰安婦」問題について政府の誠実な対応を求める意見書
2011年 3月17日 TPPへの参加に反対する意見書
日朝協会の大橋です。
今年も皆さんとご一緒に「友好親善の集い」を開けることを大変嬉しく思います。
去る5月9日に開きました、日朝協会創立60周年記念のつどいに、朝鮮総連京都府本部から柴松枝さんと中京支部委員長の金鐘現さんにご参加いただき、大変ありがとうございました。
また、8月8日、平和のための京都の戦争展で、日朝協会が主催する文化企画の講演会に、「在日朝鮮人の歴史とくらし」民族教育をまもるたたかいの歴史、と題して、柴松枝さんにお話していただきました。同じ日の「お昼のコンサート」に、京都朝鮮歌舞団にご出演いただき、参加された皆さんに深い感銘を与えました。
この場をお借りして御礼申し上げます。大変ありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
さて、日朝協会は「安倍総理大臣談話」にがっかりしています。15日付けで日朝協会本部会長名の声明をだしました。5つのポイントがあります。
①、 世界が望む日本政府の談話は、アジア諸国への侵略を認め・謝罪し諸懸案を解決して、憲法9条を活かした北東アジアの平和構築、朝鮮との国交正常化への道筋を示すことが期待され ていたと思うのです。
②、ところが安倍談話は、「侵略」、「植民地支配」、「痛切な反省」、「心からのお詫び」の文言を入れましたが、自分の言葉で反省もお詫びもしませんでした。
③、 許せないのは、日露戦争が「植民地支配下にあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」と歴史を歪曲したことです。
日本が1875年江華島事件以降、武力で朝鮮を侵略し、1905年第二次日韓協定・日韓保護条約〔乙巳ウルサ條約〕を強要し、当時の大韓帝国から内政も外交権も奪い、警察も軍隊を解散 させ、1910年戒厳令を発動して、違法な韓国「併合」を強行しました。この歴史の真実をごまかすことは絶対に認められないものです。
④、謝罪に関して、「先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言いましたが、宿命を背負わせているのは安倍政権です。今回の談話で、はっきりと過去の日本 の侵略を認め、謝罪し、憲法第9条を生かした平和外交を行うことを世界に表明すれば、安倍総理が心配する宿命を断ち切ることができたのです。
⑤、談話の最後に述べている『積極的平和主義』について、国会で審議中の「戦争法案」が「戦争を未然に防ぐためのものだ」と主張し、「日米同盟が完全に機能することを世界に発信することに よって戦争を未然に防ぐ力はさらに強くなっていく」と述べ、「戦争法案」を強行する姿勢を示しました。
このことは、「談話」が平和な世界を目指すものではなく、「戦争法案」を進めるものであり、到底認めることはできないものです。
日朝協会は、日本政府が敗戦70年に当たり、正しい「歴史認識」の立場にたつこと、そして未解決の朝鮮との国交正常化やその他の懸案事項の解決に真摯な態度で対応することを強く求めるものです。
以上のことから「戦争する国づくり」宣言ともいうべき「安倍談話」に断固抗議するものです。
日朝協会は、本日お集まりの皆さんと力を合わせ、日朝友好親善のためにいっそう努力することを誓って挨拶といたします。
送る言葉
「人生の刈り入れ」をどうするか 同志社大学名誉教授 望田 幸男
私が向日市に移り住むようになった四十数年前、すでに満さんは活気あふれるわかき町会議員になっていた。その満さんの退職に当たって「送る言葉」を苦吟した結果、「人生の刈り入れ」という言葉が浮かんできた。満さんが生涯を賭けてきた地域住民の要求実現と市政の民主化のなかで一番大事なことはなにであり、それがどこまで達成されてきたかを明らかにすること、それが「人生の刈り入れ」ではないだろうか。
その際に基本となることは、この四十数年の間に「自分たちの要求実現に自ら行動する地域住民がどこまで育ってきたか」、つまり「住民力」がどこまで根付いてきたかである。共産党市議団がどれだけ住民要求を実現してきたかではない! 前者がなによりも総括されるべきことであって、後者は二の次の問題である。満さんの長い豊かな市議経験が、こうした視点から総括されたとき、満さんの「人生の刈り入れ」は一段落することになる。
議員団発展の教訓を明らかに 弁護士 村山 晃
向日市に大勢の人が住むようになり、その人たちの市政刷新の願いも受けて大橋さんらが登場してきました。どのようにして全国的にトップクラスの議員団が作り上げられたのか、それを明らかにすることは、その中心にいた大橋さんに残された大きな仕事だと思います。
そして、この冊子も、その役割を果たすであろうことを強く期待しています。議員団の発展は、大橋さんの、確かな方向性を示しながら柔軟に対応していく政治姿勢と、住民の人たちの要求の実現に発揮した大きな力があってのことだと思っています。
大橋さんは、住民要求が市政では解決できず、法律的な解決が望ましいと考えれば、すぐに私のところに相談に見えました。何度も見えました。要求実現のために、誰の力を使えばよいのかを、見極められていたと思います。「いろんな人々の力を借りる」ということは、本当に大切なことです。私も、そういう形で、大橋さんとつながり、市政とつながってきました。
大橋さんが、思いを残してきた「日朝協会」という国際的活動に力を割きながら、議員団の今後のさらなる発展にも心を砕いてもらえば何よりです。
旧住民と新住民の架橋 民主市政をすすめる会 桜田 忠衛
四月に行われた市長選挙に私が立候補することになったが、私には昔から向日市に住む旧住民の方々とは接点がなく、「民主市政をすすめる会」の代表委員の方々も同様であった。
そんな中で大橋さんだけは何代も前から住み続け、大橋さん自身が向日市で生まれ育った。私が市長選に立候補した挨拶のために区長さん初め昔から向日市に住んでおられる名士といわれる方々を訪問するのに、私には何のつてもなかったのだが、大橋さんは向日市を一緒に回って、私を紹介して下さった。
区長、農家組合長、消防団関係や旧役場の方々、大橋さんの幼なじみなどたくさんの方々に紹介いただいた。ここでは大橋さんは、共産党の市会議員というよりは、向日市の昔からの住民としての顔で、人間大橋として信頼され、歓迎されていた。横にいた私は、ただただ大きな人だなと感心するのみであった。
議員を辞められても大橋さんの影響力は大きい。これからも、向日市中を回って、旧住民と新住民をつなぐ架橋となってほしい。
■□共産党の考えをわかりやすく説明する
日本共産党の綱領は、二〇世紀後半の日本で党と革新運動の指針となって、大きな歴史的役割を果たしました。そして、今回一部手直しして採択された新しい綱領が、文字どおり二一世紀における日本共産党の旗印となること、また、日本と世界の現在の流れを正確に見定めた、その分析と展望によって、必ずや日本における社会進歩の事業の指針となり、平和・民主主義、革新の事業の道しるべとして働くことを確信しておりますので、市長にもご感想をお聞きしたいのであります。
私は、議会討論の中で、このように前置きして、二〇〇四年一月の第二三回党大会で決定された新しい日本共産党綱領について、改正の理由やポイント、天皇・自衛隊問題など、時間をとって解説しました。
共産党の大会決定は、共産党だけのものではなく、国民が力を合わせて実現していく方向を決めたものです。市民にも、他会派議員にも、正確に知って判断してもらうことが必要です。また、政策的に行き詰まると反共攻撃に訴えるのは、選挙の際の常套手段ですが、根拠のないデマを許さない意味でも、普段から十分に説明しておかなくてはならないと思います。そういう立場から私は、議会質問や討論の中で、世界と日本の情勢を共産党がどうとらえているのか、たえず積極的に、全議員に理解していただくよう工夫して発言してきました。
■□議員の活動を制限する攻撃には直ちに反撃する
市民の代表として選ばれた議会の役割を軽視したり、議員の活動を制限しようとする攻撃には、機敏に反撃しました。
ときには議員研修会の場で講師が仕掛けてくる場合もあります。そのようなときも適切に反撃しておかないと、間違った主張を鵜呑みしてしまう議員もいるのです。
議長会主催の議員研修会で、 講師が「議員が市長に要望する発言は質問にはなじまない」「基地のないまちでは首長は平和問題について答える権限がない」という主旨の講義を行いました。
これについては、翌日の議会質問の冒頭で反論し、「向日市では、大いに要望があれば言おうではありませんか」とよびかけました。また、「向日市は平和行政を進めており、平和都市宣言をし、市長が平和市長会に入っている。行政は、日本国憲法に基づいて運営しているわけだから、戦争反対をはじめとして、大いに平和の議論をしなければならない。市長が、『国の専任事務』だと言って答弁を避けることこそ問題であり、そういう質問が出たら、自分の考えを素直に述べるべきだ」と発言しました。
自民党は、多くの自治体選挙で、「福祉優先に予算を使ったり、共産党の要求をのんでいれば財政が破綻し夕張市のようになる」と発言しています。向日市長もそのような発言をしていました。そこでそのでたらめ振りを、「質問」の中で論破し、夕張市が破綻した原因が、直接向日市の財政状況と結びつくと思っているのか、と追及しました。
■□「夕張市の財政破綻」を利用したデマ宣伝をやめよ!
次に市長は市民の願いに対しては、お金がない、お金がないと言いながら、支出すべき法的根拠がなくなってもなぜ解放同盟山城地協に支出し続けるのか。そして、市民には夕張市のようになると脅かされるのか、不誠実な態度をやめるべきであります。
市長は、夕張市がなぜ破綻したのか、 その原因が直接向日市の財政状況と結びつくと思っておられるのでしょうか。夕張市のようになるというふうなことを、 もし市長やその側近が言われるとすれば、これは自分たちが向日市の財政をむちゃくちゃにしますよということを宣言しているに等しいものであります。
夕張市の財政が破綻したのは、市、道、国の責任です。
①国がエネルギー政策を転換し、炭鉱を閉鎖して、北炭が持っていた住宅や病院などを夕張市に押しつけたこと。
②その後のリゾート開発など市の責任も重大だが、それをあおり立てた国と金融機関にも大きな問題がある。
③三位一体改革による地方交付税の削減。(財政規模二〇〇億円に満たない夕張市で、国は二〇億円もカットした)
私は、「市長が、向日市が夕張市のようになると考えているとすれば、市長失格ということになる。少しでも常識があれば、こういう無責任なことは言わないほうがいい」と警告しました。その後、市長は、公の席上で、夕張市のようになると言わなくなりました。