柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

勘所

2007-06-10 09:59:51 | Weblog
李登輝前総統の来日に対して、朝日は余程気に入らぬのでしょう「派手な言動を見せたが、日中両政府を巻き込む騒ぎにはならなかった」と、あんたは中国人か?という物言いです。私はその逆にとても肩入れしている側の考えですからぶつかるのは仕方ないのでしょうが、それにしても悪の根元、蛇蝎の如き扱いはいかがでしょうね。「中国は抑制的な対応」と見出しをうって、もう相手にしていないよ、こっちは大人の対応よと言いたいのでしょうが、なれば今までは何だったのよ?ですわね。相手を非難糾弾することによって自分の立場を確認確立する思想です、何でもかんでも人の所為。ぶれないこと山の如し、言を左右すること風の如し。
 尊厳死法制化を考える議員連盟(中山太郎会長、この人はよく見るでしょう、頭のはげたデブの爺さん、頭髪の少なくなった恰幅のよいベテラン議員との表現もありましょうか、この人は医者で、私の大学の先輩でもあります、全くの蛇足)が、延命処置の中止に関する法律の要綱案を出しました。安楽死事件が多発します、医学界が何の指針も出さないのに加えて、昔の判例だけが頼りだからです。つまり皆が黙っているから、その都度その都度問題になります、毎回マスコミは面白がって(医者の裁量権を糾弾します)囃し立てます。裁判官も言います、法的整備を急げと。だから、立法府の出番というわけです。そこで臨死状態と言う概念を創り出して、治る見込みのない状態を定義します。記事によると、臨死状態とは全ての適切な治療を行っても回復の可能性がなく、かつ死期が切迫している状態、だそうです。となると次は「回復」の定義の問題になります。病前の状態への回復ではないです。脳卒中の患者さん達は病前状態には戻れません。手足を失った人は病前の状態には戻れません。回復とは「死なないこと」か。安楽死が問題になるのは、呼吸器の点滴のとマスコミが小馬鹿にして命名するスパゲッティー症候群を家族が見るに見かねる状態と医者の独断という場面ですか。だから基準がいる、ようくわかります。でもこの人が必ず死ぬかどうか、理屈を捏ねるのではなくて、癌の末期とか脳死状態、老衰状態以外では神ならぬ身、わからんでしょうと思うのです。よく余命一ヶ月とか言いますよね、私はいつも医者ながらに思うのですがどうしてそんなことが分かるのだろうか、只の経験で医者が言い放つだけのことです、よくもそんなこと言えるのうと聞いているのですが、独断の域を出ないことです。曰く、根拠に薄い。だから、この要綱案にも脳死の判定と同じように複数の医者の判断を必須としています。でも、医者なんてのは(どんな業界の専門家もそうでしょうが)みんな同じ考え方しますからね、私のような偏屈も多いですが。それほどの堤防にはならないかも知れません。ま、それはさて措いて、早々に死ぬか死なないか、どう厳密に定義していってもどうしても残ってしまう曖昧です。ですから臨死と判断されても本当にそうだったのか?という疑問をかけられたら、もう死んでしまった人を今さら検証もできずに、うやむやに消えるばかりです。ならば、同じうやむやなれば、現場での話し合いで良しにしたらどうですか、という話にもなり、いやそうであれば医者と患者家族との知識差、立場の強弱がそのままになり医師の独断という大弊害を除けなくなるという反論もありましょう。不可知の領域に踏み込もうとする無理でもあります。でも、必ず人は死にます。「治療の甲斐なく」人は死んでいきます。医療現場を守るために、基準は必要です。人の死を定義するためではありません。そう割り切って考えねばならぬことなのでしょう。混同しないことが勘所なんでしょうね。
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