柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

式典

2020-08-09 09:49:47 | Weblog

広島の式典は朝8時ですから曜日に関わりなく毎年放映を見てます。が、長崎は11時です。今まで長崎の式典の実況を見たことがありません。今日は初めて見ます。広島が14万人、長崎が7万人と記事に読みました、これをジェノサイドと呼ばずになんと言うと、改めて憤ります。原爆の威力を皆が知ったからこその抑止力なのですが、その後の世界のパワーゲームは核を持つか持たぬかでの陣分けです、小国北朝鮮の態度が一番の象徴です、中国の帝国主義覇権主義も核兵器大量保有が大前提です。だから日本も核武装せよ。実際に他国に落とすなんてことは誰もしない、だからせめてチキンレースできるくらいは持っとけ。そういう主張は昔からあって、そのためには改憲ですからね、道は遠いのです。核を持たぬままに、核兵器禁止条約には加わらぬ(不拡散条約には入ってますねきっと)という不可解をずっと続けてきて、戦力は持たぬと言いながら世界有数の戦力を解釈を作り曲げ捏ねながら保有していている現状。アメリカの核の傘の下。本当にそんな傘があるのか?幸いに75年間戦争が起きなかっただけじゃないのか。戦争が起こらなかったことこそ核の抑止力のおかげだという水掛け論、循環論法。だからチキンレースになる、北朝鮮のような交渉が可能になる。インドが持てばパキスタンも持つ。持っている国が核不拡散条約を組むというこれも理不尽と言えば理不尽。でも、現にこうやって世界は動いています。現に今も中東では爆弾が落ちてます、市民が殺されています。平和ボケ。おそらくそうなのでしょう。でも、これも日本の現実です。核兵器持たず、徴兵されず、愛国とか国思う心が忌避され遠ざけられ、それでも現在です。爆弾の一つも飛んで来て被害が出なければ目は覚めぬ、ともよく言われますが、確かに北朝鮮が飛ばしたミサイルが東北の上空を越えたときも間が抜けたサイレンが鳴ったとか鳴らなかったとか、それだけでしたからね。

 今長崎の式典を初めて見てます。11時2分。6日のように当地でサイレンが鳴りました、これにも初めて気づきました。広島の式典しか知りません、これだけ違うのかと感心してます。先に献水と称して、水桶が供えられます。広島にはない手順です。こみ上げました、大火傷を負い水を求めて亡くなった人々に、との供養です。広島とて同じ情景であったでしょうが。長崎市長の話ぶりを見てますが、原稿を読み読みには違いないですが、広島とは違う印象です。もちろんこれは見慣れた広島の式典と比してのバイアスのかかった感想です、フラットな比較ではないことでしょう。89歳の被爆者の体験談を式典で本人が語ります。安倍さんの挨拶は後回しです。広島での手順である子供代表の挨拶という、大人の作文をそのまま読まされる儀式はありません。いえ、広島式典を非難しているのではありません、何度も書きますが長崎の式典を初めて見ての、広島との違いを知っての感想です。安倍さんの話はいつもの通り何も伝わりません。若い人たちにと口では言いつつ、目の前に座っている小中高校生には何も伝わりますまい。慰霊追悼と平和祈念が儀式化して、開催することが目的化されていることを実感することです。長崎の人たちにはこれがこの日の恒例です。政治家たちの原稿読みがあとは続くばかりです。暑い夏の昼前です。

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