ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

中村錦之助(萬屋錦之介)主演の「祇園祭」が今年も公開される(よって観に行くつもり)(追記あり)

2021-06-18 00:00:00 | 映画

先々日、京都文化博物館へ電話をかけました。内容は大要ということで。

私「今年は、『祇園祭』の上映はあるのでしょうか?」

京都文化博物館「まだ日程は決まっておりませんが、上映はする予定です。おそらく16日、17日ごろかと思います」

中村錦之助(萬屋錦之介)主演の『祇園祭』は、Wikipediaから引用すれば

>作品の上映権は現在京都市が所持しており、その他権利関係が複雑に絡んでいるためソフト化の機会は得られておらず、祇園祭のシーズンに京都文化博物館・映像ギャラリーで行われる上映会が唯一の一般公開である

というわけです。この記事を書いている6月16日現在の京都文化博物館のHPには予定はありませんが、たぶん3日ほど上映があるかもと思います。私もこの映画を、2019年に観ています。

いままで記事にしなかった2019年写真の放出(京都で映画「祇園祭」を観る編)

この映画を観に行くことにかこつけて京都へ行ってみようと思います。2019年の際は、深夜バスで京都へ行き、その日のうちにLCCで帰京するというなかなかハードなものでしたが、今年は行くのなら行きは新幹線かな。

ほかで全く観る機会がないというわけではありませんが、Wikipediaによれば

著作権京都府が保有し、原則的に1回50,000円の上映料金で貸与している

ではありますが、不定期上映ということになりますので、定期的に観ることのできる機会はやはり貴重であることはいうまでもありません。というわけで移動にいろいろ問題がある昨今ですが、興味のある方はぜひどうぞ。私も行くつもりです。

7月13日追記:今年も例年通り3日間の上映があります。

>7月16日(金)13:30~・17:00~、17日(土)13:30~・17:00~、24日(土)13:30~・17:00~

『祇園祭』
1968年日本映画復興協会(カラー・167分)/監督:山内鉄也/出演:中村錦之助、岩下志麻、田村高廣

ご興味のある方はぜひどうぞ。

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女優の高橋洋子のイベントに顔を出せた

2021-06-15 00:00:00 | 映画

現在東京阿佐ヶ谷の「ラピュタ阿佐ヶ谷」で、青春彷徨 ─映像詩人 斎藤耕一のあしあと─という企画をやっていまして、1972年公開の斎藤耕一監督『旅の重さ』が、6月6日から12日まで公開されていました。上映最終日の12日土曜日に、主演の高橋洋子が舞台挨拶に登場するというので、それではと行ってみました。といってもこの催しでそれ以前のすべての上映作品を観ています。

この映画では、主演が公募されて、高橋洋子が決定されたのですが、次点が小野寺久美子(のちの秋吉久美子)でした。高橋洋子自身が語るところによると、

>同じオーディションを受けた秋吉久美子さんで決まりかけていたの。松竹の人も「この役だけなら高橋だけど、伸びしろを考えたら秋吉ですよ」って言ったけど、監督だけが私で譲らなかったわね。

とのこと。斎藤監督からすれば、将来の伸びしろなんてことは関係ないものね。

それで映画館に、高橋洋子が姿を見せました。

さっそく席に座って、サインをしてくれます。私も彼女にサインをいただきましたが、写真は諸般の事情があり表に出すのは控えさせていただきます。

こうやって気さくにツーショット写真にも対応してくださいました。私も撮りましたが、これも諸般の事情により私の姿に画像処理をかけてもちょっと写真をお見せできないので、これも省略いたします。申し訳ございません。

壁にサインも書いていました。

こちらです。映画館に行かれた際は、乞うご確認。

幸い私の目の前であいさつがありました。内容をかいつまんでご紹介しますと、「自分も年をとったが、この映画での彼女は永遠にそのままだ」「斎藤監督と日本中舞台挨拶に回ったのが、まだ20年前くらいのような気がする」「旅行雑誌の取材で、この映画のロケ地と同じところを回ったら、担当編集者が『いい映画でした』と言ったので、外泊へ行ったら、地元の老婆が声をかけてくれて、ちょっと前に『旅の重さ』の上映会があった、スタッフとキャストが泊まった旅館は廃業したと話してくれた」というような内容でした。当日は、映画の助監督氏(チーフでなくサードとかの方でしょう)も来ていて、高橋さんも最後まで映画をご覧になりました。彼女は何回この映画を見たかわからないでしょうが、やはり見るたびに自らの原点を思い出すのかもです。映画の終了後、拍手が劇場に鳴り響きました。

サインとツーショットの写真は、わが家宝にさせていただきます。高橋洋子さんありがとうございました。またこの催しは今後も続きますので、興味のある方はぜひどうぞ。詳細は、上にHPをリンクしておきましたので乞うご確認。

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これは簡単すぎるよね(小林稔侍)

2021-06-02 00:00:00 | 映画

最近CSの「東映チャンネル」で、1970年代を中心とするテレビドラマを観ていまして、そのひとつに『キイハンター』があります。1968年から73年にかけましてTBS.系列で放送されていまして、メインのキャストも丹波哲郎野際陽子川口浩谷隼人大川栄子千葉真一とかなり豪華です。ただ丹波は、一種のお目付役でそんなに出演しているわけでもありません。上の豪華な出演陣も、メインの俳優が活躍して、それ以外はちょびっとの出演あるいは出演しないという形式の場合も多くあります。特に丹波氏は、当時いろんな映画に出演していて多忙だったので、テレビへの出演は「特別出演」とは銘打っていなくても、そのような趣旨の出演になるというところはあったのかと思います。

それで昨日のクイズの答えは、簡単すぎるとは思いますが、小林稔侍です。このドラマの第168話です。こちらによると1971年6月19日の放送です。小林氏は、Wikipediaによるとこの番組に20本ゲスト出演していて、68年から73年まで全期間にわたってゲスト出演しています。けっして大きな役ではありませんが、制作する東映としても当時使い勝手のよい俳優(1943年生まれ)だったのでしょう。

このドラマの中では、サイコロ賭博で「イカサマしたろう」と難癖をつけたはいいが、千葉真一にあっけなく見破られて、失敗の責任をとって殺されるというなんとも無様な役です。

なお上の記述でだいたいご想像がつきますように、これは東映が得意としていた任侠映画のパロディです。こういったその時代時代の人気のあったネタをどんどん取り入れてドラマにするというのも、東映らしい娯楽に徹したところという感があります。さすがに現在では、むずかしいかな。上のサイトでは、

>Gメン75に香港カラテロケシリーズあればキイハンターにサイコロGメンシリーズあり。当時の人気映画ジャンルをお茶の間ドラマに持ち込むエンターテインメントに徹したエンタテインメントは現代ドラマでは味わえない?!

と指摘されており(太字も原文のまま)、まさにその通りだよなあと思います。

ところで千葉氏と小林氏は、『新幹線大爆破』で運転士とその助手を演じています。

考えてみればアクションスターである千葉氏を、新幹線の運転士という動きの少ない役で起用したのだから、この映画も贅沢な映画です。千葉氏は、当初は別の役だったのですが、プロデューサーが千葉氏に頼み込んだとのこと。なお(以下ネタバレ。未見の方は乞う注意)千葉演じる青木運転士が酸素切断機で客車の床を焼き切ってやけどしながら爆弾を外すシーンは、千葉氏のアイディアだったとのこと。このシーンでは、小林氏が運転をしている設定です。小林氏は高倉健との盟友関係が知られますが、この映画では運転席のシーンのみです。この段落の記述は、Wikipedia新幹線大爆破より。以下参考写真を。クレジットタイトルより。

当時の小林氏は、まだこの程度の格だったわけです。なおこの映画で、ピンでクレジットされているのは、あと高倉氏と宇津井健だけです。宇津井氏は、この映画の事実上の第2主人公です。彼がこの映画で一番印象に残った人もたぶん少なくないでしょう。高倉と宇津井の両健さんが共演したのは、この映画だけのはず。

ほかにもネタがあるので、数回やってみます。そんなに難しくはないので、そのあたり物足りない方は乞うご容赦。なお『新幹線大爆破』の写真は、映画DVDからのスクリーンショットです。

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この人は誰?

2021-06-01 00:00:00 | 映画

またまた懲りずにやります。「この人は誰?」。

これは簡単すぎるので、ノーヒントで。

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浪花千栄子が朝ドラのネタになるのなら、中村玉緒も将来モデルになるかも(最適だと思う)

2021-05-19 00:00:00 | 映画

先週いっぱいでNHK朝の連続テレビドラマ『おちょやん』が終了しました。あまり視聴率は振るわなかったようですね。この番組についてこちらの記事が印象に残りました。

 

 

筆者の碓井広義氏がご指摘なように、

ドラマにあったように、まるで天外と「和解」したような形で、同じ舞台に立つなど、あり得ません。

このドラマをきれいに終わらせるためには、道頓堀の舞台に2人が並ぶことが必要だったのでしょう。

けれど、千栄子の自伝『水のように』にも、ラジオドラマと並行して、天外と共演したという記述は出てこないのです。

その代りに、天外に向けた、こんな言葉を残しています。

「よく、ひっぱたいてくださいました。よく、だましてくださいました。よく、あほうにしてくださいました。ありがたく御礼を申しあげます」

>千栄子にあって千代に欠けていたのは、人間としての「凄(すご)み」と、女優としての「艶(つや)」でした。

もっと言えば、千栄子の持つ「業(ごう)」のようなものが、ドラマの千代には希薄だった。

千栄子との重なり過ぎを怖れず、きちんと描くべき「葛藤」と、それを伝える「物語」が、やや不足していたのです。

そのため、どこか隔靴掻痒(かっかそうよう)のキレイゴトに見えてしまう部分がありました。

というわけで、モデルとなった浪花千栄子の人生というのはそうとうに壮絶なものであり、それをリアルに演じたり表現していたら、とても朝のテレビドラマなんぞになるものではありません。それは仕方ないですが、そう考えるとはたして朝の連続テレビドラマの題材として適当なのかなあという気はします。そもそも今の時代彼女を現役で知っている人たちって、彼女が亡くなった1973年時点で十代くらいでしょうから、そうなると一番若くて60過ぎですよね。それ以降の人で彼女を知っている人って、たぶんこちらの看板じゃないですかね。

いまどきこの看板だって、この種のものを商っている店くらいしかないのかもですが、やはり同じグループ会社のオロナミンCやボンカレーのこれらの看板やパッケージ同様ある種の時代の顔だったかもですね。

話が飛びましたが、浪花千栄子の夫だった2代目渋谷天外は、上の碓井氏もお書きのようにすさまじい道楽者であり、彼女もひどい苦労をしていたわけです。また、浪速千栄子のWikipediaにもあるように

辯天宗では婦人部長として活動していた。

というわけで、新宗教(新興宗教)の幹部も彼女はしていました。まさかこんな話、NHKの朝のドラマで取り上げられるわけありませんよね(苦笑)。

それで私は突然、「あ、彼女とよく似た立場の女性いたなあ」と気づきました。まだご存命なこちらの方です。

このような写真も。

中村玉緒は、夫の勝新太郎がすさまじい道楽者であり、おまけになまじ演出やプロデュースの才能があったせいもあり、莫大な借金をこさえてしまいました。息子と娘がいましたが、2人ともヤクでパクられたり息子が映画の撮影中過失で俳優を死なせるという最悪の事態になったり、勝がドラッグでパクられたり、俳優としてものにならなかった息子は孤独死をしてしまう始末です。鴈龍の死については、私も記事を書きました。

勝新太郎の息子は、俳優稼業を続けていなければ、まだ死なないで済んだと思う

それでその関係で最近こんな記事まで発表されましたしね。

中村玉緒 長女が車いす生活に…81歳で直面した逆介護の悲痛 ...

この記事では名前は出ていませんが、娘の名前は奥村真粧美です『警視-K』では勝の娘を演じていましたが、けっきょく女優としてはあまり活躍しませんでした。私もこのドラマについては、記事を書いています。

勝新太郎の主演・プロデュース・半分以上のエピソードで脚本・監督をつとめた『警視-K』がCSで放送される(あと『消えた巨人軍』も)

そうこう考えると、中村玉緒ほどすさまじい人生を送った芸能人もそうはいないんじゃないんですかね。歌舞伎俳優二代目中村鴈治郎の娘という恵まれた出自で、女優としてもバラエティタレントとしてもすごい才能があり成功をしたにもかかわらず、夫が借金をこさえるわドラッグで逮捕されるわ、子ども両方がドラッグでパクられ、息子は一人前になる前に孤独死してしまい、娘は事情は不明ですが介護が必要な身体になってしまいました。お孫さんはいないようだし、うーん、そういっては身もふたもないという次元ですが、彼女自身そうとう苦しい人生を送っているはずで、こんな朝ドラのネタにふさわしい人間は、そうはいませんね。彼女が亡くなって半世紀くらいたてば、あるいは彼女をモデルにしたドラマができるんじゃないんですかね。しかし内容はそうとうソフトになりそうです。あんまりえげつない話にはできない。

が、いずれにせよかなりすさまじいストーリーにはなるかと思います。これはこれでなかなか興味深い気がします。というわけで、いつの日かわかりませんが、ドラマが制作される日を期待したいと思います。

ところで浪花千栄子と勝というと、こちらの映画が私など印象に残りますね。

悪名

主人公を勝が、その舎弟を田宮二郎が演じてヒットしてシリーズ化した作品の第1作で、ネタバレになるので詳細は略しますが、浪速が自分を裏切った勝を海岸でステッキにより打ち付けるシーンは強烈でした。この作品には中村玉緒も出演していますし、『続悪名』には中村鴈治郎まで出演しています。これもなかなか貴重です。ソフトもありますし、CSなどでも放送されますので、興味のある方は乞うご鑑賞。

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昔の子どもは、極端に短い半ズボンをはいていた(ドラマでの服装の設定も、かなり安直)

2021-05-10 00:00:00 | 映画

あんまり映画の話でもないかもですので、後半に映画関係の話をしてみます。

最近1979年~81年にTBS系列で放送されたアクションコメディ刑事ドラマとでもいうべき『噂の刑事トミーとマツ』を観ています。大映テレビ制作のいわゆる「大映ドラマ」でして、制作者側の予想を上回って視聴率がよかったので、中断を挟み全106回(第1期65回、第2期41回)放送されました。したがって出演俳優のスケジュール調整がつかなくなる、あるいは新レギュラーの番組が決定したりで、主要登場人物の降板などもありました。志穂美悦子の降板(多忙による模様)や林隆三の降板(たぶん『ザ・ハングマン』主演のため)など。現在CSのTBSチャンネル2で5月27日まで放送されているので、興味のある方はご覧になってください。

それで話はドラマの内容とは関係ないですが、ちょっと興味深いことを。第1シリーズ第58話から。

巡査部長への昇任試験に合格しようと勉強している松崎しげる

捜査中の事件の重要参考人男性の息子(顔見知りという設定)が声をかけるシーンと

事件解決後、松崎が少年にがんばれよと励ますシーンです。それでこの少年の服装が、すさまじく短い半ズボンですね。最近の子どもでこんなのをはいていることはありえない。さすがにこれは、そうとう短いズボンかと思いますが。

これは、次の回(第59話)からですが、さすがに先ほどの少年ほど短くはありませんが、それにしたってこれお気づきでしょうが、冬の撮影ですからね。この撮影が行われた時代は今より寒かったはずで、子どもも寒くなかったとは思えない。なお58話のエピソードは、受験の不正に関する内容です。その季節に合わせてのものだと思われます。

それにしてもほんと当時は、女の子はミニスカート主流、男の子は半ズボンという時代でしたね。ちなみにこれは1970年公開の映画『ひまわり』での1シーンです。出典はこちらより。

ソフィア・ローレンの後ろにいる当時のソ連の女の子たちに注目。みんなミニスカートです。米国や英国の女の子がみんなミニスカートということはないとおもいますが、日本とかソ連のようなやや周縁(?)では、半ズボンはともかく確かにミニスカートは主流だったということですね。ちなみに当時のソ連の成人女性は、老若問わずほとんどがワンピースを着ていたようです。少なくともモスクワでは。下の記事を参照してください。

1960年代終わりのソ連(当時)の女性は、ほとんどみんなスカートをはいていた

またこちらの記事ともつながるかと思います。

長きにわたって読まれている絵本からしてそうなのだから、1970年代のテレビ番組がそうであっても何ら問題ではなかったのだろう

ところで上の番組を観ていて気づいたのですが、これは、松崎しげると少年、違う日の違う場所の設定なのに、2人とも同じ服装じゃないですか(苦笑)。刑事役の松崎氏のほうは、まあ同じような服ということもありとしても、少年すらまるっきり同じです。いや、それは同じ日に連続して撮影したことは理解するけどさ。

しかし当時は、そういうこともめずらしくなかったように思います。このブログでもしょっちゅう言及する『ウルトラマンレオ』の第1話から。画像は、こちらから。YouTubeからのスクリーンショットですので、画像が悪いのは乞うご容赦。

これは、主人公(真夏竜)の模範演技を見学しているこのドラマの出演者たちです。後列左から、藤木悠丘野かおり伊藤幸雄、前列丘野かおりに、肩に手を置かれている少女が、富永美子(現冨永みーな)です。

主人公の模範演技に拍手する富永美子の写真を、読者サービスで紹介します。彼女は、真夏氏になついていたとのこと。ドラマでは「ゲン兄ちゃん」とか呼んでいましたが、2019年現在も「真夏のお兄ちゃん」と呼んでいました。

理由は知りませんが、このドラマでもう1人の主要登場人物である新井つねひろは、この前後編である第1話、第2話には出演していません。これはこれで変な話。

次の写真は、主人公が防衛組織MACに入隊したことを喜ぶ藤木氏たちですが、すみません、藤木氏の最初の服がわかりにくいのですが、同じシャツです(苦笑)。設定は別の日じゃん。いや、それは多忙な藤木氏が、最大限早急に撮影をすませる必要があるのはわかるけどさ。1974年当時藤木氏はかなり多忙で、おそらくその多忙さ(下でご紹介するムックで、主演の真夏氏もそのようなことを語っています)と『レオ』の視聴率の悪さと石油ショックのための予算不足、制作費高騰に対応できなかったのでしょう、第1クールは8話出演しましたが、第2クールで出演が途絶え、たぶん最後の出演という前提で第22話でわりと長い時間出演し、そこで番組を降板しました。番宣ポスターでも(大物ですから当然ですが)大きく登場していたんですがね。それにしてもポスター、藤木氏は一緒に撮影していないのが明々白々ですね。

余談をしますと、番宣ポスターに記載されているクレジットでは、藤木氏はいわゆる「トメ(一番最後)」の位置(スラッシュが入っている別格ぶりです)にいて、これが藤木氏の立場のわけです。ドラマのクレジットでは、藤木氏は真夏氏の次である2番目、トメは森次晃嗣氏でした。またこの番宣ポスターに出ている4名のうち、最後まで出演したのは真夏氏だけです。森次、丘野のお2人は、40話で降板します。視聴率低迷により、どうも真夏氏にも交代の話もあったようです。

ウルトラ特撮 PERFECT MOOK vol.09 ウルトラマンレオ (講談社シリーズMOOK)

それでこれは、ほかもおなじようなものです。画像が用意できないので、リンク先をご覧になってください。『レオ』第18話です。上から4枚目の写真と下から2枚目・3枚目を。丘野、新井、富永のお三方の服がまったく一緒です(苦笑)。それはさあ、同じ日の撮影であることは理解するけどね(笑)。こんなのは、ほかにもいろいろあります。31話でも、病室でお見舞いするシーンと、退院して玄関口にいる丘野かおりさんが、同じ淡いグリーンのワンピースで一緒です。同じ日じゃないでしょうに(苦笑)。多分当時は、まだ家庭内録画もできない時代で(発売直前か非常に高価な時代だったはず。確認したら、ベータマックスが1975年、VHSが1976年の発売)、ソフトもレンタルあるいは発売もなく、ネット配信なんてもってのほかの時代ですから、確認するには再放送くらいしかチャンスがなかったので、そういうあたりは非常に安易だったのかもしれませんね。なお『レオ』31話の病院は、前に私が訪れた病院だったようですね。当時は、ロケによく利用されていた病院だったようです。こちらの記事を参照してください。また下の拙記事も、よろしければご確認ください。

「赤いシリーズ」「ウルトラシリーズ」のロケ地の現在(いま)(成城・祖師谷編)

最後になりますが、丘野かおりさんは、1975年1月の放送(第40話)で『レオ』を降板し、同じ1975年に芸能界から身をひきました。引退の事情は定かでありませんが、その後は一切芸能界と縁を切って生活をしています。「あの人はいま・・・」のような番組や特撮本のインタビューなどにも応じていないようです。彼女にも、アプローチはされているはずですが。彼女についてもまた記事を書いていきたいと思いますので乞うご期待。なおリンクをいたしました「美女・特撮・ドラマ」の管理人様に感謝を申し上げます。こちらのブログさんは、たぶん日本でいちばん丘野かおりさんにこだわっているサイトです。

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クイズ(回答編)

2021-04-12 00:00:00 | 映画

みなさんおわかりかもですが、答えを。なおドラマは、1973年6月18日放送の、『刑事くん』第2部第10話です。

はい、竹下景子です。彼女は1953年9月15日生まれですから、撮影当時19歳ですかね。出演作品を見てみますと、彼女は73年頃にはすでに売れっ子でしたね。同じドラマの他の写真を。なお上の写真は、1975年1月号の雑誌ですので、撮影は74年でしょう。

彼女のスカートの短さは時代ですかね。顔のアップが多いのは、多分ですが、彼女の美しさを強調しようという監督の狙いではないかと思います。

なおこの『刑事くん』は、当時主演の桜木健一(最後の写真の後ろのスーツ姿が桜木氏です。念のため)が一世を風靡した人気者だったこともあってゲストが豪華で、第2部だけでも第3話に郷ひろみ、第4話に森昌子山口百恵、第6話に松坂慶子、第25話に西城秀樹、第27話に岡崎友紀など大物(あるいは、後に国民的な人気者になった人)が出演しています。同僚で、三浦友和がでているのもポイントです。またTBS側(東映の制作)のプロデューサーに、並行して放送していたウルトラシリーズのプロデュースをしていた橋本洋二氏が担当しているせいもあって、ウルトラシリーズに関係する人たちが目立って出演しています。たとえばオープニングクレジットと第17話のゲストとして、篠田三郎氏が登場しています。彼は、同じ1973年に『ウルトラマンタロウ』の主演でした。そういったことも、今後追って記事にしていきたいと思います。

これからも「お」と思った人を取り上げます。なお写真は、(たぶん)2020年の彼女。でどころは、こちら。あ、今回は、「映画」より「美女探求」のほうがいいのでしょうが、「映画」のカテゴリーの記事を増やしたいので、「映画」の記事とします。

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この女優は誰?

2021-04-11 00:00:00 | 映画

今回は、簡単だと思うのでヒントは1つ。1973年のドラマです。

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大島渚監督の『少年』で主人公の少年を演じた阿部哲夫さんのトークショーがあった(追記あり)

2021-04-05 00:00:00 | 映画

以前このような記事を書きました。

情報(4月に渋谷で大島渚監督の特集上映があり、『少年』に主演した阿部哲夫さんもトークショーに登場する!!!)

そのトークショーが4月3日土曜日にシネマヴェーラ渋谷で開催されました。私も幸い参加することができました。それでは記事をご紹介。

>大島渚監督の名作「少年」に出演した阿部哲夫さん、52年ぶりの公の場
2021年4月3日 17:37

大島渚監督の特集上映「オーシマ、モン・アムール」が4月3日、東京・シネマヴェーラ渋谷で始まった。初日となるこの日は、代表作のひとつとして知られる「少年」が上映され、子役として出演した阿部哲夫さんが52年ぶりに公の場に姿を見せた。阿部さんは、大島監督の次男でドキュメンタリー監督の大島新氏、聞き手を務めた映画評論家の樋口尚文氏とともにトークを繰り広げた。

同特集上映は、樋口氏が大島家、大島渚プロダクションの全面協力のもと膨大な量の資料を数カ月にわたって調査し、初めて紹介する資料群から大島監督の全貌に迫る「大島渚全映画秘蔵資料集成」(国書刊行会)の刊行を記念して開催されたもの。体調不良のため欠席となった大島監督の妻で女優の小山明子の代理で出席した大島新監督は、「『少年』が公開された1969年は、ちょうど私が生まれた年ですね。あの“少年”をお招きするというのは、ちょっとドキドキしています」と挨拶した。

拍手喝采で出迎えられた阿部さんは、「こんなに多くの方に見に来ていただいて、緊張がマックス」とニッコリ。高校時代に撮った自主映画を大島監督に激賞されて以来、大島家と交流を深めてきた樋口氏が、「小山さんに『阿部さんは今どうされているのでしょう?』とうかがったら、『年賀状が来ているわよ』と言われまして、それで連絡したんです」と明かす。

阿部さんは当時、養護施設で暮らしていたそうで「あの時、色々な養護施設が集まって文化祭をやったのですが、そこで『少年』の助監督だった小笠原清さんと知り合いました。そこからは、よく分からないうちに撮影が始まっていた」と述懐。実際にあった当たり屋一家事件をモデルにした今作では、全国縦断ロケを敢行。阿部さんは映画の封切り後に養子の申し出があったというが、それを断って施設に戻り、映画界とも縁を切っていた。なお、現在はライフプランナーとして活躍しているという。

大島新監督は「来る前、小山に『少年』について聞いたが、『本当に哲ちゃんに会いたいなあ』『あの撮影は役者人生の中で一番思い出に残る日々』と言っていた」と、母の思いを代弁した。さらに「撮影の年は、秋から約半年、両親がふたりきりになったのは1日しかなかったと言われています。私は、その日に仕込まれたに違いないと当時のスタッフに言われています」と自らの出生の秘密を披露して、笑いを誘った。

大島監督について聞かれた阿部さんは、「スタッフはいつも怒られていましたね。僕には優しくしてくれましたが、それは本心ではないでしょう」と当時の印象を語る。大島新監督も「家では割と甘い人ですが、やはり人を緊張させるんですね。私も家の中で緊張していましたから」と思いを馳せていた。

特集上映「オーシマ、モン・アムール」は、4月23日まで開催。「大島渚全映画秘蔵資料集成」は、4月に刊行予定。

もともと映画では母親役を演じた小山明子が参加するはずでしたが、ちょっと体調がよくないとのことで、大島渚監督の次男である大島新氏の参加となりました。上の記事でもありますように、新氏は、『少年』撮影時に仕込まれたという話が繰り返し話されていました(苦笑)。

上の紹介記事が、簡にして要を得ているので私からは若干の追補を。

阿部さんは、当時上にもあるように養護施設にいました。そして養護施設での合同文化祭で、阿部さんは女の子の役をやっていたそうです。そこで小笠原助監督に見いだされて、すぐ大島監督に連絡が入り、即決になったとのこと。メキシコ五輪が開催された1968年10月に撮影が始まり、5か月ほど撮影が続きました。宗谷岬での撮影は酷寒でひじょうに厳しく、まんじゅうを食べるシーンがありましたが、とても身体が温まるようなものではなかったといいます。特に映画のクライマックスである小樽での雪だるまを壊すシーンは、非常に寒くて、また雪だるまを作るのも大変であり、とても過酷な撮影だったとのことです。この映画では、さまざまなロケ地を訪れていますが、一番印象に残ったのが、北九州のロケで、その後阿部さんは北九州には行っていないとのこと。そしてこのシーンで地元の中学生とトラブルを起こしたり、不良の高校生が出てきますが、彼らは撮影以外ではとても優しい人たちで、また待ちをしていた喫茶店で色紙を阿部氏は頼まれ、これが後にも先にも唯一だったとか(笑)。それで、撮影時は夢中でそんなに記憶もないのですが、アオイスタジオで行われたポストプロダクション時のアフレコで、だいぶ記憶が定着したといいます。

阿部さんは、『少年』のプロモーションとして、「小川宏ショー」(?)に1度出演した、また中学生の時(1973年頃?)に、「あの人は今」みたいな企画で、映画で父親を演じた渡辺文雄と再開したら、「哲夫―!!!」と抱きついてきたとか。さらに、20歳くらい(1978年頃?)の時、「俳優もいいなあ」と考えて赤坂にある大島渚プロダクションにいって話をしたところ、TBSの昼の帯ドラマで準主役くらいの役を用意できると言われたので、あらためて考えたのですが、浮き沈みのある人生だから、ここはと考えてやめた、しかし周囲の人間は「もったいない」とみんないったとか。そうしたら、子役についての本を書いている樋口尚文氏が、「本にも書きましたように子役の人生は本当に大変ですから、阿部さんの選択は正しいと思う」と語っていました。私も正直そう思います。なおその本と関係する記事を私も書いています。

春田和秀さん(「砂の器」の子役をやった方)のインタビュー記事をご紹介

それで阿部さんが、子役の道を進まなかったのは、彼が大の野球好きであり、子役をやっていたら野球ができないからそうしたとのことです。そんな年齢だったということなのでしょう。

4月6日の追記:あともう1つ、阿部さんのお話で印象に残ったのが、駅で少年が切符を買うシーンで、駅員が中学生だろというシーンがありますが、学生服を着ているとはいえ当時自分は大柄ではないし、中学生には思われないのではないかといっていて、観客もみな納得しているようでした(苦笑)。なおこの駅員の人も、実際の駅員の人です。

それにしても60歳を過ぎた阿部さんの表情がとても穏やかなのは意外でした。映画での少年は、いつも非常に厳しい表情をしていました。あれはもちろん映画での話ですが、そして阿部さんも人には言えないいろいろな苦労をしているでしょうが、現在の阿部さんはなにはともあれよい人生を送られているようです。それは非常にいいことだと思います。半世紀を超える期間を過ぎていまさら表に出る気がしなくても仕方ありませんが、阿部さんとしてもやはり様々な想いとともに今回のイベントに参加されたはず。本当にうれしいことだと思います。この日の会場は満員でした。私以外の多くの観客の方々も、60を超えた阿部さんどうなっているのかなと心配だったり好奇心だったりいろいろな想いがあったでしょう。そして多くの観客が「今日は来て本当によかった」と思ったのではないか。私も実はこの日仕事が入ってしまい、ちょっとまずかったのですが、必死に調整をして、なんとか参加することができました。無理をしてでも参加したかったのですが、その判断は正しかったと思います。本当に、来てよかった。

そして阿部さんは、すでに雑誌のインタビューに答えておられますね。

映画秘宝 2021年5月号

>★レコメン日本映画SP
〈Chapter.1〉『戦場のメリークリスマス』4K修復版&俳優デイヴィッド・ボウイ
編集技師・大島ともよが語る『戦メリ』/大島渚とデイヴィッド・ボウイ/みんなの推しボウイ映画『/愛のコリーダ』も修復!
〈Chapter.2〉怒涛の日本映画インタビュー4連発!
『騙し絵の牙』監督&脚本コンビ吉田大八×楠野一郎『/裏アカ』で人間の赤裸々な衝動に迫る瀧内公美/主演作『裸の天使 赤い部屋』木下ほうか/大島渚監督作品『少年』の少年! 阿部哲夫『/ホムンクルス』/『奈落の翅』/新東宝シアターetc.

これは買わないわけにはいきません。手元にはまだありませんが、さっそくAmazonで購入しました。ほかにも大島関係の記事がありますので、これは購入するに限ります。なお写真で移っている黒い日の丸の写真は、映画のクレジットタイトルに使われたものとのこと。樋口氏が、大島監督の所蔵していた(「戦場のメリークリスマス」とある)箱から見つけたものとのことです。私の写真は、曇ってしまいあまりいい写真ではなくて申し訳なく思います。また上2枚の写真は、引用した記事より。

4月6日追記:上でご紹介した『映画秘宝』(2021年5月号)を読みました。インタビューアーは樋口氏で、内容はトークショーとほぼ重複していますが、そうでないところを少しご紹介してみます。

阿部さんの撮影には、彼が在籍した養護施設の方が(いつもではなかったとのことですが)付き添っていたそうです。弟を演じた木下剛志さんには、映画のスタッフで進行役だった木下俊美氏が(当然ながら)常にいて、また母親(俊美様の奥様)もいたそうですが、阿部さんには当然それはできませんでした。その養護施設の方とは、現在でも年賀状を交換しているとか。

また阿部さんは、2人お子さんがいるとのこと。ご年齢とかはわかりませんが、たぶん独立しておられるかと思います。ご自身は養護施設に在籍した阿部さんとしても、お子さんとご一緒の生活というのは他の人にはない感慨がなかったか。

なおここでURLを明記するのは避けますが、ライフプランナーとしての阿部さん関係のHPもいくつか見つけることができました。もしかしたらですが、彼と対面したりその写真を見て、「あ、『少年』の主人公の少年と同じ名前だなあ」なんて考えた人もいるかもしれません。

阿部哲夫様のこれからのますますのご活躍を期待して、また阿部さんのお言葉を最後にご紹介して、この追記を終えます。

>仮に一度でも俳優になろうと思い立ったということは、やはり『少年』の現場の思い出が素晴らしかったに違いありません。

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昨日のクイズの答え

2021-04-02 00:00:00 | 映画

昨日のクイズの答えを。

隣は、坂上二郎さんです。彼が亡くなったのは、2011年3月10日でした。そう、もう10年も前のあの日の前日です。

答えは、イッセー尾形です。この番組は、1980年~81年に放送された『走れ!熱血刑事』の第23話「おかしなおかしな目撃者!」です。放送日は1981年5月25日で、昨日のルー大柴が出演した回です(笑)。この番組での表記は、「イッセイ・尾形」ですね。これは、この番組のみの表記の模様。イッセーが『お笑いスター誕生!!』に出ていたのが、1980年の12月から1月頃ですので、まさに彼が世間に知られだした時期の直後ですかね。彼がテレビドラマに出演したのは、これが初めての可能性があります(たぶんそう)。それで、ゲストとしてはクレジットのトップですから、やはり彼の才能は抜きん出ていたというところだったのでしょう。

彼は1952年2月22日の生まれとのことですから、このドラマに出演した際は、まだ20代だったということですね。

最近70年代~80年代のテレビドラマをよく観ていますので、また面白そうな人を見つけられると思います。そういうわけでまた似たようなクイズを出しますので乞うご期待。

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