暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

「おんな城主・直虎」ゆかりの地を訪ねて・・・信康自刃の二俣城址(2日目)

2017年11月11日 | 
         
                  浜松城で会った出世法師・直虎ちゃん

2日目のハイライトは浜松市天竜区にある二俣城址と清瀧寺です。
徳川家最大の悲劇と言われた家康の嫡男・岡崎三郎(松平)信康が自刃したという二俣城址と、信康が祭られている清瀧寺・信康廟を訪ねました。
朝から小雨が降り、悲劇の武将・信康を天も哀悼しているかのようです。

          
                  本丸にある二俣城天守台あとへ

二俣城は、天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害にあり、遠江の平野部と北部の山間部を結ぶ交通の要所でもありました。
二俣城を巡る攻防として次の2つが有名です(浜松市作成の二俣城址の看板より転載)。

○ 武田信玄との攻防
 元亀3年(1572)10月、信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。
武田軍は力攻めの方法はとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。
徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶で天竜川から水を汲みあげているのを知り、
上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。2か月ほどで二俣城は陥落した。


          
               その当時をしのぶ井戸櫓・・・清瀧寺にて

○ 天正3年の武田軍との攻防
 天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻防に着手した。
鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂、蜷原(になはら)、渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧が底をつき城を明け渡した。
二俣城には大久保忠世が入場し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。


           

○ 信康自刃事件
 大久保忠世が在城中に起こった有名な事件に家康の嫡子信康自刃事件がある。
一般には、信康とその母築山御前が武田氏と通じていたことを理由に、
織田信長が信康を切腹させるよう家康に命じたとされている。
家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。
(同じ頃、築山御前は佐鳴湖畔で殺害された)
この事件は戦国哀史として広く知られている。


           
                    今でも美しい滝がある清瀧寺

           
              清瀧寺の信康廟・・・二度目の訪問、前回はウン十年前だった

清瀧寺は信康を供養するために家康が建立した寺で、墓地の奥の高台に信康廟があります。
うっそうと茂った木々、廟へ向かう参道の門が閉ざされていて近づけない。門の外で頭を下げる。
前回はもっと近くまで行けた気がするのだが、ウン十年前の事で自信が無い。
殉死した小姓の墓があったことだけはかすかに記憶があるのだが・・・。
信康と築山御前の横死は身震いするくらい凄惨な事件で、いつもその時の家康の気持ちを思うといたたまれない気がする
(この事件の真相については諸説あるが・・・)。
ドラマ「おんな城主 直虎」も今週あたりが信康自刃の巻になりそうで、見るのがちと辛い・・・・。

           
                   「出世城」と呼ばれている浜松城

旅も終わり近くなり、家康が29歳から45歳まで過ごしたという浜松城へ。
野面積みの石垣はほぼ当時のままだそうですが、城は再建されています。
天守まで上がり、東西南北に画かれた古図を見ながら城割りの様子を想像してみましたが、大きな建物に阻まれて難しい!
ただ、相当大きな規模の城であったことだけはわかりました。


           
                 美味しい浜松餃子を食べたい一心で並びました

城の駐車場で浜松餃子学会発行の浜松餃子マップをもらいました。
遅めの昼食は、浜松名物の浜松餃子に満場一致です。
浜松駅構内の石松という元祖・浜松餃子の人気店に並びました。
約30分並んだせいか、ことのほか美味しい餃子定食でした。

Mさん、Aさん、お世話になりました。久しぶりの大人の遠足、楽しかったですね。
でも、とても疲れていて小田原過ぎまでツレと二人とも爆睡でした・・・・ 


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