台風の影響もあり、秋の長雨が続いています。
長月19日(月、祭)は敬老の日であり、S先生の東京教室の稽古でした。
その日は、祥雲寺さんの都合で、いつもの稽古場ではなく、本堂奥の和室で行いました。
床、書院が備わった12畳もある和室です。
床のお軸は「壺中日月長」(こちゅうじつげつながし)紫野広州宗澤(大徳寺483世)の筆です。
この禅語は先日の茶会「つぼ仙人」のお話に因るもので、
壺の中のように小さな世界でも、平和に日が送れるという意味です。
私たちはつい現実から逃れて別天地に憧れを抱きますが、どんな現実でもそれを真摯に受け入れて、
そこでなすべきことを見つけ、穏やかな気持ちでやりとげなさい・・・と言っているようにも思えます。
花は、清浄無垢な白い芙蓉。
はっと身が引き締まるほど気品高く、真の花入に活けられています。
白い芙蓉の花
Oさんの真之炭、暁庵の真之行、Iさんの貴人点薄茶、昼食をはさんでOTさんの続き薄茶、茶通箱付花月、濃茶付花月でしたが、全部台子で行いました。
真之行では道具の扱い(象牙茶杓、茶碗の仕覆)や名物の唐物を扱う時の所作について、日頃疑問に思っていたところをお尋ねしました。
S先生は初歩的なことでも、きちんとご自分の考え方を含めてお話し下さり、迷いがすっきり晴れた様な・・・。
でもまた、稽古を重ねていると、雲のようにムクムクと疑問や迷いが湧いてくるのでしょうね。
この繰り返しの果てに「壺中日月長」へ到達するのでしょうか。
台子・貴人点薄茶はまるで映画か舞台のワンシーンのよう、うっとり魅入ってしまいました。
キャストは貴人Oさん、亭主Iさん、半東I氏でした。
ご亭主Iさんの道具組はかぐや姫に因むもので、茶碗は銘「翁」、棗は銘「ふし」(9代宗哲)、茶杓銘は「竹取」(玄々斎?)、そして2つのエピソード(羽織るとこの世での記憶がなくなってしまう羽衣と、不死の薬)をお話し下さいました。
初めて伺った羽衣(月の衣)の話に興味を持ったところ、高畑勲の「かぐや姫の物語」というブログに次のような一節があり、妙に納得してしまいました。
・・・・前略・・・
もう二つ、この映画を見て気付いたことがある。
それは、死についての映画だということ。
それと、これはもしかしたら、かぐや姫=宮崎駿かもしれないということだ。
死について。 これはこの映画のラストに顕著に表れる。
高畑勲による、この国最古の物語「竹取物語」への解釈を堪能できる瞬間と言ってもいい。
月からやってくる一味のリーダーがどう見ても、釈迦なのだ。
月の衣を羽織れば、地球(下界?)での記憶がなくなってしまう。
かぐやは必死に抵抗して、育ての親オキナ・オウナと抱擁する感動シーンがあるのだが、
これはつまり、「死に抵抗する家族」にしか見えない。
月の一味がそんな最中、かぐや姫にサクッと月の衣を羽織らせてしまう。
するとカツーンと今までの抱擁を忘れ、月の住人として、トリップしてしまうかぐや。
もう、この描写なんて「死」でしかなかろう? 死がやってきたとしか思えん
・・・・後略・・・
2016年9月15日 中秋の名月
最後には東京教室からかぐや姫の別世界へトリップしてしまいました・・・。
長雨の中であの夜だけ不思議と晴れた、中秋の名月を長く見詰め過ぎたせいかもしれません。
追伸) 後日、Iさんからメールを頂きました。
高畑勲の「かぐや姫の物語」のブログを読みました。
万葉集にも、竹取の翁と天女の話が出てくる程に古いファンタジーですよね。
亡くなった方は天の星になる……と言われていますが、全ての記憶を忘れて月に戻るこの物語は、死者をいつも身近に感じていたい我々の願いなんでしょうね。
8年前に母を亡くした私は、生き物の殺生ができなくなりました。
生まれ変わって見守っていてくれるかもしれない……と思うからです。
蛙でも蝶々でも。
でも、時々いるのです
……黒い物体が…… (@_@;)
私は逃げるだけですが、父はいつも[次はもっと良い物に生まれ変わるんだよ]と言いながら、スリッパでバシっと叩きます。 Iより