暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

軒端の梅と和泉式部

2014年03月05日 | 京暮らし 日常編
              東北院の軒端の梅 (3月1日撮影)

茂庵の月釜の帰りに東北院(左京区浄土寺真如町)へ寄ってみると、
能「東北」(とうぼく)に登場する「軒端の梅」が満開でした。

前にも書きましたが、2年前の3月、京都へ引っ越してすぐに
探し訪ねたのが東北院と「軒端の梅」でした。

             

             


東北院は今は時宗ですが、かつては法成寺に付属する天台宗の寺でした。
藤原道長の娘である上東門院(藤原彰子)の発願により、
法成寺(道長建立)の東北の一郭に建立されたので、「東北院」と呼ばれていました。
その後、火災、応仁の大乱、移転により現在地にあります。

法成寺にあった頃、和泉式部が東北院に「軒端の梅」を植えたとされ、
その梅が現在も境内にあります。
しかし、移転などがあり、和泉式部の植えた梅ではないかもしれませんが、
老木が花を咲かせている姿は心打つものがあります。

             


和泉式部の梅の花の歌に

  梅の香を君によそへてみるからに

      花のをり知る身ともなるかな
  (和泉式部続集) 

    (梅の香をあなたの袖の香によそえて見るばかりに
     花の咲く時節を知る身となってしまった)

う~ん、和泉式部の歌って、情熱的ですねェ~。
こんな恋歌はいかがでしょうか?

  逢ふことを息の緒にする身にしあれば

          絶ゆるもいかが 悲しと思はぬ


    (逢えば別れることは避け難い。
     それでも逢うことを「息の緒」にする我が身だから、
     緒が絶えても悲しいとは思わない。恋に死ぬとしても本望だから・・)

   (補)◇息の緒にする 命を託する、命をかける。
      ◇恋人との仲が絶える意に、命が絶える意を掛ける。(千人万首より)

             

和泉式部ってどんな人生を送ったのでしょうか?
改めて興味を持ち、調べてみました。

  天延2年(974年)~貞元元年(976年)頃、生まれました。
  父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡女。

  長元元年(999年)頃に和泉守橘道貞と結婚して小式部内侍をもうけます。
  後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名(式部)を合わせたものです。

  やがて道貞と別れ、弾正宮・為尊親王(冷泉第三皇子)と関係を結びますが、
  親王は長保4年(1002)6月、二十六歳で夭折します(式部26~28才)。

  翌年(1003)、故弾正宮の弟で帥宮(そちのみや)敦道親王との恋に落ち、
  式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが「和泉式部日記」です。
  親王との間にもうけた男子は、のち法師となって永覚と名乗ります。
  寛弘4年(1007年)に敦道親王も二十七歳の若さで亡くなりました。

  寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、
  一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕し、
  紫式部、伊勢大輔、赤染衛門が仕えていました。

  長和2年(1013年)頃、藤原道長の家司で武勇をもって知られた
  藤原保昌と再婚し、夫の任国・丹後へ下りました。
  (保昌と最後まで睦まじく暮したわけではないらしく、
   やがて保昌の訪れは途絶えるのでした・・・。
   祇園祭の保昌山に保昌と式部の仲睦まじい様子が忍ばれます)

             

             
               祇園祭の保昌山(ほうしょうやま)
             (保昌が和泉式部のために紫宸殿の紅梅を
              手折ってくる姿をあらわしています)

  万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍がその子供を残して死去。
  娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがあります。

  小式部内侍なくなりて、むまごどもの侍りけるを見てよみ侍りける

    とどめおきて誰をあはれと思ふらむ

          子はまさるらむ子はまさりけり
(後拾遺集)

  (子供たちと私を置いて死んでしまって、娘はどちらを哀れと思っているだろうか。
   きっと、親である私よりも、子供たちの方を愛しんでいるだろう。
   親より子と死に別れる方が、私も辛かった)  (千人万首より)

  晩年の動静は不明。

   暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき

           遙かに照らせ 山の端の月


  晩年詠まれたこの歌は、性空上人への結縁歌であり、
  歌の返しに性空上人から袈裟をもらい、それを着て女人往生を遂げたそうです。
  ・・・誠心院の「和泉式部縁起絵巻」(江戸時代)より

  和泉式部の墓は、誠心院(京都市中京区新京極六角下ル)にありますが、
  他にも全国に渡って、墓、供養塔、説話が伝えられているのも興味深いことです。

             

           
最後に紹介したいのはこの一首、百人一首にも選ばれています。

   あらざらむこの世のほかの思ひいでに

          今ひとたびの逢ふこともがな
   (後拾遺集)

  (私はじきにこの世からいなくなってしまうでしょう
   今生(こんじょう)の思い出として
   もう一度だけあなたにお逢いすることができたなら・・・)

                               その日は のち