東北院の軒端の梅 (3月1日撮影)
茂庵の月釜の帰りに東北院(左京区浄土寺真如町)へ寄ってみると、
能「東北」(とうぼく)に登場する「軒端の梅」が満開でした。
前にも書きましたが、2年前の3月、京都へ引っ越してすぐに
探し訪ねたのが東北院と「軒端の梅」
でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/1a/77984250c54b55916e296558dea12dd4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/35/8d83e6eedc983f5d8c798219ab060380.jpg)
東北院は今は時宗ですが、かつては法成寺に付属する天台宗の寺でした。
藤原道長の娘である上東門院(藤原彰子)の発願により、
法成寺(道長建立)の東北の一郭に建立されたので、「東北院」と呼ばれていました。
その後、火災、応仁の大乱、移転により現在地にあります。
法成寺にあった頃、和泉式部が東北院に「軒端の梅」を植えたとされ、
その梅が現在も境内にあります。
しかし、移転などがあり、和泉式部の植えた梅ではないかもしれませんが、
老木が花を咲かせている姿は心打つものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/af/b20e28f80528d436e82c94882cdcf52b.jpg)
和泉式部の梅の花の歌に
梅の香を君によそへてみるからに
花のをり知る身ともなるかな (和泉式部続集)
(梅の香をあなたの袖の香によそえて見るばかりに
花の咲く時節を知る身となってしまった)
う~ん、和泉式部の歌って、情熱的ですねェ~。
こんな恋歌はいかがでしょうか?
逢ふことを息の緒にする身にしあれば
絶ゆるもいかが 悲しと思はぬ
(逢えば別れることは避け難い。
それでも逢うことを「息の緒」にする我が身だから、
緒が絶えても悲しいとは思わない。恋に死ぬとしても本望だから・・)
(補)◇息の緒にする 命を託する、命をかける。
◇恋人との仲が絶える意に、命が絶える意を掛ける。(千人万首より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/9b/c1c5b85af43ac497c7d9a95cf58619c3.jpg)
和泉式部ってどんな人生を送ったのでしょうか?
改めて興味を持ち、調べてみました。
天延2年(974年)~貞元元年(976年)頃、生まれました。
父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡女。
長元元年(999年)頃に和泉守橘道貞と結婚して小式部内侍をもうけます。
後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名(式部)を合わせたものです。
やがて道貞と別れ、弾正宮・為尊親王(冷泉第三皇子)と関係を結びますが、
親王は長保4年(1002)6月、二十六歳で夭折します(式部26~28才)。
翌年(1003)、故弾正宮の弟で帥宮(そちのみや)敦道親王との恋に落ち、
式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが「和泉式部日記」です。
親王との間にもうけた男子は、のち法師となって永覚と名乗ります。
寛弘4年(1007年)に敦道親王も二十七歳の若さで亡くなりました。
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、
一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕し、
紫式部、伊勢大輔、赤染衛門が仕えていました。
長和2年(1013年)頃、藤原道長の家司で武勇をもって知られた
藤原保昌と再婚し、夫の任国・丹後へ下りました。
(保昌と最後まで睦まじく暮したわけではないらしく、
やがて保昌の訪れは途絶えるのでした・・・。
祇園祭の保昌山に保昌と式部の仲睦まじい様子が忍ばれます)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/5c/6c7675e8ce1604c89f468791a8abd606.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/a8/073b9c56dd1a827666633a168af5b1a3.jpg)
祇園祭の保昌山(ほうしょうやま)
(保昌が和泉式部のために紫宸殿の紅梅を
手折ってくる姿をあらわしています)
万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍がその子供を残して死去。
娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがあります。
小式部内侍なくなりて、むまごどもの侍りけるを見てよみ侍りける
とどめおきて誰をあはれと思ふらむ
子はまさるらむ子はまさりけり (後拾遺集)
(子供たちと私を置いて死んでしまって、娘はどちらを哀れと思っているだろうか。
きっと、親である私よりも、子供たちの方を愛しんでいるだろう。
親より子と死に別れる方が、私も辛かった) (千人万首より)
晩年の動静は不明。
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
遙かに照らせ 山の端の月
晩年詠まれたこの歌は、性空上人への結縁歌であり、
歌の返しに性空上人から袈裟をもらい、それを着て女人往生を遂げたそうです。
・・・誠心院の「和泉式部縁起絵巻」(江戸時代)より
和泉式部の墓は、誠心院(京都市中京区新京極六角下ル)にありますが、
他にも全国に渡って、墓、供養塔、説話が伝えられているのも興味深いことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/71/6e38f5908422ea42732c667a4032385e.jpg)
最後に紹介したいのはこの一首、百人一首にも選ばれています。
あらざらむこの世のほかの思ひいでに
今ひとたびの逢ふこともがな (後拾遺集)
(私はじきにこの世からいなくなってしまうでしょう
今生(こんじょう)の思い出として
もう一度だけあなたにお逢いすることができたなら・・・)
その日は
のち ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_rain.gif)
茂庵の月釜の帰りに東北院(左京区浄土寺真如町)へ寄ってみると、
能「東北」(とうぼく)に登場する「軒端の梅」が満開でした。
前にも書きましたが、2年前の3月、京都へ引っ越してすぐに
探し訪ねたのが東北院と「軒端の梅」
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/1a/77984250c54b55916e296558dea12dd4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/35/8d83e6eedc983f5d8c798219ab060380.jpg)
東北院は今は時宗ですが、かつては法成寺に付属する天台宗の寺でした。
藤原道長の娘である上東門院(藤原彰子)の発願により、
法成寺(道長建立)の東北の一郭に建立されたので、「東北院」と呼ばれていました。
その後、火災、応仁の大乱、移転により現在地にあります。
法成寺にあった頃、和泉式部が東北院に「軒端の梅」を植えたとされ、
その梅が現在も境内にあります。
しかし、移転などがあり、和泉式部の植えた梅ではないかもしれませんが、
老木が花を咲かせている姿は心打つものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/af/b20e28f80528d436e82c94882cdcf52b.jpg)
和泉式部の梅の花の歌に
梅の香を君によそへてみるからに
花のをり知る身ともなるかな (和泉式部続集)
(梅の香をあなたの袖の香によそえて見るばかりに
花の咲く時節を知る身となってしまった)
う~ん、和泉式部の歌って、情熱的ですねェ~。
こんな恋歌はいかがでしょうか?
逢ふことを息の緒にする身にしあれば
絶ゆるもいかが 悲しと思はぬ
(逢えば別れることは避け難い。
それでも逢うことを「息の緒」にする我が身だから、
緒が絶えても悲しいとは思わない。恋に死ぬとしても本望だから・・)
(補)◇息の緒にする 命を託する、命をかける。
◇恋人との仲が絶える意に、命が絶える意を掛ける。(千人万首より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/9b/c1c5b85af43ac497c7d9a95cf58619c3.jpg)
和泉式部ってどんな人生を送ったのでしょうか?
改めて興味を持ち、調べてみました。
天延2年(974年)~貞元元年(976年)頃、生まれました。
父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡女。
長元元年(999年)頃に和泉守橘道貞と結婚して小式部内侍をもうけます。
後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名(式部)を合わせたものです。
やがて道貞と別れ、弾正宮・為尊親王(冷泉第三皇子)と関係を結びますが、
親王は長保4年(1002)6月、二十六歳で夭折します(式部26~28才)。
翌年(1003)、故弾正宮の弟で帥宮(そちのみや)敦道親王との恋に落ち、
式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが「和泉式部日記」です。
親王との間にもうけた男子は、のち法師となって永覚と名乗ります。
寛弘4年(1007年)に敦道親王も二十七歳の若さで亡くなりました。
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、
一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕し、
紫式部、伊勢大輔、赤染衛門が仕えていました。
長和2年(1013年)頃、藤原道長の家司で武勇をもって知られた
藤原保昌と再婚し、夫の任国・丹後へ下りました。
(保昌と最後まで睦まじく暮したわけではないらしく、
やがて保昌の訪れは途絶えるのでした・・・。
祇園祭の保昌山に保昌と式部の仲睦まじい様子が忍ばれます)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/5c/6c7675e8ce1604c89f468791a8abd606.jpg)
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祇園祭の保昌山(ほうしょうやま)
(保昌が和泉式部のために紫宸殿の紅梅を
手折ってくる姿をあらわしています)
万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍がその子供を残して死去。
娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがあります。
小式部内侍なくなりて、むまごどもの侍りけるを見てよみ侍りける
とどめおきて誰をあはれと思ふらむ
子はまさるらむ子はまさりけり (後拾遺集)
(子供たちと私を置いて死んでしまって、娘はどちらを哀れと思っているだろうか。
きっと、親である私よりも、子供たちの方を愛しんでいるだろう。
親より子と死に別れる方が、私も辛かった) (千人万首より)
晩年の動静は不明。
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
遙かに照らせ 山の端の月
晩年詠まれたこの歌は、性空上人への結縁歌であり、
歌の返しに性空上人から袈裟をもらい、それを着て女人往生を遂げたそうです。
・・・誠心院の「和泉式部縁起絵巻」(江戸時代)より
和泉式部の墓は、誠心院(京都市中京区新京極六角下ル)にありますが、
他にも全国に渡って、墓、供養塔、説話が伝えられているのも興味深いことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/71/6e38f5908422ea42732c667a4032385e.jpg)
最後に紹介したいのはこの一首、百人一首にも選ばれています。
あらざらむこの世のほかの思ひいでに
今ひとたびの逢ふこともがな (後拾遺集)
(私はじきにこの世からいなくなってしまうでしょう
今生(こんじょう)の思い出として
もう一度だけあなたにお逢いすることができたなら・・・)
その日は
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