暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

三つの春草廬  つづき

2009年09月14日 | 三溪園&茶会
福寿園・宇治工房からお電話をいただきました。
お尋ねした福寿園茶室「春草廬」の由来について
いろいろお教えいただいた上、資料も頂戴しました。
ありがとうございます。

次のような経緯で写しが再築されたことがわかりました。

大正7年、伏見城の遺稿である客殿(月華殿)と茶室(九窓亭、現春草廬)は
保存困難になり、三室戸寺金蔵院から原三渓へ譲渡されました。
その際に三渓は旧地に客殿と茶室の写しを作りました。

しかし、昭和56年、これらの建物が取り壊される事になり、
茶室だけ朝日焼の松村豊斎氏が譲り受けました。
昭和60年に朝日焼・松露会館が新築された折に、
二階に茶室「春草廬」が再建されました。

月華殿にあやかり、広間(八畳)の茶室「華松庵」も
新に作られています。
春草廬(写し)の解体から再建、そして華松庵の新築は、
京都工芸繊維大学教授・中村昌生氏の指導と設計によるものです。

茶室は小さい建造物なので、解体して移築することが可能なのですね。
三渓園・春草廬も何度も解体され移築されています。
その時にきちんと資料を残し、元の茶室と全く同じように
再築することが重要な課題だと感じました。

福寿園茶室「春草廬」へもいつか伺って茶室を見学し、
お茶を頂きたいものです。

三渓園・春草廬に話を戻しましょう。
残る疑問は次の二つです。
 一.春草廬は茶室建築からみてどんな特徴があるのでしょうか?
 二.織田有楽作と伝えられていますが、その可能性は?

            

果してこの二つの疑問は解けるのでしょうか?
ゆっくり調べています。
                               

   写真は「カラスウリ」と「三渓園・春草廬にある刀掛け」