暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

飛雲閣茶席と祝賀能  その3 敦盛

2013年05月28日 | 京暮らし 年中行事
                  本願寺(西本願寺)・御影堂

祝賀能は、能「敦盛」から始まり、狂言「因幡堂(いなばどう)」があり、
最後に能「国栖(くず)」が演じられ、さらにその合間に
シテ方観世流の仕舞がありという、盛りだくさんの内容でした。

能「敦盛」のあらすじは、
   一の谷の合戦で、当時16歳の平家の公達・平敦盛を討ちとった熊谷直実は、
   世の無常を感じ、出家して僧・蓮生と名乗っています。
   蓮生は敦盛の菩提を弔うため、再び一ノ谷を訪れました。

   すると、笛の音が聞こえ、四人の草刈男がやってきます。
   一人の草刈男だけが残り、蓮生に自分は敦盛の霊であることを
   ほのめかして姿を消します。

   夜、蓮生が読経していると、敦盛の霊が現れます。
   平家一門の栄枯盛衰を語り、平家最後の宴を懐かしんで中之舞を舞います。
   一ノ谷の合戦で討死にする模様を再現して、やっと敵である直実に
   巡り合えたと、仇を討って無念をはらそうとします。

   しかし、蓮生となって弔ってくれる直実はもはや仇ではないと悟り、
   回向をたのんで敦盛の霊は消え去るのでした。

             
                 アツモリソウ (季節の花300提供)

敦盛を演じるのは、先日大槻能楽堂の道成寺フェスティバル
お目にかかった片山九郎右衛門でした。
道成寺の白拍子も良かったですが、敦盛がしっくりとお似合いで、
ご本人も気持よく演じていたのではないでしょうか。
前シテでは直面で、草刈男の一人として登場しますが、
後シテでは面を付け、凛々しくも美しい貴公子・平敦盛の霊として現われます。

後シテが紫の法被、黄色の衣、緋の大口という衣裳で
橋がかりへ登場した時の美しさ、消え去っていく後姿が目に焼き付いています。

面が印象深く、「十六(じゅうろく)」といい、
16歳の若さで散った敦盛の顔をえがいた面だそうです。
典雅さ、かわいらしさ、そして痛々しいまでの修羅の道を演じ分けるのに
ふさわしい面でした。
僧・蓮生となった直実への復讐を思い止まり、刀を投げた一瞬、
そして感情を抑えながら仏の道へ導かれていく様子の舞・・・
・・・わからないなりに見ごたえがありました。


             
                 クマガイソウ (季節の花300提供)

春に咲く山野草に「クマガイソウ」と「アツモリソウ」があります。
誰が名付けたのでしょうか?
この2つの名前は平敦盛の最後の話に因んで名付けられました。
戦いの場で当時の武士は後からの矢を防ぐために母衣(ほろ)と呼ばれる、
大きな風船のようにふくらませた布を背負っていました。

「クマガイソウ」は熊谷直実が付けていた母衣に、
「アツモリソウ」は平敦盛が付けいていた母衣に、
花が似ているそうです。
その昔、琵琶法師の語る平家物語に涙した民衆が名付けたのでしょうか。

ここ、南能楽堂でも千人を超す善男善女が能「敦盛」を見守りました。
あの世とこの世を行き交う能の舞台は仏道に通じていて、
敦盛の霊は僧・蓮生の祈りによって修羅道から救われ、成仏したことでしょう。

信心ある者も無い者も、富める者も貧しき者も、老若男女のへだてなく、
穏やかに辛抱強く(足にしびれが来ていました)、能を鑑賞している姿に
感動を覚えました! (ブータンのツェチュ祭みたいです・・・)
「敦盛」の最中に、江戸の初期、能を初めて信徒や民衆へ解放したという、
当時の舞台へタイムスリップしたような気になりました(夢の中かしら?)。

思いがけずステキな能を鑑賞できて、降誕会祝賀能に感謝しています。
願わくは、また来年も敦盛さまに逢いたい・・・。 
  


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飛雲閣茶席と祝賀能  その1

2013年05月24日 | 京暮らし 年中行事
                 西本願寺の大銀杏(樹齢500年)

本願寺(西本願寺)の宗祖・親鸞聖人の誕生を祝う宗祖降誕会(こうたんえ)が
5月20日と21日に行われました。
宗祖降誕会行事の中で、国宝「飛雲閣」の茶席と祝賀能へ参加しました。

      お茶席   5月20日 12:30~16:00
              21日  9:30~15:30
            ところ   飛雲閣

      祝賀能   5月21日 開演 12:30  
              能   敦盛
              狂言  因幡堂
              能   国栖(くず)
            ところ   南能舞台

                    

西本願寺に8時50分に到着、すぐに参拝篤志(五千円以上)をお納めして、
観能券と茶席券を頂きました。
観能整理券をゲットし、飛雲閣の茶席入口へ行くと、すでに長蛇の列です。
国宝「唐門」の前で待つこと約30分、やっと行列が動き出し、
それからは25人ずつの席入りで、スムーズに進みました。

               
                 塀の向こうにちらっと見えるのが飛雲閣

滴翠園に点在する茶室や石灯籠、屋根つきの橋を見ながら進み、
正面の池・滄浪池(そうろうち)の前でしばらく待たされました。
飛雲閣へ渡る石橋が狭いこともありますが、ここでゆっくり建物を鑑賞していると、
お茶席への期待がいや増してきます。

飛雲閣を間近に観るのは、4月の特別公開(外観)に続いて二度目ですが、
とても謎の多い建造物で、いつ誰が造り、どうして西本願寺へ移築されたのか、
諸説紛々で、はっきりしません。
ここでは聚楽第の遺構という俗説(?)を採用することにします。

                
                     国宝・唐門 (伏見城から移築)
                
                     見事な極彩色の彫刻

西本願寺が現在の地に本山を構えることが出来たのは、
豊臣秀吉が七條坊門堀川に寺地十余万歩を寄進したことに始まります。
天正19年、始めて現在地に御影堂を建てることができ、本山安泰となったのですが、
元和4年の火災で建物が焼失してしまいました。
そこで、飛雲閣、黄鶴臺を聚楽第より、又四脚門、書院を伏見城から移築し、
御影堂は寛永13年、阿弥陀堂は宝暦10年に再建され、現在に至っています。

飛雲閣は、柿(こけら)葺三層の建物(内部は四層)で、各階で外観と印象が違います。
先ず屋根の形が全部違い、上層は宝形、中層は寄棟と唐破風、
下層は入母屋切妻と軒唐破風です。
杮葺の各屋根が調和して、しっとりとした美しさを醸し出しています。

目を奪うのは2階の板戸に描かれた三十六歌仙で、歌仙の間と呼ばれています。
華やかでもあり、優雅な桃山文化の粋を思わせますが、
落ち着いた杮葺の建物に似合わないと思うのは私だけでしょうか。
3階は摘星楼といい、八畳の草庵風の詫びた作りになっているとか。

飛雲閣を見るといつも(・・まだ二回目ですが)、
横浜三溪園・聴秋閣の佇まいが懐かしく思い出されます。

               
                       御影堂と阿弥陀堂

飛雲閣へ行くには、今は狭い橋を渡って行きますが、
かつては船で池を渡り、船着き場の階段を上って舟入の間へ入りました。

ようやくご案内がありましたので、橋を渡り、仮設玄関から飛雲閣へ入りました。
待合は舟入の間です。
窓から眺める池水や築山、下は船着き場の石の階段、
やっと飛雲閣へ入れ、そちらからの眺めに感激です!

主室・招賢殿の一の間と二の間が茶席になっていて、
毛氈が長々と二列に敷かれ、一列25名の席となっていました。
一の間の床には「石玉而山輝」、有栖川熾仁親王筆です。
石温めれば玉となりて山輝やけり・・・と読むのでしょうか。

池に面した小書院には、花が堂々と生けられています。
芍薬、菖蒲・・・・敷板は真塗長板を斜めに、花入は青釉の遊環です。
茶席は藪内流とありましたが、点前はなく水屋からの運びでした。
お菓子「憶昔(いくじゃく)」(亀屋陸奥製)が運び出され、
唐津風の天目茶碗で薄茶を頂きました。

              
                     大銀杏の全景
              (天然記念物で「水吹き銀杏」または「逆さ銀杏」という)

宗祖降誕会の祝賀のお茶席なので、全国から信徒さんがいらして
気楽にお茶に親しめる席になっていました。
これだったら来年は主人を誘っても大丈夫・・・かな。
お菓子を頂き、お茶を飲んでいる間にお坊さまが飛雲閣の歴史、お軸のことなどを
繰り返し易しくお話してくださっています。

今回は見学できませんでしたが、飛雲閣の左手に付随して、
茶室「憶昔席」(いくじゃくせき)があります。
この茶室は、寛政7年(1795年)に茶人・藪内竹蔭らによって増築されたものです。
壁は赤壁(外からわかりますが)、躙り口を入ると、板廊下があり、
その奥に「憶昔」の額が掛けられた、三畳半の茶室があるそうです。

「憶昔席」へ席入りして一服頂けたら・・・夢でしょうかね。
夢はみないと叶わないそうなので、夢見ることにいたしましょう。
                                  


          飛雲閣茶席と祝賀能  その2へ続く


葵祭 2013年

2013年05月22日 | 京暮らし 年中行事
                   葵祭の花形 「斎王代」
5月15日、賀茂神社の葵祭へ繰り出しました。
昨年は下鴨神社で今一つ見ずらかったので、今年は御所にしました。

10時30分御所出発なので、1時間前に散歩がてら御所へ向かいました。
建礼門外の広場に有料観客席が設けられていましたが、私たちは立ち見です。
その日は30℃近くになる予想で、日差しも強く、行列が始まるまで
木陰で休んでいる人が多くいました。
観覧席の後部最前線に陣取って待っている時のことです。

後方の木陰を見ると、華やかな着物姿の女性たちの中に一人の男性がおりました。
黒スーツのその男性、どこかでお目にかかったような??
しばらくして○○さまであることを思い出しました(情けなやぁ・・・)。
ご挨拶したものかどうか、ちょっと迷いましたが、
わざわざ行くのも躊躇われ、そのまま失礼いたしました。
やがて、御一行は最前列の招待席へ移られ、私も安堵しました。
一方でこころ寂しく、後ろめたい気もします。

そんな気持ちを吹き飛ばすように葵祭の行列が華やかに始まりました。
(ダービー出走前の気分です)

              

              

              

葵祭は、正式には賀茂祭というそうで、
賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)と賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)
の二社(賀茂社と呼びます)の例祭です。
賀茂社は、古代から京都に住まう豪族・賀茂氏の先祖をお祀りする神社
だったのが、平安京遷都で都を鎮護する神社となりました。

葵祭の起源は古く、平安京以前の欽明天皇の御代と伝えられていますが、
葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代に賀茂祭が再興され、
平安時代の装束で絵巻そのままの行列が再現されてからです。
参列者の衣冠や牛馬まで二葉葵の葉で飾るようになりました。

              
                    下鴨神社
              
                    門に葵が飾られて
              
              「斎王代女人列御禊の儀」が行われる御手洗川

勅使、検非違使、斎王代など約500名が行列して、下賀茂神社と上賀茂神社まで
平安王朝の絵巻のように進みます。
行列にはきちんと順番があるのですが、写真は順不同です。

              
                  
              

              

シャッターチャンスがイマイチですが、葵祭の雰囲気がお伝えできれば嬉しいです。

              
                    華やかな女人列

              

「賀茂川の河原から上賀茂神社へ行く行列を見るのも風情があって好いですよ」
と勧められたのですが、日差しが強く暑かったせいか、熱中症気味になって
あわてて家へ戻りました。

                                     

                                            

上七軒 「北野をどり」

2013年04月18日 | 京暮らし 年中行事
4月末まで京都の花街では「春のをどり」のまっ最中です。
桜見物に追われてアップが遅くなりましたが、チケットを2枚頂いて
第六十一回「北野をどり」へ行ってきました。 4月5日のことです・・(遅いぞ!)。
「北野をどり」は毎年3月25日~4月7日まで上七軒歌舞練場で、
「春のをどり」の先陣を切って開催されます。

上七軒は、京都の六花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、嶋原、先斗町、宮川町)
の一つで、一番古く、面白いエピソードが伝わっています。

室町時代のこと、北野天満宮の社殿の一部が焼失し、
十代将軍・足利義植は所司代・細川勝元に社殿を造営させました。
社殿の残材を使って7軒の茶屋を建て、七軒茶屋と呼ばれたのが、
「上七軒」の名前の由来となっています。

天正十五年(1587年)八月十日、太閤・豊臣秀吉は北野大茶会を催しました。
その際、七軒茶屋が太閤休憩所となり、名物の御手洗団子を献上したところ、
大変気に入り、その褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商う特権と、
山城一円の茶屋株を公に許したのが、茶屋の始まりと伝えられています。

今でも上七軒花街は御手洗団子に由来する、五つ団子の紋章を用いています。

           

           
                 (昨年の茶席ですが・・・)

日本舞踊も大好きなのですが、一番の関心事は開演前の茶席です。
二階に立礼の茶席が設けられ、芸妓さんと舞妓さんが応対してくれます。
その日のお点前は梅葉さん、おひかえは舞妓の梅ちえさんでした。

最初に梅葉さんが紅い蝋燭の手燭を持って現れました。
裾を引きずって、すっきりとした立ち姿がなんとも妖艶な美しさです。
正装の黒紋付に赤い帛紗が驚くほど映えて、帛紗の美の再発見。
お点前は裏千家流のようで、白く細い指がしなやかに動きます。
薄茶が点つと、梅ちえさんが古帛紗に乗せてお客さまへ運びます。

   

そんな様子に見惚れていると、小皿に菓子(薯蕷饅頭)がだされ、
薄茶が水屋から運ばれてきました。
いつまでも見ていたいのですが、開演時間が迫ってきたので
あわてて小皿を紙に包んで持ち帰りました。
この小皿は名物の団子がデザインされていて、
これを頂けるのも「北野おどり」の楽しみになっています。

           

第六十一回「北野をどり」のプログラムは
   第一部  舞踊劇「雲のかけ橋」
   第二部  純舞踊「再春京四季(またくるはるみやこのにぎわい)」
         魂まつり 雁金 京の顔見世 南禅寺楼門
   第三部  フィナーレ「上七軒夜曲」  
純舞踊も良いけれど、天狗をめぐる物語の「雲のかけ橋」が面白いかな。
でも、一番はこの華やかで粋な雰囲気にどっぷり浸ることでしょう。

ご贔屓といえば、尚鈴姐さん(・・しか知らない)。
淡交別冊「京の茶の湯」(No.60)で京都案内をしてくださった、
上七軒の芸妓さんどす。
昨年より一段と踊りに艶っぽさが増したような・・・「応援してますぇ!」

                                


           
                  (上七軒らしい郵便局)

           
                (上七軒で見つけた面白い光景)




京の節分(4) 聖護院界隈と壬生狂言

2013年02月07日 | 京暮らし 年中行事
                  懸想文売りの登場です
2月3日は節分です。
先ずは須賀神社へお詣りしました。
水干、烏帽子姿で覆面をしている懸想文売りが二人いて、
念願の懸想文をゲットしました。
この懸想文、開けてみると、祝詞のような文が見事で一読の価値ありです。
肝心の願いごとですが、いまさら縁談・・・というわけにもいかないしねえ~
まだ決めかねています。

朝早かったのでお客さんは少なく、茶店のおばさんたちも手持無沙汰です。
名物だという「須賀多餅(すがたもち)」を注文すると、
大豆が入った福茶と一緒に運ばれてきました。
のんびり境内や懸想文売りを眺めていると、
ぼちぼちお客さんが縁台に座りだしたので腰を上げ、聖護院へ。

            
            
                 須賀多餅と福茶 (須賀神社)

聖護院(しょうごいん)は本山派修験道の中心寺院です。
代々法親王が入寺する門跡寺院だけあって、優雅な本堂や
御所の女院御殿を移築した書院、絢爛豪華な襖絵など見どころ満載です。
節分の日はご本尊の不動明王をはじめ、本堂を開放していました。
灯明を上げると、山伏姿の僧侶が
「厄除招福、家内安全、商売繁盛、ようお詣りくださいました」
と加持祈祷をしてくれました。

            
                   聖護院の本堂

境内には赤鬼や緑鬼が闊歩し、一緒に写真を撮らしてくれます。
甘酒の無料接待所があり、参拝者で賑わっていましたが、
須賀神社は女性の参拝者が多く、こちらは男性が多いのも面白いです。

            
            
                  聖護院の甘酒のお接待

                         

夕方、バスで四条大宮へ行き、壬生寺の壬生狂言へ。
2月2日と3日の13時から20時頃まで、壬生寺節分会(え)の参詣者の
厄除・開運を祈願して、壬生狂言の「節分」が繰り返し、上演されます。
1回の上演時間は45分、観客席は500席です。

壬生狂言(正しくは壬生大念仏狂言)の歴史は古く、鎌倉時代に
壬生寺を興隆させた円覚上人によって始められました。
円覚上人の法話を聴くためにたくさんの人たちが押し寄せたそうです。
そこで、上人は最もわかりやすい方法、つまり、身振り手振りの
パントマイム(無言劇)によって仏の教えを説くことを考え付いたのです。

・・・これは、ブータンで出合ったツェチュ祭の仮面劇と全く同じ発想だと
気が付きました。
かね、太鼓、笛の囃子に合わせ、仮面をつけ、無言で演じられる宗教劇。

            

そんなわけで、興味津々、壬生狂言「節分」を観劇しました。
19時開演の回に早くから並び、正面の席へ座り、改めて舞台を眺めてびっくり。
観客席と同じ高さに古式ゆかしい舞台があり、観客席は見やすい階段になっています。
屋根はありませんが、その夜は風もなく温かな節分でしたので、
震えずに観劇することができました。

            

節分のあらすじは・・・・これは観てのお楽しみといたしましょう。
誰にでもわかりやすく、鬼のしぐさがかわいらしく、いじらしく思ったのは
私だけでしょうか?
最後に、鬼払いに豆がたっぷり撒かれ、痛快!でした。

                    

壬生狂言を伝承し、演じている人たちは専門家ではなく、
会社員や自営業の一般市民で、小学生から八十代までの男性だそうです。
しかも、この伝統ある素晴らしい壬生狂言が無料で開放されているところに
京都の懐の深さをまたまた感じてしまうのでした・・・(合掌 )。

       
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