マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

復活の聖なる徹夜祭・・・『この日が来ました。本当に嬉しい!』

2019-04-20 19:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

2019年4月20日。土曜日。午後7時。

      『復活の聖なる徹夜祭』

     皆様! 主の御復活おめでとうございます!
    四旬節から聖週間と祈りながら過ごしてまいり、
 今宵、『受難と死』を通して復活されたキリストの『過ぎ越し』にあずかり、
古い自分に死んで復活されたキリストの『新しい命』に生まれ変わりましょう!

    
   『復活徹夜祭』の典礼は、

『光の祭儀』、『ことばの典礼』、『洗礼と堅信』、『感謝の典礼』、と続きます。

 

復活徹夜祭の始まりです。

                本日も、ご一緒によろしくお願い申し上げます

 始まります。

           第一部  『光の祭儀』
 
 教会の庭で・・・
    信徒はろうそくを手にして、松明の『新しい火』を囲んで、待ちます。
     

    
     司祭が、キリストの5つの聖痕のしるしをつけながら・・・
        2019年度:『復活のろうそく』を作ります。
        

   『新しいいのち』のシンボルである『復活のろうそく』から、
   信徒の持つろうそくにも、『新しいいのち』が灯されました。

   続いて。。

  『復活のろうそく』を先頭に、一同は聖堂に向かって、行進。

 
 聖堂で。
  司祭・・・『復活ろうそく』を高くかかげて、『キリストの光』
  一同・・・ともされた各自のろうそくを手に、 『神に感謝!』

 

       第二部  『ことばの典礼』

      朗読は、旧約聖書から7つと新約聖書から2つ、全部で9つです。
 神が人間の歴史を通してどのように働きかけてくださったかを、深く味わいます。

9つの中の一つ。

『第三朗読 エジプトからの過ぎ越し』

  『その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、

イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、
   移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
     
エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。

     真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。
     両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。

       モーセが手を海に向かって差し伸べると、
   主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、
     海は乾いた地に変わり、水は分かれた。

   イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、
     水は彼らの右と左に壁のようになった。

   エジプト軍は彼らを追い、彼らに従って海の中に入って来た。

    モーセが手を海に向かって差し伸べると、
    夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。
 
 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、
        一人も残らなかった。

   主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。
     イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
   
イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。

      民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。』
            出エジプト記 14章15説ー15章1a節


『祈願』
『救いの源である神よ、
     あなたは旧約の奇跡の意味を新約の光で解き明かし、
   紅海が洗礼の泉をかたどり、解放された民はキリスト信者の姿を
       表すことを教えてくださいました。
 すべての人が、選ばれた民に約束された祝福に信仰によってあずかり、
   あなたの霊を受けて新しく生まれることが出来ますように。』

 

そして。

今日の福音 キリストによる過ぎ越し』

『週の初めの日の明け方早く、
  婦人たちは、準備しておいた香料を持って墓に行った。

    見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
   
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

  そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
 
                二人は言った。

   「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
 
 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」』

          ルカ福音書 24章1-12節

 

   司式司祭様は、説教で、こうおっしゃいました。説教の一部です。

  『『復活』とは、一言でいえば、『決してあきらめない』ということです。
 
  イエスは絶望の中でも神を信じ、神はそんなイエスを復活させられました。
女性たちはイエスを見つけることが出来ず途方にくれましたが、イエスはすでに復活されていたのです。


私たちも、日々つらいこと苦しいことが沢山あっても、決してあきらめないでください。
        日々・・・復活することが大事なのです。
  『キリストの御血による過ぎ越し』を信じる者を、神は復活させてくださるのです。

       

  この世には苦しみ悩み明日に望みを持てない『小さい人』が沢山います。
その方たちを、決して忘れることなく、共にいてやってください。力になってあげてください。
    小さき人たちは、共にいてくれる人がいれば、
 決してあきらめずに、復活できるのです。明日に希望が持てるようになるのです。』

 

             
        第三部  『洗礼と堅信』

  『復活徹夜祭』は、最も意味深く、盛大に、『成人の入信式』を行う時です。
洗礼、堅信、初聖体授与と、三つが一つになって、『キリスト教入信の秘跡』と呼ばれます。

   
    『友人の洗礼』
 
 今まで、聖書100週間の沢山の仲間が、洗礼の恵みに預かりました。
  そして今日、受洗がまだの2人仲間の一人が、受洗となりました。
    『大きな喜びが天にある!』ルカ15-7 神に感謝!感謝!

 
 『司祭の祈り』
    『あなた方は新しい人となり、キリストを着る者となりました。
    神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。』

   
   『この日が来ました。本当に嬉しい!』と、友は涙ぐんだ。

                       神に感謝!感謝!

 

        第四部  『感謝の典礼』

    受洗者の友が、教会の初仕事、パンとぶどう酒を奉納なさった。
 
 
 『新米者ですが、私ができることで教会のお役に立っていきたいと思っています。

     皆様よろしくお願い申し上げます。』
      ・・・と。受洗者紹介の時に、友は『御挨拶』をなさった。

    
     『聖体拝領』

     
     受洗した5人は、友を先頭に・・・
       『初聖体』を拝領しました。
       
     私達一同も、うれしく、列につながりました。

 『拝領祈願』
 『恵み豊かな神よ、
あなたの愛の霊を注ぎ、御子キリストの死と復活の神秘にあずかったわたしたちを、
     あなたのいつくしみのうちに一致させてください。』

 

   友の洗礼に喜ぶ姿を見て・・・
     すでにキリスト者である私も、自らの洗礼を思い起こし、
   神の子として生きる決意を新たにいたした次第です。感謝!感謝!

 

                   以上。キリストの復活の典礼をご一緒頂き、感謝申し上げます。

 

  夫と二人。
  すっかり夜も更けた帰路を、車を走らせながら、讃美歌を歌い・・・
     『主の過ぎ越し・主の復活』 を賛美しました。

 

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
復活祭を前にしてノートルダム寺院の火災、復活の祈りをささげる教会でのテロ事件・・・。
  それでも、『決してあきらめない』で、明日も復活いたしましょう。 お元気で!


聖金曜日・・・『主の受難』・・・『彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのため、打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。』

2019-04-19 15:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

今日は4月19日。聖金曜日。午後三時。

        『主の受難 』         


     キリストの受難と死を思い起こす『主の受難の祭儀』は、
   キリストが息を引き取ったとされる三時に行われます。
   
    『主の受難』の典礼は、
『救いの歴史』における『キリストの受難と死』の意義を思い起こし、
  復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美するものです。

全体は、『ことばの典礼』『十字架の崇敬』『交わりの儀』の三つの部分で構成されます。

                      
                ご一緒によろしくお願いいたします

 

 祭壇は、昨晩裸にしたまま、十字架もろうそくも置かず、祭壇布もかけない。
 聖櫃は、空です。
 
   『キリストの受難と死』は過ぎ越しの途上の出来事なので、
   『主の過ぎ越し』を記念するミサは聖金曜日には行われず、
      また聖なる過ぎ越しの断食が守られるのです。


司式司祭は、祭壇前にひざまずいて、しばらく祈った後に、典礼が始まりました。

 

     第一部  『ことばの典礼』


 『祈願』

  『憐れみ深い神よ、
御子キリストは、あなたの民のためにご自分の血によって過ぎ越しの神秘を定めてくださいました。
   慈しみを忘れず、この民を永遠の愛のうちにお守りください。』


まずは。
旧約聖書から。

 『救いの歴史』における『キリストの受難と死』の意義を思い起こしてまいりましょう。

                                             

『イザヤの預言』

『主は言われる。

         見よ、わたしの僕は栄える。 はるかに高く上げられ、あがめられる。

         かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように 彼の姿は損なわれ、
                 人とは見えず、 もはや人の子の面影はない。
                
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。

                  彼を見て、王たちも口を閉ざす。
    だれも物語らなかったことを見 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

          わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
            主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。
  
    見るべき面影はなく、 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
      
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、 多くの痛みを負い、病を知っている。

         彼はわたしたちに顔を隠し、 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 

   彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、
  わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

     彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
     彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
      
                   
エル・グレゴ作品

    
     彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ
      彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

  
       
わたしたちは羊の群れ

     道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

   
   そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
     

    
 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。

 屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。
      捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。


       
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか

  わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。


     彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに
   その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。


    病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

      彼は自らを償いの献げ物とした。

     彼は、子孫が末永く続くのを見る。
   主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
  わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。


多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。』
                    
イザヤ署 52章13ー53章12節

     旧約は、神の義と救いの預言でした。
  神の愛は、人々の積み重なる罪をはるかに超える愛で・・・
    ゆるし、あがない、約束を守り、必ず実現するのです。
 ここに『神の義』が示され、それは 人間からは『救い』なのです。
  


次に。

新約聖書から。

 『救いの歴史』における『キリストの受難と死』の意義を思い起こしてまいりましょう。


      『ヨハネによる主イエス・キリストの受難』

『夕食のあと、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。
  そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。

それでユダは、

一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。
      松明やともし火や武器を手にしていた。


 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、言われた。

       「だれを捜しているのか。」
 

    彼らは答えた。「ナザレのイエスだ。」
   イエスは言われた。
 「わたしである。」「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

 シモン・ペトロは、
剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。
 イエスはペトロに言われた。
  「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」


  そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
     まず、アンナスのところへ連れて行った。

  シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。
この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
   また出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」
  
    ペトロは言った。  「違う。」


          
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。

 
    イエスは答えられた。

    
      「わたしは、世に向かって公然と話した。
   わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。
    ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。
    わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。
       その人々がわたしの話したことを知っている。」

 

「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。
         正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」


アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
   

  シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々は言った。
     「お前もあの男の弟子の一人ではないのか。」
   ペトロは打ち消して、言った。 「違う。」


  大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。
    「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
 
     ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。


 
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。

      そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、言った。

        「どういう罪でこの男を訴えるのか。」

     「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け。」
ユダヤ人たちは言った。 「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」

 

   そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、言った。
 
         「お前がユダヤ人の王なのか。」
 「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。

イエスはお答えになった。   
    「わたしの国は、この世には属していない。
もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。
     しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」


そこで ピラトが言った。「それでは、やはり王なのか。」
イエスはお答えになった。

       「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。
    わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。
          真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」



    ピラトは、もう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。
 
      「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
 
ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。

     あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」


すると、彼らは、大声で言い返した。
     「その男ではない。バラバを。」バラバは強盗であった。


そこで・ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
  
兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、

  

    そばにやって来ては、平手で打って言った。
         「ユダヤ人の王、万歳。」


ピラトはまた出て来て、言った。
    「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。
   そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」


   イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。
 

      ピラトは言った。「見よ、この男だ。」
  祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると叫んだ。
     「十字架につけろ。十字架につけろ。」


ピラトは言った。
「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
ユダヤ人たちは答えた。
    「わたしたちには律法があります。
       律法によれば、この男は死罪に当たります。
         神の子と自称したからです。」

 

    ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、
     イエスに言った。「お前はどこから来たのか。」
       しかし、イエスは答えようとされなかった。


     ピラトはイエスを釈放しようと努めた。


ピラトは、イエスを外に連れ出し、裁判の席に着かせた。
      
それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。


   ピラトはユダヤ人たちに言った。 「見よ、あなたたちの王だ。」
 
   彼らは叫んだ。 「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」


   そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
       こうして、彼らはイエスを引き取った。


 
  イエスは、自ら十字架を背負い、

  
  『キリストと十字架イエス』      エル・グレコ作品

   「されこうべの場所」、ゴルゴタという所へ向かわれた。
    そこで、彼らはイエスを十字架につけた。
  また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に
 
     十字架につけた。

 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。
   それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
    それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

 

イエスの十字架のそばには、
   その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
    
    『イエスの磔刑』      エル・グレコ作品


 
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子(ヨハネ)とを見て、母に言われた。

      「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」

    それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」
   そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。


この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、言われた。

             「渇く。」


    そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。
人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
      イエスは、このぶどう酒を受けると、言われた。


          「成し遂げられた。」

         そして、頭を垂れて息を引き取られた。


  そこで、兵士たちが来て、イエスのところに来てみると、
      既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
   
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。

       すると、すぐ血と水とが流れ出た。

 

    イエスが十字架につけられた所には園があり、
   そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。

 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。』
                    ヨハネ福音書 18章1節ー19章42節

    
    新約は、旧約の預言を、すべて成就したのです。
     『神の儀』:『人類の救い』の実現でした。

ここで。

『司式司祭の説教』

                「単に、イエスは亡くなったのではないのです。
   私たちは、『イエスの死』の意味を、自覚しなければなりません。
  
   イエスは、『神の御計画=全人類を救うための死』、を選んだのです。
   私達は、何よりも、『イエスの死』、を伝えなければならないのです。
   キリスト者は、『イエスの死』を『本当の事』として、伝えるのです。

    『十字架』と共に、罪は完全に取り去られているのです。
   私たちは、イエスの赦しにより、失敗しても、やり直せるのです。
   私たちは、人間を愛して愛して下さる『神との関係』を、取り戻せるのです。
    イエスは、誰をの死を望まず、皆の『回心』を望んでおられるのです。

    『十字架上での磔刑』を、もう一度、味わい直してみましょう。」
                     
                   以上。司式司祭様の説教の一部でした

 

          第二部  『十字架の礼拝』

  
        
十字架の顕示と礼拝が行われました。

 

≪十字架の顕示≫

  『見よ、キリストの十字架、世の救い』 『ともにあがめよう』
       
        歌の後、全員で、沈黙の祈り。

 ≪十字架の礼拝≫
  司祭、奉仕者、会衆の順に、十字架の前に進み、深い礼をして崇敬を表しました。


           『十字架の賛歌』   
   『見よ、この木によって あまねく世界に喜びが来た。』
 『気高い十字架の木 すべてに勝る尊い木  尊い体を担った木』

 

そして。
最後。

         第三部 『交わりの儀』


   聖体拝領となりました。
 
                 
聖金曜日の聖体拝領。涙でした。


『拝領祈願』

『全能永遠の神よ、
あなたは御子キリストの尊い死と復活によって、わたしたちをあがなってくださいました。
     この過ぎ越しの神秘にあずかるわたしたちが、
  いつも心を尽くしてあなたに仕えることが出来ますように。』

 
       閉祭の歌もなく、沈黙のうちに・・・
     聖金曜日の『主の受難』の典礼は終わりました。


          以上。『聖金曜日・主の受難』の典礼のご一緒していただき有難うございました。

 皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
新緑が萌出る時期となりました。美しい季節が喜びの時期となりますように! お元気で!


聖木曜日・・・『最後の晩餐』・・・『これは、あなたがたのためのわたしの体である。互いに愛し合いなさい。』

2019-04-18 19:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

今日は4月18日。聖木曜日。 

      『主の晩餐の夕べのミサ』

  聖木曜日の夕刻に行われる『主の晩餐の夕べのミサ』は、  
キリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うように命じた『最後の晩餐』
                             直接に記念します。

 

                    ご一緒によろしくお願い申し上げます


『今日の集会祈願』

    『この晩餐の偉大な神秘にあずかるわたしたちが、
   キリストの愛を受け、生きる喜びに満たされますように。』

 
初めに。
旧約時代。                 

『今日の第一朗読 旧約の過越

 『その日、エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。

    「用意するのは羊でも山羊でもよい。
  
  それは、この月の十四日まで取り分けておき、

    イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
  
その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。
 
    
そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。
  また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
 それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。

       これが主の過越である。

その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。

   あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。
     血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。

    この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。
あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」』
               出エジプト記 12章1-8&11-14節

 

   旧約における『主の過ぎ越し』は、
 年に一回、羊か山羊を屠り、その血を祭壇の4隅に塗って、罪が過ぎこされました。
   後になって
イスラエル人のエジプトでの隷属時代を想起し,そこからの解放を神に感謝するという
   出エジプトの歴史的意味が加わったのです。

  
     現在も、ユダヤ教の人々は、
  ユダヤ教三大祭りの一つの『除酵祭』と呼ばれる祭りの間、
     主がモーセに命じられたとおりに、
    『焼いた子羊,除酵パン,苦葉』 を食べ、
 
 『ユダヤ人家庭の除酵祭』

   その『食事の意味を子供が親にたずねる儀式』を行うのです。

 

 次に。
新約時代。

   イエスが、ユダヤ教の『除酵祭』の祭り日に『最後の晩餐』を行なったことから、
     キリスト教ではこの祭りを『聖なる過ぎ越し』と考え、
     犠牲の子羊はイエス自身を意味するようになったのです。

 

『今日の第二朗読 主の晩餐の意味

『皆さん、わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。
    
   すなわち、

  主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、
  
    「これは、あなたがたのためのわたしの体である。
      わたしの記念としてこのように行いなさい」  と言われました。

      また、食事の後で、杯も同じようにして、
 
  「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。
     飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」  と言われました。

   だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、
    主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。』
             コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23-26節

 

   神の国の訪れをことばと行動によって現されたイエス・キリストは、
      受難と死を通して復活の栄光に移られました。
        これを『主の過ぎ越し』と言います。

 

そして。
最後に。


キリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うように命じた『最後の晩餐』

                      記念いたしましょう。


『今日の福音 イエスの御言葉

『過越祭の前のことである。
    イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、
     世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 夕食のときであった。
 
 
既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
  
  イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、
  また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
  食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

     それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
  
    腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

        シモン・ペトロのところに来るとペトロは、
   「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

イエスは答えて、
   「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」
                               と言われた。

ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、
イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」
                               と答えられた。

そこでシモン・ペトロが言った「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
  
イエスは言われた。

    「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。
     あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

  イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。
     それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。
     「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
     
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。

      そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
    あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
     わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、
           模範を示したのである。」』

            ヨハネ福音書 13章1-15節

 

      最後の晩餐の席で・・・
 弟子たちをこの上なく愛し抜かれたイエスは、弟子たちに『遺言』を語られたのです。

  『互いに足を洗いあいなさい。』 『互いに愛し合いなさい』 と。

      
    
   イエスは、かがみこんで、弟子たちの足を洗ってくださいました

イエスは、ご自分がなさったことの意味を理解できない弟子たちに、
    足を洗って、ご自分の受難が何のためであるかを、示されたのです。

   『友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない。』ヨハネ福音書15-13

弟子たちは、彼らの先生・イエス様に勝さる者ではなく、先生の真似をして学ぶ者です。
          弟子たちも、私たちイエスに従う者も、    
    先生イエスに倣って、互いに仕え合わなければならないのです。
  

 『フランシスコ教皇、ローマのレジナ・チェリ刑務所で主の晩餐のミサ』  昨年聖木曜日
  

     私たちも、行動を伴って・・・互いに愛し合いましょう! 

 

     最後の晩餐の席で・・・
 ユダも、イエスと同じ食卓に着き、イエスに足を洗ってもらったのですが、
        清くはなりませんでした。
   ユダは、イエスを渡し、イエスを裏切ってしまいます。
         イエスの愛を信じられなかったのでしょうか? 悲しいことです。


  私たちは・・・
模範を残してくださったキリスト・イエスを証しするために、又 キリストに出会うために
    お人に仕え、互いにへりくだり、仲良くしなければなりません。

 

    『聖なる過ぎ越しの三日間』の典礼において記念される
        『主イエスの受難と死と復活』 は
   典礼歴の一年の中心であり、キリスト者の信仰のよりどころです
  又、キリストによって示された私たち人類への『神の愛の神秘』です。


 今日からの『聖なる三日間』で、『神の愛』への信頼を深めてまいりましょう!



『今日の拝領祈願』

『全能の神よ、
 ひとり子の聖なる食卓で力づけられたわたしたちを、永遠のうたげで喜ばせてください。』

 

                以上。ご一緒してくださり、ありがとうございました


皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
キリスト者にとって一番大事な時期:『聖週間と主の過ぎ越しの聖なる三日間』を迎えています。
御訪問くださいます皆様に、主の豊かな恵みが注がれますようにとお祈り申し上げます。 お元気で!          


萌え出る新緑 そして 受難の水曜日・・・『あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』

2019-04-17 05:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月17日。水曜日。

 玄関前の大木・・・   『萌えるもみじ』
 
  
       梅。桃。八重桜。そして もみじ へ・・・。
  我が家の小さな庭の樹木たちが、たがうことなく季節を告げてくれます。
      美しい新緑の神々しさに、手を合わせたくなる。合掌。

 

そして。

今日は4月17日。受難の水曜日。

 日曜日から始まった『受難週』も、今日で4日目になります

 

思い起こせば・・・

過越の祭りの六日前、受難週の前日の土曜日。

イエス・キリストと弟子たちは、ベタニヤに来られます。

 イエス・キリストは、ベタニヤの町の、シモンという人の家に滞在されます。
    人々は、イエス・キリストのために、晩ごはんの用意をします。
 
  『そこには、イエスが死人の中からよみがえ らせたラザロがいた。
 
   イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。
    ラザロイエスとともに食事の席に着いた人々の中にいた。
 そのとき、マリヤが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って きて、
 
   イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。

     家は、香油のかおりで、いっぱいになった。

弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか。」

イエスは言われた。
       「この人のするままにさせておきなさい。
     わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」』
                         ヨハネ福音書 12章1ー8節

 
 イエスとともに食卓を囲む人たちには、色々のかかわり方があるものです。
    兄弟であるラザロ、マルタ、マリアも、全く別行動です。 

     
   後に裏切るユダは、
    『彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。
彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。』
                       ヨハネ福音書 12章6節

 

     他の弟子たちは
   マリアの行動を見て、何と思ったのでしょう? わかりません。
      でも、マリアの行動に何の反応もないということは、
     埋葬のための用意であるということが、見えなかったのでしょう。

 

そんなことがあって・・・
受難週が始まりました。

 まずは。

棕櫚の日曜日・主日。
 
     
   『祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られたと聞き、
     なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

 「ホザナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」

       イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。』
              ヨハネ福音書 12章12-14節

 それから。

神殿の清め。
  
    『それから、イエスは神殿の境内に入り、
   そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。

  「こう書いてある。『わたしの家は祈りの家でなければならない。』
     ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」』
               ルカ福音書 19章45-48節


   イエスは神殿の境内に入りそこで売り買いしていた商人を追い出され、
     神の家である『神殿は祈りの家である』 と宣言されました。
    

多忙な数日間。
         
         イエスは様々なしるしと奇跡を行い、
   更に、 愛に燃えて、エルサレムの敗退ぶりを嘆かれました。
 
      『神の国が近づいていると悟りなさい。
   天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない。』
                 
ルカ福音書21-33

 

そして。 

今日は4月17日。受難の水曜日。

水過ぎ越し祭が近づき、祭司長たちや律法学者たちは、
    イエスを殺すにはどのようにしたらよいかと考えていたのです。

そんな時、使徒の一人・ユダに迷いが生じるのです。


『今日の福音 イエスの御言葉

『そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、     
   「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。

    そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
  
そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

 

除酵祭の第一日に、夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
 

      一同が食事をしているとき、イエスは言われた。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

      弟子たちは非常に心を痛めて、
  「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。

       イエスはお答えになった。
  「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
     
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。

だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

     イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、
      「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、
      イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」』
             マタイ福音書 26章14-25節

 

    なぜ? ユダがイエスを裏切ったのかは、私たちにはわかりません。
    あれだけ大事にされても、イエスを信頼できなかったのでしょうか?
        イエスに従う意味をなくしたのでしょうか?
 ユダの心を何もかもお見通しであられるイエス様に気づいて、怖くなったのでしょうか?

     イエス様のみが、ユダの気持ちもユダの企みも、ご存知です。
   イエス様は、一人の離反者に心を痛め、非常に悲しかったことでしょう。

       
    今も、イエス様の悲しみは続いています。

私たちは、仲良く、許しあいながら、イエスを信じて、イエス様とともに歩いてまいりましょう。

 

そして。
いよいよ。

木曜日の日没後。
イエスは、最後となる『晩餐』を始められるのです。
 
 

       『イエスは言われた。
   「苦しみを受ける前に、あなた方と共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、
       わたしは切に願っていた。
    言っておくが、神の国で過ぎ越しが成し遂げられるまで、

                   
ルカ福音書 22章14-16節

 

   『イエスは、この世から父のもとに移る自分の時が来たことを悟り、
     世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

    弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。』
 
                          ヨハネ福音書 13章11節

  更に。
   イエスは、ご自分の死を予測されて、聖餐式(ミサ)を制定されるのです。
 
 

 イエス様は、ご自分の時が迫っていることをご存じで、いろいろの準備をなさいました。
   そして。
     いよいよ、明日から、緊張の三日間が始まります。

       
     いつもともにいてくださる方イエスとともに、
 つらいことがあっても、神がともにおられるという信仰を深めてまいりましょう。

 

  『聖なる過ぎ越しの三日間』が、私たちの信仰を深める三日間となりますように。

 

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
イエスの苦しみの人生は、私たち人間の苦しみの人生にも重なります。復活に向かって日々を送りましょう。 お元気で!


車検・・・『お人のために役立つ車』 そして 『主は、子ろばに乗ってくる。』・・・『これはユダヤ人の王』

2019-04-14 09:30:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月14日。日曜日。雨降り。

 孫と乗る・・・    『My愛車』
 

     今年も車検の時期が来て、「車検案内状」が届いた。

       なぜか? 車には恵まれる私の車人生。
 19歳の時から、今まで10台目、この年に至るまで途切れるなくMy愛車を運転する。
       長い運転人生で、重大事故は一回もない。
   
私には、運転のたびに思い出し、肝に命じる『言葉』がある。

    『いつくしみ深い神よ、
この車を使い、お人の役に立つことができますように豊かな祝福を注いでください。』
                               
    私の『車の祝別』のたびに繰り返された、司祭様の『言葉』です。
     My愛車の祝別は、今は亡き人、いつも同じ司祭様でした。


私には、運転スタートのたびに、繰り返す『しるしと言葉』がある。

   
  『十字架のしるし』をきり、次に、『安全運転をお守りください』と唱える。

 

そして。

今日は4月14日。 『受難の主日 枝の主日』


  『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。』
    
    『エルサレム入城』  オットー三世朗読福音書挿絵

『今日、救いがこの家を訪れた』とイエスに言われる、いちじく桑の木に登ったザアカイ
  自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに賛美し始めた弟子の群れ。
 イエスに向かって『先生、お弟子たちを叱ってください』と言う、ファリサイ派のある人々。
そして。
  『言っておくが、この人たちが黙れば、石が叫びだす。』と言われるイエス様。

         それぞれの信仰が現れた
    『イエス様の入城・子ろばに乗られたイエス様の』ですね。


    
      今日は、『受難・十字架刑』の五日前。
   子ロバに乗って、『イエス様のエルサレム入城』です。


まずは。
   
 司祭による・・・   『枝を祝福する祈り』

 
     『全能永遠の神よ、この枝を祝福してください。
主キリストに喜び従う私たちが、ともに永遠の都エルサレムに入ることができますように。』

 

次に。
私たちも、『主のエルサレム入城の記念行列』です。

  ロバに乗ったイエス司式司祭に連なって…エルサレム・教会御聖堂へ入城です。


『今日の福音 主・イエスのエルサレム入城

   『そのとき、イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、

    二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。

      「向こうの村へ行きなさい。
  そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。
     それをほどいて、引いて来なさい。
もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

   使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。

    二人は、「主がお入り用なのです」と言った。

   そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、
   その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
   
   『驢馬に乗ったキリスト』    ドイツの中世彫刻


   
イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

 

    イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、
弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

   「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。
       天には平和、いと高きところには栄光。」

  
   すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、
     「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。

         イエスはお答えになった。
  「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」』
                    ルカ福音書 19章28-40節

 
 
      イエスのエルサレム入城は、
  
『王の到来』を期待する人々に、”救い主メシアかもしれない”、と大歓迎され、
     一方、
   ユダヤ宗教家たちがイエス暗殺計画を練っている時でもありました。

     両者ともに、「王の入場」を、待ちました。
     ところが。
イエスの入城は、人々の期待や常識に反して、誰も乗ったことのない子ロバに乗っての入城でした。
 
 
思い出すのは・・・『神の託宣』です。
 
 『娘シオン(エルサレム)よ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
       見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者。
       高ぶることなく、ロバに乗って来る
        雌ロバの子であるロバに乗って。 
 
 わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。
   戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。』 
                   ゼカリヤ書 9章9&10節
 

   神は、エルサレムに『エルサレムの王』が来ると、預言されたのです。
       神の遣わす『一人子・王』は『メシア』です。

   
    『メシア』は、
『高ぶることなく、子ロバに乗って来る』  柔和な方で神に従い神に勝利を与えられる方。
『戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる』 この世の民全員に平和を約束される方。
『彼の支配は世界の果てまで及ぶ』 神の国のとなられる方。

            謙虚な王なのです。
 
 
    『メシアのお姿』は、

『乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
    見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 
      彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、
 

      多くの痛みを負い、病を知っている。
  彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。
    彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。
 
         彼の受けた懲らしめによって、
 
  私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 
  わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。
    そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
 
       彼の時代の誰が思い巡らしただろうか。
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。』
                      イザヤ書 53節1-8節
 
 『メシアのお姿』は、
           私たちの罪の身代わり、『十字架上の贖罪』のお姿なのです。
 

神の御心は、『子を見て信じる者がみな永遠の命を得ること。』ヨハネ福音書 6-40
神の思いは、『あなたがたの道よりも高く、あなたがたの思いよりも高い。』イザヤ書 55-9
 
    旧約聖書の『御言葉』 が 『メシア到来』によって実現するのです。
       『聖書はわたしについて証しをするものだ。』 ヨハネ福音書5-39
 
 
今日から始まる『聖週間』
   主の復活の祭日を前に、
 弟子達を そして すべての人を限りなく、この上なく愛し抜かれたイエスのお姿を、
   すべての人を救うために実現された『イエスの御血』による『過ぎ越し』を、
             静かに、黙想をしてまいりましょう。
        
 
 『今日の祈願』
 
『いつくしみ深い神よ、御一人子の受難によってわたしたちをお許しください。
私たちの力では得ることのできないこの恵みを、十字架の恵みによって頂くことができますように。』
 
 

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
ろば車とエンジン車。ずいぶん違いますよね。でも乗る心は同じで『お人の幸せのため』ですね。 お元気で!

四旬節総仕上げ・・・『大峰山修験道の完歩』 そして 『キリストは、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ。』

2019-04-13 07:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月13日。土曜日。雲一つない真青空の快晴。

  四旬節最終日の今日。神により近づきたいと・・・修験の旅に出ました

  
 今日の吉野大峰までの登山で・・・ 『大峰山修験道の満願』 となりました

 
  『大峰奥駈道・大峰山修験道』の完歩! 
           私にとって、『三つの修験道』の満願でもあります

      満願の感動を書き残します。 ご一緒ください


 『紀伊山地の霊場と参詣道』 として世界遺産に登録された 『総距離:347.7km』

        『霊場』:巡礼道 は、『3道』で成っています。
       ①大峰奥駈道   ②熊野参詣道  ③ 高野参詣道  

  本日を制覇し終え・・・世界遺産の『3道』の完歩・満願です
                  本当にうれしい!


では。出発です。


3霊道の一つ目。

       ①大峰奥駈道 《 修験道の聖地 》 
 
『吉野大峰・山上ケ岳』 

  3年前の友人と縦走した、『大峰山・山上ケ岳』に続き、
      
 今日も友人と、 大峰山縦走の時にスキップした『 吉野大峰』に向けて、登頂です。 


  まずは・・・    『蔵王堂』
 
  若者の参拝者の多さには驚きました。

 
蔵王堂は、
金峯山の高台にそびえたつ、東大寺大仏殿に次ぐ木造の大建築です。 高さが約34m。

本尊は、3体の『蔵王権現像』。中尊の高さは7m余りの巨像です。
       沢山の若者が、巨像を観たくて長い行列、驚きでした。

 

  更に登って・・・  『吉野山 上の千本』    一目千本桜です。  
 
  はるか向こうに・・・『吉野山から北西に下る山稜一帯』   大峰山に続く。
 
  修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が、『蔵王権現の像』を桜の木で刻んだことから、  
      桜が『神木』として寄進され、桜の名所になった。
自然と人間の営みが長い時間をかけて生み出した『文化的景観』として世界遺産に登録されたのです。
 

 更に登って・・・   『吉野大峰・金峯山寺』
 

 金峰山修験本宗:修験道の本山。本尊は蔵王権現。
  
ここから、修験者は、吉野の南に向かって、『大峰山(山上ヶ岳)』を目指すのです。 


金峯山寺は、
吉野山のシンボルであり、『修験道の根本道場』。『修験本宗総本山』です。
  山上ヶ岳にある『大峰山寺』への玄関口の役割を持っています。

  
     
    奥にかしこくおわします『蔵王権現』  
       
   神々しいほどに、静かなたたずまいでした。

  無事。ここで、3年前に歩き残した部分を、歩き終わり。
     『大峰奥駈道』の完歩となりました。
   完歩の満足感は言葉にし難く、有り難い!有り難い!

  
『大峰奥駈道』は、
吉野山を中心とする地域と山脈に沿って南に25km進んだ『大峰山(山上ヶ岳)』周辺であり、
        修験道の修行の場になっていています。 
 


 『修験道』は、
山岳信仰と神道、仏教、密教などが結びついて形づくられた、日本独特の『宗教』です
   開祖は役小角(えんのおづぬ)。 
山岳修行によって、『霊力』を会得することが重んじられている。のだそうです。  

 

    私が3年前に『大峰山修験道』を歩いたのは、7月でした。
  5人ほどの脚絆姿の修験僧の方たちと、道中前に後ろにと、ご一緒しました。

   修験者の方たちは、
   夕食後に”ぼ~~。ぼ~~”。  朝3時にも”ぼ~~。ぼ~~” と
 
        ほら貝を吹いていらっしゃいました。

        私たち仲間4人で泊まった部屋は、
   恐れ多くも『現皇太子・令和天皇様お泊りの部屋』でした。
    ”皇太子さまも修験道を歩かれたのね!” と感動したのでした。
     

  人はなぜに? 『修験道者』となるのか? その『道』を選ぶ理由は何か?   
   私は、なぜ? これほどに『宗教的寺院や修験道』に惹かれるのか?     
   私は、わき目を触れない、ぶれない、ストイックな生き方が好きです。    
自分ではできない生き方でも、そんな人にあこがれ、そんな場所に惹かれるのです。


  亡き母の友人の御主人様が、定年後に”お暇をいただきたい!” と奥様に願い、
    禅宗の寺に入門された。 私が中学の時に母から聞いた『出来事』です。
    年を重ねた今の私…その御主人様のお気持ちも理解できるような・・・。

      


次に。
以前に制覇した、三つのうちの二つの『霊道』も、ご紹介いたします。
                         おつきあいください


3霊道の二つ目。  

           ②熊野参詣道 《自然崇拝》   
 

  『熊野三山・那智大滝』

   10年以上も前に、夫と二人で、 
 
『熊野三山・熊野参詣道』
    
和歌山田辺から始め、『熊野三山』踏破、『熊野参詣道』を完歩しました。

 
『熊野三山・熊野本宮大社』
   熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の中心で、
         全国に3000社以上ある『熊野神社の総本宮』です。

  『熊野三山』は、
  それぞれ、自然崇拝を起源とする、独自の信仰をもっていたが、
互いの主祭神を併せ祀るようになり、一体化して、熊野三山(熊野三所権現)呼ばれるようになった。


夫との『熊野巡礼』は、
子供たちがそれぞれの道に進んだ記念に、子どもたちの幸せを願っての巡礼でした。
  2度に分けて、車で入山し、宿泊しながら、歩いた。

   1度目の時。
車を山のふもとに駐車して入山。帰路はヒッチハイクで、駐車場へ戻りましたよ 

 

   私は、自然が好き。 自然の景色の中に沈むことが好きなのです。
  その後も何回か訪れる『熊野道』は、年を重ねまして、いつも車です 

 

 

そして最後。

3霊道の三つ目。 

         ③ 高野参詣道  《真言密教の聖地》
 
 
『高野山・弘法大師御廟』
  
夫や友人と、何回かの巡礼で、『真言密教の聖地・高野山』を、完歩しました。

    
   『弘法大師御廟』
『壇上伽藍』の3kmほど東にある奥院。
空海が、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を果たし、今もなお生き続けている聖地。
       
   御廟までの参道には、
樹齢数百年の杉の大木、空海の遺徳を慕う人々の約30万基を超える墓碑や供養塔、
                                                  が立ち並んでいます。

 
  『高野山・檀上伽藍』

 
 高野山。
  弘仁7年(816年)。弘法大師・空海によってに開かれ、
1200年の信仰の歴史を秘めた山上宗教都市で、今もなお117の寺院が密集しています。


  私の父母は、老後に二人で、宿坊に泊まりながら、参詣しました。
父母の亡き親愛なる兄が ”高野山に眠りたい!” と言っていたので、高野山で兄の永代供養をした。
 私の父母は、長兄を尊敬していたので、”兄の『希望』をかなえほっとした” と言っていた。
      父母の長兄、私の伯父は、
   今も生きておられる空海と共に居り、私の心にも今も生きています。
        

     
     皆様! 長い旅路を、お疲れさまでした
   自然に返る。というか、自分の存在の意味が分かるような、旅でしたね。
                       いいものです。 

   私も、四旬節最後の今日、神様に少し近づいた気がします。 感謝!感謝!
  
 『同行二人』

お遍路では・・・ひとりは自分、そしてもう一人は弘法 大師様と、二人で巡礼の道を歩く。
  そして今日。
修験道では・・・
一人は私、そうしてもう一人はイエス様と、二人で巡礼の道を歩きました。

 

   
    『紀伊山地の霊場と参詣道』
『道の世界遺産』として登録されたのは、
スペイン~フランスにまたがる巡礼道:『サンディアゴ・デ・コンポステラへの道』についで2件目です。
 
  世界遺産第二件目の巡礼道:『紀伊山地の霊場と参詣道』
       完歩した今日 喜びと満足感と達成感が心の中に湧き出てきます
  
  世界遺産第一件目の道:『サンディアゴ・デ・コンポステラへの道』
       いつの日か完歩したいものです。

   『2道』制覇が、私の山女人生の完結、私の山人生の終結と決めています。
           私の『王道』です。必ず制覇します! したいものです。

 

 そして。

今日は4月13日。 四旬節第五土曜日。

『今日の福音 イエスの預言

『その年の大祭司であったカイアファが、預言して、言った。

  「あなたがたは何も分かっていない。
イエスが国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ。」』
                                   ヨハネ福音書 11章45-56節

 

 神様によって計画された・・・  『神の御子の犠牲・死』
 
  そのイエスの死は、神の民・ユダヤ人ばかりでなく、すべての人のための、
    『贖いの死』 『身代わりの死』 です。

   その結果・・・

     人々は、同じ信仰で結ばれて、一つの共同体となるのです。
 
       人と人の間に、平和が生まれてくるのです。


       私たちも、キリストに倣って、修験者に倣って、
     ”わたし!わたし!” ではなく、 ”あなた!あなた!” と、
        お人を大切にしてまいりましょう!


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日は、私の世界遺産・巡礼の旅におつきあい下さり、ありがとうございました。 お元気で!


トラピスト修道院クッキー・・・『聖書100週間』 そして 『モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。』

2019-04-12 14:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月12日。金曜日。 金曜日は『聖書100週間・聖書通読会』


 充実したクラスの後・・・ 『コーヒーブレイク』
 
 『トラピスト修道院クッキー』

     「夫と二人で、西宮のトラピスト修道院に行ってきました。」
        仲間のお一人の修道院のお土産です。
     四旬節も最終章で…ご夫妻で黙想に出かけたのでしょうか?

         おいしい甘さに、皆で、ほっと一息です。

      聖書100週間を何回も繰り返し参加する仲間が多くいます。
    聖書好きの仲間で、発表に力が入ります。熱情が伝わります。面白い。

 

     今日の通読範囲は、『民数記1章~12章』でした。

『イスラエルの人々がエジプトの地を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、
     主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。
 「イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい。」』
            民数記1章1&2節


私は考えました。
     当たり前のことながら・・・『神様は頭が良い!』と。
 
  エジプト脱出1年目。 神様は、エジプトで奴隷であったイスラエルの人々に、
   『十戒』を与え、幕屋を作らせ、律法を制定し、イスラエルの人々の教育をしました。

そして。
  エジプト脱出2年目。 神様は、ご自身で教育し『選民』としての自覚を持ったイスラエルの人々を、
       次に。

   『人口調査』で、共同体としての規則を与え、共同体としての教育をしたのです。


    神様は、何事においても、順序を間違うことなく、着々と進めます。


     神は、
  エジプト脱出後、荒れ野で、約二年間かけて『選民・イスラエル人』を育てた後に、
    いよいよ、約束の地・カナンの地・イスラエルに向けて、
      『40年38年間の旅』を、イスラエルの民を先導し、始められるのです。

 

  私達も、四旬節で痛悔の日々を送ってきた今、
        復活の喜びに向けて、
     来週から始まる『聖週間の旅』を、始めましょう!

 

私は、今日の通読範囲を読んで、こんなことも、考えました。
    
      イスラエルの人々は、

 
   モーセに何を見て、又、何を感じて・・・モーセに無条件に従うのだろう?

イスラエルの民は、あくまで、モーセに忠実なのです。

『アロンとその子らは、モーセを通して主が命じられたことを、その通りに実施した。』レビ記8-36

そして。

『イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたとおりにすべてを行った。』 民数記1-54

   
  イスラエルの人々が、無条件にモーセに従う『要因』を、聖書の中で見つけました。
   『モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。』 民数記12-3

モーセは、あくまで、いつでも、神様に忠実なのです。

    モーセの『地上のだれにもまさった謙遜ゆえに、
 イスラエルの人々はモーセに従ったのでしょう。 神様もモーセを信頼なさるのでしょう。

 

    『謙遜』とは何か?

『古代イスラエルの民族は、
神が自分たちをエジプトにおける奴隷生活から救って下さった出来事に、自分たちの起源を求めた。
     神は、すなわち、苦しめられる者、悩む者を救われる御方。
     イスラエルの人々はこの神を他にしては、自分たちの存在もない。

     この信仰が、同時に、『謙遜』を意味するようになった。

神を至高者として仰ぎ、心悔いて自分を低くすること、へりくだることこそ、『真の信仰』である。』
                        聖書辞典より。

 

『謙遜な人』が、人の心を動かし、世の中を変える起動力になる。ということなのですね。

                   以上。今日の聖書100週間の私の感想の一部でした。お粗末様です。


『今日・四旬節第五金曜日の拝領唱』

『イエスは、十字架の上でわたしたちの罪を身に負われた。
それは、私達が罪に死んで正しく生きるためである。私達はキリストの血によっていやされた。』
                        ペテロの手紙Ⅰ 2章24節

 

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
私たち夫婦は、二人だけで、伊万里のトラピスト修道院に行きました。同じお味のクッキーでした。 お元気で!


聖書三昧・・・『聖書の会』 そして 『真理はあなたを自由にする。』

2019-04-10 13:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月10日。水曜日。 雨。東京では雪。全国に冬が舞い戻った一日。


  月一の・・・   『聖書の会』
 
                   今日は、一人休み、6人。 
     信仰者は2人、求道者が5人の、7人グループ。
『私の名において集まる所に私もいる』と言われるイエス様も仲間で、『8人グループ』と称しています。
                      

  新約聖書を、旧約と新約聖書との関連部分を読みながら、少しづつ読み続けている。
 ”ああだ!” こうだ!”と、全員で思いのたけを分かち合いながら、1時~4時の3時間。
   
素敵なマダムたちが、小さな小さなグループを作って、聖書を理解するために、月一度集まる。
     非常に稀有なことであり、神のお計らいであろうか?
  一軒のお宅で長年続く、『聖書の会』に、不思議な喜びを感じる私です。


  今日の範囲は、『神殿から商人を追い出すイエス』、
         ヨハネ福音書2章13-22節、9節だけでした。


    
    神殿でのイエス様の
 両替人の金をまき散らし、その台を倒した』2-15、思いがけない厳しい態度を見て・・・
      
弟子たちが思い出した『御言葉』は、『詩編』の預言でした。

     『あなたを思う熱意がわたしを食い尽くす』詩編69章 


神の家に対する『熱意』が、結果的に、『自分に苦しみをもたらすという預言』 の詩編です。
       イエス様の不条理な『受難』が預言的に語られています。

    『神殿での事件』は、イエス様を捕まえようと狙う人たちにとって、
             『絶好の機会到来』であったのでしょう。


が思い出した『御言葉』は、イエス様の『エルサレムのために嘆く』時の言葉でした。


 『だが、私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まなければならない。』
                                
ルカ13-35


 イエスは、
      雌鶏がひなを翼の下で守るように、
エルサレムの人々を救うために、度々呼びかけられましたが、彼らは呼びかけに答えません。
      『イエスの時』が迫ってきて、分かってもらいたい一心と、熱意で、
たとえ誤解されても、『御自分の道』を前進せざるを得ないイエス様の悲しみ、を覚える私でした。

 

そして。

今日は4月10日。四旬節第五水曜日。

        『真理』とは何ぞや?

     「真理がわれらを自由にする」
 
     国立国会図書館東京本会ホールに掲げられた『銘文』

       「真理がわれらを自由にする」
という確信に立つて、 憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、  
       ここに国立国会図書館が設立される。」         
           国立国会図書館法より。

 

「なお、この言葉は、
国立図書館法案の起草に参画した羽仁議員がドイツ留学中に見た大学の『銘文』を基に創出したもので、
     その銘文は、新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする」
     『Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ 
       ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース』

 
     ヨハネによる福音書8:32に由来するといわれています。」
             国立国会図書館案内文より。


そして。

『今日の福音 イエスの御言葉

   『そのとき、イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
  
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

すると、彼らは言った。

   「わたしたちは、今までだれかの奴隷になったことはありません。
   『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

イエスはお答えになった。

   「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
  だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
      わたしは父のもとで見たことを話している。」

更にイエスは言われた。

  「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。
    なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。
 わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。」』
                   ヨハネ福音書 8章31-42節

 

    イエスの話を聞きながら・・・
 信じる人もいましたが、多くの人はイエスが誰であるのかもよくわかりませんでした。

  
    『真理』とは
   イエスが神から託されてきた、『神の教え』です。
『神が、私たち皆を愛し大切に思い、それを信じるなら、罪から解放され、真の自由になる』
                         ・・・という教えです。
  又。
 イエスが神の一人子であり、
   イエスは、神からこの世に、『神の教え』を伝えに派遣されたという事実です。


   この『真理』を信じるとき、私たちは『真の自由」を獲得できるのです。

 

『今日の拝領唱』

『私たちは御子のうちにあって、その血によるあがないと罪のゆるしを受けている。』 

 

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
いろいろのグループで思いのたけを話すのは、楽しいですね。 お元気で!


『塵にすぎないお前は塵に返る。』 そして 『わたしは上のものに属している。』

2019-04-09 05:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月9日。火曜日。春霞の一日。


 季節は巡る・・・  『菖蒲』
 
          まだ固いつぼみの八重桜の下で
      風にゆれ、季節先取りで、つややかに輝く『菖蒲』。
        
           菖蒲、こどもの日、孫たち、
   成長著しいいろいろが、美しい菖蒲の花を眺める私の脳裏を駆け巡る。


一方。 
     穏やかな姿を見せる庭の花々を眺めながら・・・
     『潜心』する私の心を、『御言葉』が駆け巡るのです。
    

四旬節の最終章を迎え、痛悔の日々を送る私に、浮かんだ『御言葉』です。

 まずは。

  『塵に過ぎないお前は塵に返る。』  創世記3章19節


    土から作られた人間は、死を迎え、土に返るのです。 

次に。

     神は、塵に返るに過ぎない私たちに、『御言葉』 を語られます。
          神の御元で、家族として『永遠の命』に生きるための、『声かけ』です。

 
   『永遠の命とは、

唯一のまことの神であられるあなたと、
    あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです。』

                  ヨハネ福音書 17章3節

  
 では、どうしたら? 唯一の、まことの神を知ることができるようになるのでしょう。

  
    『イエスは言われた。

      「わたしは道であり、真理であり、命である。
   わたしを通らなければ、だれでも父のもとに行くことはできない。」
                        ヨハネ福音書 14章6節


わたしたち全人類が天の御父のみもとへ行き、御父を知り、永遠の命を得ることができる唯一の方法は、

  主イエス・キリストのみもとへ行き、聖書を読み、イエスを知ることであるのです。

                      以上。 ここで…今日の私の潜心は終了です。


そして。

今日は4月9日。四旬節第五火曜日。

  イエスを通らなければ、だれでも父のもとに行くことはできない。
 
 

『今日の福音 イエスの御言葉

    『そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。

  「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。
   あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
 
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。

『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。

   わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。
         わたしをひとりにしてはおかれない。」

    これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。』
                     ヨハネ福音書 8章21-30節

 

 『神はモーセに言われた。「わたしはある。」である。』 出エジプト記3章14節

      
    神は、『いつでも、いつまでもおられる方』なのです。

  イエスは、その神から、神の愛を伝えるために、『この世に遣わされた方』なのです。
   ファリサイ人は、『この世に属している』ため、イエスを信じられないのです。


      ここで・・・
    
   イエスに出会う私たちは、決心を迫られるのです。
 イエスを選ぶか? 選ばないか。 イエスを信じるか? 信じないか。

 

      神は、いつも、イエスとともにおられます。
          そして。

 神は、イエスを選ぶ人をも、一人にすることなく、いつも共にいてくださるのです。

   
   迷うことなく・・・

   イエスを知って、信じて、『わたしはある』方の元に帰っていきましょう!



皆様!

ご訪問に感謝申し上げます。
これからは花爛漫の季節です。私たちも増々輝いてまいりましょう。 お元気で!


明石城の桜 そして 『わたしは世の光である。』

2019-04-08 10:30:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

4月8日。月曜日。暖かい日差しの穏やかな日。

満開・・・   『明石城の桜 桜のトンネル』    

      昨日に続いて、今年二度目の『観桜会』

 
信濃松本藩主であった小笠原忠真が、苦心して築城したことで知られている『明石城』
  
  1617年(元和3年)。
濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、
    
    明石川河口西岸にあった船上城に入城。その後、苦心して明石城を築城する。
      それから、17代にわたる歴代城主、257年間続く。   
  1874年(明治7年)。
廃城令により、最後の城主・松平直致で、廃城となる。
          見事な桜が素晴らしい      

 
 夫と二人で・・・   『心が洗われるね!』  
 

   
夫が、突然、歌を詠みだした。

   “願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃”

    西行は、        
   ”どうか、春の、桜の花の咲く下で死にたいものだ。”
   
  ”あの釈迦が入滅なさった二月十五日・釈迦の入滅の日頃に
。” と願いを込めました。
そして、日頃の念願どおり、二月十六日:現行暦の3月24日桜咲くころ、にこの世を去りました。

     夫は、どんな気持ちをこめて、この『歌』を口ずさんだのでしょう。聞きませんでした。
 私達夫婦で、同居した私の母と『桜のトンネル』をくぐったことを思い出し、今日もくぐりながら、

        私達のこれからを、しみじみと語り合いました。     
        桜が心を洗ってくれるのが素晴らしい   

   

 花見といえば・・・   『ちらし寿司』
 

    桜の下で、今朝作ったちら寿司、おいしく頂きました。         
       あれこれあれこれと、話も進む。     
    話も食事も楽しくしてくれる桜が素晴らしい  

 

 桜の下・・・    『夫婦の散歩』  
 

     ”来年も再来年も・・・今まで通りに来ましょうね!”        
      日本人の桜を愛でる心が素晴らしい

    
        昨日は友人と観桜。今日は夫と観桜。
         二つはまるで違う時間が流れる。       
      二つの時間を持てる私は幸せ者です。 感謝!感謝!

 

 

そして。

今日は4月8日。四旬節第五月曜日。

『今日の福音 イエスの御言葉

     『そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。

        わたしは世の光である。  

     わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」』
                    ヨハネ福音書 8章12-20節

     
     『光』とは何か?   
  光といえば、周りを明るくしてくれる。暖かい。そんなイメージです。   
  では、信仰の世界での『光』は、何を意味するのか? 疑問がわきます。

 

私が疑問を持つと・・・
 ひも解く愛読書:『キリスト教のシンボル』を、今日も開いてみました  
                昭和41年第2版発行。100円。編者:福岡サン・スルピス大神学校。

 
『ろうそく』の項を見てみましょう。

 『「天地創造の最初に、『光あれ。』と神は言われ、神は光を見て良しとされた。」
                          創世記1章3&4節  
        

      『光』創造の時以来、時代や民族にかかわりなく、
       『光』は、神聖と善のシンボルとされてきたのである。

    
    『私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かない。』
  
      と、イエス・キリストもご自分について、仰せられている。

     
     教会は典礼儀式に必ず『ろうそく』を用いることによって、         
       全世界にこの『真理』を宣言してきた。

 

御復活祭前夜の聖式での『新しい火』と『復活祭のろうそく』の祝別を重要視します。
  この『復活のろうそく』には『死からよみがえり給うたキリストの象徴』 として、
       御復活から40日間『火』をともすことになっている。

    洗礼の時に、『火』のともったろうそくを受洗者に持たせるが、
   これは洗礼の秘跡によって霊魂が霊的によみがえったこと意味している。

 

 『火のともったろうそく』は、『キリストご自身』を象徴するだけでなく、
        信仰による『照明』をも意味する。

        
        天の御父に栄光を帰するために、
        
   『聖ヨセフ』 
         ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作品

        自分の生活の場で『光』になること、
  これこそがキリスト信者一人ひとりに与えられた基本的な使命なのである。

                      以上。『キリスト教のシンボル』より。

      天地創造以来・・・
  『光』に守られて、現在に至る。ということですね。神に感謝!
『光』はキリスト。 私も、ろうそくのように身を削って、世を照らす『光』にならなくてはね。


皆様!

御訪問に感謝申し上げます。
私たちも光を仰ぎながら、暗闇に迷うことなく、明るい毎日を過ごしてまいりましょう。 お元気で!