歴史が好き。
歴史を思う時・・いつも思う。
歴史の1ページ・・いやいや・・1駒でも違っていれば、今がない。違う今になっているのだと。
とすれば
今は、全宇宙の歴史の1駒1駒があってこその、今なのだと。 神秘を感じます。
歴史の一こま一こまが、なくてはならぬ存在てこと。 歴史の一こま一こまが、愛おしい。
今日は、桜の時期恒例の、歴史散歩でした。ひたすら7時間歩く歩く。
歴史博士を独り占めで、歴史説明を受けながらの、贅沢で面白く幸せな時間です。
今日は、清盛の出生から・・隠居まで。と予定。 が・・隠居地までは行けず。Time out
『清盛の出生地』? 『祇園女御塚に立つ供養塔』
清盛の父:忠盛と相思相愛の祇園女御が、共に暮らしたであろう地。 今は『祇園女御館』
平清盛の出生秘話:
ある雨の夜・・・
白河法皇が、
寵愛する祇園女御に会うために、雨の中、清盛の父:忠盛を伴い、祇園社に行く途中、
祇園社辺りの森(当時はすすき茂る閑寂の地)の中で、怪しい光を放つ鬼の姿を見つける。
驚いた法王・・・「討て!」と忠盛に命じる。
忠盛・・・「正体を見極めたうえで・・。」と 鬼に近づく。
鬼は・・・灯篭に火を入れようとした、祇園社の僧だった。 鬼にあらず。
『忠盛灯篭』
今の八坂神社本田の東。 忠盛新婚生活の祇園社のすぐ近く。
それ以来
忠盛は・・『冷静沈着の忠盛』 と尊敬されるようになりました。
感心した法王・・
「褒美じゃ!! 私の好きな祇園女御を譲り与える!」 と。
忠盛・・
「ははぁ~! ありがたや!ありがたや!」 と言ったかどうかは知りません。NO!NO!
譲り受けた女御
忠盛に譲り受けられた時に、白河法皇の子を身ごもっていて・・白河法皇の子:清盛を生む。 とする説。NHK 大河ドラマの説。
『仏舎利相承系図』によれば・・清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している。
上記写真の祇園社で、忠盛と女御が共に生活している間に、生まれた忠盛の実子が清盛である。 とする説。
清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれない)にもかかわらず嫡男となった背景には、
後見役である祇園女御の権勢があった。とも言われる。そうな。
権勢を、いかにつかむか! 時代に、いかに乗るか!
歴史は面白い。 事実は闇の中。 神のみぞ知る。
Cofee break: 『桜ソフトクリーム』
桜の香り 花も団子も 350円
時代は、一気に、進んで・・・
1168年 (50歳)
清盛は、病に倒れ、出家する。
病から回復した清盛は、
福原に、別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。
1169年(53歳)
清盛)は、出家して法皇となった後白河法皇とともに、東大寺で受戒して、協調につとめた。
清盛と継妻・時子(平家一族の娘)との間に生まれた娘・徳子が、父・清盛の父?・白河天皇のひ孫の高倉天皇に嫁入り。
清盛は、着々と、権勢をつかんでいきます。
清盛は・・
福原で、後白河法皇と、千僧供養を行うなど・・両者の関係を強固に友好的に推移していった。
着々と力を増大させた清盛。
平氏一門は・・
隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、
『平氏にあらずんば人にあらず」』 と、平時忠(清盛妻・時子の弟)をして、いわしめるに至った。
それから10年間・・権勢を振るった平清盛も・・・。
1181年(64歳)
2月:平清盛没。
1月:平清盛の娘・徳子の夫・高倉上皇も崩御。 未亡人・徳子は『建礼門院』の門号を受ける。
『建礼門院』の住まいとなった『長楽寺』(正面) への参堂。
おじいさんの忠盛と相思相愛の祇園女御が、共に暮らしたであろう地・『祇園女御』を登った所。
おじいさんの忠盛の、『忠盛灯篭』 の隣の地です。
ランチタイム: 『京漬物寿司点心』
京都と言えば漬物。 西利本店2階。 1365円
清盛の没後
平家の時代も終わりに近く・・・。
3年間、持ちこたえましたが・・
1185年
3月:源平壇の浦の合戦。 平家滅亡。
平家滅亡直後の、同じ3月
安徳天皇(清盛の孫。徳子(建礼門院)の子)、を抱いて、安徳天皇のばあちゃん時子(清盛の妻。徳子の母。)は海に入水。 2人共没。
徳子(建礼門院。安徳天皇の母)も、後を追って、入水。 が・・髪の毛を引っ張りあげられて、助かる。
4月26日
とらわれの身となった『建礼門院』(清盛の娘)は、京都に入る。 『長楽寺』におあずけの身となる。
息子も母も海で死に絶え・・自分だけ生き残った『建礼門院』。
つらく・・悲しく・・。
静かな『長楽寺の庭』を眺めながら・・むせび泣いたことでしょう
五木寛之をして・・『遊行庵』といわせた『長楽寺』
「マヌの法典」の、人生:「学生期」「家住期」「林棲期」「遊行期」の4番目:「遊行期」を過ごすにふさわしい、静かな寺と庭でした。
『長楽寺』におあずけの身となった5日後の
5月1日
『建礼門院』は、『長楽寺』の法然上人に帰依。出家する。
10月
『建礼門院』は、『長楽寺』より、大原の『寂光院』に、移される。
女性に人気の寺院。建礼門院が辿った悲しい人生を哀れんでか? 以前夫と参拝時の写真。
1223年
『建礼門院』崩御。 69歳。 平家の、事実上の、終わりとなります。
『驕る者久しからず 』
『驕る平家は久しからず』
『驕る平家に二代なし』
『驕る平家は内より崩る 』
思い上がって勝手な振る舞いをする者が長く栄えることはなく、必ず滅びるときがくる。 といういましめ。として残りました。
しかし・・
平家があって・・武士制度が確立。 平家があって・・時代が流れ・・今がある。
ブログの最初に戻って・・
歴史の1ページ・・いやいや・・1駒でも違っていれば、今がない。違う今になっているはず。
とすれば
今は、全宇宙の歴史の1駒1駒があってこその、今なのだと。 神秘を感じます。
歴史の一こま一こまが、なくてはならぬ存在。 愛おしい。 どの時代も好きです。
私にとって・・京都と云えば。。。『にしんそば』
にしんそばの老舗『松葉』の『にしんそば』を家で食べながら・・歴史ウォークの振り返り。ブログ書きでした。
お付き合い、ありがとうございました
*****************
記録
今日・19日ラン距離:14km
歴史ウォークを振り返りながらのラン!
あれこれめぐらしていえうと・・あっという間の完走でした
4月ラン合計:83.0975km
歴史を思う時・・いつも思う。
歴史の1ページ・・いやいや・・1駒でも違っていれば、今がない。違う今になっているのだと。
とすれば
今は、全宇宙の歴史の1駒1駒があってこその、今なのだと。 神秘を感じます。
歴史の一こま一こまが、なくてはならぬ存在てこと。 歴史の一こま一こまが、愛おしい。
今日は、桜の時期恒例の、歴史散歩でした。ひたすら7時間歩く歩く。
歴史博士を独り占めで、歴史説明を受けながらの、贅沢で面白く幸せな時間です。
今日は、清盛の出生から・・隠居まで。と予定。 が・・隠居地までは行けず。Time out
『清盛の出生地』? 『祇園女御塚に立つ供養塔』
清盛の父:忠盛と相思相愛の祇園女御が、共に暮らしたであろう地。 今は『祇園女御館』
平清盛の出生秘話:
ある雨の夜・・・
白河法皇が、
寵愛する祇園女御に会うために、雨の中、清盛の父:忠盛を伴い、祇園社に行く途中、
祇園社辺りの森(当時はすすき茂る閑寂の地)の中で、怪しい光を放つ鬼の姿を見つける。
驚いた法王・・・「討て!」と忠盛に命じる。
忠盛・・・「正体を見極めたうえで・・。」と 鬼に近づく。
鬼は・・・灯篭に火を入れようとした、祇園社の僧だった。 鬼にあらず。
『忠盛灯篭』
今の八坂神社本田の東。 忠盛新婚生活の祇園社のすぐ近く。
それ以来
忠盛は・・『冷静沈着の忠盛』 と尊敬されるようになりました。
感心した法王・・
「褒美じゃ!! 私の好きな祇園女御を譲り与える!」 と。
忠盛・・
「ははぁ~! ありがたや!ありがたや!」 と言ったかどうかは知りません。NO!NO!
譲り受けた女御
忠盛に譲り受けられた時に、白河法皇の子を身ごもっていて・・白河法皇の子:清盛を生む。 とする説。NHK 大河ドラマの説。
『仏舎利相承系図』によれば・・清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している。
上記写真の祇園社で、忠盛と女御が共に生活している間に、生まれた忠盛の実子が清盛である。 とする説。
清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれない)にもかかわらず嫡男となった背景には、
後見役である祇園女御の権勢があった。とも言われる。そうな。
権勢を、いかにつかむか! 時代に、いかに乗るか!
歴史は面白い。 事実は闇の中。 神のみぞ知る。
Cofee break: 『桜ソフトクリーム』
桜の香り 花も団子も 350円
時代は、一気に、進んで・・・
1168年 (50歳)
清盛は、病に倒れ、出家する。
病から回復した清盛は、
福原に、別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。
1169年(53歳)
清盛)は、出家して法皇となった後白河法皇とともに、東大寺で受戒して、協調につとめた。
清盛と継妻・時子(平家一族の娘)との間に生まれた娘・徳子が、父・清盛の父?・白河天皇のひ孫の高倉天皇に嫁入り。
清盛は、着々と、権勢をつかんでいきます。
清盛は・・
福原で、後白河法皇と、千僧供養を行うなど・・両者の関係を強固に友好的に推移していった。
着々と力を増大させた清盛。
平氏一門は・・
隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、
『平氏にあらずんば人にあらず」』 と、平時忠(清盛妻・時子の弟)をして、いわしめるに至った。
それから10年間・・権勢を振るった平清盛も・・・。
1181年(64歳)
2月:平清盛没。
1月:平清盛の娘・徳子の夫・高倉上皇も崩御。 未亡人・徳子は『建礼門院』の門号を受ける。
『建礼門院』の住まいとなった『長楽寺』(正面) への参堂。
おじいさんの忠盛と相思相愛の祇園女御が、共に暮らしたであろう地・『祇園女御』を登った所。
おじいさんの忠盛の、『忠盛灯篭』 の隣の地です。
ランチタイム: 『京漬物寿司点心』
京都と言えば漬物。 西利本店2階。 1365円
清盛の没後
平家の時代も終わりに近く・・・。
3年間、持ちこたえましたが・・
1185年
3月:源平壇の浦の合戦。 平家滅亡。
平家滅亡直後の、同じ3月
安徳天皇(清盛の孫。徳子(建礼門院)の子)、を抱いて、安徳天皇のばあちゃん時子(清盛の妻。徳子の母。)は海に入水。 2人共没。
徳子(建礼門院。安徳天皇の母)も、後を追って、入水。 が・・髪の毛を引っ張りあげられて、助かる。
4月26日
とらわれの身となった『建礼門院』(清盛の娘)は、京都に入る。 『長楽寺』におあずけの身となる。
息子も母も海で死に絶え・・自分だけ生き残った『建礼門院』。
つらく・・悲しく・・。
静かな『長楽寺の庭』を眺めながら・・むせび泣いたことでしょう
五木寛之をして・・『遊行庵』といわせた『長楽寺』
「マヌの法典」の、人生:「学生期」「家住期」「林棲期」「遊行期」の4番目:「遊行期」を過ごすにふさわしい、静かな寺と庭でした。
『長楽寺』におあずけの身となった5日後の
5月1日
『建礼門院』は、『長楽寺』の法然上人に帰依。出家する。
10月
『建礼門院』は、『長楽寺』より、大原の『寂光院』に、移される。
女性に人気の寺院。建礼門院が辿った悲しい人生を哀れんでか? 以前夫と参拝時の写真。
1223年
『建礼門院』崩御。 69歳。 平家の、事実上の、終わりとなります。
『驕る者久しからず 』
『驕る平家は久しからず』
『驕る平家に二代なし』
『驕る平家は内より崩る 』
思い上がって勝手な振る舞いをする者が長く栄えることはなく、必ず滅びるときがくる。 といういましめ。として残りました。
しかし・・
平家があって・・武士制度が確立。 平家があって・・時代が流れ・・今がある。
ブログの最初に戻って・・
歴史の1ページ・・いやいや・・1駒でも違っていれば、今がない。違う今になっているはず。
とすれば
今は、全宇宙の歴史の1駒1駒があってこその、今なのだと。 神秘を感じます。
歴史の一こま一こまが、なくてはならぬ存在。 愛おしい。 どの時代も好きです。
私にとって・・京都と云えば。。。『にしんそば』
にしんそばの老舗『松葉』の『にしんそば』を家で食べながら・・歴史ウォークの振り返り。ブログ書きでした。
お付き合い、ありがとうございました
*****************
記録
今日・19日ラン距離:14km
歴史ウォークを振り返りながらのラン!
あれこれめぐらしていえうと・・あっという間の完走でした
4月ラン合計:83.0975km
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます