今日は2月25日。四旬節第二主日。
毎週日曜日・主日。
今日も・・・ 『ミサ』

『我が教会の兄弟姉妹』
主日を迎え・・・
今朝も又、『神の家・教会』に集まった、イエス・キリストを囲んだ一つの家族。兄弟姉妹。
年を重ね…しがらみから解放されて、時間の制限もなく、自由の身となり、『主日を第一』とできる幸せを今日も味わいます。
年を重ねるのも、なかなかいいものです。
『今日の入祭唱』
『神よ、あなたの顔をわたしは慕い求める。あなたの顔をわたしに隠さないでください。』
今日も又。 ミサの中で、司祭と姉妹兄弟は皆、イエスと一つになって、自分を御父にささげるのです。
御言葉の祭儀。
『今日の第一朗読 神の御言葉 アブラハムの信仰』
『その日、神はアブラハムを試された。
神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、

彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリアの地に行きなさい。
わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げ物としてささげなさい。」
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

『イサクの燔祭』
そのとき、天から主の御使いが、言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者でああることが、今、分かったからだ。
あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」』
年を重ねたアブラハムの信仰。
天使(神の御使い)から、百歳になってやっと授かった跡取りのイサクを神に犠牲として、奉献するように言われます。
アブラハムは、神の命令ならば、それはイサクにとっても名誉で素晴らしいことである に違いない、
・・・と。考えたのだろうか?
愛する独り子を生贄にしようとします。
しかし。
『命令』 は 『神がアブラハムの信仰を試されたもの』。 ・・・で。 天使は止めて、『アブラハムの信仰』を讃えます。
『神の言葉』は続きます。
「わたしは自らにかけて誓う。
あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである。」』
創世記 22章1-18節
『アブラハムの信仰による、神の望みにこたえる、絶対的従順』
それは、『人類の祝福』をもたらしました。
それは、神を信じ、神の『約束された国』を目指して人生の旅路を歩む『神の民』の姿であり、『信仰の父』とされる所以となりました。
『神の権威』
善悪の基準を、『人性』に置かず、『神の権威』に置く。 ということです。
『人性』は悪に傾く傾向があり、一方 『神性』は普遍不動である。 ということからでしょうか?
『神の命令』は、人間の条規を逸脱した、人間の理解を超えた、『神の愛』に他ならない。
・・・と。今日の司式司祭の言葉でした。
アブラハムの独り子・イサクは、
未来において、『人類の祝福』:『約束された神の国への入国』を成就する、『十字架』を担うキリストの前表です。
つまり。
『今日の第二朗読 使徒パウロの言葉』
『わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、

『神の愛 十字架』
御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
復活された方であるキリスト・イエスが、神の座の右にいて、

『最後の審判』
わたしたちのために執り成してくださるのです。』
ローマの教会への手紙 8章31-34節
キリスト者。
アブラハム同様に、キリストの福音を信じる者は、神の憐れみによって、『義とされる恵み』が与えられるのです。
アブラハム同様に、『信仰』に根をおろし、『神の御言葉』を生活の基盤とし、人生の旅路で成長していくのです。
今日の主日も又。
ミサに、共同体の一人としての意識で預かり、一人一人がそれぞれ自分の分を尽くし、『家族』は生きていくのですね。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
日曜日をいかがお過ごしでしたか? 楽しくお過ごしでしたか?
私はまず教会。その後に『映画』で、次の週への英気を養いました。 お元気で!
毎週日曜日・主日。
今日も・・・ 『ミサ』

『我が教会の兄弟姉妹』
主日を迎え・・・
今朝も又、『神の家・教会』に集まった、イエス・キリストを囲んだ一つの家族。兄弟姉妹。
年を重ね…しがらみから解放されて、時間の制限もなく、自由の身となり、『主日を第一』とできる幸せを今日も味わいます。
年を重ねるのも、なかなかいいものです。
『今日の入祭唱』
『神よ、あなたの顔をわたしは慕い求める。あなたの顔をわたしに隠さないでください。』
今日も又。 ミサの中で、司祭と姉妹兄弟は皆、イエスと一つになって、自分を御父にささげるのです。
御言葉の祭儀。
『今日の第一朗読 神の御言葉 アブラハムの信仰』
『その日、神はアブラハムを試された。
神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、

彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリアの地に行きなさい。
わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げ物としてささげなさい。」
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

『イサクの燔祭』
そのとき、天から主の御使いが、言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者でああることが、今、分かったからだ。
あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」』
年を重ねたアブラハムの信仰。
天使(神の御使い)から、百歳になってやっと授かった跡取りのイサクを神に犠牲として、奉献するように言われます。
アブラハムは、神の命令ならば、それはイサクにとっても名誉で素晴らしいことである に違いない、
・・・と。考えたのだろうか?
愛する独り子を生贄にしようとします。
しかし。
『命令』 は 『神がアブラハムの信仰を試されたもの』。 ・・・で。 天使は止めて、『アブラハムの信仰』を讃えます。
『神の言葉』は続きます。
「わたしは自らにかけて誓う。
あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである。」』
創世記 22章1-18節
『アブラハムの信仰による、神の望みにこたえる、絶対的従順』


『神の権威』
善悪の基準を、『人性』に置かず、『神の権威』に置く。 ということです。
『人性』は悪に傾く傾向があり、一方 『神性』は普遍不動である。 ということからでしょうか?
『神の命令』は、人間の条規を逸脱した、人間の理解を超えた、『神の愛』に他ならない。
・・・と。今日の司式司祭の言葉でした。
アブラハムの独り子・イサクは、
未来において、『人類の祝福』:『約束された神の国への入国』を成就する、『十字架』を担うキリストの前表です。
つまり。
『今日の第二朗読 使徒パウロの言葉』
『わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、

『神の愛 十字架』
御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
復活された方であるキリスト・イエスが、神の座の右にいて、

『最後の審判』
わたしたちのために執り成してくださるのです。』
ローマの教会への手紙 8章31-34節
キリスト者。


今日の主日も又。
ミサに、共同体の一人としての意識で預かり、一人一人がそれぞれ自分の分を尽くし、『家族』は生きていくのですね。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
日曜日をいかがお過ごしでしたか? 楽しくお過ごしでしたか?
私はまず教会。その後に『映画』で、次の週への英気を養いました。 お元気で!