今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

488 ライデン =1= (オランダ)

2013-01-17 16:43:48 | 海外
オランダに行ったらライデン(Leiden)を訪ねようと考えていた。アムステルダムの南西、ハーグとの間にある地方都市で、ライン川が長い旅路を終えるあたりの河畔に営まれた古い街だ。17世紀にアメリカへ渡った清教徒は、ここからも新天地を目指した。そのころこの街でレンブラントが生まれ、19世紀になるとシーボルトが日本から帰って来た。私は何よりも、16世紀のオランダ独立戦争で市民が立て籠ったという《城塞》が見たかった。



静かな街だった。30分ほど電車に揺られ、アムステルダムからやって来た私たちは、ライデン中央駅から南へ歩き、風車を眺めながらライン川に架かる跳ね橋を渡った。小さな公園があって、偉大な画家は1606年、ここに生まれ、25歳まで暮らしたと書いてあった。ライデン大学の植物園まで住宅街が続き、シーボルトの居宅跡は日本コレクションの展示館になっていた。近くに「荒海や・・」と芭蕉の句を壁面に大書した建物があった。



クリスマスを過ぎたばかりの住宅街は、たまに乳母車付きの自転車に幼児を乗せた母親が、笑顔で疾走して行くくらいで、まるで日本の元日の朝のような静けさである。運河を渡ると聖ピータース教会の広場に出て、ブッシュ(父)米国大統領が、国のルーツへと訪問した際の「Pilgrims in Leiden」の解説板があった。英国の清教徒がこの街にやって来たのは、レンブラントが3歳になったころだと、オランダ語と英語で書いてあるようだった。



路地を抜けると大通りになって、信号があった。近くの大きな建物は市庁舎らしかった。そのあたりから街は急に賑やかになって、カフェやショップが続いている。市庁舎裏の運河にはスケートリンクが設けられ、子供たちが歓声を挙げている。川と運河が複雑に流れ、橋を渡るにつれ方向が分からなくなる。《城塞》は近いはずなのだが見つからない。通りかかった若者に地図を指差すと、小雨を厭うことなく、濡れながら案内してくれた。



16世紀、ネーデルランドの諸州はスペインの支配下にあった。だが信仰(プロテスタント)と産業(貿易)の新たな潮流が台頭し、低地地方の市民は1568年、ついに反乱を起こす。80年戦争の始まりである。オランダ独立につながる象徴的な戦いがライデンで続いた。市民は土盛りの上に築いたレンガ造りの砦に1年間篭城し、世界最強であったスペイン軍と戦い勝利したのである。



城塞(Burcht)は、住宅や商店街に囲まれて繁華街からは見えない路地の奥にあった。それほどに可愛い砦なのである。この街自体が河畔に土盛りして造られたというが、城塞はさらにその上に10メートル余の盛り土を重ね、頂上にレンガの壁を巡らせた単純な構造だ。内部の広さを司馬遼太郎氏は「少年野球なら2組できる程度」と書いているが、この少年野球は三角ベースのお遊びがやっとであろう。市民軍はそこを1年間、守った。



餓死・病死が続出するなか、最後は市民が水門を破壊し、攻めるスペイン軍を水攻めにして勝利する。その後の話がいい。反乱の指導部が恩賞に免税を認めようとしたのに対し、市民はそれより大学を創って欲しいと申し出、オランダ最古のライデン大学が創設されたというのだ。ライデンの勝利が世界史的な市民社会誕生の日だと司馬氏は讃えるが、慎ましやかなオランダ人はその栄誉を主張しようとしない。1848年、この街でオランダ憲法が起草された。歴史的眺望が素晴らしい街だ。(2012.12.27)



























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