今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

876 スティーブストン【カナダ】

2019-07-24 13:11:45 | 海外
バンクーバーの南、もう米国との国境が近いフレーザー川の河口にスティーブストン(Steveston)という漁港がある。今ではリッチモンド市に含まれるが、19世紀末からおよそ100年間、サケ漁とそれを缶詰に加工する水産業で大いに栄えた土地だ。漁民として、あるいは缶詰工として、日本からも多くの労働者が海を渡った。勤勉な彼ら彼女らは大戦の荒波を乗り越え、大きな日本人コミュニティを形成した。



バンクーバーから2時間はかからなかったと思う。電車とバスを乗り継ぎ、しだいに殺風景になる風景を行くと、郊外の住宅地といった辻で終点となり、降ろされた。無愛想な運転手が「あっちだ」と指差す方向に歩き出すと、まもなく海(ではなく河口だった)が見え始め、少し街らしい佇まいになってくる。缶詰工場は閉鎖されたものの、漁港は今もカナダ有数の水揚げを続け、シーフードが売りの観光地になっている。



ジョージア湾缶詰工場(Gulf of Georgia Cannery)は、ピーク時には年間250万個の鮭缶を製造する大企業として、国内外の労働者を集めた。繁忙期には日本からも千人規模の出稼ぎ労働者が従事し、英国籍を取得して移住する人も増えて行った。日系人コミュニティはリーダーにも恵まれ、互助組合を結成して労働条件の向上を図るなど拡充していく。工場は1979年に閉鎖され、現在は国史跡の博物館になっている。



当時は最先端の加工工場だったのだろう、鮭や鰊を圧搾して蒸し、人海戦術で調理して缶詰のベルトコンベアーへと続く工程が、保存された装置とともに説明されている。市中には郵便局を併設した小さな博物館があり、日系の歴史を知ることができる。屈強な若者たちの相撲や剣道大会の晴れ姿に、異国生活での緊張を覚え、働く女性たちの笑顔にホッとさせられる。故郷を遠く離れた人生の厳しさはいかばかりだろう。

(スティーブストン博物館のパネルより)

(同)

こうした努力の全てを、戦争が無にしてしまう。日本が米英に宣戦布告した日、スティーブストンの日系社会は崩壊する。帰国するか内陸部の収容施設に入るかを強制されたのだ。懸命に働いて手に入れた漁船など、すべての財産は没収された。戦争を引き起こす「指導者」と呼ばれる輩の、なんと愚かなことか。それに比べ「指導された側」の人々のたくましいことよ。戦後、コミュニティは復活し、発展を続けたという。



工場前の広場で、三人の男女が談笑している。立っている男女は白人のようだが、座っている年配者は明らかにアジア系だ。脇に設置されたプレートには、英語とフランス語で「毎年世界中から、漁業に従事するために数千人がやってきた。そうやってスティーブストンを建設した人々を讃える」と書いてある。イワシの缶詰産業で栄えたカリフォルニアのモントレーを、ぐんと鄙びさせたようなスティーブストンである。



中心部の公園にゆくと、夏休みの子供たちで溢れている。その一角には日本庭園が造園され、日本建築が大屋根を広げている。日系社会のセンターで、道場や日本語学校に使われているらしい。「Return of the Nikkei」は労働移民2世3世の時代になって、カナダ社会に溶け込み、尊敬を集めているようだ。日本人は偉い、などと言わなくて良いだろう。こうした力を持つのが人間なのだと、自信を持ちたい。(2019.6.26)
















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