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997 佃島(東京都)佃煮は赤飯に合ふと友は言ひ

2021-12-04 09:32:35 | 東京(区部)
18世紀の江戸の街を詳しく描いた「明和江戸図」という地図がある。「明和八年」とあるから、1771年に日本橋の版元で刷られた木版だ。目を凝らすと、隅田川の河口に小さな島が二つ浮かび、「石川嶋」「佃嶋」と記載されている。いかにも人造島らしく、角ばって描かれているのがリアルだ。埋め立てが進んだ現在、二つの島は月島に続く大きな埋立地に埋もれてしまっているけれど、実際に歩いてみると、「江戸の形」を実によく残しているのだった。



地下鉄月島駅から佃大橋の通りを渡る。佃2丁目に入ってそのまま隅田川に向かうと、それまでの街とは地割の方向がやや異なる一角が現れる。そこからが佃1丁目で、江戸期に築かれた「佃嶋」になるらしい。舟入堀というのだろうか、小さな漁船が係留されている船溜りがあって、その堀に架かる小さな朱塗りの橋を「佃小橋」という。擬宝珠が並ぶ橋は、住吉神社への参道なのかもしれない。この橋も神社も、「明和江戸図」に描かれている。



だがこの道順は現代のもので、佃島はあくまで孤立した島であり、かつては対岸と渡船で結ばれていた。「佃島渡船」の小さな石標から対岸の高層ビル群を望むと、東京を江戸から眺めているような錯覚に襲われる。家康との縁で江戸に移住してきた摂津・佃村の漁民が、隅田川河口の干潟8550坪を拝領して「築き立て」をしたのが1644年。タワマン1棟分ほどの面積だ。当時は80戸160人ほどが居住していたという記録があるようだ。



「家康との縁」には諸説ある。佃公園に建つ中央区公園緑地課の解説板には「本能寺の変の際、堺を逃れる家康一行を、摂津の漁民が船を出して救ったことから、恩賞として佃島での網引御免を与えた」とある。しかし住吉神社に掲げられている縁起には「家康公が摂津で住吉の神を遥拝した際に、案内したのが佃村の漁民たちで、後に江戸の開発に当たる家康の命で漁夫33人と住吉の神職が移住した」ということになっている。どちらが史実なのだろう。



家康を救ったというドラマチックな話は、「伊勢の白子で窮地に陥った家康をかくまい、岡崎への生還に貢献した百姓を、家康が諸役免除の朱印状を与え、駿河・藤枝に新白子町を拓かせた」という史実と混同されたのかもしれない。いずれにせよ江戸の食欲を賄うには、プロの漁師集団が必要だったろう。そこで摂津・佃の漁民を江戸に招き、江戸湾での自由漁業という特権を与えて将軍の御菜御用とした、という説が現実的なのではないだろうか。



佃島に先立って築き立てられた「石川嶋」は、人足寄場として活用されていたが、次第に埋め立てが進められ、佃島と合体するまでに拡張された。そして今や湾岸タワーマンション発祥の地として、高層ビルが林立している。そうした再開発の波は、隣接する佃島にも押し寄せているのだろうが、佃島に高層マンションは1棟もない。江戸湾の漁業権を認めてくれた家康への恩義か、転売しない不文律があるのか、風情は昔ながらに残されている。



洗濯物が翻る路地の奥は、タワーマンションが空を塞いでいる。そんな佃島には住吉講なる組織があって、住吉神社の3年ごとの本祭に向け活動している。島内で見かける「若衆募集」「若衆講員求む」のポスターは、本祭での神輿の担ぎ手を募集しているのだ。狭い島内だけでは、若い人員が不足気味なのだろう。そうやって佃の貴重な風情は守られていくわけだが、にっくきコロナのせいで、今年の本祭は1年延期となってしまった。(2021.11.28)
























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