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大森という街の名を耳にすると、私の場合、思い浮かぶのは「貝塚」と「海苔」である。東京湾に臨む大田区大森のことだ。「いまさら」という思いもしないではないけれど、今日は貝塚の地に立ってみようと大森へやって来た。私は大学に入学して1年ほど、新橋から横浜へJR京浜東北線で通学した。その往き帰り、毎日のように「大森貝塚」の碑を眺め、(いささか格好をつけて言うと)日本の考古学の曙を想ったものである。その懐かしさがある。
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大森駅のホームに建つ「日本考古学発祥の地」のモニュメントを眺め、地図に従って「大森貝塚商店街」を北へ歩く。NTTのビルの脇に設けられた「史跡大森貝塚」の通路を行くと、10メートルほどの崖を石段で下り、線路脇に到達する。そこに「大森貝墟」の碑が建ち、「我国最初之発見」と添えられている。1877年(明治10年)6月、米国人動物学者、エドワード・モース(1838−1925)が車窓から発見した、縄文時代の貝塚層の地なのだろう。
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この一帯を掘れば貝殻がザクザク出てくることは、地元では誰もが知っていただろう。しかしそれが太古の先祖たちが暮らした痕跡であると思い至ることはなかった。学問の力とは偉大なものだと一人感慨に耽る。だが奇妙なことに、見上げる碑はどうも私の記憶と合致しない。記憶の中の石碑は横書きなのだが、「貝墟」の碑は縦書きなのである。50年余で記憶が狂ったかと帰宅し調べると、もう一つの「大森貝塚」碑が存在することが判明した。
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確認のため再度、出向くことにしたのは、暇な年寄りの贅沢である。「貝墟」の碑からさらに300メートルほど北に大森貝塚遺跡庭園があることを知り、その崖下に辿り着いた。確かに記憶通りの横書きの「大森貝塚」碑が建っている。近くでは地層を背に、土器を手にするモース博士が思索に耽っている。ここが博士が発掘調査した遺跡地であるらしい。住所は品川区(旧・荏原郡大井村)である。「大井貝塚」になってもおかしくなかったわけだ。
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品川か大田かの論争を招くことになったのは、モース博士が報告書に地点の明記を忘れたかららしい。以下は私の推測である。開通間もない新橋―横浜間の鉄道で、大森駅はモース「発見」の前年に開設されている。調査団は大森駅を利用し、発掘地はてっきり「大森村」であると思い込んでいた。さらに動物学者のモース博士は、調査地点の特定は考古学のイロハであることに思い至らなかった。なかなか人間味のある「我国最初之発見」ではないか。
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しかもこの発掘をめぐっては、モースの共同調査者であったシーボルの次男・ハインリヒとの先陣争いといった、より生臭い話も残っている。しかしこの調査が契機になって「考古学」や「縄文」という言葉が生まれたと聞くと、モース博士が筆頭であることに異論はないものの、発掘に携わった全ての人々に感謝したい。私が感謝して何になるというものではないけれど、そうした気持ちが大切なのだよと、庭園で遊ぶ園児に語りかけたかった。
この貝塚行脚で、私は品川区の大井町駅から大田区の大森駅まで歩いた。鉄路が、崖の下になったり頭上近くを通過したりして、概ねなだらかながらも起伏があり、西から延びて来る武蔵野台地が、この辺りで海に落ちていた地形がよく判った。この広い範囲で縄文の人々は集落を営み、海辺に降りて海産物を採集して生きていたのだろう。両区は東大に保管されている出土物の移管を受け、本格的な合同資料館を建設したらよろしい。(2023.6.20/23)
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大森駅のホームに建つ「日本考古学発祥の地」のモニュメントを眺め、地図に従って「大森貝塚商店街」を北へ歩く。NTTのビルの脇に設けられた「史跡大森貝塚」の通路を行くと、10メートルほどの崖を石段で下り、線路脇に到達する。そこに「大森貝墟」の碑が建ち、「我国最初之発見」と添えられている。1877年(明治10年)6月、米国人動物学者、エドワード・モース(1838−1925)が車窓から発見した、縄文時代の貝塚層の地なのだろう。
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この一帯を掘れば貝殻がザクザク出てくることは、地元では誰もが知っていただろう。しかしそれが太古の先祖たちが暮らした痕跡であると思い至ることはなかった。学問の力とは偉大なものだと一人感慨に耽る。だが奇妙なことに、見上げる碑はどうも私の記憶と合致しない。記憶の中の石碑は横書きなのだが、「貝墟」の碑は縦書きなのである。50年余で記憶が狂ったかと帰宅し調べると、もう一つの「大森貝塚」碑が存在することが判明した。
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確認のため再度、出向くことにしたのは、暇な年寄りの贅沢である。「貝墟」の碑からさらに300メートルほど北に大森貝塚遺跡庭園があることを知り、その崖下に辿り着いた。確かに記憶通りの横書きの「大森貝塚」碑が建っている。近くでは地層を背に、土器を手にするモース博士が思索に耽っている。ここが博士が発掘調査した遺跡地であるらしい。住所は品川区(旧・荏原郡大井村)である。「大井貝塚」になってもおかしくなかったわけだ。
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品川か大田かの論争を招くことになったのは、モース博士が報告書に地点の明記を忘れたかららしい。以下は私の推測である。開通間もない新橋―横浜間の鉄道で、大森駅はモース「発見」の前年に開設されている。調査団は大森駅を利用し、発掘地はてっきり「大森村」であると思い込んでいた。さらに動物学者のモース博士は、調査地点の特定は考古学のイロハであることに思い至らなかった。なかなか人間味のある「我国最初之発見」ではないか。
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しかもこの発掘をめぐっては、モースの共同調査者であったシーボルの次男・ハインリヒとの先陣争いといった、より生臭い話も残っている。しかしこの調査が契機になって「考古学」や「縄文」という言葉が生まれたと聞くと、モース博士が筆頭であることに異論はないものの、発掘に携わった全ての人々に感謝したい。私が感謝して何になるというものではないけれど、そうした気持ちが大切なのだよと、庭園で遊ぶ園児に語りかけたかった。
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この貝塚行脚で、私は品川区の大井町駅から大田区の大森駅まで歩いた。鉄路が、崖の下になったり頭上近くを通過したりして、概ねなだらかながらも起伏があり、西から延びて来る武蔵野台地が、この辺りで海に落ちていた地形がよく判った。この広い範囲で縄文の人々は集落を営み、海辺に降りて海産物を採集して生きていたのだろう。両区は東大に保管されている出土物の移管を受け、本格的な合同資料館を建設したらよろしい。(2023.6.20/23)
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