今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

924 羽村(東京都)多摩川を堰き止め命の水を引く

2021-02-22 16:11:52 | 東京(都下)
季節外れの陽光が水辺の風景を和らげている。羽村市の多摩川羽村取水堰である。本流中央に設置された「投渡(なげわたし)堰」で堰き止められた流れを取水口に誘導し、玉川上水へと送り込む。その水の一部は再び本流に戻され、快晴の陽を照り返してキラキラ踊っている。まるで春到来のようだが、堰堤に延びる桜並木の蕾は固い。何しろまだ如月なのである。しかしステイホームに飽いた私は陽射しの誘惑に抗しきれず、不要不急の外出をする。



井の頭公園界隈を日常的散歩コースとする私は、自宅から公園までこの上水沿いを行く。取水堰から26キロほど下流に当たるその辺りでも、上水は細いが絶えることがなく、大きな錦鯉が群れ、アオサギが羽を休めたりしている。歩けば6時間ほどかかるらしい取水堰まで、いつか遡ってみようと思いながら10歳余の齢を重ね、もはや歩き通す気力はない。だから今日は軟弱にも青梅特快に乗り、40分ほどして羽村駅から歩き始める。



玉川上水は、羽村から四谷大木戸までの全長43キロを人工溝渠によって繋ぎ、江戸の街へ飲料水を供給した。取水口の適地を探して計画は変更を重ねたらしいが、この地に立つと、奥多摩から流れ下る多摩川がゆったりと蛇行する、極めて好都合な立地であることがよく理解できる。蛇籠や牛枠といった石と竹木による構造物で水流をコントロールし、丸太や枝を組み合わせた「投渡堰」で流れを誘導する。珍しくも優れた工法なのだという。



370年ほども昔に、92メートルしかない高低差を1年余で開鑿し、江戸市民に安定的な飲料水を供給した土木工事の優秀さを思う。それを立案指揮したのが庄右衛門、清右衛門兄弟だそうだが、この工事は数千両もの大工事だったにも関わらず、記録がほとんど残されておらず、兄弟の実像も定かでないらしい。ただ二人は功績が認められて「玉川姓」を賜り、一族は長く「玉川上水役」を務めたのだという。堰の傍に立つ像の兄弟は、誇らしげだ。



分水は滔々と南下して行く。これほど水量が多いのかと、わが散歩道の風景を思い浮かべて不思議に思ったのだが、上水はほどなく野火止用水や千川上水などたくさん分水されて武蔵野台地を潤すよう、都の水道局がコントロールしているのだそうだ。一方、羽村駅前に「まいまいず井戸」という都の史跡がある。鎌倉時代の井戸跡だといい、深さ4メートル余の巨大な擂り鉢状の穴の底に井戸がある。地表面の穴の直径は16メートルあるという。



鎌倉時代、崩れやすい砂礫層の地下水を汲み上げるために発案建造された井戸だそうで、かつては武蔵野のあちこちに見られたらしい。螺旋状に下る穴の法面の道が「まいまいず(カタツムリ)」の殻に似た文様を描くことから、こう呼ばれたという。町営水道が開設される昭和35年まで使われたといい、何度も何度もこの螺旋を上り下りした数多の人生を思いながら、螺旋を底まで下りてみる。「水」がいかに切実な「命」であったかを体感する。



玉川兄弟の像が建つ広場には土曜日の昼前、軽快な自転車を操るサイクリング愛好者が次々やって来る。傍の「たまリバー50キロ」の案内図によると、羽村取水堰から多摩川河口の大師橋緑地まで、53キロのサイクリングロードが整備されているらしい。彼ら彼女らが流す爽快な汗は、「まいまいず」の螺旋に刻まれた汗、上水の開削に流された汗の結果としてある。カタツムリの歩みに似て、社会がゆっくり豊かになったのである。(2021.2.20)










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