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終戦の日、上野に出かけた。とはいっても戦争とは無関係の『少女』に会いに行ったのである。東京都美術館のリニューアル記念展として、オランダの「マウリッツハイス美術館展」が開催中なのだ。目玉はフェルメールの描いた『真珠の耳飾りの少女』である。混雑は覚悟していたとはいえ、お盆だから、東京人の多くは地方に散って、都心はむしろ空いているのではないかと期待していたのだが、甘かった。やはり混んでいた。疲れた。
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『少女』は確かに美しかった。青いターバンと、和服のようでもある黄色っぽい衣装をまとい、異様に大きな真珠のイヤリングを光らせて、汚れを知らない(のであろう)唇を微かに開き、訴えるような眼差しをじっと私に向けている。30分待ちで入場し、さらにそれ以上の時間をそろそろ進んでの対面であったが、漆黒の背景に浮かび上がった『少女』とのひとときは、実に幸福な一瞬であった。出口を引き返し、もう一度逢いに行ったほどだった。
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都美術館はリニューアルを終え、少し奇麗になっていた。再オープンを機に「東京都美術館ものがたり展」が開催されていて面白かった。館の設立は大正15年ということだが、それが日本初の公立美術館開設だったとは驚いた。東京国立博物館の創設は明治5年だったと記憶しているものだから、自治体が美術専門施設を創るまでには、それから50年以上の時間が必要だったということになる。社会の成熟のテンポとはこんなものか。
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美術館を出ると夢から覚めたような思いになるのはいつものことだが、上野という土地柄はこのギャップがことのほか激しい。人類が産み出した美の極致に浸かることで緩み切った全身が、公園に漂う饐えたような空気に触れて一気に現実社会に引き戻されるからだろう。そうした空気は、森の中の青いテント群からやって来るのか、あるいは動物園の様々な匂いのミックスなのかは知らないけれど、嗅覚は人間を覚醒させるらしい。
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上野の山に、なぜこれほど文化施設が集積することになったのだろう。江戸時代は徳川家の廟所である寛永寺が壮大な境内を広げていた土地だが、幕末には彰義隊の戦いで伽藍のほとんどが消失した。これによって土地は新政府が接収するところとなったのだろう、医学校と付属の病院建設計画が持ち上がった。これに対し幕末以来、日本でオランダ医学を教えていたアントニウス・ボードウインが「むしろ公園に適している」と提言した。
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以上はにわか仕込みの上野公園の生い立ち記だが、ボードウインのおかげで上野の山は「東京府公園」に指定され、博覧会が開かれ、その施設の跡地利用の形で国立博物館が移転して来て、以後、動物園ができたり美術学校が建てられたりして、国内稀な文化施設集積ゾーンが形成された。上野は同時に東京の玄関口の一つになったので、人々がやって来て散って行く場にもなった。このことが街を、一見客相手にしているように思える。
アメ横の雑踏も「あゝ上野駅」の感傷も、公園の文化ゾーンとのギャップを際立たせる。この落差があるからこそ上野は面白い街なのだが、もしこの街の改造をコンペしたら、どんな設計図が飛び出すだろう。私なら、お山に壮大な地下空間を造り、博物館、美術館、音楽ホール、大学のすべてを地中に再配置して、地上は森に還す。広大な展示スペースは駅と直結し、芸術の余韻に浸ったまま帰りたければ、それを可能にする。(2012.8.15)
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『少女』は確かに美しかった。青いターバンと、和服のようでもある黄色っぽい衣装をまとい、異様に大きな真珠のイヤリングを光らせて、汚れを知らない(のであろう)唇を微かに開き、訴えるような眼差しをじっと私に向けている。30分待ちで入場し、さらにそれ以上の時間をそろそろ進んでの対面であったが、漆黒の背景に浮かび上がった『少女』とのひとときは、実に幸福な一瞬であった。出口を引き返し、もう一度逢いに行ったほどだった。
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都美術館はリニューアルを終え、少し奇麗になっていた。再オープンを機に「東京都美術館ものがたり展」が開催されていて面白かった。館の設立は大正15年ということだが、それが日本初の公立美術館開設だったとは驚いた。東京国立博物館の創設は明治5年だったと記憶しているものだから、自治体が美術専門施設を創るまでには、それから50年以上の時間が必要だったということになる。社会の成熟のテンポとはこんなものか。
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美術館を出ると夢から覚めたような思いになるのはいつものことだが、上野という土地柄はこのギャップがことのほか激しい。人類が産み出した美の極致に浸かることで緩み切った全身が、公園に漂う饐えたような空気に触れて一気に現実社会に引き戻されるからだろう。そうした空気は、森の中の青いテント群からやって来るのか、あるいは動物園の様々な匂いのミックスなのかは知らないけれど、嗅覚は人間を覚醒させるらしい。
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上野の山に、なぜこれほど文化施設が集積することになったのだろう。江戸時代は徳川家の廟所である寛永寺が壮大な境内を広げていた土地だが、幕末には彰義隊の戦いで伽藍のほとんどが消失した。これによって土地は新政府が接収するところとなったのだろう、医学校と付属の病院建設計画が持ち上がった。これに対し幕末以来、日本でオランダ医学を教えていたアントニウス・ボードウインが「むしろ公園に適している」と提言した。
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以上はにわか仕込みの上野公園の生い立ち記だが、ボードウインのおかげで上野の山は「東京府公園」に指定され、博覧会が開かれ、その施設の跡地利用の形で国立博物館が移転して来て、以後、動物園ができたり美術学校が建てられたりして、国内稀な文化施設集積ゾーンが形成された。上野は同時に東京の玄関口の一つになったので、人々がやって来て散って行く場にもなった。このことが街を、一見客相手にしているように思える。
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アメ横の雑踏も「あゝ上野駅」の感傷も、公園の文化ゾーンとのギャップを際立たせる。この落差があるからこそ上野は面白い街なのだが、もしこの街の改造をコンペしたら、どんな設計図が飛び出すだろう。私なら、お山に壮大な地下空間を造り、博物館、美術館、音楽ホール、大学のすべてを地中に再配置して、地上は森に還す。広大な展示スペースは駅と直結し、芸術の余韻に浸ったまま帰りたければ、それを可能にする。(2012.8.15)
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