今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

468 品木(群馬県)中和するダム湖に消えた17戸

2012-08-09 23:39:23 | 群馬・栃木
ダムサイトの説明板には「シナキ」とルビがふられているものの、土地の言い方では「シナギ」と濁るのかもしれない。群馬の西北部、旧六合村の入山地区の小字名で、草津温泉から流れ下る湯川の強酸性水質を中和させるためのダムがある品木だ。シナの国・信濃に近いことから、元は「科木」とでも書いたのではないかと私は想像するのだが、地名はともかく、かつてこの谷で営まれた品木集落はもはや無い。ダムに沈んだのだ。



草津の温泉街を下って品木ダムに行ってみる。ダム堤に立つと、上州湯の湖と名付けられたダム湖は緑青色に濁り、西側からは草津の湯を集めた湯川が音を立てて流れ込んでいる。円錐状の山を挟んで北側からの流れは矢沢川と大沢川だろう。湖面中央には国土交通省と書かれた装置が浮き、中和のため各川の途中で投入された石灰の浚渫を続けているらしい。pH2という強酸性の水は、ここまで来てpH6程度に中和が進んでいるようだ。



品木ダムは、火山と地下水(温泉)と河川を装置とした、巨大な化学工場の最終安定部門であるらしい。この特異な工程は、昭和30年代に群馬県が完成させた世界初の中和サイクルで、かつては魚も棲めない「死の川」であった流れを、発電や農業・工業用水に活用し、コンクリートの橋脚や護岸でインフラ整備することを可能にしたと、ダムサイトの解説板は誇らし気だ。確かに手探りの挑戦で下流域に恩恵を与えたことは偉い。



ただこの水質を維持して行くためには、毎日60トンの石灰を、永遠に投入し続けなければいけない。いってみれば、自然の摂理を人工的にねじ曲げていることになる。この化学装置が完成する前は、草津の酸性湯は湯川から白砂川に流れ込み、吾妻川に合流して「死の川」の流域を広げた。しかし利根川に合流するに至って水質は希釈されるのか、坂東太郎までが「死の川」だったとは聞かない。かつての「安定」が変えられたのだ。



人間が自然のサイクルに手を加えると、どこかに無理が生ずるものだ。その一つに「ヒ素の沈殿蓄積」を警戒する指摘がある。確かに国の水質管理所が発表している水質データには、ダムの土捨場で1リットルあたり0.076ミリグラムのヒ素が検出されている。これが自然環境にどの程度危険な数値なのか知らないが、中和・沈殿・浚渫がくり返されて行くと、堆積するヒ素の濃度はどう高まり、危険性が増して行くのかと気になる。



ダム湖を見下ろす高台に、おびただしい数の石仏が並ぶ一角がある。江戸時代の品木の人が、だれもが霊場めぐりの功徳を受けられるよう建立した百八十八観音だという。水質管理所のホームページによれば、ダム建設時に品木集落には「独自に伝統的生活を営んでいた」17戸があったという。その「伝統的生活」がいかなるものかは何も書かれていないが、観音たちがそうした場を見守っているような、そんな感傷に陥るロケーションだ。



それにしてもダム湖を「上州湯の湖」と名付けたのは、その風光が日光湯の湖に似ているからだという。また日光から草津までの山と温泉の道筋を「日本ロマンチック街道」と名付けたのも、ドイツのロマンチック街道に似た風景があるからだとか。どうやら草津の文化人気取りの旦那衆が音頭をとったらしいが、他所のブランドを借用してネーミングするなど、志の低い二流の発想である。土地の声を、もっと謙虚に聴くがいい。(2012.7.29)












コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 467 太子(群馬県)幻かサル... | トップ | 469 上野(東京都)芸術と世... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

群馬・栃木」カテゴリの最新記事