今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

720 行田②(埼玉県)サキタマに蘇るなり獲加多支鹵 (ワカタケル)

2016-08-16 12:31:58 | 埼玉・神奈川
行田の古代蓮が泥中の眠りに就いて数千年、地上は大和朝廷が支配する時代となり、東国でも、朝廷に仕える豪族が巨大な古墳造りに民を使役するようになった。なかでも後の世に武蔵国の稲荷山古墳と呼ばれる、全長120メートルの前方後円墳を築かせた乎獲居(ヲワケ)臣は、大王家の親衛隊長を務めた一族の輝かしい由緒を刻んだ大刀を作らせ、副葬するよう命じた。それからまた1500年、行田はこの鉄剣発見で大騒ぎになった。



稲荷山古墳一帯は、律令制下の武蔵国埼玉(さきたま)郡にあって、埼玉古墳群と呼ばれている。利根川を挟んで上毛野国と対峙しており、その地勢は埼玉県教育委員会発行の「稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報」を借りると「利根川と荒川に挟まれた氾濫原で、小河川によって発達した自然堤防や、削り残された洪積層の微高地が、北西から南東に向かって幾条も延びており、本古墳群もその上に形成されている」ということになる。



金錯銘鉄剣の名称で国宝指定された大刀は、1968年の埼玉県の調査で、稲荷山古墳後円部の礫槨から発掘された。錆び付いた鉄剣に文字が隠されているとは誰も思わないまま、大刀は県の資料館に展示されていた。しかし痛みが進んだため、県は1978年、奈良の元興寺文化財研究所に保存処理を委託した。その処理過程で115の象眼金文字が発見されたのである。このことをいち早く伝えたのは同年9月19日の毎日新聞夕刊だった。



この記事を読んで、私は興奮したことをよく覚えている。モヤモヤしている古代史が、突然クリアになって眼前に出現した思いにさせられたからだ。ただ100年に1度と言われた世紀の大発見が、1面の2番手ニュースで伝えられていることが腑に落ちなかった。スクープしたのは大阪本社で、大阪では当然1面トップだったが、私が手にしたのは東京本社の夕刊だったのだ。なんという見識の乏しい新聞だろうと呆れたことを覚えている。



ただ後に知ったのだが、東京本社では「これをトップにしないのはおかしい」と主張する若い編集者がいたのだという。しかし若いがために無視されて、結果的に東京本社は大恥をかくことになった。新聞はニュースを迅速に伝えることが使命だが、その価値を的確に判断して読者に示す役割も負っている。その点では100年に1度のミスである。ただトップだと主張した編集者もいたということだから、私は今も毎日新聞を購読している。



鉄剣は、古墳にほど近い「県立さきたま史跡の博物館」に展示されている。空気を遮断したガラスケースに収められ、両面の文字が読めるようになっている。拙いながらなかなか味わいのあるこの象嵌文字を直接見ることが、今回の行田行の最大の目的だった私の期待は、くっきり浮かび上がる金色の文字に十分充たされた。国宝だらけの展示室に、祖父の解説を熱心に聴く小学生がいた。郷土の遠い日を、彼なりに想像しているようだった。



乎獲居の時代の少し後、武蔵国造の地位を巡って対立が起きた。一方は隣国の上毛野氏に助成を求め、他方は大和朝廷に訴え出た。利根川の対岸は、東日本最大の天神山古墳を築いた上毛野氏のケヌである。しかし対立は大和側が勝って、朝廷の東国への覇権を強めたと日本書紀は記している。そんなことが本当にあったのかなかったのか。夏の日差しに耐えて耳を澄ましてみるのだが、古代ムサの人々は何も語ってはくれない。(2016.8.10)








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