万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

上野駅を建て替えては?-戦後復興は最終章へ

2018年08月16日 15時31分47秒 | 日本政治
先の戦争への想いが深まるこの時期、NHKでは、空襲等で両親を失った戦災孤児に関する番組を放映しておりました。同番組を視聴してふと感じたことは、上野駅は、戦後73年を経た今日、戦後復興を最終章へと導くためにも、新しい駅舎に建て替えるべきではないかというものです。

 出演されていた元孤児の方々は、周囲の一般の人々が冷淡であり、残酷ですらあったと口々に証言しており、この番組を見ますと、日本人の国民性がいたく冷酷なような印象を受けます。しかしながら、おそらくは、情けや慈悲の心を以って接した人々も少なくなかったのでしょうし、あるいは、終戦直後の駅という場所柄を考慮しますと、孤児達が犯罪組織等の手先として利用されたため、一般の人々から忌避されてしまったという側面もあるかもしれません。『竹林はるか遠く』において描かれている京都駅の様子は、如何に、駅が危険に満ちた場所であったかを伝えており、駅前の闇市等の存在も考え合わせれば、大人でさえ身構える場所であったのでしょう。

些か一面的な切り口の番組ではあったのですが、それでも、駅という場所が、多くの孤児たちが命を失い、犯罪組織をも蠢く半ば闇の世界であったことは確かなことです。今でも、孤児たちが寝泊まりしていた上野駅の地下道が暗い重苦しい空気に覆われている理由も、この番組を見て分かったような気がします。空襲や敗戦の混乱において最も負の部分を負った人々が集まったのが上野駅であり、いわば、戦争がもたらす悲劇を象徴しているとも言えるのです。

その一方で、公園口を出ますと、そこには動物園のみならず、様々な美術館や博物館が緑の中に点在しており、都心にあってアートな雰囲気を楽しむことができる貴重なエリアとなっています。芸大界隈には、明治時代に造られたレンガ造りの趣のある建物等も残されており、思わずタイムスリップをしたような感覚に襲われます。上野とは、本来、江戸情緒をも残しつつ、文化の薫り高く、明治から現代にかけての日本芸術の足跡を辿ることができる場所なのです。

今日、上野駅は、東北地方への表玄関としての役割も終え、首都圏の主要駅の一つとなりました。近年、東京駅はリニューアルされましたが、上野駅だけは、時代から取り残されたかのように、戦争の傷跡を刻んだままその場に佇んでおります。歴史的な記憶を後世に伝えるために上野駅を‘遺跡’として保存すべし、とする声もあるかもしれませんが、‘癒し’という観点からしますと、そろそろ、再出発を試みてもよいように思えます。

その際には、この地で幼くして亡くなった孤児たちのために手厚い慰霊を行うと共に、犯罪等を怖れることなく、安心して人々が行き交うクリーンな駅を目指すべきです。アメ横等の再開発の在り方については議論が起きることでしょうが、上野駅の建て替えは、戦後復興の最終章に相応しいプロジェクトのように思えるのです。

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終わらない三つ巴の世界大戦

2018年08月15日 15時46分59秒 | 国際政治
第二次世界大戦とは、その三つ巴の構図において人類の戦争史にあって稀なケースに分類されます。1対1となる一般的な戦争では、武力を以って争いに決着が付けられれば戦争は終結しますが、三つ巴の場合には、1対2の構図による戦争が終わっても、すぐさま勝者の間での1対1、あるいは、別の組み合わせによる1対2の構図の対立が生じてしまうからです。

 第二次世界大戦を大まかにスケッチしますと、自由主義陣営、共産主義陣営、並びに、超国家主義陣営の三陣営による三つ巴において(超国家主義の‘超’は、ここでは‘スプラ’ではなく、自国の他地域への拡大志向を含む‘ウルトラ’の意味…)、1対2、即ち、枢軸国対連合国の構図で戦争が遂行されました。連合国には、自由主義陣営と共産主義陣営の両者が含まれていますので、1対2となるのです。第二次世界大戦と冷戦との関係については、断絶論と継続論があるものの、世界を舞台とした対立が当初から三つ巴であった点から見ますと、日本国の降伏を以って全ての対立関係に、イデオロギー対立を含む政治的な決着が付いたわけではありませんでした。超国家主義陣営が消えた後に、米ソ間の1対1の対立による二極構造が出現し、枢軸国陣営を吸収した自由主義陣営が共産主義陣営と鋭く対立するのです。こうした点を踏まえれば、説得力は、継続論の方が優っているかもしれません。

 それでは、1990年代におけるソ連邦の崩壊とそれに付随する冷戦終結は、第二次世界大戦を過去のものとしたのでしょうか。現状から判断すれば、終結からはほど遠いとしか言いようがありません。ロシアは、プーチン政権の下で共産主義から超国家主義へと変貌を遂げており、共産主義陣営の盟主を引き継ぎつつ、ソフトな超国家主義へと転換した中国と緩い陣営を形成しているように見えます(もっとも、米ロ連携の可能性もないわけではない…)。ここでも、1対2に構図の再来が予感されるのであり、さらに多極化が進めば、三つ巴を越えた四つ巴や五つ巴の構図もあり得るかもしれません。

 ジョージ・オーウェルが描いたかの『1984年』では、世界全体が3つの帝国によって支配されており、戦争はこれら三者の‘組み換え’によって永遠に続いています。オーウェルは、三つ巴の対立構図が、‘恒久平和’どころか、‘恒久戦争’をもたらすメカニズムとなり得ることを、小説を介して人類に警告したかったのかもしれません。そして、イデオロギー色が薄まった今日、世界大の三つ巴は、‘帝国’間の対立として『1984年』の構図に類似してくる可能性も否定はできないのです。冷戦終結後も続く新たな対立構図は、人類の未来に暗い影を落としています。

 現状を見ますと悲観に暮れてしまうのですが、希望が全くないわけではありません。先ず、確認すべきことは、共産主義であれ、自由主義、特に新自由主義であれ、そして、超国家主義であれ、何れも拡張主義を旨としており、国民国家体系を踏み躙っている点です。戦後の風潮として、国民国家を戦争の主因と見做し、同体系を早急に壊すことこそ平和への道とする考え方がありました。しかしながら、実のところ、行くべき道は逆であって、法の支配によって擁護される国民国家体系こそ、人類が失ってはならない平和の礎なのではないでしょうか。この認識さえあれば、すべきことは自ずと見えてくるのではないかと思うのです。

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‘グローバリズムの格差是正は再分配で’は正しいのか?

2018年08月14日 15時29分15秒 | 国際政治
 グローバリズムへの主要な批判点の一つは、富の少数への集中とそれに伴う格差の拡大です。こうしたグローバリズムの格差問題に対する解決策として提唱されているのが、再分配機能の強化です。‘再分配’の実施主体は、凡そ政府と民間の二つ大別され、前者はさらに国内レベルと国際レベルの二者に分かれます。しかしながら、何れの方法にも難点があるように思えます。

 最初に民間による再分配について見てみてみます。民間主体の再分配とは、富裕層による自発的な慈善事業や寄付活動を意味します。マイクロ・ソフトのビル・ゲイツ氏やフェイスブックのマイケル・ザッカーバーク氏など、アメリカのIT長者の多くはこの立場にありますが、富裕層の節税対策としての側面がある上に、支援や救済の対象は、これらの人々が自らの好みで選別するため、その恩恵がグローバリズムの負の影響を受けた全ての人々に及ぶわけではありません。この側面は、アメリカの中間層が破壊されるがまま冷たく放置された姿を見れば明らかです。それでは、政府による再分配機能を強化すれば、この問題は解決するのでしょうか。

 政府主体の解決方法の内、最も一般的な方法は国内における財政移転政策です。この方法は、累進課税制度を強化し、高額所得者に対して税率を高くする一方で、政府が、低所得層を中心に家計支援的な意味を持つ給付を増額させるという方法です。中間層が崩壊した諸国では、全国民に一律同額の給付を実施するベーシック・インカムもこの類型に含まれるかもしれません。グローバリズムの‘勝ち組’を抱える先進国や中国等の途上国にあっては一定の効果は期待できますが、それでもグローバル化の時代ですので、パナマ文書等が暴露したように、富裕層は、節税のためにタックスヘイブンに財産を隠したり、居住国を変えてしまう可能性があります。また、もとよりグローバリズムの煽りを受けて‘負け組’となってしまった国では高額所得者の層も薄く、財源の確保にさえ苦しむことになりましょう。

 何れにしても一国の単位での再分配政策には問題が山積しているのですが、その理由は、先述したように、グローバリズムのメカニズムが働くと、国境を越えて富が偏在、あるいは、少数に集中するところにあります。それでは、‘勝ち組’となった国が、‘負け組’の国に対して財政移転を行えばよいのでしょうか。この点は、EUが既に経験済みです。EUでは、共通税源の下で、地域政策など、様々な再分配機能を有する共通政策を実施してきました。ところが、ソブリン危機は今日なおも完全には収束しておらず、マクロン仏大統領によるさらなる財政統合の提案も、EUの再分配機能不足に対応したものです。メルケル独首相は賛意を示すものの、財政負担が増すドイツ国民がこの案に快く同意するとは思えません。ましてや、EUのような枠組もないにもかからず、中国が、アメリカの中間層のために再分配政策を実施するといった展開はシュールな幻想でしかないのです。

 以上に再分配に関する問題点を述べてきましたが、そもそも再分配は、人類にとって望ましいのでしょうか。この基本問題に立ち返ってみますと、あらゆる‘仕事’というものは、他者の必要とするものやサービスを提供することであり、所得とは、その対価を得ることですので、単なる給付金の提供には、人と経済や社会との繋がりがありません。社会保障や福祉政策としての意味での再分配政策には弱者救済という意義はありますが、一般の人々が何もせずして給付金のみを受取るという状態は、人類がこれまで経験していない未知の世界の出現なのです(再分配機能の‘権化’のような社会・共産主義でされ労働を基礎としている…)。そしてそれは、人々から生き甲斐やこの世に存在する意義を見失わせ、アパシーへと導くかもしれないのです。

 このように考えますと、グローバリズムに付随する格差問題に対する解決策の一つは、各々の‘仕事’の適正評価や収益分配の見直しかもしれません。AIに対して、経済全体の成長を実現する条件を問うてみれば、企業利益の分配は、株主配当よりも一般消費者でもある社員の給与に重くすべきと答えるでしょうし、CEOや投資家の報酬水準は、その業務内容からすれば高すぎる、と回答するかもしれません。富の集中が問題なのですから、その最もシンプルで合理的な解決方法とは、‘仕事’の意義に応じて、富の分散を積極的に図ることなのではないでしょうか(おそらく、AIもこのように‘考える’はず…)。

共産主義が誕生して以来、資本主義か共産主義かの二者択一を迫られる嫌いがありましたが、経済体制としては、共産主義にも、資本主義にも重大な欠陥があります。グローバリズムがもたらした格差問題は、国際社会、国、企業、個人によって織りなされる経済という活動分野の、将来に向けた在るべき姿をも問うているように思えるのです。

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真の‘グローバル・ルール’とは?

2018年08月13日 15時11分10秒 | 国際政治
国境の完全なる撤廃を志向する自由貿易主義やグローバリズムの問題点は、多様性に富む現実にあっては、内外格差や規模のみを理由に淘汰される‘負け組’を犠牲にしながらその利益が国境を越えて偏在するところにあります。偏在と言うよりも、少数への集中と表現した方が、より現実を映し出しているかもしれません。こうした問題に対する対処としては、国家による国境の内外調整機能を認めつつ、より調和的な発展を目指す‘最適貿易主義’、あるいは、‘貿易調和主義’といった考え方もあり得るのですが、それでは、国際社会には、最早、共通ルール=グローバル・ルールというものは不要となるのでしょうか。

 今日のWTOを枠組みでは、加盟各国による自由化措置の義務的実施こそがルールですので、政府に内外調整権限の放棄を迫る一方で、企業に対しては、境界線のない自由な活動空間を提供しています。言い換えますと、‘自由を失う国家’と‘自由を獲得する企業’との組み合わせであり、秩序全体としての‘規律ある自由’は実現していないのです。そこで、この状況を改善しようとすれば、国家、並びに、個人の権利保護を根拠としたグローバル・ルールを制定してゆく必要があるように思えます。

 国家を対象としたグローバル・ルールとは、各国の政府が護るべき共通の行動規範や自国保護のために取り得る権利の設定を意味します。現行のルールは自由化一辺倒ですが、相手国の経済に対して深刻なマイナス影響を与えるような自由化については、一定の歯止めがかかります。主として通商条約の内容が対象となりますが、手法としては、具体的な行為を個別に列挙して禁じたり、主権的な権利として認める方法もあれば、一定の範囲を定めて保護的手段を容認するレンジ設定方式もあります。二国間であれ、多国間であれ、通商条約の締結に際しては、何れの国の政府も、大量失業や一部産業の壊滅など、他国の国民に甚大な被害が及ぶ条件を付すことはできなくなるのです。

 一方、個人を対象としたグローバル・ルールとは、主として個人の生命や身体といった基本的権利を保護するために、主として企業を対象として設けられるものです(国際法によってグローバル・ルールが設定された場合、EU法のように直接効果を持たせるのは難しいので、各国は、国内法で同基準に合わせることに…)。現状では、‘ソーシャル・ダンピング’や‘環境ダンピング?’と称されるように、より規制が緩い国に製造拠点の集中が起きるケースが後を絶ちません。中国が“世界の工場”と化した一因として、その規制の甘さも指摘されており、地球環境の悪化をもたらすと共に、人々の生活や健康を害する原因ともなってきました。国家間の規制レベル格差は、自由化=開放政策に伴う悪しき要素移動の要因でもあるのです。労働基準や環境基準のみならず、知的財産権のさらなる保護や製品や食品等の安全性もグローバル・ルール化の対象となりましょう。また、今日、グローバル市場を背景に登場してきた米中の巨大企業による‘支配的地位’を考慮すれば、競争法の分野にあっても、新たなグローバル・ルール造りが必要とされているとも言えます。

 巧みな通商交渉に重点を置く‘最適貿易主義’、あるいは、‘貿易調和主義’にあっても、グローバル・ルールが否定されるわけではなく、むしろ、国際法秩序の基礎的な基盤があってこそ、各国とも安心して‘最適貿易主義’、あるいは、‘貿易調和主義’にもとづく国際通商体制に参加し得るようになるのかもしれません。この方向へと歩み出すには180度の発想の転換を要しますが、ここで一旦立ち止まり、固定概念を排して全人類に恵みと豊かさをもたらす道について改めて考えてみるのも、決して無駄なことではないように思えるのです。

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自由貿易主義から最適貿易主義へ?

2018年08月12日 15時40分04秒 | 国際政治
自由’という言葉は、人々が不条理な束縛を受けてきた時代を思えば、それ自体、輝きを放っています。戦後の自由貿易主義も例外ではなく、ブロック経済が第二次世界大戦の誘因となった反省から、戦後は、誰もが否定しえない国際通商体制の大原則となりました。しかしながら、無制限な自由が破壊と混乱をもたらすのは自明の理であり、今日、自由貿易主義、並びに、グローバリズムが懐疑に晒されている理由も、この‘自由放任主義’にあります。

 ここで自由貿易主義やグローバリズムを‘自由放任主義’と見なす理由は、両者とも、全ての諸国が、もの、サービス、資本、人、製造拠点、知的財産権、情報等の移動に一切の制限を外すことを、到達すべき理想的な状態と見なしているからです。関税障壁であれ、非関税障壁であれ、これらの立場からしますと、自由であるべき移動を阻害する悪しき障壁でしかないのです。このため、‘障害物は除外するに限る’とばかりに、戦後、GATT、及び、WTOを枠組みとして、各国とも、時には自らの産業や国民を犠牲にしながら‘障壁’の排除に励んできたのです。

戦後の国際社会は、貿易自由化、あるいは、グローバル化を金科玉条としてきたのですが、現実の世界には、GDP、産業構造、国民の生活水準、地理・気候条件、国民性、生活習慣など、様々な面で違いがあります。水が高きより低きに流れるかの如く、国境を低くし、流動性が高まれば、当然に製造拠点=雇用は労働コストの低い国へ、人は所得レベルの高い国へ、そして、富は資本収益率が高い国へと流れてゆきます。この結果、富や雇用は国境を越えて偏在化し、先進国でさえ中間層の破壊や国民生活の不安定化に見舞われることとなったのです。

古来、国境というものは、内外調整機能を担ってきました。国家間に格差が存在するにも拘らず、内外調整機能を担ってきた国境を取り除きますと、国家の政府でさえ、その流れを制御できなくなります。あるいは、国境なき単一化された世界では、グローバル企業のみが、自らの経営戦略に基づいて、部分的ではあれ、かろうじて人々を組織化、あるいは、コントロールすることになるのでしょうか(しかしながら、そのサービスの提供先である消費者側にはいかなる組織化も存在していない?)。こうした状況が、自由貿易主義やグローバリズムによって不利益を被る人々からの反感と批判を呼ぶのは自然な現象であり、イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ政権誕生の要因となったのは論を俟ちません。それでは、国際社会は、痛みを伴う改革を各国の国民に強いながら、現状の路線を維持すべきなのでしょうか。

’自由の最大化はリスクの最大化’、あるいは、’自由の果てには不自由が待っている’というパラドクシカルな側面を直視しますと、自由貿易主義やグローバリズムも、‘規律ある自由’へと変革してゆくべきかもしれません。そして、自由貿易主義に代わる新たな概念として、‘最適貿易主義’という方向性があってもよいのではないでしょうか。‘最適貿易主義’とは、国境の内外調整機能を各国に認めた上で、‘負け組’に犠牲を強いるゼロ・サムの発生をできる限り抑え、全ての国家や人々にポジティヴ・サムの利益をもたらす最適な貿易関係を目指すとする考え方です。関税や非関税障壁の撤廃が可能となるならば、それは、途上国諸国のボトム・アップ等により、要素移動が破壊的な激流とならない程度に経済格差が収斂される日を待つしかないのではないかと思うのです(それでも、国民国家体系との調和要請により、人の自由移動等は制限を受けるのでは…)。

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日米貿易協議-本音で交渉しては?

2018年08月11日 15時59分52秒 | 国際政治
日米協議、車や農業折り合わず 9月に持ち越し
 2017年1月のトランプ政権の発足は、関税政策が、国家の通商戦略の一環となってきた時代の再来を意味しています。戦後に成立した自由貿易体制では、関税政策そのものが時代の流れに逆行する‘悪者’と見なさる傾向にありましたが、関税障壁が有する内外調整の役割を考慮しますと、一概にトランプ政権の方針を非難はできないように思えるのです。

 今では殆ど死語と化していますが、関税自主権という用語は、日本国内では誰もが教科書で習った馴染み深い言葉です。江戸末期に米、英、仏、露、蘭の五か国と締結した安政の五条約は、条約により関税率が定められたため、日本国が、自由に関税率を変更することはできませんでした。このため、交易条件において日本国が不利となるケースもあり、領事裁判権の撤廃と並んで関税自主権の回復は、明治政府の悲願ともなったのです。こうした歴史は、一旦、不利な条件の通商条約を締結してしまうと、相手国があるだけに、簡単には是正することができない厳しい現実を示しています。

 今日では、軍事的圧力の下で相手国に不利な条約を課す不平等条約は影を潜め、一先ずは、対等の立場における交渉を経て双方の自発的な合意に基づいて通商条約が結ばれています。かくして砲艦外交も過去のものとなると共に、条約の内容も、戦後の自由貿易体制の成立と共に、双方が関税や非関税の撤廃や削減に努める方向へと向かいました。しかしながら、レッセフェール的な自由貿易、並びに、市場統合には自ずと勝ち組と負け組を造りだすメカニズムがあり、かつ、当事国間の経済レベルに格差が存在する現状を直視しますと、自由貿易協定であれ、経済協力協定であれ、その果実が全ての締約国に‘平等’にもたらされるとは限りません。たとえ自由貿易を基調とした‘平等条約’であったとしても、それぞれの国は所与の条件が違いますので、不平等な結果をもたらす可能性は極めて高いのです。トランプ政権が、困難が予測されるNAFTAの再交渉に着手し、TPPからの離脱を決意したのも、表向きは平等に見えるこれらの協定が、その実、‘不平等条約’であることに気が付いたからなのでしょう。

 そして、実のところ、この側面は、二国間条約でも多国間条約でも、変わりはありません。となりますと、先日開始された日米貿易協議は、奇妙な交渉と言わざるを得ないのです。何故ならば、アメリカ側が日米二国間でのFTAの締結を求める一方で、日本国側は、TPP11へのアメリカの復帰を念頭に、多国間でのFTAへの参加に拘っているからです。すなわち、双方とも、相手国に対しては自由化を求めながら、自国については自由化を拒絶しているのです。

こうした奇妙な展開は、建前と本音の不一致によって生じるのであり、円滑な通商交渉を阻害する要因ともなります。日米双方が利益を得る通商関係を築くには、むしろ、建前を捨てて本音で自らの立場を主張し、両国にとりまして双方が益となる‘最適な取引’、を模索したほうが、建前を貫いたばかりに生じる不要な犠牲を払わなくても済むのではないでしょうか。例えば、双方の保護対象分野を認めた上での、関税率の特別減免措置や現状維持、数量制限の容認、セーフガード条項の条件緩和、資源を含む相手国特産品の輸入拡大、政府調達における優先交渉権、再交渉の容易化あるいは定期化…を組み合わせるといった措置も考えられるのではないかと思うのです。

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米中貿易戦争はアメリカ農業が変わるチャンス?

2018年08月10日 15時35分47秒 | 国際政治
考え方に隔たり=日米貿易協議、初日会合
 米中貿易戦争の火蓋が切って落とされたことにより、中国を輸出市場としてきたアメリカの農家は苦境に立たされております。特に大豆を生産してきた農家への打撃が懸念され、11月の中間選挙への影響も予測されます。しかしながら、見方を変えれば、米中貿易戦争はアメリカの農業にとりまして、変革のチャンスとなるかもしれません。

 戦後、アメリカをはじめとした主要穀物生産国の要望もあり、GATT交渉の枠組であるケネディー・ラウンド辺りから、農産物は、国際通商体制において貿易自由化の対象に組み込まれることとなりました。大規模な穀物生産が可能な国ほど国際競争力に優りますので、以後、農産物輸出は、アメリカが他国と通商交渉を行うに際しても、重要な市場開放要求の項目となったのです。実際に、本日、アメリカのワシントンD.C.で始まった日米間の新貿易協議(FFR)でも、アメリカ側は、農産物市場のより一層の開放を日本側に求めたと報じられております。もしかしますと、アメリカ政府は、中国で失った輸出市場の代替を日本国に求めているのかもしれません。

 しかしながら、自由貿易において農産物、特に穀物といった一般的な作物が劣位産業となりますと、自国の農業が壊滅するリスクは、如何なる国においても共通しています。しかも、農業とは、古来、人々の生活と密接に結びついてきましたので、農村社会がコミュニティーとして息づいている国ほど、その影響は計り知れません。自由貿易理論は、こうした相手国の社会にまで及ぶ破壊的な効果については看過しているのですが、この他者犠牲の作用は、倫理面からして心のどこかで痛みを感じざるを得ない、自由貿易が内包する負のメカニズムなのです。

 価格競争において優位にあるアメリカ農業が輸出志向であることは理解に難くはないのですが、輸出志向を国内向け生産へと転換することも、上述した自由貿易の欠点を是正する一つの方法となるかもしれません。近年、アメリカでは健康ブームが起きており、国民の間で食に関する関心が俄かに高まっているそうです。ところが、新鮮な野菜やくだもの、あるいは、有機栽培された穀物等を日常的に買うことができるのは、一部の富裕層や中間層に限られており(もっとも、今日、中間層は大幅に減少…)、一般の国民は、安価なジャンクフードや大量生産された加工食品に頼った食生活に甘んじざるを得ないそうです。この結果、肥満やメタボリックシンドロームに悩まされ、健康寿命や寿命にまで悪影響を与えているのです。その理由は、健康の維持に役立つ付加価値の高い農産物の価格が高いことに依りますが、アメリカの農業形態の大規模志向、並びに、農業のシステマティックな大量生産に基づく‘製造業化’もまた、その原因に挙げることができます。

 こうした現状からしますと、アメリカ国民の大半が健康的な生活を送るためには、内需志向の農業改革は、実のところ、避けては通れない課題なのかもしれません。米中貿易戦争の煽りを受けて余剰となる大豆なども、危機をチャンスに変えてその健康効果をアピールし、アメリカの消費者のし好に合った製品を開発すれば(ダイズ・バーガーや豆乳ミルク製品など)、国内需要を喚起することができます。また、さらなる構造改革としては、従来の大規模経営から中小規模経営への積極的なシフトを図ると同時に、健康維持効果の高い多様な作物を安価で生産し(穀物よりも単価は高いのでは…)、都市部への迅速な流通も実現すれば、アメリカ国民の食生活も健康状態も大幅に改善されることでしょう。

輸出農産物については、気候や土壌によってアメリカでしか生産できない特産品に特化すれば、自由貿易の破壊力をも抑制することもできます。貿易が相手国の生産者を犠牲にすることなく相互の利益となるためには、国内産業の転換をも組み入れた、内外調和型の改革が必要なのではないかと思うのです。

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政経複体系モデルから読み解くポピュリズム-当然の反応では?

2018年08月09日 15時43分28秒 | 国際政治
福祉国家で知られるスウェーデンでは、9月9日に予定されている議会選挙において、反移民政策や反イスラム主義を掲げる政党の勢いが増しているそうです。マスメディアの多くは、こうした‘極右政党’の躍進については、ポピュリズムと断じて得てして批判的です。しかしながら、政治と経済における国際体系を別物と見なす複体系モデルからしますと、ポピュリズムは、何の不思議もない自然な反応のように思えるのです。

 マスメディア、否、大半の識者は、ポピュリズムを衆愚政治の一種と捉えており、現状に不満な人々がその鬱積を解消するために、特定の人々を‘外敵’に仕立てて排斥しようとする‘感情的な行為’と見なしています。今日のヨーロッパにあって、‘外敵’とは、難民・移民やこれらの人々が持ち込むイスラム文化であり、そして、さらにその奥には、人件費の削減という合理的な経営判断に基づいて移民を呼び込むグローバリズムへの反感があるのでしょう。マスメディアの批判も、人道的な見地からの難民保護やイスラム擁護というよりも、‘本丸’であるグローバリズムが拒絶されることを怖れているのかもしれません。

 かくしてマスメディアは、‘愚か者たちのポピュリズム’というレッテルを張ろうとするのですが、そのポピュリズム批判もまた、その焦りとも見える必死さからしますと、どこか感情的な印象を受けます。実際に、ポピュリズム批判にも、誰もが合理的と見なす根拠は見当たらず、その主張に含まれる排他性を目の敵にして、差別や人権侵害として糾弾しているように映るのです。

 ポピュリズムとグローバリズムとは、双方ともが感情的批判を闘わせているように見えるのですが、冷静になって考えてみますと、この対立構図は、政治分野における国民国家体系と経済文化におけるグローバル体系との相克として理解することができます。極大まかにそれぞれの特徴を理念型として述べれば、国民国家体系は、閉鎖・分割型であり、グローバル体系は、開放・単一型の体系です。前者は、およそ人類の分化過程において多様化した民族的な枠組みに沿って地理的にも分割されており、国境管理を備えた、即ち、閉じられた複数の主権国家によって構成されています。その一方で、後者には境界線が存在しないと意味において開かれた体系であり、自由自在に移動・運営可能な企業がその活動単位となります。政経両体系はおよそ正反対の特性を有しており、両者の不整合性こそ、今日、全世界において散見される、移民問題をはじめとした様々な摩擦や軋轢が発生する要因として理解されるのです。

こうした複体系モデルから見ますと、ポピュリストとグローバリストは、双方とも、自らの体系のみに依拠しながら相手方の体系を批判しており、両者の感情的な言い合いは平行線を辿るばかりとなりましょう。否、ポピュリストに対する無理解においては、グローバリストの方が深刻かもしれません。そして、双方ともが、相手方の体系を葬り去ろうとしますと、政治と経済の狭間で、全人類が引き裂かれてしまう結果を招きかねないのです。両体系の違いを認めた上で上手に調和点を探ることこそ、感情的な批判合戦を繰り広げるよりも、余程、建設的なのではないかと思うのです。

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グローバリズムのために民主主義が変わるべきなのか?

2018年08月08日 15時54分53秒 | 国際政治
今日の世界は、アップル、グーグル、フェイスブック、アマゾンの4強、即ち、AGFAと総称されるグローバル企業群によって‘支配’されつつあるとする指摘があります。マイクロソフトを加えれば、‘ビッグ・ファイブ’となるそうですが、中国も負けてはおらず、百度、アリババ、テンセントの三者による三強BATがひしめいており、さらに、TMDと称されるニュースサイト運営の今日頭条、生活サービスの美的点評、配車アプリの滴滴出行が新三強の座を窺っていると言うのです。

 これらの巨大企業に共通する点は、社会インフラとも言えるプラットフォームを構築し、人々が、最早それなくしては生活できないように仕向ける、という独占的な手法にあります。製造業とは違い、情報・通信サービスの分野は、ビジネスのみならず、プライベートを含めて人々の行動やコミュニケーションと密着していますので、否が応でも、その利用は、個人情報の提供を伴いますので、自らの全てを何者かに知られてしまう、と言う意味において、人々に‘支配’や‘監視’される恐怖を抱かせるのです。ジョージ・オーウェルの『1984年』のように…。

 情報通信サービスの分野に限らず、グローバル化した企業は、原料の調達から販売に至るまで、全世界をグローバル市場とみなして最適の配置を目指しますので、当然に、政治分野における国民の枠組みとの間に‘ズレ’が生じます。経済分野におけるグローバリズムは、政治的な国民国家体系とは別の体系なのです。

民主主義国家の政府は、自国を外部からの攻撃から護り、国民生活の安定や治安の維持に努める責務を担っており、この目的のために権力を国民から負託されていますが、グローバル企業は、国家を枠組みとした国民に対して責任を負っているわけではありません。否、国境を越えて全世界に散在している社員に対して、雇用契約上の責務を負っているに過ぎないのです。仮に、何らかの問題が発生した場合、政府は、国民本位でその解決を図るものですが、グローバル企業は、グローバル市場における自らの利益確保に則した解決を求めることでしょう。政府と企業では、両者が護ろうとする対象は、自ずと違いがあるのです。

 かくして、経済分野におけるグローバリズムの進展は、政治と経済の枠組の‘ズレ’という深刻な問題をもたらしますが、この不整合性に対する解決策として、民主主義の修正を求める声も聞かれます。現実の世界がグローバリズムの波に抗い難いならば、民主主義の方を変えるべきとする見解です。しかしながら、こうした経済優先の解決は、人類に望ましい未来を約束するのでしょうか。民主主義の修正とは、国民の参政権に制限を加え、政策決定過程にグローバル企業を参加させることを意味するとしますと(もっとも、ロビー活動により、非公式のルートで巨大企業は既に政策決定に影響を与えている…)、やはり、人類は、AGFA、BAT、並びに、MTDといった巨大企業によって、プライベートまで含めて‘支配’されてしまうこととなりかねません。全ての諸国の政治に参加する権利を得たこれら企業のCEO、創業者、大株主、そして、投資家達が、人類の運命を操ってしまうのです。

 このように考えますと、グローバリズムへの対応としての民主主義の修正は、ごく一部の人々による全人類の全面的な‘支配’を招きくリスクがあります。むしろ、こうしたディストピア的な未来は未然に防ぐべきであり、民主主義を損ねない形での国民国家体系とグローバル市場経済との調和を図るべきなのではないでしょうか。修正を施すとすれば、それは、行き過ぎたグローバリズムの方なのではないかと思うのです。

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現代において恩赦は必要なのか?-素朴な疑問

2018年08月07日 14時26分29秒 | 日本政治
懲戒免除「あり得ぬ」=菅官房長官
日本国政府は、新天皇の即位に際して恩赦を実施する方針のようです。公務員の懲戒処分も免除の対象となるとの報道に対し、即、菅官房長官が否定するといった一幕もありましたが、ここで考えるべきは、今日における恩赦の存在意義なのではないかと思うのです。

 恩赦とは、主として国家的なお祝い事や慶事等に際して、統治者が、罰を受けている者に対して罪を減じたり、刑務所から放免するといった特別の減免措置をとることを意味します。おそらく、古今東西を問わず、こうした制度は世界各国において存在していたのでしょうが、近代国家の制度としての恩赦は、西欧の君主制を起源としています。共和政を採用するアメリカでも、大統領に同権限を認めています(アメリカ合衆国憲法第2条2節1項)し、日本国憲法では、天皇の国事行為を定める第7条6と内閣の職務を規定する第73条7に恩赦を扱っており、政府が“大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権”の決定者であり、天皇は、これらの決定を認証するものとされます。

 現代国家にあっても恩赦は一般的な制度でありながら、その存在意義を問う議論は、必ずしも活発であったとは言えないようです。しかしながら、原点に返って考えても見ますと、恩赦とは、現代国家にあっては不要な制度である可能性もないわけではありません。何故ならば、合理的な理由が見当たらないばかりか、むしろ、不条理、あるいは、国民にとりましては危険な制度となりかねないからです。

 恩赦という言葉からは、統治者による刑罰に苦しむ者に対する慈悲の表れであり、どちらかと申しますと、プラスのイメージを受けます。おそらく、権力分立が制度的に確立しておらず、権力者が裁判権をも行使していたり、宗教上の罪が存在していたり、あるいは、権力者が裏で糸を引く恣意的裁判が横行していた時代には、政治犯、宗教的な異端者、及び冤罪による無実の人々が、牢獄にあって鎖で繋がれていました。‘魔女狩り’や異端審問さえあった時代には、恩赦は、慈悲深い君主から差し伸べられた罪無き人々への救いの手という意味があったのでしょう。恩赦の存在意義とは、いわば、不当な裁判からの国民救済にあったとも言えます。

 一方、今日では、共産主義国等を除いては、冤罪が100%なくなったとは言えないまでも、各国とも、司法の独立が保障され、かつ、政治犯や宗教犯も存在していません。このことは、恩赦の存在意義が著しく希薄化していることを意味します。しかも、凶悪な犯罪や反社会的な行為を行った者が恩赦によって放免されるとしますと、一般国民は治安の悪化を心配せねばなりませんし、犯罪被害者の立場からすれば、加害者の罰の軽減は納得がいかないことでしょう。また、恩赦とは、国家的な特別の出来事が存在する場合に実施されますので、受刑期が運よく当該出来事と当たった人のみが対象となります。同じ罪を犯しても、時の偶然によって罰の方には違いが生じるのですから、不公平と言えば不公平な制度なのです。加えて、権力分立の観点からすれば、司法機関による決定を行政機関が事後的に覆す、あるいは、取り消す効果が生じますので、いよいよもって危ない制度と言わざるを得ないのです。

 以上に述べた諸点からしますと、恩赦は、既に時代遅れの制度と化しているのではないでしょうか。現代にあっては、恩赦の恩恵を受ける極一部の人以外、国民の誰も歓迎もしなければ、意義も見いだせないのですから(何故、犯罪者が特別に許されるの?という素朴な疑問…)。新天皇即位に際しての恩赦については、むしろ、その存在意義の低下に照らし、同制度の根本的な見直しを議論するチャンスとするべきではないかと思うのです。

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核兵器禁止条約は「核兵器ない世界」への戦略ミス?

2018年08月06日 15時21分55秒 | 国際政治
「核兵器ない世界」主導=禁止条約に触れず―安倍首相・広島原爆忌
本日8月6日、人類史上はじめて広島に原爆が投下されてから73年が過ぎ、今年も、被爆地では平和祈念式典が開催されました。ところが、同式典に参列した安倍首相のあいさつに昨年7月に採択された核兵器禁止条約に触れる件がなかったことから、一部マスメディアや被爆者の間から落胆の声が上がっています。しかしながら、この批判、どこか的外れのように思えます。

 その理由は、核兵器禁止条約は、真剣に「核兵器ない世界」の実現を目指すならば、戦略ミスである疑いが濃いからです。核兵器禁止条約が成立した結果、国際社会は、NPT(核拡散防止条約)と核兵器禁止条約が併存するという奇妙な事態に陥っております。同一の行為をめぐって、ある法では合法となり、他の法では違法となる状況は、法空間の分裂を意味しており、全世界を枠組みとした一つの国際法秩序の維持という観点からすれば、‘あってはならない事態’、即ち、国際法における法域の崩壊なのです。

 核兵器禁止条約を主導したICANの戦略は、核保有国を含む全ての諸国を加盟させれば、事実上、NPTは自然消滅し、同条約に一本化するというものであったのでしょう。しかしながら、核保有国が自らの特権を放棄するような条約に加わる可能性は極めて低く、非現実的な戦略と言わざるを得ません。しかも、一旦、核兵器禁止条約に加盟しますと、核保有国は同条約の非加盟国であるため、核保有国に対し、同条約を根拠に是正を求める権利も機会もありません。核兵器禁止条約は、この意味においても、非核保有国の安全を危険に晒しているのです。

 こうした理想主義に基づく核兵器禁止条約の欠陥を考慮しますと、仮に「核兵器ない世界」への道を探るならば、NPTの枠組の中で同条約の改正を目指した方が、遠回りのように見えても、より現実的であったように思えます。この場合、核保有国の条約上の義務や制裁を重くすべきであり、中国やロシアのように、核ミサイルの照準を他国に合わせて恐喝するといった行為を取り締まる必要があります。また、これらの諸国からのイランや北朝鮮への核技術の流出も疑われていますが、核保有国による核拡散行為に対しても厳しい制裁を科すべきでもあります。そして、IAEAによる無条件核査察の受け入れにより、全ての非核保有国の非核化が完全に確認される段階に至って、初めて核保有国も、核の全面的な放棄に踏み込むことができましょう。言い換えますと、非核保有国の声を反映させる形で、最終段階における核保有国の非核化をNPTに義務として書き込むのです(現状では、核保有国による核軍縮への取組み義務に過ぎず、かつ、中国はこうした義務に対して無視を決め込んでいる…)。

 以上に述べたように、ステップ・バイ・ステップ方式によるNPT改正の方が、核兵器禁止条約よりも遥かに現実的で安全な路線なのですが、それでも、「核兵器ない世界」が実現は遠い道のりです。核保有を‘特権’と見なす中国やロシアは核保有国の義務強化に難色を示すでしょうし、核保有国には、国連安保理常任理事国の他に、インド、パキスタン、イスラエルといったNPT非加盟国が存在しており、北朝鮮も一方的な脱退を宣言しているからです。全世界の諸国を条約に加盟させることの困難さは、NPTと雖も乗り越えるのが難しい壁なのです。

何れにしても、核兵器禁止条約は、現状においては、ただでも難しい核問題をさらに複雑にする攪乱要因でしかないように思えます。ICANは、NPT改正という地道な方法を選択しなかった理由を、一体、どのように説明するのでしょうか。

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山根会長問題と多文化共生主義-移民政策の行方

2018年08月05日 15時11分09秒 | 社会
 不正行為や権力私物化等の廉で告発されている日本ボクシング連盟の山根明会長をめぐっては、ネット上で様々な情報が飛び交っております。その中の一つに、同氏は、韓国から帰化して日本国籍を取得した韓国系日本人というものがあります。

 紋付の羽織袴姿で映る写真もあり、マスメディアは同氏の出身地を大阪堺市と報じていますが、出身地が韓国というのは、官報に掲載された帰化情報に基づいておりますので、どうやら事実のようです。元の姓名は文甲明であり、現在、釜山市に同氏の兄弟等親族が棲んでいるそうです。そして、山根会長の出身地が韓国であったとする事実は、移民政策にも関連する一つの重要な問題を提起しております。それは、多文化共生主義を採用した場合、異文化をそのまま日本の国に受け入れることができるのか、という文化受容の問題です。

 同会長の言動を観察しますと、そこには、朝鮮半島に根付いてきた社会通念ともいうべき文化的特徴を見出すことができます。例えば、同氏は、韓国出身、あるいは、自身と縁のあったボクサーを優遇し、審判まで脅したとされていますが、こうした権力者による身内贔屓は、朝鮮半島や中国大陸においては、誰もが行っている当然の行為なそうです(結果として逆差別が生じ、日本人が不遇となるか、排斥されてしまう…)。また、李朝時代の両班よろしく、地位の高い人物が権力を私物化し、周囲の人々を‘奴隷’の如く扱き使うのも当たり前であり、至る所で‘暴君’が君臨しています。北朝鮮の世襲独裁体制は、まさに、この朝鮮半島の政治文化を体現しているとも言えるかもしれません。スポーツに対する考え方も、如何なる手段を用いようとも勝つことこそが全てであり、何事にも‘道’を求め、対戦相手に対して敬意を払いつつ、自己鍛錬と修養の場と捉える日本国の文化とは対称をなしているのです。

 多文化共生主義に従えば、日本国は、こうした韓国・朝鮮流の社会や組織の在り方をも受容せねばならなくなります。否、実際に、同氏の会長就任と運営により日本ボクシング連盟が朝鮮半島流に染まってしまったからこそ、異文化との摩擦問題、あるいは、異文化による在来文化の排除問題が発生したとも言えましょう(同様の問題は、日本ボクシング連盟以外でも起きているかもしれない…)。多文化共生主義は、全ての文化に対して平等の価値を与えていますが、現実には、人命や他者の尊厳を軽視したり、社会腐敗を助長したり、強者が弱者をいたぶるのを許すような非人道的な文化も、世界には無いわけではありません。人道、そして、善き社会の在り方という視点から見ますと、日本国が無批判に海外の文化を受け入れることは、社会の腐敗と倫理的な崩壊を招きかねないのです。崇高な理想を掲げる平等主義者であっても、反道徳的、反社会的、あるいは、非人道的な行為を‘常識’とする文化にまで寛容であれ、と説くとは思えません。如何なる理由があれ、善悪の価値判断を放棄したのでは、人は人ではなくなります。

古来、日本国は、海外から異文化を受け入れるに際して、その良し悪しを慎重に吟味し、良きものは受け入れ、悪しきものは拒絶してきました。ところが、多文化共生主義は、健全で安全な社会を保つための、賢明さと洞察力を要する取捨選択の作業をも否定しているのです。多文化共生主義とは、いわば、‘隠れた危険思想’とも言えるのではないでしょうか。山根会長問題で露呈した現実的なリスクを目の前にしますと、日本国の善き社会秩序の再建に向けた現状の改善、並びに、多文化共生主義の根本的な見直しこそ急務なように思えるのです。

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北朝鮮のICBM極秘開発疑惑-アメリカが手遅れとなるリスク

2018年08月04日 15時17分34秒 | 国際政治
北朝鮮の核開発継続を明記 安保理の専門家報告書
北朝鮮の非核化をめぐっては、トランプ米大統領は、金正恩委員長に信頼を寄せているためか、楽観的な見通しをもっているようです。その一方で、当の北朝鮮は、弾道ミサイルの発射施設の破壊を実行しつつも、秘かにICBMの製造を進めているとする疑惑が浮上しています。果たして両国の動きには、どのような結末が待っているのでしょうか。

 国際社会が最も恐れるべき事態とは、6月12日の米朝首脳会談は、北朝鮮による時間稼ぎの一環に過ぎず、早ければ数か月以内に米国本土に届くICBMを北朝鮮が手にしてしまう展開です。トランプ大統領の自信に満ちた発言からしますと、第一回目の米朝首脳会談では、金委員長は、少なくともカメラが回っていない場所では、徹頭徹尾、低姿勢で交渉に臨んだのかもしれません。口約束であれ、CVIDによる非核化に全面的に合意するのみならず(もっとも、最近、CVIDという用語は使われなくなっているらしい…)、アメリカ陣営の一員として中国に対峙する‘決意’までも示した可能性さえあるのです。

 北朝鮮側の大幅な対米譲歩の背景には、ICBMの開発の遅れがあったことは想像に難くありません。核開発を開始した当初は、核兵器の開発に成功しさえすれば、アメリカを交渉の場に引出し、対等の立場で渡り合えると考えたのでしょう。しかしながら、核保有のみでは対米脅迫の威力に乏しく、アメリカ本土を核攻撃し得る核弾頭の小型化とその運搬手段であるICBMを開発しないことには所期の目的を達成できないことに、遅ればせながら気が付いたのかもしれません。そこで、急ぎ、核弾頭の小型化、並びに、ICBM等のミサイル開発に着手したのでしょうが、これらの開発と配備が完了する前に、アメリカによって計画が把握される事態となり、スケジュールに狂いが生じたとも考えられます。結局、米朝首脳会談に応じざるを得ない立場に追い込まれ、6月12日の当日を迎えたと推測されるのです。

 このように推理しますと、北朝鮮は、9月開催とも噂されている次回米朝首脳会談までの間に、何としても、ICBMの開発を完了させようとすることでしょう。そして、第二回目の米朝首脳会談の席では、金委員長は、トランプ大統領に対して対米核攻撃能力を脅迫材料として、自国の要求を突き付けてくるものと予測されます。乃ち、朝鮮戦争を速やかに終結させると共に、米朝平和条約を締結せよ、と…。しかも、非核化問題は最早話題にもあげず、北朝鮮側は、同国を核保有国として正式に認めるよう求めることでしょうし、この時には‘騙された方が悪い’と高笑いしつつ、予定通り中国陣営に寝返っているかもしれません。

 国連安保理の北朝鮮制裁委員会の専門家パネル報告書では、北朝鮮による核・ミサイル開発の継続を明記しているそうです。しかしながら、上記の予測が現実ともなれば、当事国となるアメリカのみならず、国際社会は、重大な岐路に立たされることになるのではないでしょうか。

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日本ボクシング連盟山根明会長の恐るべき‘逆切れ’-真の社会人とは

2018年08月03日 14時56分05秒 | 社会
山根明会長「生意気だよ!」村田諒太の批判にムカッ/BOX
昨今、スポーツ界をめぐる不祥事が相次いでおりますが、日本ボクシング連盟でも、‘終身会長’の地位に座る山根明会長が、都道府県連盟幹部や元選手ら333人から告発されるという前代未聞の事態が発生しております。同会長は、出演したテレビ番組において自らを批判した五輪金メダリストの村田諒太選手に対して‘生意気だよ’と激高したそうですが、この態度、氏の無自覚ぶりを見ずから露呈することになったのではないかと思うのです。

 山根会長が村田選手の批判において‘カチン’きたのは、「悪しき古き人間達」という表現であったようです。そこで同会長は、未熟であった村田選手を金メダリストに育てたのは同会長自身であったことを強調し、同選手が恩を仇で返しているような印象を持たせた末に、「あの選手はまだ社会人じゃない。現役のボクサーとして、言うべき話じゃありません」と‘逆切れ’したそうです。しかしながら、実のところ、山根会長の思惑とは逆に、視聴者の多くがこの山根氏の言葉に‘カチン’ときたのではないでしょうか。勇気を振り絞って告発した333人と思いを同じくして。

 おそらく、山根会長の認識では、‘社会人’とは、たとえ上司が不正や犯罪に手を染めていても、過去の恩義や組織上の上下関係に配慮して、黙って見過ごすか、むしろ、積極的に上司を庇うべき存在なのかもしれません。この‘山根基準’からしますと、選手による会長批判は‘社会人’にはあるまじき行為なのでしょう。しかしながら、果たして、組織に絡め取られ、良心を曲げるような悪の黙認は、‘社会人’と呼ぶにふさわしいのでしょうか。実際に、同会長は、助成金の不正流用のみならず、暴力団との関係も明らかとなっています。こうした行為は、反社会的行為と呼ばれており、‘社会人’の行為ではないことは確かなことです。‘社会人’の一般的な定義が、‘ルールや規範を守り、社会の一員として善良に生きる人’であるとしますと、山根会長自身が、‘スポーツマン’という以前に‘社会人’でもないと言わざるを得ないのです。

 しかも、山根会長は、自らが‘社会人’ではないことのみならず、その反倫理的行為から、告発者のみならず日本国民の多数から強い反発を買っていることに対しても無自覚です。仮に、他者の感情を敏感に読み取ることができる人物であるならば、‘逆切れ’と見なされるような反応は慎むはずです。自ら火に油を注ぐような対応をとるところにも、社会性に関する氏の資質に疑問が湧いてくるのです。もしかしますと、山根会長は、人徳や実績、あるいは、人々からの信頼というよりも、暴力と脅しとお金によって現在の地位までのし上がったのかもしれません。仮に、氏の人柄がこのようなものであれば、‘悪しき古き人間達’という批判は、多くの人々が共有するところなのではないでしょうか。

 ルールに則って正々堂々と闘うことを良しとするスポーツマンシップを育てるべき立場の人々による反社会的行為は、スポーツの存在意義をも深く静かに蝕んでいます。スポーツとは、心の教育をも伴うべきであり、病気で入院中と報じられていたにも拘わらずテレビに出演して自己弁護に熱弁をふるい、開き直る山根会長の姿は、社会人とも、況してや社会の規範とも到底言えないように思えるのです。

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自由貿易主義の盲点―‘中国企業群’がグローバル市場独占する?

2018年08月02日 15時30分24秒 | 国際政治
自由貿易主義、あるいは、レッセ・フェール的グローバリズムは全ての参加国に利益をもたらすとする一種の‘予定調和説’は、今日に至るまで人々に固く信じられてきた‘ドグマ’です。しかしながら、絶対視されてきたこの‘ドグマ’さえ、国際レベルにおける著しい貿易不均衡と国内レベルにおける所得格差拡大という現実を目の前にして、漸く疑問が寄せられるに至っています。

 自由貿易主義懐疑論の根拠の一つとして挙げられるのは、比較優位説を基礎とする同理論には規模の優位性に関する考察が欠如している点です。そして、この欠如は、現実の国際経済において、グローバル市場を独占しかねない中国企業の巨大化という忌々しき事態を招く要因としても働いています。

 本日の日経新聞朝刊にも、中国の競争当局による恣意的競争法の運営に関する記事が掲載されておりました。同国当局は、競争法を自国企業に有利な方向に戦略的に活用しており、外国企業に対しては、不利な判断が目立つのです。例えば半導体部門を見れば、最近では米クアルコムによるオランダNXPセミコンダクターズの買収が阻止されましたし、東芝メモリー売却に対して突然に不承認から許可に転じたのも、日本の産業、並びに、日系企業の弱体化という戦略的意図があったと指摘されています。すなわち、中国の独占禁止法の運用は、公平・公正な立場から市場の競争秩序を維持することを目的となしてはおらず、グローバル市場における中国企業の競争力強化の手段に過ぎないのです。

 ところが、現状では、国際社会は、こうした中国の‘戦略的競争政策’を制御する有効な手段を持っていません。競争法は、EUを例外として国家レベルで国内法として施行されていますので、中国当局による恣意的競争法の運営はそのまま放置されているのです。しかも、規模の優位性の問題に照らして見れば、国家間の経済規模の違いは、13億の市場を擁する中国企業をさらに有利な立場に押し上げます。中小規模の国では国内シェア第一位の企業であっても、中国市場において独占的な地位にない劣位の中国企業に対してさえ、顧客数、資金力、人材、研究・技術開発力など、あらゆる面において太刀打ちするのが困難です。国境なきグローバリズムにあって、中国企業は、全世界からこれらを容易に調達できるのですから、中国企業の膨張を抑えるのは至難の業なのです。

 巨大化する中国企業に対抗するためには、複数の国内企業が合併して規模を拡大する方法もありますが、競争秩序の維持を最優先とする自国の競争当局から阻止される可能性があります。あるいは、海外企業と合併する道もありますが、大型合併ともなりますと、今度は、ライバル潰しに躍起になっている中国の競争当局から阻止されるかもしれません。グローバル化の時代は大競争時代とも称されるように、競争の激化が予測されているものの、現行の国際経済体制では規模の優位性が作用し、‘巨大中国企業群’による事実上のグローバル市場の独占ともなりかねないのです。

 それでは、こうした事態を防ぐ方法はあるのでしょうか。ドイツでは、既に中国企業による自国企業の買収に対して安全保障上の理由から制限を加える方向に舵を切り替えており、この買収規制に関する政策方針は、アメリカのトランプ政権とも共通しています。第一の方法は、個別の国家による規制強化です。現状では、さらに踏み込んで既に巨大化している中国企業に対して分割を命じる競争当局は出現していませんが、自国市場に影響を与えるケースについては自国の法律を適用するとする効果主義に基づけば、国内法の域外適用に踏み出す国も現れるかもしれません。また、第二に考えられる方法は、WTO改革に際して、各国の市場規模の違いに考慮した競争法に関する規定を設けることです。乃ち、競争状態を維持すべく、企業規模に対する一定の制限をグローバル・ルールとして設け、WTO、あるいは、新設する‘世界競争機関?’に国際レベルの競争法の執行に当たらせるという案です。何れにしても、国家レベルの競争法とグローバル市場との間には齟齬、あるいは、不整合性があり、それが、中国の国家戦略に利用されているのです。

 これらの他にも様々なアイディアはあるとは思いますが、今日という時代は、自由貿易や国境の開放を闇雲に推し進めるよりも、これらが内包する欠点にこそ注意を払うべき時代のように思えます。中国共産党をバックとした‘中国企業群’がグローバル市場を凡そ独占する未来を人類の理想郷とみなす国も人も、中国を除いて世界には殆ど存在しないのですから。

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