万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

自由貿易主義から最適貿易主義へ?

2018年08月12日 15時40分04秒 | 国際政治
自由’という言葉は、人々が不条理な束縛を受けてきた時代を思えば、それ自体、輝きを放っています。戦後の自由貿易主義も例外ではなく、ブロック経済が第二次世界大戦の誘因となった反省から、戦後は、誰もが否定しえない国際通商体制の大原則となりました。しかしながら、無制限な自由が破壊と混乱をもたらすのは自明の理であり、今日、自由貿易主義、並びに、グローバリズムが懐疑に晒されている理由も、この‘自由放任主義’にあります。

 ここで自由貿易主義やグローバリズムを‘自由放任主義’と見なす理由は、両者とも、全ての諸国が、もの、サービス、資本、人、製造拠点、知的財産権、情報等の移動に一切の制限を外すことを、到達すべき理想的な状態と見なしているからです。関税障壁であれ、非関税障壁であれ、これらの立場からしますと、自由であるべき移動を阻害する悪しき障壁でしかないのです。このため、‘障害物は除外するに限る’とばかりに、戦後、GATT、及び、WTOを枠組みとして、各国とも、時には自らの産業や国民を犠牲にしながら‘障壁’の排除に励んできたのです。

戦後の国際社会は、貿易自由化、あるいは、グローバル化を金科玉条としてきたのですが、現実の世界には、GDP、産業構造、国民の生活水準、地理・気候条件、国民性、生活習慣など、様々な面で違いがあります。水が高きより低きに流れるかの如く、国境を低くし、流動性が高まれば、当然に製造拠点=雇用は労働コストの低い国へ、人は所得レベルの高い国へ、そして、富は資本収益率が高い国へと流れてゆきます。この結果、富や雇用は国境を越えて偏在化し、先進国でさえ中間層の破壊や国民生活の不安定化に見舞われることとなったのです。

古来、国境というものは、内外調整機能を担ってきました。国家間に格差が存在するにも拘らず、内外調整機能を担ってきた国境を取り除きますと、国家の政府でさえ、その流れを制御できなくなります。あるいは、国境なき単一化された世界では、グローバル企業のみが、自らの経営戦略に基づいて、部分的ではあれ、かろうじて人々を組織化、あるいは、コントロールすることになるのでしょうか(しかしながら、そのサービスの提供先である消費者側にはいかなる組織化も存在していない?)。こうした状況が、自由貿易主義やグローバリズムによって不利益を被る人々からの反感と批判を呼ぶのは自然な現象であり、イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ政権誕生の要因となったのは論を俟ちません。それでは、国際社会は、痛みを伴う改革を各国の国民に強いながら、現状の路線を維持すべきなのでしょうか。

’自由の最大化はリスクの最大化’、あるいは、’自由の果てには不自由が待っている’というパラドクシカルな側面を直視しますと、自由貿易主義やグローバリズムも、‘規律ある自由’へと変革してゆくべきかもしれません。そして、自由貿易主義に代わる新たな概念として、‘最適貿易主義’という方向性があってもよいのではないでしょうか。‘最適貿易主義’とは、国境の内外調整機能を各国に認めた上で、‘負け組’に犠牲を強いるゼロ・サムの発生をできる限り抑え、全ての国家や人々にポジティヴ・サムの利益をもたらす最適な貿易関係を目指すとする考え方です。関税や非関税障壁の撤廃が可能となるならば、それは、途上国諸国のボトム・アップ等により、要素移動が破壊的な激流とならない程度に経済格差が収斂される日を待つしかないのではないかと思うのです(それでも、国民国家体系との調和要請により、人の自由移動等は制限を受けるのでは…)。

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