万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

現代において恩赦は必要なのか?-素朴な疑問

2018年08月07日 14時26分29秒 | 日本政治
懲戒免除「あり得ぬ」=菅官房長官
日本国政府は、新天皇の即位に際して恩赦を実施する方針のようです。公務員の懲戒処分も免除の対象となるとの報道に対し、即、菅官房長官が否定するといった一幕もありましたが、ここで考えるべきは、今日における恩赦の存在意義なのではないかと思うのです。

 恩赦とは、主として国家的なお祝い事や慶事等に際して、統治者が、罰を受けている者に対して罪を減じたり、刑務所から放免するといった特別の減免措置をとることを意味します。おそらく、古今東西を問わず、こうした制度は世界各国において存在していたのでしょうが、近代国家の制度としての恩赦は、西欧の君主制を起源としています。共和政を採用するアメリカでも、大統領に同権限を認めています(アメリカ合衆国憲法第2条2節1項)し、日本国憲法では、天皇の国事行為を定める第7条6と内閣の職務を規定する第73条7に恩赦を扱っており、政府が“大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権”の決定者であり、天皇は、これらの決定を認証するものとされます。

 現代国家にあっても恩赦は一般的な制度でありながら、その存在意義を問う議論は、必ずしも活発であったとは言えないようです。しかしながら、原点に返って考えても見ますと、恩赦とは、現代国家にあっては不要な制度である可能性もないわけではありません。何故ならば、合理的な理由が見当たらないばかりか、むしろ、不条理、あるいは、国民にとりましては危険な制度となりかねないからです。

 恩赦という言葉からは、統治者による刑罰に苦しむ者に対する慈悲の表れであり、どちらかと申しますと、プラスのイメージを受けます。おそらく、権力分立が制度的に確立しておらず、権力者が裁判権をも行使していたり、宗教上の罪が存在していたり、あるいは、権力者が裏で糸を引く恣意的裁判が横行していた時代には、政治犯、宗教的な異端者、及び冤罪による無実の人々が、牢獄にあって鎖で繋がれていました。‘魔女狩り’や異端審問さえあった時代には、恩赦は、慈悲深い君主から差し伸べられた罪無き人々への救いの手という意味があったのでしょう。恩赦の存在意義とは、いわば、不当な裁判からの国民救済にあったとも言えます。

 一方、今日では、共産主義国等を除いては、冤罪が100%なくなったとは言えないまでも、各国とも、司法の独立が保障され、かつ、政治犯や宗教犯も存在していません。このことは、恩赦の存在意義が著しく希薄化していることを意味します。しかも、凶悪な犯罪や反社会的な行為を行った者が恩赦によって放免されるとしますと、一般国民は治安の悪化を心配せねばなりませんし、犯罪被害者の立場からすれば、加害者の罰の軽減は納得がいかないことでしょう。また、恩赦とは、国家的な特別の出来事が存在する場合に実施されますので、受刑期が運よく当該出来事と当たった人のみが対象となります。同じ罪を犯しても、時の偶然によって罰の方には違いが生じるのですから、不公平と言えば不公平な制度なのです。加えて、権力分立の観点からすれば、司法機関による決定を行政機関が事後的に覆す、あるいは、取り消す効果が生じますので、いよいよもって危ない制度と言わざるを得ないのです。

 以上に述べた諸点からしますと、恩赦は、既に時代遅れの制度と化しているのではないでしょうか。現代にあっては、恩赦の恩恵を受ける極一部の人以外、国民の誰も歓迎もしなければ、意義も見いだせないのですから(何故、犯罪者が特別に許されるの?という素朴な疑問…)。新天皇即位に際しての恩赦については、むしろ、その存在意義の低下に照らし、同制度の根本的な見直しを議論するチャンスとするべきではないかと思うのです。

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コメント (2)
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