紀伊國屋サザンシアター、2019年9月8日13時。
薄汚い説教聖(辻萬長)と赤子を負ぶった三味線女(毬谷友子)が、「日の浦姫物語」なり説教を語り出す。平安時代の奥州、米田庄。美しく仲の良い双子、稲若(平埜生成)と日の浦姫(朝海ひかる)は、15歳となった夏のある日に禁忌を犯してしまう。たった一度の交わりで子を身籠もる日の浦。叔父の宗親(たかお鷹)は恐ろしい事実を知り日の浦の身を引き取る。都に遣られた稲若は道中の事故で死んでしまう。日の浦は美しい男の子を産むが…
作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎。1978年に文学座と杉村春子のために書き下ろされた作品で、2012年に蜷川幸雄の演出でも再演。全2幕。
グレゴリオ伝説や『オイディプス王』などの、近親相姦がモチーフになっている物語だけれど、決してドロドロしているものではない…とは聞いていましたが、まずセットや背景などの効果か全体に絵物語ふうというかお伽話ふうで、かつ聖の語りという構造になっているのでリアリティとか生臭さがやわらげられ、ユーモラスさも漂うほのあたたかな空気の、不思議な舞台となっていたと思いました。
そして実際、ごく実際的に考えたとしても、こういうこともあるかもしれないよなあ、と思っちゃうんですよね。そりゃタブーとされているということはわかっていても、でもきょうだい仲良く育っていたらうっかりしちゃうことだってあるんじゃないの?みたいな。ただ兄妹からすると母と息子の方は、顔見て気づかなかったんかいとつっこみたくはなりましたし、年齢差とかもあって気持ち抵抗を感じたかもしれません。ただこれも、若武者が妙齢の貴婦人のため、とかではりきっちゃってそのままうっかり恋に落ちちゃうというのはあるだろうし、長く孤閨を守ってきた中年婦人にも欲望があるのはそらあたりまえなんですよね。だからやはりすんなり納得できました。
けれど真実が明らかになって、自分たちの罪を知ったとき、彼らは神が下す罰など待たずに自分たちで自分たちを裁き、償いの日々に突入していく…
それが回り回っていろいろあって、罪は贖われた、となって奇跡が起きる…のはまさしくお話めいていて、まあよかったねというだけのことです。でもこの舞台の真骨頂はここからなのでした。
今までの物語は説教聖と三味線女が語ってきたもので、実はこのふたりもまた兄と妹で赤子は罪の子で、彼らは説教することで観衆から銭をもらい、生活費を取ったあまりは寺社に寄付して罪の許しを請う暮らしをしていたのです。
私は客席から彼らに銭を差し出したくなりました。彼らの愚直なまでのまっすぐさに心打たれたからです。けれど舞台の観衆たちは彼らに銭の代わりに石を投げつけます。やめてあげて!と叫び出しそうになりました。確かに聖たちは在任かもしれない。けれど彼らに石を投げることなど、それこそまったく何ひとつ罪を犯したことのない者だけがする権利があるものではないでしょうか? 誰でも小さな嘘をついたりなんらかの罪を犯したことがあるはずで、その意味では聖たちと同じ在任であり、聖たちに石を投げる資格などないはずなのです。なのに観衆たちは聖たちに石を投げつける…
しかしそれは舞台の小道具として石に模したお手玉で、投げつけられても耳なじみのある柔らかで軽やかな音がするだけです。やがて聖たちはその石を観衆に投げ返し、観衆も受け取ってそれを他の観衆にパスしたりして、だんだんみんなが笑顔になり、石だったお手玉はいつしか本物のただのお手玉になり、観衆も聖たちも一緒になって輪になってお手玉に興じる子供たちのようになっていく…
そう、誰もが罪の子であり罪ある者なのです。だから誰かの罪を裁いたり罰を下したりできるものではないのです。その罪人が悔いているなら、認めてあげて支えてあげて、社会の輪に入れてみんなでまたがんばっていけばいい、楽しく生きていけばいい…
そんなメッセージが受け取れた気がしました。泣きそうになりました。
2012年版では園子(名越志保)を演じていた赤司まり子が今回は愛子を演じている、とかたかお鷹は前回も今回も宗親役をしている、とかもいいなと思いました。そして毬谷友子は私は初めて舞台を観るのかもしれません、特に小夜が素晴らしかったなー! だからこそ「スミレの花咲くころ」を歌うのかしらん。
コムちゃんは私は現役時代は苦手にしていて、いわゆる中性的なタイプの男役が好みでないのと、まーちゃんが苦手でコムまー萌えもまったくなかったので、トップ主演作を確か全然観ていないんだと思います。
でも女優さんになってからは好きで、今回といいこまつ座の演目によくハマるよなと思います。独特の声、清潔感があるところ、クラシカルな美貌…みたいなものが、古典となりつつある井上作品にハマり易いのかもしれません。今回もとてもよかったと思いました。このタイトルロールは意外と女優を選ぶ役だと思います。これを観られてとてもよかったです。
薄汚い説教聖(辻萬長)と赤子を負ぶった三味線女(毬谷友子)が、「日の浦姫物語」なり説教を語り出す。平安時代の奥州、米田庄。美しく仲の良い双子、稲若(平埜生成)と日の浦姫(朝海ひかる)は、15歳となった夏のある日に禁忌を犯してしまう。たった一度の交わりで子を身籠もる日の浦。叔父の宗親(たかお鷹)は恐ろしい事実を知り日の浦の身を引き取る。都に遣られた稲若は道中の事故で死んでしまう。日の浦は美しい男の子を産むが…
作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎。1978年に文学座と杉村春子のために書き下ろされた作品で、2012年に蜷川幸雄の演出でも再演。全2幕。
グレゴリオ伝説や『オイディプス王』などの、近親相姦がモチーフになっている物語だけれど、決してドロドロしているものではない…とは聞いていましたが、まずセットや背景などの効果か全体に絵物語ふうというかお伽話ふうで、かつ聖の語りという構造になっているのでリアリティとか生臭さがやわらげられ、ユーモラスさも漂うほのあたたかな空気の、不思議な舞台となっていたと思いました。
そして実際、ごく実際的に考えたとしても、こういうこともあるかもしれないよなあ、と思っちゃうんですよね。そりゃタブーとされているということはわかっていても、でもきょうだい仲良く育っていたらうっかりしちゃうことだってあるんじゃないの?みたいな。ただ兄妹からすると母と息子の方は、顔見て気づかなかったんかいとつっこみたくはなりましたし、年齢差とかもあって気持ち抵抗を感じたかもしれません。ただこれも、若武者が妙齢の貴婦人のため、とかではりきっちゃってそのままうっかり恋に落ちちゃうというのはあるだろうし、長く孤閨を守ってきた中年婦人にも欲望があるのはそらあたりまえなんですよね。だからやはりすんなり納得できました。
けれど真実が明らかになって、自分たちの罪を知ったとき、彼らは神が下す罰など待たずに自分たちで自分たちを裁き、償いの日々に突入していく…
それが回り回っていろいろあって、罪は贖われた、となって奇跡が起きる…のはまさしくお話めいていて、まあよかったねというだけのことです。でもこの舞台の真骨頂はここからなのでした。
今までの物語は説教聖と三味線女が語ってきたもので、実はこのふたりもまた兄と妹で赤子は罪の子で、彼らは説教することで観衆から銭をもらい、生活費を取ったあまりは寺社に寄付して罪の許しを請う暮らしをしていたのです。
私は客席から彼らに銭を差し出したくなりました。彼らの愚直なまでのまっすぐさに心打たれたからです。けれど舞台の観衆たちは彼らに銭の代わりに石を投げつけます。やめてあげて!と叫び出しそうになりました。確かに聖たちは在任かもしれない。けれど彼らに石を投げることなど、それこそまったく何ひとつ罪を犯したことのない者だけがする権利があるものではないでしょうか? 誰でも小さな嘘をついたりなんらかの罪を犯したことがあるはずで、その意味では聖たちと同じ在任であり、聖たちに石を投げる資格などないはずなのです。なのに観衆たちは聖たちに石を投げつける…
しかしそれは舞台の小道具として石に模したお手玉で、投げつけられても耳なじみのある柔らかで軽やかな音がするだけです。やがて聖たちはその石を観衆に投げ返し、観衆も受け取ってそれを他の観衆にパスしたりして、だんだんみんなが笑顔になり、石だったお手玉はいつしか本物のただのお手玉になり、観衆も聖たちも一緒になって輪になってお手玉に興じる子供たちのようになっていく…
そう、誰もが罪の子であり罪ある者なのです。だから誰かの罪を裁いたり罰を下したりできるものではないのです。その罪人が悔いているなら、認めてあげて支えてあげて、社会の輪に入れてみんなでまたがんばっていけばいい、楽しく生きていけばいい…
そんなメッセージが受け取れた気がしました。泣きそうになりました。
2012年版では園子(名越志保)を演じていた赤司まり子が今回は愛子を演じている、とかたかお鷹は前回も今回も宗親役をしている、とかもいいなと思いました。そして毬谷友子は私は初めて舞台を観るのかもしれません、特に小夜が素晴らしかったなー! だからこそ「スミレの花咲くころ」を歌うのかしらん。
コムちゃんは私は現役時代は苦手にしていて、いわゆる中性的なタイプの男役が好みでないのと、まーちゃんが苦手でコムまー萌えもまったくなかったので、トップ主演作を確か全然観ていないんだと思います。
でも女優さんになってからは好きで、今回といいこまつ座の演目によくハマるよなと思います。独特の声、清潔感があるところ、クラシカルな美貌…みたいなものが、古典となりつつある井上作品にハマり易いのかもしれません。今回もとてもよかったと思いました。このタイトルロールは意外と女優を選ぶ役だと思います。これを観られてとてもよかったです。