駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

こまつ座『日の浦姫物語』

2019年09月11日 | 観劇記/タイトルは行
 紀伊國屋サザンシアター、2019年9月8日13時。

 薄汚い説教聖(辻萬長)と赤子を負ぶった三味線女(毬谷友子)が、「日の浦姫物語」なり説教を語り出す。平安時代の奥州、米田庄。美しく仲の良い双子、稲若(平埜生成)と日の浦姫(朝海ひかる)は、15歳となった夏のある日に禁忌を犯してしまう。たった一度の交わりで子を身籠もる日の浦。叔父の宗親(たかお鷹)は恐ろしい事実を知り日の浦の身を引き取る。都に遣られた稲若は道中の事故で死んでしまう。日の浦は美しい男の子を産むが…
 作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎。1978年に文学座と杉村春子のために書き下ろされた作品で、2012年に蜷川幸雄の演出でも再演。全2幕。

 グレゴリオ伝説や『オイディプス王』などの、近親相姦がモチーフになっている物語だけれど、決してドロドロしているものではない…とは聞いていましたが、まずセットや背景などの効果か全体に絵物語ふうというかお伽話ふうで、かつ聖の語りという構造になっているのでリアリティとか生臭さがやわらげられ、ユーモラスさも漂うほのあたたかな空気の、不思議な舞台となっていたと思いました。
 そして実際、ごく実際的に考えたとしても、こういうこともあるかもしれないよなあ、と思っちゃうんですよね。そりゃタブーとされているということはわかっていても、でもきょうだい仲良く育っていたらうっかりしちゃうことだってあるんじゃないの?みたいな。ただ兄妹からすると母と息子の方は、顔見て気づかなかったんかいとつっこみたくはなりましたし、年齢差とかもあって気持ち抵抗を感じたかもしれません。ただこれも、若武者が妙齢の貴婦人のため、とかではりきっちゃってそのままうっかり恋に落ちちゃうというのはあるだろうし、長く孤閨を守ってきた中年婦人にも欲望があるのはそらあたりまえなんですよね。だからやはりすんなり納得できました。
 けれど真実が明らかになって、自分たちの罪を知ったとき、彼らは神が下す罰など待たずに自分たちで自分たちを裁き、償いの日々に突入していく…
 それが回り回っていろいろあって、罪は贖われた、となって奇跡が起きる…のはまさしくお話めいていて、まあよかったねというだけのことです。でもこの舞台の真骨頂はここからなのでした。
 今までの物語は説教聖と三味線女が語ってきたもので、実はこのふたりもまた兄と妹で赤子は罪の子で、彼らは説教することで観衆から銭をもらい、生活費を取ったあまりは寺社に寄付して罪の許しを請う暮らしをしていたのです。
 私は客席から彼らに銭を差し出したくなりました。彼らの愚直なまでのまっすぐさに心打たれたからです。けれど舞台の観衆たちは彼らに銭の代わりに石を投げつけます。やめてあげて!と叫び出しそうになりました。確かに聖たちは在任かもしれない。けれど彼らに石を投げることなど、それこそまったく何ひとつ罪を犯したことのない者だけがする権利があるものではないでしょうか? 誰でも小さな嘘をついたりなんらかの罪を犯したことがあるはずで、その意味では聖たちと同じ在任であり、聖たちに石を投げる資格などないはずなのです。なのに観衆たちは聖たちに石を投げつける…
 しかしそれは舞台の小道具として石に模したお手玉で、投げつけられても耳なじみのある柔らかで軽やかな音がするだけです。やがて聖たちはその石を観衆に投げ返し、観衆も受け取ってそれを他の観衆にパスしたりして、だんだんみんなが笑顔になり、石だったお手玉はいつしか本物のただのお手玉になり、観衆も聖たちも一緒になって輪になってお手玉に興じる子供たちのようになっていく…
 そう、誰もが罪の子であり罪ある者なのです。だから誰かの罪を裁いたり罰を下したりできるものではないのです。その罪人が悔いているなら、認めてあげて支えてあげて、社会の輪に入れてみんなでまたがんばっていけばいい、楽しく生きていけばいい…
 そんなメッセージが受け取れた気がしました。泣きそうになりました。

 2012年版では園子(名越志保)を演じていた赤司まり子が今回は愛子を演じている、とかたかお鷹は前回も今回も宗親役をしている、とかもいいなと思いました。そして毬谷友子は私は初めて舞台を観るのかもしれません、特に小夜が素晴らしかったなー! だからこそ「スミレの花咲くころ」を歌うのかしらん。
 コムちゃんは私は現役時代は苦手にしていて、いわゆる中性的なタイプの男役が好みでないのと、まーちゃんが苦手でコムまー萌えもまったくなかったので、トップ主演作を確か全然観ていないんだと思います。
 でも女優さんになってからは好きで、今回といいこまつ座の演目によくハマるよなと思います。独特の声、清潔感があるところ、クラシカルな美貌…みたいなものが、古典となりつつある井上作品にハマり易いのかもしれません。今回もとてもよかったと思いました。このタイトルロールは意外と女優を選ぶ役だと思います。これを観られてとてもよかったです。




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『ドン・ジュアン』

2019年09月08日 | 観劇記/タイトルた行
 赤坂ACTシアター、2019年9月7日13時半。

 スペイン・アンダルシア地方の街、セビリア。ここに貴族の跡取り息子でありながら、酒に溺れ、欲望の命じるままに見境なくあらゆる女の「愛」を貪る男がいた。悪徳と放蕩の限りを尽くすその男の名は、ドン・ジュアン(藤ヶ谷太輔)。彼は今宵の獲物と見定めた騎士団長(吉野圭吾)の娘を我がものとするため、騎士団長の館に侵入する。娘を穢されたと知った騎士団長はドン・ジュアンに戦いを挑み、敗れ、命を落とす。その死を悼む人々を背に、立ち去るドン・ジュアン。だが彼の眼前に、亡霊となった騎士団長が現れて呪いの言葉をかける。「おまえはいずれ“愛”によって死ぬ。“愛”が呪いとなるのだ」と…
 作詞・作曲/フェリックス・グレイ、潤色・演出/生田大和、音楽監督・編曲/太田健、美術/松井るみ。2004年カナダ初演、2016年に宝塚歌劇団雪組で日本初演。全2幕。

 宝塚版の感想はこちら
 見比べたいなと思っていたもののチケットが取れないでいたところ、都合がつかなくなったフォロワーさんからありがたくもお譲りいただけることになって、いそいそいと出かけてきました。
 すごーくよかった! 前日に録画しておいたスカステ映像を見直したときにも感じたのですが、生で観たときには台詞が足りない気がしたのですが物語がわかって見るからかちょうどよく感じられ、そして基本的には宝塚版をほぼ踏襲していた今回の舞台でも台詞や説明は必要十分に感じました。歌ばかりのミュージカルなんだけれど、十分に各キャラクターが立っていてドラマがつかめました。でもこちらがわかって観ているから、勝手に補完して観ているから、かもしれません…ともあれ宝塚版との比較もおもしろく観ましたし、物語そのもの、作品そのものとしても私はかなり好みだなと思いました。あと音響が良く歌詞がクリアで訳が的確でみんな歌唱力がありかつコーラスなども熱く、耳的にほぼノーストレスでした。これも大きく、集中して興奮して楽しく観ました。

 藤ヶ谷くんがアイドルとしてどうなのかとかを私は全然知らないのですが、そしてこれがミュージカル初舞台となるそうですが、まったく問題ないかなと思いました。というかもっとひどい出来を勝手に想像していたんです、すみません…
 このスタイルならタカラジェンヌだともう少し脚が長いんだけど…とは思わなくもなかったし、O脚なのかもしかしたら何か特殊な靴を履いていたのか歩き方が不思議なことになっていて、私は二階前方列どセンの席だったので登場時とカーテンコールで舞台奥からまっすぐ出てくるときにどうしたどうした!?と驚いたくらいでしたが、それ以外は安心して観ていられました。歌になるとちょっと棒かなというか、感情の起伏で歌う芝居歌ではない感じがややアレでしたが、声量や音程その他は問題ないし、ややドライ気味なのもドン・ジュアンのキャラに合っていると言えば言えるのかな、と感じました。ラストの「愛のために、俺は死ぬ」だけは絶唱!って感じに気持ちが入っていて、感動的でした。それを生かすためにそこまではあえてフラットに歌っていたのかな…?
 これまた勝手に、リアル男性が演じるドン・ジュアンやドン・カルロ(上口耕平)、ラファエル(平間壮一)を私は好きになれるかしらん、とか心配していたのですが、それも問題なかったです。というかだいもんは上手すぎて、冒頭も悪い顔をしすぎで嫌なヤツ感を出しすぎに私は思っていたのですけれど(でも宝塚歌劇だしスター男役がやるものだし主役だし、という思い込みでほぼ自動的に好感は持つ…)、藤ヶ谷くんは、まあ私がタカラジェンヌと違ってオペラグラスを使ってまでガン見しないからかもしれませんが(イヤちょっとは見たけど。ホント綺麗ですよね)、そんなにくどい芝居はしていなくて、ただたたずまいとかで崩れた色気をちゃんと出していて、それが要するにリアルなわりと普通にありがちな男子に見えてよかったというか、ちょっとハンサムだか金持ちだか知らないけどこういうイキっちゃってる男っているよねー、はーしょーもな、でも愚かで愛しいよ…と素直に思えてしまったんですよ。だからちゃんとドン・ジュアンに好感を持ち、彼のこの先を辿ろうと物語に入り込むことができました。これは自分でも意外だったんですけれど、私はあくまでヘテロで、宝塚歌劇で女性である男役が理想の男性を演じてくれるのを堪能する一方で、現実の男性をその愚かさや尊大さ含めて基本的には愛していて(もちろんもろもろ程度によるわけですが)わりと簡単に受け入れちゃうのかもしれないなあ、ということが確認できました。もちろんこれはキャラクターだけれど、扮しているのも立派なアイドルやミュージカル俳優さんたちで一般男性とは全然違うんだけれど、トータルすれば要するに同じ「男」で、私は「女」としてそこが好きなんだなー、となんか再確認しちゃったのでした。おもしろい発見でした。
 ただ、これは演出の問題だけれど、ドン・ルイ(鶴見辰吾)の「息子よ」の中で宝塚版では回想の形で出てきたドン・ジュアンの母親と子役が今回は全カットでしたが、これはコロスか映像かで何かのイメージをみせた方が良かった気がしました。宝塚版でも東西で演出が変わり物議を醸した部分ですが、そして元々の戯曲ではどうだったのかを私は知らないのですが、やはり近親相姦ってのはちょっと行きすぎなんじゃないかと感じていて、観ていて思いついたのは、『はみだしっ子』でグレアムがサーザというクリスチャン・ネームを捨てることになった原因の、彼のために自死し故に教会から見放されたおばさま、のイメージでいくのはどうかしらん、ということでした。ドン・ジュアンが神と愛に背を向け酒と女に走る原因、決定的な理由が必要だと思うので、何か具体的なエピソード、せめてイメージが欲しいなと思ったのです。父のこの歌だけでは足りなかったと思いました。ドン・ジュアンは高圧的な父親に反発している思春期の少年、みたいなものではなくて、自分の生き方を賭けて神を呪い愛を弄び世界に挑戦しているようなところがあるわけじゃないですか。そこに至る原因がやはり必要だと感じました。藤ヶ谷くんに、ただグレているだけの少年に見えかねない少年性があるだけにね。

 蓮佛さんのマリア(蓮佛美沙子)は、まあ過不足なかったかな、という印象でした。何度か舞台で観たことがある女優さんだとは思うんだけれど、どうも色とか個性を感じないんだよなあ…まあでもマリアってそんなようなところがあるキャラクターだからいいのかな。歌はとてもちゃんとしていました。
 そうそう、2幕のマリアには白か黄色か水色か、せめてピンクを着せてほしかったです。今のお衣装だとアンサンブルの女たちに紛れてしまいます。所詮マリアも女たちのひとり…という解釈なのだとしたら間違っていると言いたい。むしろ女たちがひとりひとり本当はマリアなのです。生田先生がプログラムで語っているのとちょうど逆のことを私は言っているのです。せめてマリアは特別にしなけりゃダメ。イサベル(春野寿美礼)だってひとり青っぽい飾りのある服を着て差別化させてもらえてるじゃん、まあオサはその長身とオーラでアンサンブルから文字通り頭ひとつ抜けてるんだけどさ。エルヴィラだってモーブ一色の服で差別化されています。マリアはせめてピンクであるべきですよ生田先生!

 次のクレジットはラファエルなんですね。確かにドン・ジュアンの恋仇なのでこちらの方が重いポジションのキャラクターだという考え方も当然ありますよね。これまた歌もダンスも良くて素敵でした。
 そして比べて観た人がみんな言う、ひとこと違ってモラハラ男みが全然ない…(笑)こちらが原作どおりなんでしょうか。そしてこちらの在り方の方が正しい気もしました。
 ラファエルとマリアは幼なじみか何かなのでしょうか、とにかく気心が知れた間柄で、かつちゃんとした恋人同士で、ラファエルが兵士仲間に結婚話を発表するときにも宝塚版のようにいきなりではなく、事前にマリアと結婚についてちゃんと話し合っていて承知してもらっていて、ただみんなに言うのは戦争から帰ったからってことだったのに先走っちゃって…というだけになっていました。なのですごくまっとうなのです。マリアはこの時点ではちゃんとラファエルを愛していて、結婚するつもりもありました。確かにラファエルはマリアに彫刻の仕事を辞めてほしがってはいるのですが、束縛したいとか家庭に閉じ込めたいとかよりも怪我や体力を心配しているように感じました。なので当時としたらこれまたまっとうな意見で、マリアもそこまで不承不承という感じではなく、納得して騎士団長の像を最後の仕事にする、と答えているように見えました。まっとうです。
 ひとこはマリアの意志をあまりちゃんと確認せず、ひとりで突っ走っていて、マリアの仕事に関しても良く思っておらず口出しし辞めさせようとし自分だけを見てもらいたがっている、そういうちょっと困った愛し方をしちゃうラファエルになっていました。でもひとこっぽかったし(オイ)、宝塚歌劇って愛の強さをそういう執着で描くところがあるから、アレはアレでよかったんだと思うんですよね。でもこのまっとうなラファエルは、ドン・ジュアンの改心や更生が遅かったこと、最初からちゃんとしていた人にはそれなりの幸運や幸福があるべきであることなどを表す、格好のものになったと思います。
 ただマリアがのちに受け取った手紙は、おそらくはラファエルからのもので戦況が厳しいことが綴られていたんじゃないかなと思うのですが、むしろラファエルの戦死を知らせるものだとははっきり明示して(それはのちに誤報だったとわかるのだけれど)、マリアはラファエルを死んだと思ってしまったからこそドン・ジュアンとの恋に躊躇なく落ちていってしまったのだ、とした方がよかったかもしれません。
 ラファエルは、決闘してたとえドン・ジュアンに勝とうと、マリアの心がもう取り戻せないことはわかってはいたでしょう。でも決闘は挑まれたら断れないものなのだし、男のプライドを賭けて戦う、ドン・ジュアンに一太刀浴びせたい、そのあとなら死んでもいい、どうせマリアなしの人生など無意味だ…くらいの覚悟があったのでしょう。ドン・ジュアンは仮にも貴族の跡取り息子で、せいぜいが民兵程度のラファエルより腕が立つことは、ドン・カルロが言うまでもなくラファエル自身にもわかっていたのでしょう。それでも、どんなに傷を負ってもラファエルは降参しません。彼は愛を知っていて、愛なしの人生の虚しさを知っていて、本当に死んでもいいと思ってこの決闘に挑んでいるからです。
 何度も立ち上がってくるラファエルに、ドン・ジュアンは怯えます。これ以上やったら死なせてしまう、降参してほしい、なのに何故こいつは何度も立ち向かってくるのだろう、本当に死んでもいいと思っているのだろうか…戦場で戦ってきたラファエルと違って、ドン・ジュアンは実は人を殺したことはないのかもしれません。命の重さに怯え、命を奪う罪の重さに震えます。自分が、死ぬのが怖いからです。だから人を殺すのも嫌なのです。けれど人は本当の愛を知っていれば死ぬことができる、それを目の前でラファエルに体現されて初めて、そして騎士団長の亡霊に唆されて初めて、ドン・ジュアンは自分がマリアによって愛を知ったことを証明するために、真人間に生まれ変わったことを証明するために、死んでみせるのです。剣を投げ出し、ラファエルの剣の前に身を投げ出して…
 彼が愛を知る前に積み上げてきた罪悪はあまりに重く、その命で贖わなければならないものでした。命を差し出して初めて彼は許され、騎士団長の亡霊と共に天国へ行くのでしょう…
 ぼろぼろのラファエルをドン・ルイがゆっくりと抱きしめるくだりに、泣きました。ラファエルにはフォローが必要です。もちろん息子を亡くした父親にも…パパ、できればエルヴィラ(恒松祐里)のことも気にかけてあげてね…

 そしてドン・カルロは…宝塚版のときは咲ちゃんがだいもんを好きすぎるのはまあデフォかなとか思って流していたのですが(笑)、今回もほぼ同じ立ち位置とはどういうことなのでしょうか。幼なじみで友達で…なんだろうけれど、たとえば神父志望とかでドン・ジュアンを更生させたいと思っている、とかなのでしょうか。でなきゃ普通あんなに心配したりお節介やいたりしませんもんね。それかズバリ同性愛者か、要するにドン・ジュアンを愛しているからか、ですよね。エルヴィラのことは単に案じているだけで、横恋慕のようには見えません。そして妻もいなさそうだし恋人ともいなさそう…女がいすぎるドン・ジュアンも問題だけれど、いなさすぎるドン・カルロもこの時代のこの階級の男性としては不自然なのでは…
 ともあれ特に説明もないまま、優しいドン・カルロがドン・ジュアンを案じ優しく歌い物語を進めるのは、それはそれでなかなかに快適でした。

 エルヴィラだけが歌がやや不安定だったのは、これが初舞台の女優さんだったからなのでしょうか。でも健闘していたと思いました。私はくらっちのエルヴィラが大好きでしたけれどね。
 今回ハッとさせられたのがエルヴィラの「望むならば」で、今まで私はこれはエルヴィラの悲しい愚かさやかわいそうさを表している歌だと思ってきたのですが、違いますね、これはむしろ「スピーチレス」だったのですね。一晩寝ただけで私の何を知った気になっているんだよ、それで捨てるとかありえない、もっと私を見ろよ、人を人としてもっときちんと尊重しろよ、と訴えている歌なのでした。これは正しい。そしてどんな女でも悪いことなんかその気になればいくらでもできるのであって、そんなところに価値を見ているのは馬鹿な男だけなのであって、そういうことを喝破してみせている歌でもあります。彫刻家という仕事を持っているマリアの方が一見現代的な女性に見えるけれど、実は恋に浮かれて修道院を出てしまった世間知らずのエルヴィラの方がより進歩的なことを求めている、という構図なのかもしれません。彼女のこの先にも幸あらんことを…

 そして騎士団長/亡霊の吉野圭吾は絶品ですよねこの作品の影の主役ですよね! 素晴らしかったです。
 対してアンダルシアの美女(大石裕香)は振付もなさっている高名な先生でダンサーだと承知しつつも、黒塗りのカリの割れた腹筋とへそピの尋常ならざる色気が忘れられないでいる私なのでした…
 そしてイサベルはなんか男前でした…! これはもう中の人のニンかなと思うけれど、これもまたよかったです。ちゃんと昔の女感も、今の友達感も、語り部感もありました。さすがです。歌はもちろん素晴らしすぎました。
 ドン・ルイをリアル男性がやる意味もまた感じましたね。ジュンコさんはこれまたちょっと酷薄に作りすぎていた気がしました。今回のパパは、跡取り息子の放蕩をもちろん苦々しく感じているんだけれど、一方でちょっと痛快に思ってそうなところがあると思うんですよね。この時代のこの階級の男性にありがちな、そして残念ながら現代にも通じるミソジニーが彼の中に確実にあって、それがまたいい感じに嫌ったらしく、しょうもなく、また残念なことにある種の可愛げとして表されているようで、絶妙だなと思いました。でもこの家は跡取りがなくて断絶してしまうのであろう、いい気味だよ女をないがしろにしてきた報いだよ、とももちろん私は思うのでした。

 アンサンブルではヒメのところをやっていたあみちゃん、則松亜海がもちろん出色でした。メインキャストに名を連ねてもいいと思ったけどな。

 椅子を使うダンスやサパテアードからのダンス、赤い薔薇の使い方もほぼ同じでしたが、マリアが騎士団長の彫像を壊すくだりがなくなっていたのはいいなと思いました。あれは私は不自然に感じました。作業が中断されて未完成のままの彫像がほぼずっと舞台にいる、その威圧感…みたいなものが、今回は作品にいい影を落としていたと思いました。
 軍服は全然ちがったけれど、あとのお衣装のイメージはほぼ同じでしたね。映像の使い方なんかもいい感じだと思いました。あの舞台をほぼ横幅いっぱいに使うことってあまりない気がするんだけれど、それも広々としていてでもスカスカしていなくて、よかったです。
 いい舞台だったなあ、好きだなあ。愛や命といったものの重さをどう考えるか、という感覚が納得できて共感できて、好みです。あと再演にあたりちゃんと手を入れブラッシュアップしてくるところとか、生田先生はちゃんとしている。かつ本当にロマンティストだと思う。イケコを継いでいくのはまずは彼なのかもしれません。でもまずは劇団辞めないでね、まあそれはイケコにも言いたいことだけれど…まだまだやるべき仕事はありますよ。期待しています。


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『Little Women』

2019年09月07日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 シアタークリエ、2019年9月5日18時半。

 1865年ニューヨーク。手足が長くて背が高いマーチ家の「息子」ジョー・マーチ(朝夏まなと)は、小説家を夢見る19歳。カーク夫人(久野綾希子)宅に下宿するジョーは、出版社からの22通目の断りの手紙を読んで絶望していた。同じく下宿人のベア教授(宮原浩暢)はジョーを励ます。時は遡って2年前、マサチューセッツ州コンコード。マーチ家の四姉妹、メグ(彩乃かなみ)・ジョー・ベス(井上小百合)・エイミー(下村実生)は、牧師として南北戦争に従軍した父親をお母さま(香寿たつき)と共に待ちながら、慎ましくも明るく暮らしていた…
 原作/ルイーザ・メイ・オルコット、脚本/アラン・ニー、音楽/ジェイソン・ハウランド、歌詞/ミンディ・ディックスタイン、翻訳/小山ゆうな、演出・訳詞/小林香。オルコットの四部作のうち『若草物語』『続・若草物語』を下敷きに2005年にブロードウェイで初演された演目の日本初演、全2幕。

 私は原作小説のものっすごくディープなファンというわけではありませんが、子供時代にもちろん読んだし、大人になって読んでみてもおもしろかったので、一作目の文庫を愛蔵しています。久々に再読して観劇に臨みました。今となってはちょっと古めかしいかもしれないけれど、家庭小説の傑作で、不朽の名作だと思っています。性格バラバラでかつ幼い四姉妹はそりゃ喧嘩ばかりなんだけれど、辛抱強いお母さまの優しい指導のもと、反省し成長し、家族と世界に優しくあろう、いい人間になろうとがんばる、まっすぐで健やかな少女たちの物語です。
 今やるならそりゃジョーをヒロインにしたかなりフェミっぽい作りになるのだろうな、とは思っていました。ジョーのモデルはオルコット自身だそうで、確かに彼女は生涯独身で、文筆業で姉妹始め家族を経済的に支えたわけですが、でも時代のこともあってそこまで女性の自立とか社会的地位とかいったことを熱く考えていたわけではないのではないかしらん、と作品の印象から個人的には感じています。もちろん、とても素朴に、人間ひとりひとりの尊厳を男女関係なく尊重していたとは思います。ただ同時に、いわゆる伝統的な男女や家庭や社会の在り方を良いものだと素朴に思い信じていたんじゃないかな、ということです。
 ま、舞台は心配していたほどフェミに走りすぎずまた現代的になりすぎていたこともなかったとは思いましたが、逆に全体になんか雑というか荒いというか、練り上げられていない印象を持ちました。元の戯曲のせいもあるでしょうが、翻訳や歌詞があまり良くなくて情報量が少ない気がしましたし、原作小説を知らない人からしたら各キャラクターがけっこうあいまいに見えたり、時間経過がわかりづらくて混乱するんじゃないかなあ、と心配になるレベルでした。少なくとも私はちょいちょいわかりにくく感じて、世界に気持ちよく浸れなかったのです。
 私が原作で大好きなエピソード、お母さまが癇癪を起こすジョーに自分も若いころそうだったと語るくだりや、みんなして家事や仕事をせず一週間遊びだけをやってみて結局楽しくないことがわかる話、なんかがなかったのが残念、というのもありますが、それより何より、そう改変するんだ!?とかそこそうまとめるんだ!?とか、あと私は『続・若草物語』を読んでいないのであのあとこうなるんだ!?といろいろ仰天したりしたので、もう少しだけ丁寧にやってくれればよりついていきやすく、結果的にもっと素直に感動できただろうにな、と感じてしまった、ということです。
 まずメグが、そもそもミホコってベスやなんならエイミーも上手にやりそうだけどメグじゃないだろう、と心配していたのですが、そのニンに合わせてなのかけっこうキャラ変していたことにまず違和感を持ちました。メグはもっとわかりやすい美人の女優さんにやらせないとダメなんじゃないのかなあ。エイミーは自分で自分のことを可愛いと思っているんだけれど、メグは人に綺麗だと言ってもらわないと自分に自信が持てないタイプで、子供のころまだ家が裕福で贅沢できたことを覚えているので綺麗なものや贅沢なことに目がない、ちょっと軽薄なくらいに虚栄心が強くいかにも女っぽいところがあるのが、短所でもありチャームポイントでもあるキャラクターだと思うのですよ。なのにそういうエピソードや演出はほぼなくて、ただおとなしくてものわかりがいい、おとなしめのお姉さん、ってだけになっちゃってて、ブルック先生(川久保拓司)ともあっさり恋に落ちちゃうし、なんかアレレレレ?って感じでした。
 ジョーはわかりやすいキャラクターだけれど、マーチおばさま(久野綾希子の二役)が彼女をレディに仕立てるために外国旅行に連れ出そうとするエピソードを私は知らなかったので、このあたりもすごくわかりづらく感じました。ジョーは作家になるために見聞を広めることや旅の経験が必要だと考えていて、だからなんとしても行きたいしそのためにはレディの振りくらいする行儀良くする、と歌っているんだと思うんだけど、なんか楽曲が難しいのか音響が良くないのか訳詞が悪いのか単に歌唱力の問題か、おばさまの意図との対比とかがわかりづらくておもしろさが際立たず、もったいなく感じたんですよね。
 ベスとローレンス老人(村井國夫)が仲良くなるくだりも原作と違ったけれど、ミュージカルっぽくてこれはよかったです。引っ込み思案ではにかみ屋でおとなしいベスが、ローレンスさんを怖がりながらも、彼の尊大で乱暴な態度や自分への不当な扱いにはちゃんと怒ってみせるところもよかったです。てかベスは全編よかったなあ。
 2幕で彼女が「自分は大人になったらなんになる、みたいなことを考えたことが一度もなかった」みたいな台詞を言っていて、原作ではベスは特に病弱でもないし自分の未来を悲観したり達観しているような様子はなかったと記憶しているんだけれど、この舞台では自分の生い先が長くないことを知っていて覚悟していて、だからこそ今存分に家族を愛し守り支えようとしている、精神的にはとても熱く激しい「ロックな魂」の持ち主とされていて、役者もそれをすごく好演していて、ジョーがベスと仲良しだからというのもありますがとてもキュンキュンしました。いい声でしたしね。でもやはり歌は不安定に聞こえるところがあり、なんかいい歌唱指導が入っていないんじゃないのかなあ、と不満に感じました。
 ジョーの小説のチャンバラ活劇を劇中劇として展開するのも、ミュージカルっぽくてとてもよかったです。末っ子で甘えん坊でちょっとひがみっぽくてちゃっかりしたところもあるおしゃまなエイミーも、とても可愛かったです。ベスといいアイドルなんだよね?みたく思っていてすみませんでした。こちらももっと歌を聴きたかったなあ、そして本当はもっと上手いんじゃないかなあ…
 原作では四姉妹が秘密結社のごっこ遊びみたいなものにローリーをまぜてあげるあたりが、5人目のきょうだい、初めての男のきょうだいとして認めてあげる、みたいに歌うナンバーになっていましたね。これも微笑ましくてよかったなあ。ローリー(林翔太)はジョーより背が低いし原作よりだいぶ子供っぽい印象で、こまっしゃくれたところがあまりなく、その分ちゃんと彼とジョーが無二の親友であること、それはジョーが男の子の遊びが得意でなんでもローリーより上手いからであること、なんかがよく表れていたかなと思います。
 ローリーが大学に行けば遊び友達がいなくなるんだからそりゃジョーは寂しがります。それにローリーは勉強があまり好きではないけれど、ジョーは大学にだって行ってみたいのです。ジョーは自分が望む自分になりたいだけなので、ローリーになりたがっている、とかローリーを羨んでいる、憧れている、とかとは違うけれど、ローリーのように図書室がある家で暮らしたかったし大学で勉強だってしたかったのです。そういう意味でもジョーにとってローリーはもうひとりの自分、魂の双子、無二の親友なのに、帰郷したローリーは無理チューしてプロポーズしてくる。そりゃショックです。
 親友から妻にだなんて、明らかに格下げです。女にとって結婚することは夫に所有され家庭に隷属させられることです。少なくともこのときのジョーにとってはそうです。ローリーは確かにジョーを愛していて、だからプロポーズしているんだけれど、そういう意味ではジョーをまったく理解できていないのだし、こんなにも特異な彼女を一般的な、伝統的な、世間並みの型にはめようとしたのです。それは彼女にとって侮辱です、尊厳の侵害です。無理チューだって全然ロマンチックじゃありません、同意なき性行為はすべてレイプなのです。
 でも、わりとよくある少女漫画展開では、友達同士のつもりでいたのがふいのキスから急に恋心が生まれちゃったりするじゃないですか。もちろんそういうこともあるとは思います、でもこれは違うのだということ、ジョーが何に怒っているのか、何を求めているのかということはもっときちんと表現した方がよかったのではないでしょうか。でも歌詞が弱くて歌唱がつらくて、響きませんでした。
 ここの歌は要するに、実写映画『アラジン』でいうところの「スピーチレス」じゃないですか。ものすごく大事で、圧倒的なパワーと情熱と真実の叫びで観客の心を打つべきものなはずです。でも何度も言いますが楽曲が難しいのか単に歌唱力の問題か、私には全然響いてきませんでした。てかまぁ様は芝居の声もあまり良くないですよね。ライブとかの歌では気にならないんだけれど、ミュージカルでは歌でなくてもなんかいつもつらそうに発声しているようで聞き苦しく感じます。そして歌になると音程も不安定でケロりカスれる…これでは作品に酔えないんですよ。どんなに感情が乗っていたとしても、やはりある程度の技術に裏打ちされた上手い歌唱がないと私は感動できないのです。なんかもうちょっと合うキーにするとか、レッスン積むとか、明瞭な歌詞にするとか、コーラス重ねて支えちゃうとか、工夫していただきたかったです。残念…

 2幕はまたニューヨークから始まって、そこからジョーはベスが猩紅熱に罹ったという手紙で帰郷します。
 で、いつも騒々しいジョーがいなくなって以前のように静かになっていいはずなのに何故か寂しい、みたいなことをベア教授が歌うんですけど、この歌があまり静かでないのもなんだかなあ…と感じました。歌は上手いんだけど。というか男性陣はみんな歌が上手かったけれど、だからこそ全体としてはとても調和に欠けている感じがしました。歌い方の癖とか、それぞれすぎたし…たとえばこれが劇団四季とかで上演されていたら、また印象が違ったのかなあ…?
 エイミーとローリーがくっつくというのは私は知らなかったので驚きでしたが、でもありそうだしお似合いだしふたりがとても幸せそうだし、いいじゃんよかったねと微笑ましく感じました。意外にうまくいきそうなカップルだとも思う(三作目、四作目とかで別れている展開だったらすみません)。でもそのあとジョーが屋根裏部屋で書けないと嘆くのが、今の流れだとローリーにフラれたからみたいに見えかねなくないですか? そうじゃなくてベスの不在が堪えてるんじゃん、エイミーとローリーのことは全然祝福してるんじゃん。でもちょっとそう見えなくて、私はヒヤヒヤしました。観たみなさんがまったく誤解していなかったらすみません…
 で、かつてローリーの告白にあんなに怒り狂ったジョーが、では何故ベア教授のプロポーズは受け入れるのかって話ですよ。その直前に小説が売れた知らせが来て前途は洋々、結婚なんて必要ないってなりかねないじゃないですか。ここも説明や説得力が足りない気がしました。もっと、こういう愛なら選ぶよね!と感動したかったなあ…「愛は雨の日の傘のよう」と歌うふたりのデュエットはラブリーでよかったんですけれどね。
 ただラストに、マーチ伯母さんの遺産で学校を始めよう、とジョーが教授に宣言するのには感動しました。
 ジョーはずっと何物かになりたくて、それで世界を変えてみせたくて、お話を書くのが好きで得意で、だから小説家を目指していました。一方でずっとちゃんとした勉強がしたくて、ローリーでも教授でも、学校で勉学を納めている人を無条件に尊敬するところがあったんだと思います。自分は大人になったから、今度は自分が子供たちに教育を授けたい、という発想が人として素晴らしい。
 世界を変えるには物語と教員が必要なのです。人には想像力と知性が必要なのです。150年前の小説に書かれたことが2005年のアメリカでも未だ完全には実現されておらず、2019年の日本ではまして言わずもがなのありさまです。それでもジョーは立ち上がり、凜々しく生きていくことでしょう。小さな婦人たちは大人になり、少しずつでも世界をより良く変えていく…強い願いと希望を抱かせるラストで、ここは、ダダ泣きしました。


 かつては『小婦人』とも訳されたことがあるこの原作に、『若草物語』というタイトルを考案したのは吉屋信子だそうですね。知りませんでした。今となってはリリカルすぎるかもしれないタイトルだ、と思わなくもありません。ガールズでもレイディースでもなくウィメン、とした原作の意図はちゃんとあるだろうからです。でも、この雅さこそが作品の永遠性に寄与している部分もあるのだろうなあ、とも思います。
 この回のアフタートークでは村木厚子氏がゲストで、若草プロジェクトなるものについての説明や、この舞台がコラボしていることなどの紹介もありました。私は全然知りませんでした。どうしても性分から強いものと戦おうとする癖があり、弱いものの救済とかは後回しに考えがちな人間なのです。反省しました。とはいえ一部が寄付になるリピーターチケットを買うほどではありませんでした、すみません…

 この日、仕事を終えて会社を出て劇場まで地下鉄に乗ろうとしたときに、社屋の前の通りにデモのために静かに集まる十数人の姿をちらりと見ました。
 私は本を書くことはなかったけれど、社会人になるにあたり、本に関わる仕事がしたいと考えて就職しました。もともとは子供向けの学習エンタメ雑誌を発行するところから発足した会社です。物語と教育の重要性を骨身に染みて感じているはずです。その両輪で世界を少しでも良く変えていこうとしてきたはずなのに、今、このざまに言葉もありません。
 世界は本当に沈みかけているのかもしれません。昨日よりも今日、今日よりも明日、少しでもいい方に世界が変わるよう、微力ながら努めてきたつもりだけれど、私たちが変えるには世界は広すぎるのでしょうか。
 でも、信じたい。想像力と知性を。愛と信頼を。夢と希望を。理解と進歩を。多様な人々がお互い認め合い譲り合い支え合い愛し合う世界を。そのためにできることは少しでもしたい。そんなことを日々、考えています。



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地人会新社『リハーサルのあとで』

2019年09月06日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 新国立劇場、2019年9月3日19時。

 稽古の終わった舞台上で、演出家・ヘンリック(榎木孝明)がまどろんでいる。二か月後にストリンドベリの『夢の劇』の初日を迎えるのだ。そこに若い女優アンナ(森川由樹)が忘れ物をしたと戻ってくる。彼女の両親も俳優で、ヘンリックとは旧知の仲だ。彼はアンナに思い出を、そして演劇論、俳優論を語り始める。そこへアンナの母ラケル(一路真輝)が現れる…
 作/イングマール・ベルイマン、翻訳/岩切正一郎、演出/栗山民也。ベルイマンが1984年に演劇的手法を取り入れて製作したテレビドラマの舞台化。全一幕。

 私は恥ずかしながらベルイマンを名前しか知らなくて、その有名な映画についても観たことがありません。でもイチロさんと劇場に惹かれて出かけてきました。
 アンナ役のお若い女優さんはプログラムで「「この人たちはなんの話をしているんだろう」それが初めて台本を読んだときの感想でした」と語っていますが、まさしく舞台を観劇した私の感想と同じでした。こういうある意味で脈絡のない台詞を覚えなくちゃいけない役者さんは大変だろうなあ…この女優さんもとても達者でしたが、しかし役としてはもう少し、若くて肉感的で、要するにもっとわかりやすい色気があるタイプの方が良かったのではないかしらん。なんかちょっと知的すぎたというかドライすぎて見えたというか、あとあまり外国人の役に見えなくて、それで会話がコレだから私は当初なおさらちょっと退屈した、というのはあったかもしれません。アンナはギラギラした野心があったり、同棲している恋人との間にできた子供を堕ろすのなんのともめていたり、母親の昔の恋人にコナかけるようなコケティッシュさがある女性の役なんじゃないかと思うのです。でもこの女優さんは持ち味としてはそういうタイプではなかったと思う。ソファに座ったりなんたりする立ち居振る舞いや仕草はすごく上手くて、そういうことでうまく雰囲気を出していましたけれどね。
 なので、お目当てのイチロさんが出てきてからの方が俄然おもしろく感じました。
 ラケルはすでに亡くなっていて、だからその部分はいわゆる回想パートなんだけれど、ヘンリックはあまり歳が変わった印象がなくて、そして同じ空間に静かにたたずむ形で引き続きアンナも居続けています。そういう舞台のマジックがとてもおもしろく感じられたし、だからそこから、現代パートに関しても所詮はヘンリックのドリームというか幻想というかなのであって、だから思いつくままに彼が言いたいようなことをただ言いっ放しにしているような会話になっていたんだろうし、アンナのちょっと都合のいい感じもあくまでヘンリックから見た姿なのかもしれない、と思ったりしました。母も娘も俺のもの、とかホント男の都合のいい幻想だと思うので。
 ヘンリックはだからベルイマンの、栗山民也の、木村光一のことなんでしょうね。で、彼らはみんな女優に、女性に、こういうドリームというか愛憎を持っている…煎じ詰めればそれだけのお話なのかもしれないな、と思いました。それがおもしろかったです。
 ちょうど先日『真実』の試写を観たのだけれど、あれは是枝監督がカトリーヌ・ドヌーブとジュリエット・ビノシュを大女優の母親と女優になれずに脚本家になった娘にして撮った作品で、自身を投じているような役柄が出てこないところが比べれば日本人的なのかもしれないなと思いましたが、要するにクリエイターの男が演技を仕事とする女に抱くドリームの話だな、と私は思ったのです。もちろんもっと単純に、ちょっと地味にも見えかねない家族のハートフルな物語でもあったとは思っているのですが。
 男にとって女は最大の謎で夢で、本当は男は男を、というか自分自身だけを愛しているようなところがあるくせに、女のことが気になって仕方ないんだよな…というのが私の感想です(笑)。もちろん女にとっても逆にそうだとは思うけれど、ここまでこだわらないんじゃないかなあ、男なんていなきゃいないでナシですませるところが女にはあるんじゃないかなあ、とかも思います。
 照明(沢田祐二)がとても素敵で、印象的でした。明るくなったり暗くなったり、色味がついたりと多彩で、役の感情や役同士の空気を増幅して見せているようなところがあって、ハッとさせられました。下手の大きな白い壁に影ができるときもとてもよかったです。
 イチロさんも素敵でしたが、もしかしたらちょっとくたびれすぎたラケルになってしまっていたかもしれません。もう少し嫋々としたとところがあってもよかったのかも。でもある程度の清潔感も欲しいしなあ、難しいものだなあ。榎木さんはいい感じに枯れていてダンディででもまだまだヤラしくて、よかったと思いました。
 観客は私がいつも行くような舞台よりは男性が多く年齢層も高く、そういうのもおもしろかったです。

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鳳真由スペシャルライブ

2019年09月03日 | 観劇記/タイトルあ行
 GINZA 4 STUDIO@nu dish、2019年9月1日18時。

 ピアノは元花組92期の初花美咲かなちゃん、ゲストは元花組93期桜咲彩花べーちゃん。91期だったPちゃんと実は3人して同い歳なんだそうですね。構成はたそ、元花組92期天真みちるという90分ほどのライブでした。
 普段はヴィーガンのカフェで、週末にはライブがあるようです。小さな綺麗なステージがあるお店でした。50席弱くらいかな?
 Pちゃんは下級生時代はだいもんよりあきらより扱いが良いスターさんでしたよね。私はわりと好きでした。おうちがお医者ばかりか何かで、ご本人も今は医療経営かなんかを大学で勉強しているんじゃなかったかな? 少し余裕が出てきたのか、最近こうした活動もたくさんやっていますよね。如水会館のサロンコンも行きました。
 正直、そんなに歌が上手かった印象もないし、卒業後にすごくレッスンして格段に上手くなった…みたいな印象もないのですが(^^;)、まあこういう企画はトータルの人間力で回すような部分もあるし、なんせゲストに惹かれて出かけたのでした。
 ものっそいカジュアルなお洋服で登場して、私が知らないJ-POP2曲から始まったときにはどうしようかと思いましたが、白いフリルのロングシャツみたいなのに着替えてべーちゃんが加わって、宝塚コーナーになってからは俄然私の気持ちが盛り返しました。べーちゃんだって決して歌の人ではなかったと思いますが、娘役さんの歌は聴けるだけで楽しいし(現役時代はトップ娘役以外はよくよくの歌姫でないとソロなんか聴けませんからね…)、ふたりがコナン・ドイルとサラからパーチェスターとマリア、ビルとサリー、エリックとクリスティーヌと変幻自在に歌い継いでくれて、鮮やかすぎました。
 からの、今やロックバンドをやっていて元男役だったっけ?みたいなかなちゃんが綺麗なソプラノでアンフェリータを歌ってPちゃんエリオべーちゃんエバの「エル・アモール」になり、そこに突然ノー説明でたそロメロが加わってこれがまたええ声で、ホント楽しすぎました。そのあとはPちゃんホゲにべーちゃんキハ、たそタムドクの「何故」もあって、これも激しく滾りました!
 トークに続いてタソが仕込んだイントロクイズ、ガチ勝利するPちゃんのヅカオタっぷりもおもしろかったです。
 そのあとはシャンソンなども。私には大空さんの歌で思い出深い「群衆」など、素敵でした。
 べーちゃんも、今後もらいらいのライブにゲストで出たりといろいろ活動していくようですね。OGのこうした場はひところよりだいぶ増えているのだろうなという気がします。でもやはり今回はたその多彩な才能が出色かなと思いました。かいちゃんのライブの朗読劇の脚本を書いたり、こうしたショーの構成の仕事なんかをしていきたいそうで、クリエイターとしてプロデューサーとして羽ばたいてくれたりしたら世界はいろいろ広がるのではないかしらんと思いました。宝塚歌劇ではその才能が生かされきれずたとえばトップスターにはならなかったのだとしても、卒業後にもいろいろと可能性はあるものです。私も今後も気になるところには出没したいと思っています。

 …でも、たとえゲストで呼んでもらえても、とりあえずは、「うーん、いいや…」なのかな我が贔屓は。
 それでいいよ、それがいいよ。ぶっちゃけプログラムに「元○組スター」みたいな肩書き(?)で書かれるとか想像するとしょっぱくてね……(ToT)

 


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