駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ドン・ジュアン』

2019年09月08日 | 観劇記/タイトルた行
 赤坂ACTシアター、2019年9月7日13時半。

 スペイン・アンダルシア地方の街、セビリア。ここに貴族の跡取り息子でありながら、酒に溺れ、欲望の命じるままに見境なくあらゆる女の「愛」を貪る男がいた。悪徳と放蕩の限りを尽くすその男の名は、ドン・ジュアン(藤ヶ谷太輔)。彼は今宵の獲物と見定めた騎士団長(吉野圭吾)の娘を我がものとするため、騎士団長の館に侵入する。娘を穢されたと知った騎士団長はドン・ジュアンに戦いを挑み、敗れ、命を落とす。その死を悼む人々を背に、立ち去るドン・ジュアン。だが彼の眼前に、亡霊となった騎士団長が現れて呪いの言葉をかける。「おまえはいずれ“愛”によって死ぬ。“愛”が呪いとなるのだ」と…
 作詞・作曲/フェリックス・グレイ、潤色・演出/生田大和、音楽監督・編曲/太田健、美術/松井るみ。2004年カナダ初演、2016年に宝塚歌劇団雪組で日本初演。全2幕。

 宝塚版の感想はこちら
 見比べたいなと思っていたもののチケットが取れないでいたところ、都合がつかなくなったフォロワーさんからありがたくもお譲りいただけることになって、いそいそいと出かけてきました。
 すごーくよかった! 前日に録画しておいたスカステ映像を見直したときにも感じたのですが、生で観たときには台詞が足りない気がしたのですが物語がわかって見るからかちょうどよく感じられ、そして基本的には宝塚版をほぼ踏襲していた今回の舞台でも台詞や説明は必要十分に感じました。歌ばかりのミュージカルなんだけれど、十分に各キャラクターが立っていてドラマがつかめました。でもこちらがわかって観ているから、勝手に補完して観ているから、かもしれません…ともあれ宝塚版との比較もおもしろく観ましたし、物語そのもの、作品そのものとしても私はかなり好みだなと思いました。あと音響が良く歌詞がクリアで訳が的確でみんな歌唱力がありかつコーラスなども熱く、耳的にほぼノーストレスでした。これも大きく、集中して興奮して楽しく観ました。

 藤ヶ谷くんがアイドルとしてどうなのかとかを私は全然知らないのですが、そしてこれがミュージカル初舞台となるそうですが、まったく問題ないかなと思いました。というかもっとひどい出来を勝手に想像していたんです、すみません…
 このスタイルならタカラジェンヌだともう少し脚が長いんだけど…とは思わなくもなかったし、O脚なのかもしかしたら何か特殊な靴を履いていたのか歩き方が不思議なことになっていて、私は二階前方列どセンの席だったので登場時とカーテンコールで舞台奥からまっすぐ出てくるときにどうしたどうした!?と驚いたくらいでしたが、それ以外は安心して観ていられました。歌になるとちょっと棒かなというか、感情の起伏で歌う芝居歌ではない感じがややアレでしたが、声量や音程その他は問題ないし、ややドライ気味なのもドン・ジュアンのキャラに合っていると言えば言えるのかな、と感じました。ラストの「愛のために、俺は死ぬ」だけは絶唱!って感じに気持ちが入っていて、感動的でした。それを生かすためにそこまではあえてフラットに歌っていたのかな…?
 これまた勝手に、リアル男性が演じるドン・ジュアンやドン・カルロ(上口耕平)、ラファエル(平間壮一)を私は好きになれるかしらん、とか心配していたのですが、それも問題なかったです。というかだいもんは上手すぎて、冒頭も悪い顔をしすぎで嫌なヤツ感を出しすぎに私は思っていたのですけれど(でも宝塚歌劇だしスター男役がやるものだし主役だし、という思い込みでほぼ自動的に好感は持つ…)、藤ヶ谷くんは、まあ私がタカラジェンヌと違ってオペラグラスを使ってまでガン見しないからかもしれませんが(イヤちょっとは見たけど。ホント綺麗ですよね)、そんなにくどい芝居はしていなくて、ただたたずまいとかで崩れた色気をちゃんと出していて、それが要するにリアルなわりと普通にありがちな男子に見えてよかったというか、ちょっとハンサムだか金持ちだか知らないけどこういうイキっちゃってる男っているよねー、はーしょーもな、でも愚かで愛しいよ…と素直に思えてしまったんですよ。だからちゃんとドン・ジュアンに好感を持ち、彼のこの先を辿ろうと物語に入り込むことができました。これは自分でも意外だったんですけれど、私はあくまでヘテロで、宝塚歌劇で女性である男役が理想の男性を演じてくれるのを堪能する一方で、現実の男性をその愚かさや尊大さ含めて基本的には愛していて(もちろんもろもろ程度によるわけですが)わりと簡単に受け入れちゃうのかもしれないなあ、ということが確認できました。もちろんこれはキャラクターだけれど、扮しているのも立派なアイドルやミュージカル俳優さんたちで一般男性とは全然違うんだけれど、トータルすれば要するに同じ「男」で、私は「女」としてそこが好きなんだなー、となんか再確認しちゃったのでした。おもしろい発見でした。
 ただ、これは演出の問題だけれど、ドン・ルイ(鶴見辰吾)の「息子よ」の中で宝塚版では回想の形で出てきたドン・ジュアンの母親と子役が今回は全カットでしたが、これはコロスか映像かで何かのイメージをみせた方が良かった気がしました。宝塚版でも東西で演出が変わり物議を醸した部分ですが、そして元々の戯曲ではどうだったのかを私は知らないのですが、やはり近親相姦ってのはちょっと行きすぎなんじゃないかと感じていて、観ていて思いついたのは、『はみだしっ子』でグレアムがサーザというクリスチャン・ネームを捨てることになった原因の、彼のために自死し故に教会から見放されたおばさま、のイメージでいくのはどうかしらん、ということでした。ドン・ジュアンが神と愛に背を向け酒と女に走る原因、決定的な理由が必要だと思うので、何か具体的なエピソード、せめてイメージが欲しいなと思ったのです。父のこの歌だけでは足りなかったと思いました。ドン・ジュアンは高圧的な父親に反発している思春期の少年、みたいなものではなくて、自分の生き方を賭けて神を呪い愛を弄び世界に挑戦しているようなところがあるわけじゃないですか。そこに至る原因がやはり必要だと感じました。藤ヶ谷くんに、ただグレているだけの少年に見えかねない少年性があるだけにね。

 蓮佛さんのマリア(蓮佛美沙子)は、まあ過不足なかったかな、という印象でした。何度か舞台で観たことがある女優さんだとは思うんだけれど、どうも色とか個性を感じないんだよなあ…まあでもマリアってそんなようなところがあるキャラクターだからいいのかな。歌はとてもちゃんとしていました。
 そうそう、2幕のマリアには白か黄色か水色か、せめてピンクを着せてほしかったです。今のお衣装だとアンサンブルの女たちに紛れてしまいます。所詮マリアも女たちのひとり…という解釈なのだとしたら間違っていると言いたい。むしろ女たちがひとりひとり本当はマリアなのです。生田先生がプログラムで語っているのとちょうど逆のことを私は言っているのです。せめてマリアは特別にしなけりゃダメ。イサベル(春野寿美礼)だってひとり青っぽい飾りのある服を着て差別化させてもらえてるじゃん、まあオサはその長身とオーラでアンサンブルから文字通り頭ひとつ抜けてるんだけどさ。エルヴィラだってモーブ一色の服で差別化されています。マリアはせめてピンクであるべきですよ生田先生!

 次のクレジットはラファエルなんですね。確かにドン・ジュアンの恋仇なのでこちらの方が重いポジションのキャラクターだという考え方も当然ありますよね。これまた歌もダンスも良くて素敵でした。
 そして比べて観た人がみんな言う、ひとこと違ってモラハラ男みが全然ない…(笑)こちらが原作どおりなんでしょうか。そしてこちらの在り方の方が正しい気もしました。
 ラファエルとマリアは幼なじみか何かなのでしょうか、とにかく気心が知れた間柄で、かつちゃんとした恋人同士で、ラファエルが兵士仲間に結婚話を発表するときにも宝塚版のようにいきなりではなく、事前にマリアと結婚についてちゃんと話し合っていて承知してもらっていて、ただみんなに言うのは戦争から帰ったからってことだったのに先走っちゃって…というだけになっていました。なのですごくまっとうなのです。マリアはこの時点ではちゃんとラファエルを愛していて、結婚するつもりもありました。確かにラファエルはマリアに彫刻の仕事を辞めてほしがってはいるのですが、束縛したいとか家庭に閉じ込めたいとかよりも怪我や体力を心配しているように感じました。なので当時としたらこれまたまっとうな意見で、マリアもそこまで不承不承という感じではなく、納得して騎士団長の像を最後の仕事にする、と答えているように見えました。まっとうです。
 ひとこはマリアの意志をあまりちゃんと確認せず、ひとりで突っ走っていて、マリアの仕事に関しても良く思っておらず口出しし辞めさせようとし自分だけを見てもらいたがっている、そういうちょっと困った愛し方をしちゃうラファエルになっていました。でもひとこっぽかったし(オイ)、宝塚歌劇って愛の強さをそういう執着で描くところがあるから、アレはアレでよかったんだと思うんですよね。でもこのまっとうなラファエルは、ドン・ジュアンの改心や更生が遅かったこと、最初からちゃんとしていた人にはそれなりの幸運や幸福があるべきであることなどを表す、格好のものになったと思います。
 ただマリアがのちに受け取った手紙は、おそらくはラファエルからのもので戦況が厳しいことが綴られていたんじゃないかなと思うのですが、むしろラファエルの戦死を知らせるものだとははっきり明示して(それはのちに誤報だったとわかるのだけれど)、マリアはラファエルを死んだと思ってしまったからこそドン・ジュアンとの恋に躊躇なく落ちていってしまったのだ、とした方がよかったかもしれません。
 ラファエルは、決闘してたとえドン・ジュアンに勝とうと、マリアの心がもう取り戻せないことはわかってはいたでしょう。でも決闘は挑まれたら断れないものなのだし、男のプライドを賭けて戦う、ドン・ジュアンに一太刀浴びせたい、そのあとなら死んでもいい、どうせマリアなしの人生など無意味だ…くらいの覚悟があったのでしょう。ドン・ジュアンは仮にも貴族の跡取り息子で、せいぜいが民兵程度のラファエルより腕が立つことは、ドン・カルロが言うまでもなくラファエル自身にもわかっていたのでしょう。それでも、どんなに傷を負ってもラファエルは降参しません。彼は愛を知っていて、愛なしの人生の虚しさを知っていて、本当に死んでもいいと思ってこの決闘に挑んでいるからです。
 何度も立ち上がってくるラファエルに、ドン・ジュアンは怯えます。これ以上やったら死なせてしまう、降参してほしい、なのに何故こいつは何度も立ち向かってくるのだろう、本当に死んでもいいと思っているのだろうか…戦場で戦ってきたラファエルと違って、ドン・ジュアンは実は人を殺したことはないのかもしれません。命の重さに怯え、命を奪う罪の重さに震えます。自分が、死ぬのが怖いからです。だから人を殺すのも嫌なのです。けれど人は本当の愛を知っていれば死ぬことができる、それを目の前でラファエルに体現されて初めて、そして騎士団長の亡霊に唆されて初めて、ドン・ジュアンは自分がマリアによって愛を知ったことを証明するために、真人間に生まれ変わったことを証明するために、死んでみせるのです。剣を投げ出し、ラファエルの剣の前に身を投げ出して…
 彼が愛を知る前に積み上げてきた罪悪はあまりに重く、その命で贖わなければならないものでした。命を差し出して初めて彼は許され、騎士団長の亡霊と共に天国へ行くのでしょう…
 ぼろぼろのラファエルをドン・ルイがゆっくりと抱きしめるくだりに、泣きました。ラファエルにはフォローが必要です。もちろん息子を亡くした父親にも…パパ、できればエルヴィラ(恒松祐里)のことも気にかけてあげてね…

 そしてドン・カルロは…宝塚版のときは咲ちゃんがだいもんを好きすぎるのはまあデフォかなとか思って流していたのですが(笑)、今回もほぼ同じ立ち位置とはどういうことなのでしょうか。幼なじみで友達で…なんだろうけれど、たとえば神父志望とかでドン・ジュアンを更生させたいと思っている、とかなのでしょうか。でなきゃ普通あんなに心配したりお節介やいたりしませんもんね。それかズバリ同性愛者か、要するにドン・ジュアンを愛しているからか、ですよね。エルヴィラのことは単に案じているだけで、横恋慕のようには見えません。そして妻もいなさそうだし恋人ともいなさそう…女がいすぎるドン・ジュアンも問題だけれど、いなさすぎるドン・カルロもこの時代のこの階級の男性としては不自然なのでは…
 ともあれ特に説明もないまま、優しいドン・カルロがドン・ジュアンを案じ優しく歌い物語を進めるのは、それはそれでなかなかに快適でした。

 エルヴィラだけが歌がやや不安定だったのは、これが初舞台の女優さんだったからなのでしょうか。でも健闘していたと思いました。私はくらっちのエルヴィラが大好きでしたけれどね。
 今回ハッとさせられたのがエルヴィラの「望むならば」で、今まで私はこれはエルヴィラの悲しい愚かさやかわいそうさを表している歌だと思ってきたのですが、違いますね、これはむしろ「スピーチレス」だったのですね。一晩寝ただけで私の何を知った気になっているんだよ、それで捨てるとかありえない、もっと私を見ろよ、人を人としてもっときちんと尊重しろよ、と訴えている歌なのでした。これは正しい。そしてどんな女でも悪いことなんかその気になればいくらでもできるのであって、そんなところに価値を見ているのは馬鹿な男だけなのであって、そういうことを喝破してみせている歌でもあります。彫刻家という仕事を持っているマリアの方が一見現代的な女性に見えるけれど、実は恋に浮かれて修道院を出てしまった世間知らずのエルヴィラの方がより進歩的なことを求めている、という構図なのかもしれません。彼女のこの先にも幸あらんことを…

 そして騎士団長/亡霊の吉野圭吾は絶品ですよねこの作品の影の主役ですよね! 素晴らしかったです。
 対してアンダルシアの美女(大石裕香)は振付もなさっている高名な先生でダンサーだと承知しつつも、黒塗りのカリの割れた腹筋とへそピの尋常ならざる色気が忘れられないでいる私なのでした…
 そしてイサベルはなんか男前でした…! これはもう中の人のニンかなと思うけれど、これもまたよかったです。ちゃんと昔の女感も、今の友達感も、語り部感もありました。さすがです。歌はもちろん素晴らしすぎました。
 ドン・ルイをリアル男性がやる意味もまた感じましたね。ジュンコさんはこれまたちょっと酷薄に作りすぎていた気がしました。今回のパパは、跡取り息子の放蕩をもちろん苦々しく感じているんだけれど、一方でちょっと痛快に思ってそうなところがあると思うんですよね。この時代のこの階級の男性にありがちな、そして残念ながら現代にも通じるミソジニーが彼の中に確実にあって、それがまたいい感じに嫌ったらしく、しょうもなく、また残念なことにある種の可愛げとして表されているようで、絶妙だなと思いました。でもこの家は跡取りがなくて断絶してしまうのであろう、いい気味だよ女をないがしろにしてきた報いだよ、とももちろん私は思うのでした。

 アンサンブルではヒメのところをやっていたあみちゃん、則松亜海がもちろん出色でした。メインキャストに名を連ねてもいいと思ったけどな。

 椅子を使うダンスやサパテアードからのダンス、赤い薔薇の使い方もほぼ同じでしたが、マリアが騎士団長の彫像を壊すくだりがなくなっていたのはいいなと思いました。あれは私は不自然に感じました。作業が中断されて未完成のままの彫像がほぼずっと舞台にいる、その威圧感…みたいなものが、今回は作品にいい影を落としていたと思いました。
 軍服は全然ちがったけれど、あとのお衣装のイメージはほぼ同じでしたね。映像の使い方なんかもいい感じだと思いました。あの舞台をほぼ横幅いっぱいに使うことってあまりない気がするんだけれど、それも広々としていてでもスカスカしていなくて、よかったです。
 いい舞台だったなあ、好きだなあ。愛や命といったものの重さをどう考えるか、という感覚が納得できて共感できて、好みです。あと再演にあたりちゃんと手を入れブラッシュアップしてくるところとか、生田先生はちゃんとしている。かつ本当にロマンティストだと思う。イケコを継いでいくのはまずは彼なのかもしれません。でもまずは劇団辞めないでね、まあそれはイケコにも言いたいことだけれど…まだまだやるべき仕事はありますよ。期待しています。


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