こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第3主日(ルカ13:1-9)園丁の取り組みに力を合わせる

2019-03-23 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
19/03/24 (No.993)
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四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
園丁の取り組みに力を合わせる
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今週の福音朗読の中で、後半の6節から9節に目を向けたいと思います。「実のならないいちじくの木のたとえ」と呼ばれている箇所です。「実のならないいちじくの木」が私たちであれば、「園丁」はイエス・キリストかも知れません。

ぶどう園の所有者を父なる神と考えるなら、いちじくの木は結果を出す時期が来ていて、いつ切り倒されてもおかしくない。それを、イエスがあわれみを注いで、父なる神の忍耐を引き出そうとしています。

ひょっとすると、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とルカ3章6節にあるように、私たちはすぐにでも結果を求められているのかも知れません。

実のならないいちじくの木は、園丁の必死の努力に応えなければなりません。園丁の取り組みに、人間で言えば向き直って、力を合わせなければ、実を結ぶのは無理なのです。これが人間とイエス・キリストに当てはめられているとするなら、人間はイエス・キリストの必死の努力に向き直り、力を合わせる。これしか方法がないということになります。

日々の出来事がどのように前に進むのか、信仰心を持っている人には三つの考えが可能です。一つは、どのようなことも神が決めた通りになるのだから、人間が何をどうしようと変わらないという考え、一つは、神はただ黙って眺めているだけだから、何事も人間が決めて動かさなければなら名という考え、そして最後に何事も神と人間が共に働くことで進んでいくから、神の呼びかけに寛大に応じる必要があるという考えです。

この三つのうち、イエス・キリストは私たちにどれを選んで欲しいのでしょうか。きっと、最後の答え、神と人間が共に働いて物事は進むから、呼びかけに誠実に協力して欲しいと願っているのだと思います。

この数年で、私たちは大きな経験を積みました。一つは献堂百周年です。もしこの計画が、「神が決めた通りになるのだから、人間が何をどうしようと変わらない」と考えていたなら、無事に百周年を迎えることはできなかったでしょう。神と人間が共に働いて、大きな働きを教会の歴史に残したのです。

もしこの百周年が、「神は黙って眺めているだけだ」と考えて人間の思いだけで前に進めようとしていたなら、ああでもないこうでもないと話は前に進まなかったでしょう。「神が喜んでくださる方向を探しながら、進んでいきましょう。」この「共に働く心」があってこそ、立派に事を成し遂げたのです。

今年の11月には、いよいよ2度目の教皇来日が実現します。人間の思惑ばかりが見え隠れする来日ではなく、私たちと、神が共に働いて成し遂げる訪問となるように、心から願っています。その時初めて、木は実を実らせ、多くの人がその実りを味わうことができるのです。

四旬節、回心の季節に、私たちはどのように物事を進めようとしているのか、それぞれ考えたいと思います。たとえば黙想会に参加することで、主任司祭は、今年一年田平教会でどのような実りをもたらしたいのか考えます。そのために、神と人とが共に働く形をどのように整えたら良いのか、考える必要があります。

修道会は、修道会が抱えている事業や教会奉仕の中で、どのような実りをもたらしたいのか考えます。そのために、神と人とが共に働く形をどのように整えたら良いのか、考える必要があります。

家庭にあって、それぞれの家族が、どのような実りをもたらしたいのか考えます。そのために、神と人とが共に働く形をどのように整えたら良いのか、考える必要があります。

こうしてそれぞれの場で、私たちは神と共に働く方法を探し求めるのです。決して、道をそれたり、怠惰になったりしてはいけない。「私が計画を進める。私の考える通りに動いてもらう。」あまりに思いが強すぎれば、それは神と共に働く姿から逸れてしまいます。

「私たちがどうしようと、神が決めた通りにしかならないから、何を協力しても同じ。」そんな考えで怠惰に時を過ごすことも注意しなければなりません。必要なことは、神と共に働くこと、力を合わせることです。

神と力を合わせて働くことは、誰も例外ではありません。立ち直りや、回復の途上にある人も、神と力を合わせて努力するとき、実を結びます。どんなに困難な状況からでも、どんなに時間がかかろうとも、私たちと働いてくださるイエス・キリストは共に働いてくださり、父なる神に実りを報告させようとするのです。イエス・キリストの深い憐れみに信頼して、神の国の実りのために共に力を尽くしましょう。


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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会の典礼上の規定では、四旬節中は主日に葬儀・結婚式をミサを伴う形で行うことができない。そうなると「ミサを伴わない儀式」ということになる。やはり当人たちには「ミサをしてもらいたい」という気持ちがあるので、こちらとしても心苦しい。
▼21日(木)に高齢のご婦人が亡くなった。通夜と葬儀の日程を組む。連絡が21日の夜だったので、「日曜日を葬儀に指定するかもしれない」と思っていたが、ご遺族から「日曜日になるとミサの葬式はできないんでしょ?」と尋ねられた。規定を説明したことをよく承知していて、先に聞いてきたのだった。
▼「そうなんだよ。金曜日に通夜、土曜日に葬儀ミサがいいね。」私もミサをささげて送り出したかった。そして実際にそのようになったのでほっとしている。ただこのようなケースはこれからも考えられる。一つ一つのケースに説明をするのかと思うと、もっと緩和してもらえないかと思うこともある。
▼もちろん、結婚式を四旬節中に、というのは本人たちによく説明しておくべきだ。だが葬式は、個人の死は、誰にも止められない。そう考えると葬儀ミサだけでも、規定を緩和してもらえないだろうか。
▼葬儀をして送り出した故人は、司祭の親戚がいて、大変お世話になった歴代主任司祭もいる。私はただ、3年間お世話しただけなので、関係の司祭が来てくれるなら、謝礼もそっくりお渡しするのでお願いしたいくらいだ。
▼土曜日はただでさえ忙しいので、葬儀が入った土曜日はこんなものだと、今回のことで頭と身体が同時に理解するだろう。頭では理解できても、身体がうまく受け入れるかどうか。身体と頭は繊細だ。頭が付いていかないこともあれば、身体が受け付けないときもある。

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今週の1枚
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第600回目。風呂場の改修中。あの方がおいでになる前には間に合うだろう。

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