こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第3主日(マタイ4:12-23)神のことばは闇を照らす光

2020-01-25 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/200126.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/1/26(No.1044)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第3主日(マタイ4:12-23)
神のことばは闇を照らす光
‥‥‥†‥‥‥‥

教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『Aperuit illis』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ことを宣言されました。自発教令の一部を引用します。

「それぞれの共同体は、ある程度の荘厳さをもってこの主日を特徴づけるための、自分たちにふさわしい方法を見つけていくことでしょう。しかし大切なことは、神のことばの規範としての価値に会衆の注意を向けさせるために、聖書のことばがミサにおいて賛美されることです。

この日曜日には、主のことばを告げ知らせることを際立たせ、説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調するのが、とくにふさわしいといえるでしょう。
司教たちは、典礼における神のことばの告知の重要性を明らかにするために、朗読奉仕者の選任式、あるいは朗読者を任命するための類似した式を執り行うことができるでしょう。

この点について、みことばの真正な朗読者となるために必要な養成を信者に提供するために、新たな試みがなされるべきです。このことは、すでに祭壇奉仕者あるいは聖体拝領のための臨時の奉仕者の場合には行われています。

司牧者たちは、聖書をどのように読み、味わい、そして日常的にどのように聖書とともに祈るかを学ぶ重要性を示す手段として、聖書あるいは聖書の中の一つの書物を全会衆に与える方法を見つけることもできます。とくに、『霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)』の実践を通して、そうすることができます。」

いくつか、大事だなと思われる点を抜き出しますと、「聖書のことばがミサにおいて賛美される」そのような工夫をすること、「主のことばを告げ知らせることを際立たせ」「説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調する」具体的な取り組み、そして「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)』の実践」この四点がさしあたり必要です。

一つ目、「聖書のことばがミサにおいて賛美される」これについては、「朗読用聖書」を祭壇に立てかけて、そこから聖書を説教台に運び、可能な限り恭しく朗読することを心がけました。年間第三主日に、忘れていなければ続けてみたいと思います。

二つ目、「主のことばを告げ知らせることを際立たせる」この点については、いつもは毎週用意されている「聖書と典礼」を使用している信徒の朗読者も「朗読用聖書」をできるだけ使用し、信徒席から運んでいくようにすると良いと思います。

三つ目、「説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調する」たった今、ふさわしくたたえるための具体的な取り組みを説明しています。神のことばに対する最大の敬意を表すために、繰り上げのミサと9時のミサでは朗読聖書に献香をしてみました。

そして最後、四つ目として「『霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)』の実践」です。私たち長崎教区の教会は、「聖書愛読」という取り組みを続けています。この取り組みをさらに磨いていくことが、「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)」につながっていくと思います。

最後の霊的読書について、もう少し話しておきます。聖書を読むことで、私たちが導きを得ていると感じる。霊的読書はここまで私たちを運んでいきます。

例えば今週の福音朗読、「四人の漁師を弟子にする」という場面が選ばれていますが、朗読が、私たちをその場に立ち会っている登場人物の一人と感じさせるほど、気持ちを込めて読み返してみましょう。「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」(4・21-22)

ヤコブとヨハネの立場に立って、もう一度読み返してみます。なぜ二人は、すぐに、舟と父親とを残してイエスに従ったのでしょうか。自分なりの答えにたどり着くまで、ゆっくり読んでみたり、二度三度読んでみたりしてください。

また、舟の乗組員と父親の立場に立ってみましょう。なぜ父親は、息子二人を止めなかったのでしょうか。反対もせずに送り出したのでしょうか。皆さんなりの答えが見つかるまで、繰り返し読み返す。すると、「聖書を読むことで、私たちが導きを得ていると感じる」この意味が分かってくると思うのです。

私たちはだれもが父親であったり母親であったり、息子や娘であったりするわけです。息子が舟と父を残して出て行く。なぜ止めないのかなぜ反対しないのか。その答えが父親にも息子にも見えた時、私たちは今週の朗読から導きを得ているのであり、その時こそ「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)」を体験しているのです。

これから私たちは年間第三主日を「神のことばの主日」として繰り返し迎えます。この主日が、日々の生活に神のことばを取り入れるきっかけとなりますように。日々、神のことばに導かれている実感を得られるきっかけとなりますように。「暗闇に住む民の大きな光、死の陰の地に住む者の光」であるイエスに、続けて照らしと恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の奉献(ルカ2:22-40)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼あー、マラソン大会。「あー」と言っている時点で勝負は付いている。今年も負け。ダメダメ。それでも参加し続けるのは、私の知るある先輩神学生だった人の「奇行」のせいかもしれない。その先輩とはいまだに会えていないが、私は先輩の「奇行」を受け継いだ。
▼その先輩は、神学生が休暇を終えて帰ってくると、必ず「名簿の確認」をしていた。つまり、「神学校を辞めた人」のチェックである。神学校を辞めた人を目ざとく見つけては、筆記用具で線を引くのだった。
▼どんな思いで線を引いていたのか分からないが、ひょっとしたら「自分は最後まで生き残るぞ」という覚悟だったのかも知れない。私はたまたまその作業を見て、「変わったことするなぁ」と思っていた。しばらくは見続けていたのだが、ある日、「その日」がやって来た。
▼辞めていく学生たちを名簿から削除するために線を引いていたその先輩が、なんと辞めてしまったのである。当然自分で自分に線を引くことはできない。どうなったか?実は私がその「奇行」を受け継いで、辞めていく先輩後輩の名前に線を引いていったのである。
▼私は生き残り、司祭となった。もはやその「奇行」は続けていないが、これはマラソン大会にちょっと繋がってくる。マラソン大会は非常に負担の大きい行事なので、年齢が重なれば当然出場は難しくなってくる。私もその一人で、同級生はもはや誰も参加していない。
▼あえて参加している先輩を挙げれば、思い出せるのはH師とM師だけだ。大先輩のT師はマルコ園にいるし、大先輩のH師はいくら何でもご老体を引きずっては来ないだろう。そうなると、思い出せる2人との「落伍者競争」になるわけだ。
▼私は今のところ走れば走ることができる。いつでも先輩二人に「消去線」を引くことができる。せっかくだから60まで走って、「シニアの部」を設定してもらい、表彰台に上がりたいものだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第651回目。1月24日(金)午後4時半から総合防災訓練が行われた。参加者少。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年間第2主日(ヨハネ1:29-34)... | トップ | 主の奉献(ルカ2:22-40)神殿に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事