今日はイレギュラーの日曜日のkameyaさん教室。朝、一応確認の為に毎回棟梁に連絡してから出発するんだけれど、その時にお休みする人の事だったり、持って行くものだったり、何かありますか?みたいな話をするんで、今日もいつも通りに確認すると、おかみさんは目地だよね・・・と2人共思ったんで、
それじゃ何色の目地を用意するね・・・みたいに1人ずつやっていると、りょうさんも目地ありますよね?って、棟梁。えっ?そうなの?可能性ある?って聞くと、自宅でやっているようなんで・・・って話なんで、急きょ目地を追加して・・・そんなこんなで出発したのね。
それで到着すると日曜日な事もあって、一番乗りになったんで、棟梁とプチリフォームの話が出来たのね。さてそれでは1人欠席だったけれど、みんな集まったんで、おかみさんにいよいよ目地ですね・・・と声を掛けると、先生ここにハスの花入れて良いですか?・・・って。えっ・・・・・・。
って、もはや相談では無く下地に描いてあるじゃん・・・ただ、今までもそうしてこんな事になっている訳で。でも仕上がりも悪く無いし、きっと入れても大変なだけで、何の問題も無いから、むしろ入れる方向で考えて、どうすれば入れられるか?であり、最善は何?を探す事。そんな中、こうしましょう。
って言うのが見つかって、スタートしたんだけれど、そりゃ後は今までの繰り返しって訳には行かないから、また時間が掛かる。だから結果的には終わらなかったんだけれど、でも結果はとても良い・・・老婆心としては、遊びの作品なのだから・・・と思えば、楽しんで貰いたいが労力を使ってしまう。
しかもこれは男子風呂に使うものなんだから、当然ながら女子風呂はおかみさんの性格上、もっと時間を掛けるだろうし・・・だからまだ当分続く。そう考えると、先生としては老婆心で止めたくもなるんだけれど、楽しんでいない訳では無いし・・・。逆にりょうさんとなると・・・
硬いタイルだらけに四苦八苦しながら、ここまで来ていて、同じ終わらなかったとしても、四苦八苦なのだから、楽しいって感じでは無いのね。そうね、この違いは絶対に出来るおかみさんと、絶対とは言えないりょうさん。そうね、それはおかみさんは確認だけすれば、切る事に困る事はほぼ無い。けれど
りょうさんはまだ切る事が思うように・・・までは行っていないから、全てがチャレンジになる。しかも今の悩み事は、チューリップの鏡として作っているのだけれど、みんなには蝶を褒められて、しかし本人は生き物が嫌いで・・ただそれも良くある話で、女の人の中には生き物としては嫌いでも、模様
としては嫌いじゃない・・・って場合、じっくり見て輪郭だけ守って仕上げれば、生き物を作る感覚では無くても、結果が出る事がある。それは俺の下地で判るように、輪郭で何だかが判りやすいものは、中身が違う柄になったとしてもそのものが判るのだから、その通りのまま作れば似せる事は出来る。
けれどそれはしっかりした模様としての形を切れないと近づける事は出来ない。つまり最初は丸のような点、1粒完結のパーツをしっかり切れるように練習をし、今度はチューリップのような茎や葉っぱ、花びらのように何枚も合体させて1つの形に見せる・・・線で仕上げる練習になる。どちらにしても、
それはしっかりきちんと切る・・・そんな技術の習得。所がそうしてきちんと、しっかり・・・の基本を反復していると、出来ないながらもそう言う癖が付くのね。所がバックはクラッシュね。って言う何だかアバウトな事がその人達を苦しめる事になるのね・・・それはきちんと、しっかりが身に
付いて来たからなのね。これはこう、これはこう・・・そうやってきちんとやら、しっかりやらの繰り返しで出来ないながら慣れて来た。つまり最初は拾ったパーツでも入れられた人が、そんな事は絶対にしない人になった時点で、大きな変化があった事になる。勿論、だからと言って上手いか?って
結果を求められても、まだまだだが、少なくとも意識に変化があるから、その頃の拾って入れられた頃よりも繊細になった。そんな腕を持ってして、そんな意識を持ってして、クラッシュ・・・ではクラッシュとは何だ?となると、不規則な形、決まりが無い感じ・・・ほら表現が曖昧になる。
つまり、きちんと、しっかりの練習をして来たのに、適当に、お好きに、って言われると、自由が不自由になった・・・そんな気分になるのね。それが体験の時なら、入ったラッキー・・・で仕上げられたはずなのね。つまり上手くなった弊害なのね・・・それは。ではどうしたら?なんだけれど、
実は規則とか決まりって言うのがあると、それを目指すと大きくは外さないもので、それが基本なんて事になるんだろうね。それには歴史があるから、先人達の知恵が入っていて、色んな失敗を是正して確立したようなものだから。しかしながら、良い事と悪い事は背中合わせ。
要するに基本だけでは古く感じる事もある・・残念ながら。だってそれなら家も、車も、お菓子も、かばんも、洋服も伝統的に同じもので良いじゃん。って話。けれどね、時代は流れると、そのままじゃ残れないってものがあったりする。つまりそうなると全ては常に自社否定になる。
逆に伝統、老舗を大事にするなら、ずっと同じスタイルでやれば良いのね。って大きく語るとこんな違いがあったりして、そんな中、ハイブリッド・・・良いとこ取りって言うのかな?海イグアナと陸イグアナの合体もの・・・みたいな、生き残る為のすべとでも言うのかな。言い方を変えると、
古きものと新しきものの融合みたいなね。こんな考え方をすると、きちんと、しっかりって側の基本ってものを経験した後に、今度は全く違う側、つまりルーズにみたいな気持ちになるランダム、クラッシュって表現は許し難くなるんだろうね・・・何しろ反対勢力なのだから。
しかもその意識は無く・・・ここが大きな問題なのね。何と無く嫌だから・・・それが証拠に自宅でやって来ると、目地幅が極端に狭くなるのね。おかしいでしょ?だって目地幅が広い方が何でも簡単に入れられるのね。ピッタリはきつきつでキッチリ・・・スカスカでゆるゆるで雑・・・悪意を持つ
表現なら判りやすいでしょ?つまりこうして表現をせずに何と無くそんな意識があるから、ウイルスに感じるのね・・・何と無く。しかも今の結果が良いと感じているのなら、基本のチームの人なのね。だもん最後の表現が雑・・・なんて許せない・・・そんな気持ちからかな?
勿論、大袈裟な表現ね、あくまでも。つまりまだクラッシュ自体を受け入れる脳になっていないと思うのね。そもそも何でも良いとか、いびつな形とか、不規則にとか大きさもマチマチ・・・何だか今まで習った事全ての否定な感じになる。しかも規則や決まりが無いから、感覚になる。
こんな感じぃぃ・・・そうなのね。そこが難しいのね。レシピの無い事だから。規則や決まりはレシピみたいなもんだから、きちんと真似をすれば大きく外さない。でも自由は考えて、自分なりの正解を見つける事だから、ある程度の所からは感じる・・・感なのね。
でもそれでも人が感じるって部分は、ある程度似ていて、コツってものがあったりするもので・・・簡単な話なら、四角かったり丸だったりするものを入れるとクラッシュ感は薄まるとか、大きさを揃え過ぎるとやはり同じだったり、鋭角が多いと可愛さが半減とか、規制をすればキリが無い。
それを言われると楽な人には言った方が楽なのか?って言うと、いっぱいあって戸惑う事もあるし、逆に最初の頃なら何でも入れられただろうし、全ては上手くなった弊害。そして基本の人になったから。ん・・そうね、じゃ例えば棟梁の仏像彫刻と木彫って例え話にすると面白いと思うのね。しかも
どっちも知らないぃぃって人は好都合なのね。何故なら変な知識が無い分、感じるしか出来ないから。では仏像彫刻・・・どんなイメージ?何か神社仏閣みたいな名所な所にあって、神様仏様みたいな感じで、まっ旅行先か、初詣で見掛けるかなぁ・・・って感じ。そうね、図書館とか一緒かな?
何かラフな感じは無いし、格式みたいなルールを感じるのね。だとすると、ピアノのバイエルチックで、決まりや基本、ルール、何か面倒な事がありそうな予感がしない?では木彫・・・読んで字のごとく、木を彫る・・・じゃ仏像彫刻だって木を彫るから一緒じゃん・・・って思うかな?
いや、違うなきっと・・・仏様を彫るだけなら刻まなくても良いはず・・・何を刻む?判らないながら重そうな感じがする。つまり感じるだけなら聞かずとも、想像する事が出来る・・・勿論、合っているか?どうかは別としてね。つまり俺には仏像彫刻は規定演技で、木彫は自由演技に感じる。
もっとえぐれば、お前の意見なんて必要無し。図面通りに彫れ。先人達の築いて来た道を・・・って言われている感じだし、もしそれが合っているのなら、木彫は貴方の彫りたいモチーフでどうぞ・・って感じがするのね。しかし、しかしなのね。きっと木彫にだって歴史があるだろうから、ここも
あるんだと思うのね・・・それなりのルールが。そうするのなら・・・ってね。ただモチーフが自由って事だけであってね。こうした違いみたいなものを感じる事が出来るのなら、きちんとしっかり切るとルーズに切るの違いを感じる事が出来ると思うのね。何しろ感じるって想像だったりする。
つまりレシピや図面通りでは無いから、感じ無いと答えが無いもので・・・悩んだりしても真似が出来ない。ただ1つだけあるとしたら、アトリエでやった所は少なくとも俺がokだした場所・・・恐らくそれがヒントになるはずなのね・・・。いずれにしても、りょうさんの課題は感じる事なのね。
そんな棟梁も実は感じる事なんだけれど、まぁ何しろ大波小波の不安定感なんで、気持ち1つで大きく崩れる。勿論それも感じる事が原因の1つなんだけれど、何しろ思い込みが強い。まっ、今日で言うのなら例えば、額縁に木彫でひまわりを彫ってあるのね。何個かね。大きさも形も変えてね。
するとトンボが3匹彫る予定になっていて、大きさがほぼ同じなんだけれど、向きが1匹反対方向で、その理由がそれは娘2人と私らしいのね。まっ、3つって数からそうだと思ったけれどね。でも反対向いているのは最近結婚したお姉ちゃんらしいのね・・・旅立ったって。それでこの額のひまわりは
私の人生だ・・・って言うのね。あんな事やこんな事があったって・・・あんな事やこんな事って良い事と悪い事って意味だよね?きっと。だって良い事だらけなら、元気なひまわりだらけで良いはずなのに、しおれたり、下向いていたり、風で横向いたり・・・つまり波乱万丈って感じね。
そんな中、ひと際大きなひまわりを、先生が見ていない時に小さめにした・・・って言うのね。理由は1つでひまわりが好きでは無いから。あははは、棟梁らしいのね。まっ、そんな事も考慮に入れていたから驚きゃしないけれどね。じゃ尋ねよう・・・じゃ不幸せだったって事で良いのね・・・。
えっ?俺にはそのえっ?が判らない・・・何故なら人生が波乱万丈・・・いつもの質問。それは幸せ寄りなの?不幸せよりなの?勿論さっきのひまわりの表現からして、あっち向いたりこっち向いたり、小さかったり、下向いたり、枯れていたり・・・そんな中での大きなひまわりこそ、幸せ感なんじゃ
無いのかな?なのにどうして小さくした?・・・あはははは。でもね、もし下絵の時に棟梁のままだったとしたら、そのままの幸せ感だったろうが、俺が無理矢理大きく描かせた分、小さくされても、棟梁のサイズにまで小さくはならないはず・・・そもそもがそれが幸せを表す意味だと感じたから
・・・あの時点で。作り手の棟梁よりも俺が・・・ね。意味を持つ事をすれば、そう見えるには・・・であって、何でも良いものでは無いのね。恐らく所作なんてもんは、そう言う意識を持つから自ずとそう言う結果の方へ進むって話で、技術やテクニックはその後の話って事なんだろうね・・・
勿論、俺は誰にも習っていないんで、あくまでそう思う・・・って個人の見解。そんな事は知識賢者に聞けば、きっと何々流なんて場所の先生が教えてくれるはずなのね。でもきっと、感じる・・・ってのは、そんな事であって、だから感じる部分がオリジナルなんじゃないのかな?って思うのね。
さてその後、アトリエに戻ってイカ2教室。今回は去年よりも大きいサイズ・・・しかも内容も中々面白い。そんな中、どうやら先日の陸王とは友達らしく、学校でkatsuさんとこ行った?って確認したらしいのね・・・今までそんなに親しい同士がやって来る事は無かったんで、それはそれとして。
まっ、特に拾う程の話じゃないけれど、どちらも満足行くように・・・と向き合うだけなのね。そんな中、順調に下地に下絵を写す所まで進んだのね・・・次回からモザイクスタート。