katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

中学生教室と理容院看板

2023-05-31 23:45:30 | モザイクタイル教室

今日は夕方から中学生教室。それまでは理容院看板。

バックに入ったから、後は時間が解決方向に向かっているんだけれど、あんまり時間も無いし・・・そんな中、大家さんにたまには息抜きがてらに、現地に納品に行こうよって言われてんのね。でも新潟だよ、本当なのか?茶化されているのか?若干微妙な感じではあるが、何だか本気そうなのね。

まぁいずれにせよ、終わらないと進めないんだけれどね。そんなこんなでお教室。そうね、内容としては、モチーフを大きくしようか?そのままになのか?みたいな悩み事だったんだけれど、感じとしては、甘くしたいから砂糖だみりんだ、金平糖・・・って安易に足すって考え方が正しいのか?

って話なんだけれど、例えば千と千尋の映画を思い出して欲しいんだけれど、ハクって主人公の千尋を助けてくれる男の子がいるのね。ただそれは川の神なのね。まず進むに当たって知っている人は、あぁあれね・・・って進める。これが知識って話ね。じゃ知らなかった人はこの時点で、僅かな

情報を得たのね。じゃその情報を受け入れるのか?って話なのね。それをそれでも受け入れないって人は、きっと主役を助けるんだから、きっとカッコいいんだろうな・・・とか、自分の好みで想像するってスタイルだろうから、良い意味では自分があって、悪い意味なら好みの押し付けになる。

所が逆に情報を知っていると、天下の宮崎さんのキャラなんだから、そのキャラに引っ張られる形になるから、オリジナルを越えようなんて思えば、非常に悩みが多くなるのね。ちなみに彼の作っているのはオリジナルなんだけれど、とても有名なモチーフが既にあるのね。

ただそれは何処の世界にもあって、例えば刑事モノ、恋愛モノ、推理モノ・・・と分野は被ってしまうし、見た目にしても車は4輪とか、何でも常識なんてもんがあるのね。まぁ例えば、アリエルにしたって、人魚なんて見た事も無いのに、ギョだから、鱗があるって決めた人がいるんだろうね。

それがもし、人魚のモデルなんて言われているマナティって生き物ベースなら、イルカみたいにツルンとした感じになっていると思うのね。こんな考え方なんてのが普通で、俺独特の考え方なら、人魚は女性で、半魚人は男性で、人魚はギョで、半魚人はジンだから、足がある・・・みたいな。

想像って言う事を、何も受け入れずにマイボールって始められるフォワード的な考え方の人もいれば、俺のように既に先人が大きな影響を与えちゃっているモチーフって言うのは、何がどう感じられちゃっているのか?みたいな受け入れて変化させる逆の考え方って言うのもあったりするのね。

こんな違いがあったとして、戻ると、主人公を助ける男の子・・・まず男に見えないとならない。そした実は川の神・・・ここね。神って何?見た事ある?ほら人魚と同じなのね。じゃ男の子なのに神って・・・。卑弥呼じゃ無いんだね。多分裸なら男って判るだろうけれど、原始人でも葉っぱみたいに

隠すだろうから、何かまとっているよね?きっと。そうすると洋服じゃ無いと思うのね。ほらこうやってその言葉の意味を探せば、判らないながら、自分の解釈で進めるのね。それを大きい、小さい、甘い、しょっぱい、綺麗、キモい、ツルツル、ザラザラ・・・まっ五感ね。

その感じるって敏感な部分が、ざっくりな人は、真似るってスタイルが良いのね。つまりレシピ、図面、楽譜と言った、ルール通りにね。ここは個性なんて邪魔なだけだから、古典落語や歌舞伎、花柳流とか、伝統格式を重んじるし、所作なんてのもあったりするだろうね。

逆にオリジナルとなると、新作落語となれば、スマホや車、飛行機だって使えるのね。それも当たり前で、子はかすがい・・・ってオチで、かすがいって何?となったら、もはや何を話して来たか?判らない事になってしまうのね。だからこそ今の人に判るモチーフを使う訳で・・・。

歌舞伎も同じで、スーパー歌舞伎となれば、演目だってワンピースや鬼滅なんてものになるし、空だって飛ぶのね。そりゃ古典派からすると、どちらも邪道なんて扱いを受けるだろうね。それなのに、その邪道扱いされたものであっても、旅役者、町役者となれば、腐っても鯛みたいに、格上になる

だろうしね。おっと話が外れた・・・元に戻すと、神で無いとならないし、男に見えないとならない。そして日本であるとなると、キリストじゃ無いから、和服なんだろうね・・・きっと。って感じになるでしょ?だから、この辺はルール無しでは無くて、この程度のルールで・・・って決まりを

作らないと、単なる思いつきになるのね。その作り方だと、気分の良い時は、イケイケドンドンで、悪い時はどんより・・・なんて、感に頼れば、気分で左右されるのね。でももし、その程度であっても、その縛りさえ守れば、わずかながらの格式は保たれるのね。

まぁお粗末な例としては、bayfmに9の音粋って番組があって、真剣邦楽番組ってうたっているのね。真剣なんだよ・・・なのに、パーソナリティの今日の気分とか、洋楽のアーチストが亡くなったからとか、必ず掛けちゃう人がいるのね。はぁ?って興醒めしちゃうのね。

そもそもパーソナリティって、曲を作る訳じゃないし、伝達役なのね。知らない情報を伝えるみたいな・・・しかも自分達で真剣邦楽番組とうたっていて、それを注意するどころか、そのまま垂れ流す・・・もはや何でもありになる。もしこれ政治だったら?って話で、その程度のルールが守れない

なら、冒頭のナレーション変えれば良いのになって思うのね。そうすれば、好き放題に出来るのにって。だってベストヒットUSAって言っててさ、美空ひばりさんの命日なんで、リンゴ追分って・・・有り得ないでしょ?まぁそうなると、テレビより格下かぁとか、深夜番組だからなぁ・・・とか、

そんな雰囲気を感じるのね。勿論、番組自体は面白いと思うから聴いているけど、昔のようには聴けなくなったのね。真剣邦楽番組ってあだ名みたいだし、格式とかは感じられないしね。折角良い番組なのに残念なのね。ってこんな考え方があるとするでしょ?じゃ作家katsuはその方向性でやる。

って感じになるとして、先生katsuは?となると、どの程度のお考えかな?なのね。押し付けるつもりは一切無いし、そんなの関係無いって言えば、お楽しみなんだから、楽な方向だから、別に切らなくてもモザイクだし、時間制限や来る回数で、やれる事とやれない事を判断するだけだし。

でもやっぱり邦楽番組だから・・・って言うのなら、洋楽のカバーは駄目ですか?とか、QUEENの手を取りあって・・・は日本語ですが駄目ですか?とか、TWICEは日本人いますが・・・とか、こうした粘りがあると、相談にも応じられるけれど、何でも良いのなら、俺いるかな?とも思うのね。

創作って考えるって事だから、思いつきがきっかけなら良いけれど、大きく趣旨を外すと格式は安くなる。彼の作ろうとしている内容は見た目こそ可愛い感じではあるけれど、きちんとした内容だったりする。それをどうやって格式を上げて行くか?って事になった時、可愛い見た目が邪魔をする。

だからいかに格式が上がるか?になるのに、上げようとする事も大切だけれど、下げないように・・・も大切なのね。ただきっとこんな話、面倒臭いだろうなぁ・・・って思ったりもするのね。そもそもクリエーターなら、こんな話当たり前だろうけれど、こだわりってこんな事の繰り返しなのね。

例えば伊勢海老の触覚なんて無くたって、味なんて一緒だって言う人はごもっともだけど、もしそれが披露宴だったら?幼稚園の子供の発表会で転んだら?それが高校生の子供だったら?みたいに、何処で誰が何を・・・みたいに、問われる場面がある。それに寄って状況判断や点数が変わったりもする。

後は労作展ってどんな感じなのか?となると、その子達がどう思うか?だから、その子と向き合って見ないと、全員一緒って訳じゃ無いからね。つまりそれを良い塩梅にしないとならないのが難しいのね。真面目にやるとこう言う話になっちゃうのね・・・。


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