katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

フクロウナギ教室とパテ埋めからのペンキ塗り

2023-01-07 01:31:26 | モザイクタイル教室

今日は午後から、しながわ水族館展示用の作品のフクロウナギの方教室。それまでは、しながわ水族館のワークショップ用下地のパテ埋めをしていたんだけれど、かぐやとの会話の中に光る紙粘土の話が出て、一応そこそこはキープしていたが、万が一の事も考えて、追加の分を購入しに・・・。

更に注文して来たんで、恐らく200枚分はキープ出来たとは思うんだけれど・・・。ひとまず安心を得てからのお教室。ただ起こるかもなぁ?って思っていた事が起こっちゃって・・・それは切る事が上手くなっちゃった人に良くある事で、普通は手慣れない状況の時は、中々思うようには切れない。

だから繰り返す・・・反復練習になる。いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん・・・もはやお経や念仏だったり、イチ、ニー、サンって素振りだったり、あぁあああー、ジャン、あぁあああー、ジャンみたいに、発声練習をする。何でも繰り返す事で手慣れる。これは良い事なのね。

所が、良い事と悪い事は背中合わせ。手慣れて良いって事は、それが普通になると言う事なのね。つまり0点が普通だから不慣れだったのに、それが慣れてもし80点になったとする。それが普通になったとする。じゃそれをバッティングだとすると、打つ事が得意になったって事だったりするし、

シンガーソングライターだとしたら、歌詞が得意になった・・・とすると、それが上手くなったとして、バッティングや歌詞に慣れたからと言って、果たして守備や作曲が上手くなるか?となると、それは別物なのね。つまりまた新たな分野を向上させないとつり合いが悪いのね。

何しろ手慣れて80点になったバッティングと0点の守備ってバランスになるのだから。つまりそれをモザイクって事になると、切る事が上手くなったって事になると、後は張るって事になるのね。所が切るって言うのはニッパーを使って切るって、当たり前だけれど、技術が必要なのね。

では張るって言うのは?ピンセットを使って張る・・・どう思う?もしこれを見ている人がやった事の無い人だったら、場合に寄っては張るだけでしょ?って思うかも知れない。ただそれは知らなかったから・・・って言う事があって、仮にやったら上手く行かなくてもまだ救われる。

そしてその時点で難しいなら、切るなんてもっと・・・って思うから、初心者でも想像出来たりする。所が逆に経験者の場合、ウチは徹底的に切るパターンが多いから、すぐに切る事に慣れたりする。勿論、それをピンセットで張ったりもしている。それなら何も問題無さそうに思えるが・・・

今回の場合、なるべく切らないで・・・がお題だったのね。つまり上手くなった切る行為を封印みたいな感覚になる。ここが問題なのね。問題は意識なのね。禁止だとか封印とは言って無いのね。あくまで、なるべく・・・なのね。しかも本人も判っているから、歯は切った訳で。

でも問題はもっと根深いのね。歯は誰が見ても切らなきゃならない。だから切って当たり前。みんなが共通なのね。でもじゃ他は?この時に、日頃闘牛士を作っている人だから、徹底的に切っている人なのね。そうなると、似せようとすると、あっちもこっちもピッタリ切りたくなる。だって切れるから。

でも切っちゃいけない・・・だから、後は切らないで・・・って。ここが落とし穴なのね。こんな歯のガタガタしている所を1枚も切らずには張れないのね。でもなるべく切らない・・・って事を極端に解釈すると、歯はこんなに切っちゃったから、もう切ってはダメ・・・って事になるのね。

こんな深みにはまってしまったのね。でも、最初に注意した事があって、他のみんなと違ってスペースが狭い分、切る事は多くなるとは思うんだけど・・・って言うのと、仮に切る事になっても全ての面を切り刻むのでは無くて、一部だけを切って、大半はその形を残すような感覚で・・・。

なんて諸注意をしたのね。その感覚が素材の良さを生かすって意味だったのね。でも歯は全部の面を切って作ったでしょ?これは切らなきゃ歯にならない・・・って考える事無く出来るのね。当たり前だから。でもその先、どう考えるか?なのね。その時に、もう切れない・・・って思うのか?

最初の諸注意の、全部の面を切り刻まなければ、この位はOKかな?って事が出来れば、すんなり出来るはずなのね。でもそれを1枚でも切って見せてしまったら?何も考えずに進めてしまうのね。しかもそこが終われば、次はどうやるんですか?そしてまた、そしてまたになる。

つまり聞かなきゃ進めなくなるのね。でも今、進まなくても考える・・・って事をすると、そこに向き合う癖が付く。ただやみくもに悩むと、ただ時間が過ぎるだけになる。しかも時間がどんどん経って行く・・・最初は時間たっぷりだから気にならないが、段々と気になって行く。

そうなると、気が付いた頃にはプレッシャーに押し潰されそうになる。しかもみんなが終わっている・・・そして今日終わらないと、またとなると、3回目・・・しかも責任感が強ければ、スケジュールとかも気になる。今度いつ来れたかな?なんてね。この時点で終わらなくなるのね。

だって終わらないと思っているから、次いつ来られるかな?なんて思ってしまうのだから。そこを無理やり終わらせようとすれば、半ば投げやりになったりする。ただそんな人には任せていないのね。そもそも時間が掛かる大作を作っいている人達なんだから、慌て無い制作に慣れている人なのね。

ほらここも良い事と悪い事は背中合わせ・・・つまりマラソンが得意だけど、100m走の体験が乏しい。全力疾走は時間は待ってはくれないのね。しかも一瞬なんで、マラソンのような立て直しは出来ない。つまり全てがいつもと違っていたのね。じゃ説明をおせち料理に変えるのね。

例えばいつもの大作のように、しっかり真似るって場合、何としてもここはこう、ここはこうになる。だからおせちは3段重みたいになり、そこにカニを追加したりして・・・豪華になる。きっとそこには昔ながらの、これは長寿とか、健康とか、あれこれ言い伝え的要素も加わっているだろうね。

じゃ正反対になれば、おせちなんていらなーい。美味しくないし、残っちゃうし・・・こんな場合、みんなと一緒な感覚は無いから、わが道を行く。つまり一切真似する気は無い。つまりおせちを作る意識は全く無い。つまりこの場合なら、ここに参加する事は無いと思うのね。自分の解釈でね。

つまりおせちは必ず作る・・・になる。でもそれぞれの容器、つまり下地の大きさがまちまちなのね。大きければ、大きいパーツも入れられるが、この方のフクロウナギは一番狭いスペースなのね。つまりみんなのようなおせちは作れないのね。だからそっくりは無理なのね。つまりデフォルメ。

一体、おせちに見せるには、何を残して、何を削るのか?になる。良くお弁当作りで、茶色になっちゃうから、彩りなんて言って、緑を入れたり、トマトとか、見栄えを明るくしようとする。そこには単なる色合いでは無く、栄養なんて考えてあったりする。ほら、ここも考えるなのね。

つまり意識は、切らないでは無く、切れないでも無く、切って良いのね。ただ全部自分の思い通りの形に切っては行けないだけなのね。大半をそのままの形に残せば。そしてそれを理解出来れば、おせちの考え方で、かまぼこは紅白で外せないよな・・とか、栗きんとんや伊達巻は黄色でナイス彩り

・・・そんな人はカラフルになる。それを黒豆にごまめに田作りとなれば、地味になる。それを美味しさ豪華を重視すれば、カニ、エビ、タイとなれば、白っぽくなる。これなら判りやすいでしょ?この考え方は、自分の好きなものを集める形ね。所がそっくりにしようとすると、スペースが無いと、

入り切らなくなるから、どれかを諦めないとならない。どれを端折るか?・・・になる。それはリストラ人事の人だったりすると、あれは落とせない、これは大事・・・となれば悩む事になるし、まっこれかな・・・ってザックリ落とせる人は困らないだろうし・・・。こうした何かしらの時間を、

過ごしたと思われるのね。悩んだし考えたし・・・ね。そんな葛藤の末、残ってしまったけれど、この説明をして、こんな事があったから、終わらなかっただけなのねって。じゃこの後、どうしますか?って言うと、持って帰ってやります・・・って。男だねぇ・・・そうなるよね。

もう教室の時間では流石に掛かり過ぎ・・・自分の作品じゃ無いのにね。それと十分に、新しい事に向き合ったし、ちょっと痛い気持ちにもなったろうし、良い経験したと思うのね。新しい事にチャレンジって言うのは、予定調和じゃ無くて、チックとする位の違和感が良いのね。

それ以上は、ダメージになるから。刺激って言うのは、チックって程度。ピリッとかね。ビリビリしたり、泡吹いたりしたら、ふぐの毒にやられているから、病院行かなきゃになるのね。だからもう十分。そんな中、ペーパー掛けも、手直し的なパテ埋めも終わり、いよいよペンキ塗り。

ラストの工程に入ったのね。

 


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