幹事クリタのコーカイブログ

テニスをはじめあれこれ好き勝手書いています。「幹事クリタのコーカイ日誌」のブログ版です。

理科数学教育が不要なら

2014-02-28 01:15:13 | ネット・PC
 有名なブロガーのちきりん氏が「下から7割の人のための理科&算数教育」というタイトルで「実生活で役に立たない今の理科や数学は学校で教えなくてもいい」と書いて、かなりネット上で批判されています。僕もこのブログを読んだ時に「こりゃひどいな」と思いました。これはよく理数系が苦手だった人が言う昔から定番のセリフです。血液型の話題やオカルトの話題と同じで、酒の席で極論を言っているのなら大目に見てもらえるでしょうが、真面目にブログで書いたら叩かれるのも当然です。もしネタで書いているのなら別ですが、それならもう少しネタらしく書かないとそうは思ってもらえないでしょう。

 学校で教わることが全て人生の実生活に役立つことばかりのはずがありません。なぜなら、それぞれの子どもが将来どんな人生を送るかは千差万別だからです。子どもたちに各人に合わせて必要なことを教えたいなら、学校に行かせずに家庭教師を雇うしかありません。それにしたって将来必要な知識を全て教えることなど無理でしょうけど。少なくとも多くの子どもたちに効率的に教育をするなら、学校を作ってそこで基本的なことを画一的に教えるしかないのです。当然ある人にとっては無駄で使わないことも教えられるでしょうが、それは仕方ないことです。

 それにそれが本当に無駄な教育なのかどうかも人生が終ってみるまでわかりません。例えば僕は中学までに教えられた音楽の知識は、卒業後つい最近になるまで全くと言って良いほど必要としませんでした。しかし最近サックスとピアノを習い始めてから急に役立つようになりました。中学までの音楽の知識のお陰で、かなりたどたどしいながらも楽譜が読めたからです。ちきりん氏の理屈で言えば音楽教育だって楽器を弾かない限りは不要なものですが、ちゃんと習って覚えておけばこういうこともあります。

 理数系が苦手だから、それに関わることを避けていれば確かに「役に立たない」知識だと思うでしょう。しかし、それは単に自分の可能性を狭めただけです。英語だって日本国内だけで生活していれば全く喋れなくても不自由はしません。だからと言って学校で教える必要はないとは言えません。理系の人間からしたら源氏物語を読まされたり、ローマの皇帝の名前を覚えたりをすることも「役に立たない」教育だとなることでしょう。実生活で役に立つか立たないかを言い出したら、いまの義務教育で習う大半のことは知らなくても生きていけると思います。寺子屋時代の「読み書きそろばん」だけで十分。でもそういうことじゃないくらいは、普通の教育を受けた人なら誰でもわかるはずです。

 学校で教わっていることの大半は「実践的で役に立つ」ことよりも「人生を楽しむ、豊かにする」ことなのです。小学生が花の名前や魚の名前を教わったり、「走れメロス」や「銀河鉄道の夜」を読んだり、遠くの国の人たちの生活や文化を教わったりするのも、直接的に役には立ちませんが、知っているか知らないかで人間性の豊かさは大きく変わってきます。「豊かさ」をお金でしかカウントできない人には無用の知識、無駄な時間に感じられるかも知れませんが。

 有名ブロガーとして名を馳せ、本も何冊も出した彼女も最近は少々ネタ切れ気味なのではないかと思います。ビジネスの現場を離れて久しいですし、同じような話の焼き直しをするか、こうして少々暴論めいたことを書いて興味を惹くしか手がなくなってきたのかも。これで思い出すのが野球解説者です。引退したばかりだと持っているネタも新鮮で話も面白いのですが、長く現場を離れると同じネタの繰り返しか、極端なキャラ立てをしないとお呼びがかからなくなってきます。似た状況にあるのだとしたら、有名ブロガーというのも大変です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年を取ると夢より不安が多くなる

2014-02-27 00:51:35 | 日記
 今月は誕生月なせいか、いろいろと「年を取ると思うこと」が多く、昨日の「年を取ると歴史好きになる」に続き、今日は「年を取ると夢より不安が多くなる」という、ある意味において身も蓋もない話です。

 子どもの頃なんて将来どうしたいかばかりを考えていました。1年生になったら友達100人できるかな、から始まり、中学になったら部活をやりたいとか、大学生になったらバイトがしたいとか。もちろん大人になったら憧れの職業に就くこと、夢のような暮らしをすることを想像していました。言わば子どもは起きていても寝ていても夢を見て生きている生き物なのです。多分20代も、そしてもしかしたら30代でも、精神的に若いもしくは幼い人は、将来のことを考えると頭の中で夢と希望が舞い踊る人がたくさんいることでしょう。

 しかしそれも40代になると、大半の人は将来の夢や希望は「難しいな」「無理かな」「諦めようかな」となります。ビッグなロックミュージシャンになりたいとか、社長になりたいとか、海外で暮らしたいとか、女優と結婚したいとか、そう思っていたのに中年になると自分の周りの現実を見渡してため息をつくばかり。せいぜいアマチュアバンドで定期的に演奏するとか、年に1度は海外旅行に行くとか、そういうスケールダウンした形で何とか夢の尻尾を残しているくらいです。

 代わりに台頭してくるのが「健康」と「お金」の不安です。それまでぼんやりと知識として知っていた加齢による肉体の衰えを実感できるようになります。高血圧だったり血糖値が高かったり、膝が痛かったり目が霞んできたり傷の治りが遅かったり。それまで当たり前のように元気に遊びも仕事もしてきたのに、それが実は当たり前ではなかった、健康っていつまでも一緒にあるもんじゃないんだとわかってきます。

 「お金」の不安はもっとリアルです。給料は右肩上がりが当然だったのは40代まで。調子に乗って大して貯金もせずにパーッと使っていたら、給料は下がり始めるし、教育費や住宅ローンは重くのしかかってくるし。定年が見えてきているのに、年金支給年齢は引き上げられていて、再雇用してくれるものの給料はこれまでの半分にも到底及ばない。え、これで80歳まで本当に大丈夫なの、「健康」も「お金」も?

 とはいえ、あまりそんなことばかり心配していたら余計に癌になったり血圧が上がったりしてしまいそうですから、なるべく楽しいことを考えて生きていかないとなりません。子どものように大きな夢は見られないけど、できそうなことをいろいろ考えて一歩ずつ進めていく知恵と忍耐力はあります。いま僕はテニスとサックスとピアノだけですが、もうひとつふたつ、何か楽しい希望を持ちたいと最近思っています。まだ何をするか決めていないけど、それを考えるのもまた楽しいですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年を取ると歴史好きになる

2014-02-26 01:12:39 | 読書
 今日は2月26日。と言うと、「2・26事件」だと思ってしまうのは、やはりオジサンだからでしょうか?どうしてオジサンになると歴史が好きになるのか、実に不思議です。もっとも僕は小学校からずっと社会科好きで、特に幼稚園時代からの地理好き(と言うか地図マニア)でしたから、歴史ももちろん若い頃から嫌いではなかったのですが、やはり本当に歴史好きになって歴史小説なども読むようになったのは30代後半からでした。

 最初はやはり司馬遼太郎からでした。そもそもは父が読んでいた『国盗り物語』を小学校5年生の時に読んだのが最初です。ただ父親は歴史小説というよりも時代小説が好きで、書棚には山手樹一郎とか山田風太郎、柴田錬三郎、五味康祐などが並んでいました。それらも僕は小学生から中学生の頃に読んでいましたが、じきに興味はユーモア小説やSF小説にうつってしまいました。

 大人になって改めて司馬遼太郎の『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』を読み直してから一気に引き込まれました。それからは歴史小説だけではなく、エッセイやマンガやドラマ、映画などでも歴史モノを愛好し、挙句に子どもの世界史や日本史の勉強にも付き合って、いつしか立派な歴史好きになってしまいました。

 好きな時代も最初はお定まりの戦国、そして幕末だったのですが、源平も江戸も戦前もどんどん興味が沸いてきて、さらにそれらが繋がってくると面白くなります。いま知識的に薄いのは奈良から平安前期とか、室町初期から中期とか、あまり大河ドラマでも取り上げられない頃なので、そのあたりを少し勉強してみたいと考えています。

 年を取るとなぜ人は歴史好きになるのか?やはり昔の人も今の人に通じる想いがあって、そこにロマンを感じられるような年齢になったからではないかと思います。まあ若者向けの最新の流行に興味が失せて、ついていけなくなっただけかも知れませんが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は思うようには動かない

2014-02-25 00:36:42 | 政治
 長年幹事をしていると、つくづく思うのは「他人は自分の期待しているようには動かない」ということです。こうして欲しいな、こうしてくれるだろうな、という期待を抱いていると、大抵の場合はその期待を裏切られることになります。そりゃそうです。冷静に考えたら、他人がそうそう都合よく自分の思いを感じ取ってくれるはずもありません。でも幹事をしているとどうしても「こうなってくれると都合が良い」という理想を想定して、それを追求してしまうのです。

 若い頃はついついその自分の「理想=都合」を相手に押し付けてしまいがちでした。もちろん自分の都合と言っても、幹事をしている立場では「全体のため」だと思っているので、それが自分のわがままの押し付けだとは思っていません。「全体のために個人に我慢を強いる」ことが、自分だけではなく全体のためになるんだと思っていると、強引な運営も正当化してしまいがちです。でも結局それは各個人を我慢させて、結果として全体を圧迫していくことになっていってしまいます。だから全体のためにもならず、単に自分が勝手に思い描いている理想を追い求めているだけに過ぎなくなるのです。

 年を取り経験を重ね、そのあたりが少しずつわかってくると、全体のために個人を我慢させることはなるべく控えようと思うようになりました。もちろん、個人が負担してもらわなければ全体が立ち行かなくなると判断したら、それはやってもらわなければなりません。しかし、なるべくなら我慢することは極力少なくなるように考え工夫することが大事だと思うようになりました。もちろん、自分もあまり我慢していると長続きしませんから、自分にもみんなにも優しくできるように、「理想の押し付け」は極力やめるようにしています。

 小さなテニスサークルですら、もしくは単なる同窓会ですら、舵取りをするとそうなってしまいがちなのですから、ましてや政治家になって国とか県とか市とかをまとめていこうとなれば、ついつい「自分の考える理想」を目指すあまりに強引に邪魔な人間を排除したくなることでしょう。「理想を実現するのが政治家」だと信じている人は、そのためには少々強引な手法を使うことも、誰かを切り捨てることも仕方ないと考えているんだと思います。

 でも、実は全体をまとめて最適な解を導き出し、そこに導いていくのは、理想を目指して強引に突き進んでいくのとは全く別のアプローチが必要だと思います。強引さよりも粘り強さが大事なのです。他人は自分の思うようには動かないからこそ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソチ五輪も終って

2014-02-24 00:38:42 | スポーツ
 ソチ冬季五輪が終りました。時差を考えたら比較的見やすい時間になるかと思っていたら、ヨーロッパやアメリカでのテレビ観戦を考慮した遅い時間での決勝が多く、あまりオンタイムで観戦できなかったのが残念です。さすがに夜更かししてまで見たかったのはフィギュアスケートくらいでしたし。まあ羽生と浅田のフリーをライブで見られただけでも良かったと思っています。

 長野に次ぐ8個のメダル獲得数を記録したので、日本選手団としては上々でしょう。大会前にメダル確実と期待されていた高梨が4位になってしまったり、浅田が6位で終ったりしたのは残念でしたが、スノーボードやジャンプ、複合などでの活躍がそれらを十分にカバーしました。全体には「氷」の落ち込みを「雪」が補ったというところでしょう。

 それにメダル数だけが五輪の価値ではありません。メダルこそ逃しましたが、上村愛子やカーリング、もちろん浅田のフリーも含めて、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた選手がたくさんいました。僕たちが子どもの頃の1970年代の冬季五輪を思えば、随分と日本は全体にレベルアップしたなと感じます。

 マスコミの報道は相変わらず「物語過剰」「感動の押し売り」「メダル至上主義」ではありましたが、ネットなどを見ていると、ファンはもっと純粋に競技を楽しんでいるように感じました。オリンピックというとメダルの数を数えるだけという単純な見方から、マスコミより先にファンが抜け出したのだとしたら、選手のレベルアップに伴って見る側のレベルアップというか、成熟も進んでいるのだと思います。

 次回冬季五輪は韓国の平昌です。時差がない分、観戦は間違いなくしやすいのですが、なにせ韓国なので猛烈な韓国贔屓(&反日)の風が吹きそうで心配です。今回、多くの10代の選手が活躍した日本だけに、次回もまた楽しみなのですが、その頃には少しは日韓関係が改善していて、日本選手が気持ちよく競技できるような環境が整っていることを願っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体をコントロールすること

2014-02-23 01:22:25 | テニス
 運動神経が良い、というのは頭でイメージした通りに体がコントロールできることです。見たらそのまま真似できる人は運動神経が良い人です。そういう人は何をやらせても器用にこなしますし、お手本どおりにできるので動きがキレイです。これは子どもの頃にそういうトレーニングをしっかりやって頭と体の回路を繋いでおかないと、なかなか大人になってからはうまく体をコントロールできません。だいたい10歳頃までに完成するそうですから、幼児教育は英語も大事かも知れませんが、幼い頃にしっかり外遊びをさせておくことも大事だと思います。そうじゃないと転んだ時に自分の身も守れないような人間になってしまいます。

 ところで当然のことながら、年を重ねるとこの運動神経の良さも維持できなくなってきます。と言うか、それを支える部分が衰えてきていて、自分のイメージした通りに体が動かなくなってくるのです。僕も50歳を超えてからこっち、テニスをしていてこのイメージとのズレに少しずつ悩まされるようになってきました。原因はいくつか考えられます。ひとつは反応速度が落ちてきていて、パッと体が素早く動かないのです。もちろん同年代の運動を全くしていない人よりはまだ反応は速いだろうと思いますが、自分の10代20代はおろか、40代と比べても動きが遅くなってきた気がします。

 もうひとつは柔軟性の衰えによって、イメージしたフォームを作れなくなってきたせいもあります。だんだんとマリオネットのようなギクシャクした動きになってきていて、自分でもそうじゃないと思うのですが、どうにもなりません。テニスで言えば、反応速度の衰えはボレーのミスになりますし、柔軟性の衰えはサービスのパワーダウンにつながっています。

 テニスだけではなく楽器を演奏していても、リズムに遅れたりすると同じことを感じます。イメージ通りに指が動かないもどかしさを感じています。サックスもピアノももっと若い頃から始めておけば良かったとつくづく思っていますが、若い頃からやっていったら加齢とともにもっと衰えをはっきり感じてイヤになってしまうかも知れないので、生涯楽しむ趣味としてはどっちもどっちかも。ただ演奏は年を取ると味が出るという部分もありますから、テニスよりは年寄りであることを嘆く必要はないのかも知れませんが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅田真央の涙と笑顔

2014-02-22 00:54:06 | スポーツ
 浅田真央の最後のフリーの演技。完璧に全てのジャンプを跳び、フィニッシュを決めた後、彼女は感極まったような表情で涙を流し、次の瞬間にそれをぐっとこらえて笑顔を見せました。僕だけではなく、多くの人があの笑顔に胸がきゅっと締め付けられたことでしょう。あんなに素晴らしい笑顔は滅多に見られるものではありません。さまざまな想いがこめられた最高の笑顔でした。「ああ、真央ちゃんは有終の美を飾ったな、これで競技生活から引退できるんだな」と納得させる笑顔でした。

 ジュニアの頃からすでにアイドル的存在になっていた彼女は、常に重圧にさらされながら競技を続けてきました。度重なる採点基準の変化に対応を迫られ、自分の得意なジャンプの価値を下げられてもけなげに挑み続けました。ソチが集大成として臨んでまさかのSPでの大失敗。金メダルどころか銅メダルすら遠のいたショックから一夜明けただけで、本来のスケートを取り戻しパーソナルベストを叩き出しました。これが浅田真央だと、世界にその天才ぶりを見せつけたのです。

 浅田真央という選手は「天才のきらめき」「天性の明るさ」「時に失敗をする人間くささ」を兼ね備えています。こういうアスリートは誰からも好かれるスーパースターになります。野球なら長島茂雄がそうでした。選手としての実績では盟友でもある王貞治に劣っていても、人気とカリスマ性では長島が断然上です。

 浅田の演技の後に、SPで上位の選手たちが次々と登場し、ソトニコワ、キムヨナなどフリーでも浅田以上の得点を出した選手もいました。最終的にはSP16位から6位にまで順位を上げましたが、もはや順位も得点も関係ありませんでした。あの一瞬の涙と、その後の笑顔だけで十分金メダル以上の輝きがありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビ局のおかしな五輪中継

2014-02-21 00:07:43 | スポーツ
 今回のソチ冬季五輪ですが、選手が勝ったり負けたりするのは勝負事ですから仕方ありません。全力で戦ってその結果なのだから、本人以外は「良かった」にしろ「残念」にしろ、あまり過剰に入れ込まずにそのパフォーマンスを楽しめば良いと思います。それより目立つのはマスコミの無理やりな盛り上げ方のひどさ。いちいち「母の死」だの「大怪我からの復活」だの「協会との確執」だの「隠された逸話」的な舞台裏の話を持ち出して「物語」を作り上げて報じるのは何とかならないのでしょうか?

 これは佐村河内と同じ手口です。彼の事件は彼だけの責任ではなく、一緒になって煽り立てたマスコミの責任でもあると、ソチ五輪を見ていて強く痛感します。視聴者はお涙頂戴式の物語が大好きで、音楽なりスポーツなりをそのまま楽しむことも理解することもできないだろうと考えているのがよくわかります。要はバカにしているのです。

 そもそもNHKのキャッチコピー「全力応援」が意味不明です。テレビ局が自ら旗を振って応援するというのは報道機関としてどうなのでしょう?本来「不偏不党」「中立」を旨とするはずなのに、堂々と応援宣言すること自体がおかしいと思います。応援するのはテレビ局ではなく見ている視聴者です。誰を応援するかは個人の自由であり、テレビ局が勝手に応援する対象を決めるのは変でしょう。

 実際、今回の中継は明らかに日本選手偏重です。もちろん視聴者には日本選手にしか興味がない人もいるかも知れません。しかしスポーツ中継というのは最高のパフォーマンスを放送するのが本筋です。予選落ちの日本選手よりも優勝争いをしている外国選手を見たい人だってたくさんいます。そのスポーツが好きなら好きなほど、下位に沈んでいる日本選手よりも世界のトップアスリートを見たいと思うものです。本来のファンのニーズを無視した中継に嫌気がさしている人も多いことでしょう。

 「物語化」と「日本人偏重放送」がひどくなったのは、メジャーリーグに挑戦する野球選手が増えたことと、Jリーグは視聴率が上がらないのに日本代表の試合はむやみと高視聴率が取れることが明らかになって以来ではないかと僕は考えています。要はこの20年くらいの傾向です。昔はもっと公平で中立なスポーツ中継をやっていました。たとえオリンピックであっても、外国選手にも相応の敬意を表していましたし、日本贔屓にも節度があって、今のような下品なほどの過剰応援もありませんでした。視聴率のためにテレビ局は報道機関としての矜持を捨てたのだと思います。と言うか、今やスポーツ中継は報道ではなくバラエティなのでしょう。残念ながら。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衰えかスランプか他人のせいか

2014-02-20 00:48:19 | テニス

 昨夜も山本麻友美プロとテニスをしたのですが、どうにもうまくいきませんでした。テニス自体がそんなに下手だったとも思わないのですが、それにしては結果がついてこない感じで、やればやるほど沈んでいってしまいました。全体にミスが多く単発では何とかなってもトータルでは全く勝負にならないというところ。終ってからちょっとストレスを感じるくらいのダメさ加減でした。

 家に帰ってお風呂に入りながらひとり反省会をするのですが、何が悪かったのかがいまひとつわかりません。山本プロに聞けば良かったというのが一番の反省点なくらい、自分でも原因がハッキリとはつかめないのです。こうなった理由を考えて思いついたことは(1)目が見えていなくて反応が鈍かった (2)プレーに迷いがあって中途半端なショットが多かった (3)相手の調子がいつになく良かった (4)単にツキがなかった くらいです。

 (1)ならこれは体調の問題です。(2)ならメンタルの問題。(3)と(4)の場合は自分のせいではないので今回のことは忘れるのが一番。(1)なら加齢による衰え、(2)ならスランプということも考えられます。スランプなら立ち直れるかも知れませんが、衰えならどうしようもありません。年齢を考えれば衰えていくのは仕方ないのですから。

 テニスに限らずトップアスリートたちは不調の時に、加齢による衰えなのか単なるスランプなのかどう判断しているのでしょうか?やはり彼らも自分ではどちらなのかわからなかったりしているのかも知れません。引退時期を迷ったり、引退を撤回したりする選手がいるのも、「もうダメなのか」「まだできるんじゃないか」の間をウロウロしてしまうのでしょう。

 単なる「下手の横好き」レベルのアマチュアプレーヤーの場合は引退もありませんから、身体的な衰えがあってもテニスを続けることに何の支障もありません。ただやはりその衰えを自ら受け入れていくにはまだしんどい年齢でもあります。願わくば昨夜の不調は自分のせいではなく他人のせいであって欲しいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドSレッスン

2014-02-19 00:48:28 | 音楽
 ピアノを習い始めて2年半になります。最初はサックスを吹いていて音楽に関する知識が足りないと感じ、やはり音楽の基礎を学ぶならピアノを習うのが一番かなと思って始めたことでした。スキーヤーが夏のトレーニング代わりにテニスをやるのと同じです。ところがそのままスキーヤーがテニスにはまってしまうような感じで、すっかりピアノも面白くなってしまって気づけば2年半になりました。

 ピアノの先生は、これまでも繰り返し登場させていますが、Mちゃんというまだ若い女性です。僕が習い始めた2年半前はまだ音大を出たばかりの新卒でした。Mちゃん先生はとにかく真面目で一生懸命。その姿勢に僕はとても好感を持っています。もちろんベテランの先生の方が教えるテクニックはあるのでしょうが、生真面目に頑張っているMちゃん先生のレッスンは、娘を見ている父親のような感覚になってきます。実際、Mちゃん先生のお母さんと僕はほとんど年が変わらないようですし。

 ただMちゃん先生は真面目なので、教え方もひたすら真面目で厳格。まるで「アルプスの少女ハイジ」のロッテンマイヤーさんのごとしです。それを僕は「ドS」と呼んでからかっているほどです(あまりからかうと真面目なので怒りそうですが)。この若きロッテンマイヤーさんはレッスンをしていると次々と新しい課題を言ってきます。ひとつの課題を次のレッスンまでに70%くらいできるようになると、僕としてはそこまで努力したことを誉めてもらいたいのですが、Mちゃん先生は「うん、まあいいでしょう。この調子で続けてください。では次に…」と、すぐに新たな課題を持ち出してきます。練習することばかりがどんどん増えていって、もうついていくのに必死。まさに課題に追いかけられているような感じです。

 こちらは「五十の手習い」なので、そんなに追い立てられるようにされると大変です。子どものように成長速度が速いわけでもないですし、ピアノにかけられる時間も制限があります。ただそれがイヤかと言われると、もちろんイヤだったら2年半も続いていません。むしろ僕としてはそれくらいの方が歓迎だと思っています。次こそ誉めてほしくて頑張りますし、できないと音を上げるのも悔しいですし。僕の体育会系気質に火がつく感じです。

 Mちゃん先生の「ドS」レッスンは僕だけなのか、それとも誰に対してもそうなのかはわかりませんが、少なくともすぐに楽してサボりたがる僕にはぴったりの先生だと思っています。もっとも、若い女性だからこそ僕も受け入れているわけで、これが男の先生だったらイヤになってさっさとやめているでしょう。幸いサックスのS先生はいつも優しく教えてくれる人なのでちょうど良かったです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする