市場の惣菜売り 連発3

市場の惣菜売り 連発3               2007.11.14.金森正臣

 こちらは、手前にあるのは、トリの焼いたもの。だいたい足を除いた半身を単位に、竹の串で挟んで焼いている。かなり甘辛いたれが付いている。右手の奥は、魚とココナッツミルクを使って蒸したもの。容器はバナナの葉を使っている。上に辛くない赤いトウガラシの千切りや緑の葉を飾って、オシャレ。なかなか美味い惣菜。左手の奥は、野菜を煮たもの。
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市場の惣菜売り 連発2

市場の惣菜売り 連発2               2007.11.14.金森正臣

 魚を主にした惣菜や。中央のお盆の上は、ライギョのから揚げ。日本と異なりライギョの種類が多い。普通に食べられているものは4種類ほど。このから揚げは、味の良い方であまり大きくならない。手前の平たい魚も両脇に切り込みを入れてから揚げしてある。右手奥に見えるのは、ライギョの蒸し焼き。これが一番おいしいライギョで、大きくならないが高い。これはから揚げではなく、蒸し焼きにする。アルミの厚い鍋に、レモングラスなどの香草を敷き、なおかつ口からもレモングラスを差し込んで、長時間蒸す。水は使わない。これには左手に見える袋の中のタレをつけて食べる。袋詰めの生野菜も売っていて、これも一緒に食べる。香草が入っていることもある。

 右手前の竹の串に挟んで焼いてあるのは豚肉。甘辛いたれに漬けてから焼いている。カンボジアでは、串は刺すものではなく、挟む。左手には、右手奥と同じライギョが、串で挟んで焼いてある。焼いたライギョは、全体に熱がどの程度回るのか心配。ライギョは肉食魚だから、寄生虫が多い。から揚げの方が安全。以前コロンビアの、オリノコ川で食べたナマズの輪切りは、しっかりから揚げされていて、寄生虫の心配はなかったが、硬くて大変だった。コブウシの肉が硬いので魚にしたのだが、負けず劣らず硬かった。大阪に居た頃、ライギョを刺身で食べて寄生虫にやられた人がいた。かなり痛い目に逢っていた。ライギョの刺身と野菜のサラダもある。カンボジア人は大丈夫なのだろうか。
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市場の惣菜売り 連発1

市場の惣菜売り 連発1               2007.11.14.金森正臣

 カンボジアの一般家庭では、夕食の惣菜を外から買ってくることが多い。農村部の一般家庭で見ると、かなりの調理器具を揃えている。しかしながら、地方の市場を見ると、だいたい惣菜屋が繁盛している。これからの報告は、カンボジアの北西部、カンボジアの第3番目の都市(つい数年前までは第2番目であったが、最近観光地のシェムリアップ:アンコールワットのある町に抜かれて3番目になった)の市場の夕方の風景。朝も道端で、クイティウ(米の麺のかけそば風)などを食べている。聞くと家でスープを作るのに時間がかかるので、手軽に外で食べると言う。お客さんに行くと結構しっかりした料理が出てくるのだが。カンボジア人の合理性の考え方は、日本人とはかなり異なっている面がある。

 写真は、夕方になると出てくる店で、日中は営業していない。手前のバケツの中に入っているのは、ヤシの木から採集した砂糖や納豆菌を使った醤油などの調味料。醤油は、もどきと言うか味噌もどきと言うか。味は日本人によく合う。大豆はつぶれておらず、味噌と醤油の中間のドロドロ。

 奥の机の上のコンロの上の鍋が、いろいろな惣菜。店によって扱うものが違うし、味も違う。それぞれ好みのお得意さんがあるらしい。中間のテーブルの上にあるのは、野菜類。切ってあるものが多い。好きな量だけ入れてもらって、値段を交渉。秤も無くかなり気分によって値段が違うようだが、まあ双方納得が出来ればいいかと言ったところ。以前に書いたことがあるが、この市場では、お米をはかる100kg秤で、1kgぐらいの野菜を量り売り。誤差の方が大きいと思うのだが、お互いに納得していてトラブルはなし。秤は単に、「量った」と言う事実が大切で、儀式の様なもの。だから量らなくても、問題はない。

 日本で25年ぐらい以前に、美術のある先生と一緒に、学生の家庭にある包丁の数を調べたことがある。1本だけと言う家庭が一番多く、次いで数本、4本以上は非常に少なかった。全く包丁の無い家庭もあり、どうしているか聞いたら、切った野菜を買ってきていると言う。ちなみに我が家は、菜切りに、刺身包丁、出刃、牛刀など10本以上ある。小魚を開くためにも数本。その他にも大型動物解体用のナイフなど数本、ちょっと使いきれていないが、単なるマニアではなく、以前には使っていた。以前には、刃物マニアの傾向もあったが、現在は関心なし。
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ドア  カンボジアの技術 4

ドア  カンボジアの技術 4          2007.10.30. 金森正臣

 写真のドアのノブ付近。左手が枠で、そこにドアのノブのフックがかかって、止まる仕組み。しかしこのドアは、最初は辛うじて止まっていたが、間もなく止まらなくなった。原因はドア自身が小さくて、入り口の寸法に合っていない。このため数か月使っている間に、ドアが止まらなくなってしまった。仕方がないので、入り口の枠に白い薄い板を足して、修理した。

 如何してこうなったのだろう。多分寸法は、図に示されているのだろうが、物指が十分に使えないから、微妙に狂う。当然枠とドアの両方で狂うから、場合によってはノブのフックがぎりぎりかかる程度になる。しばらく使うと、かからなくなる。カンボジアの伝統的家屋は、この様な構造の家屋は無く、何ら支障がなかったであろう。日本の伝統的家屋も、引き戸や障子で、寸法が合わなければ閉まらなくなうような構造ではない。しかし日本人の文化は、キチンと同じ寸法に作る。たとえば、部屋を仕切る障子が、大きさが異なるようなことは無い。熱帯では、風の出入りはあった方が良いし、キチンと締まる必要性は全くない。生活上は何ら問題が無い。

 日本の何事も計画的にする、技術を磨いて完璧にしようとする文化は、熱帯とは異なる自然によって形成されている。日本にいるとこのことが当然のように思っているが、熱帯の世界では異なっている。計画性は、厳しい冬を持つことによって発達した文化と思われる。他方、農耕文化と結びついた大乗仏教が、完璧を求める文化に結びついている。弓道、茶道、華道、剣道など、道と名のつく文化は、大乗仏教の悟りと関係が深い。現在の日本の大教団を中心とした葬式仏教は、すっかり仏教の本質を忘れている。しかし神髄は、無我であり、悟りである。この追求のための修行が、様々な「道」に影響を与えており、日本の文化を特徴付けている。「立ち居振る舞い」などと言われる行動は、この様な文化の影響であろうが、現在では死語になっているかもしれない。文化の相違の理解は、単純には行かない。

 同じ仏教でも、上座部仏教の世界は、大乗仏教とかなり異なった物に思われることが多い。修行よりも、お寺詣りなどの形式が重要視されている。もっとも最近の日本の仏教も、葬式や法事など形式だけで、内容が無い場合が多い。お盆に先祖供養をして安心するのは、本来の大乗仏教の真髄ではない。
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エネルギーの使い方

エネルギーの使い方                  2007.11.5. 金森正臣

 CO2の削減が、京都議定書に間に合わない状況になって来ている。各企業は、省エネに努力しているが、なかなか効果は上がらない。日本のマスコミの論調を聞いていると、個人の消費は、あまり問題にされていない。せいぜい空調の温度を問題にするぐらいである。
 
 皆さんは、どの様にエネルギーを使っておられるであろうか。エネルギーを使うほど、健康にはよろしくない。夏は冷房、冬は暖房を使っていると、次第に自分の耐えられる温度の幅が狭くなってくる。私自身は、冷房や暖房をあまり使わない方法で生きてきたので、研究室にも冷房は無かった。学生さんには気の毒では有ったが、やはりその様な状況を体験しておくことは、自分の耐える幅が広がる。また暑さや寒さに耐えることによって、生理的活性も高くなると思っている。
 
 特に50代の中ごろから始まったアフリカでの調査は、一日の温度差が大きく、30度ぐらいの変化があった。日中は40度を越し、明け方には10度を切っていた。赤道直下ではあるが、標高が1300付近で、昼は高温、夜は冷える乾燥するサバンナ地域である。もちろん文明とはほど遠く、ほとんど人が住んでいない。2-3か月の調査で、数キロから10キロぐらい痩せることがあったが、帰ってくると学生は、元気になっていると言って驚いていた。自分自身の感覚でも、明らかに生理的活性が高まっており、疲労感は少ない。お寺における修行の時にも、冬でも暖房は無い。かなり冷えて夜眠れないこともあるが、風邪をひくことは無い。自分自身の適応力が高まっているからであろう。

 まれには風邪をひくこともあるが、あまり熱も出ないし、自分の中で抗体が上がってくるのを待つ。この30年ぐらいは、ほとんど薬は使わない。だいたい風邪で熱が出るのは、白血球が、風邪のウイルスを攻撃するのに、最適なように体温を上げるのである。下げてしまったら、酵素の働きが鈍くなり、抗体の出来も遅くなる。まして解熱剤は、胃に負担がかかるものが多く、体力も落ちる。お医者さんはこのような事を理解して、薬を処方しているか疑問が多い。最も患者からの評判は、いろいろ直ぐしてくれる方が良い。昔大阪の大学の医学部に居た頃、良く患者の評判は医者の力量に反比例すると話していたことがあったが、今もその思いはあまり変わらない。高温が続いて、体力が著しく低下してくれば、解熱剤も必要であろう。むやみに使うことは、抗体の生産能力も損なう。30億年の遺伝子の歴史には、必要な物は備わっている。自然に任せるのが、最も優れた方法である。たかだか2000年の、知識では、追い付かない。

 各自が、自分の生活の中で余分なエネルギーを使わないことが、自身の健康を維持する上で最も大切なことであろう。これには精神の開拓も必要であって、ストレスの少ない人は、病気になることも少ないように思われる。また、「病気」と言うくらいで、気になると病気に取りつかれ易いとも思われる。このような意識が、今の省エネには最も必要なことではなかろうか。老後の長い日本人は、特に考える必要があろう。

 話は異なるが、多くの先進国は、CO2の削減に無責任と言わざるを得ない。先進国のわずか20%ぐらいの人口が、80%以上のエネルギーを使ってしまっている現実をどのように考えているのだろうか。すでに使ってきたエネルギー量からいえば、さらに多量の割合になる。自分たちのして来た生活の向上(本当に向上しているかは疑問だが)を、後進国の人たちが求めることを、阻止する権利があるだろうか。先進国は、サミットなどを開くよりも、まず自分たちが如何するかを明らかにして、その上で後進国の人たちと協議するべきであろう。特に日本は、京都議定書などを策定したからには、その責任は重い。CO2 ガスの少ないエネルギーを探すよりも、使わないことを考えるべきであろう。使って何を得てきたかは、現在の日本を見れば明らかである。喜びの少ない、ストレスの多い生活を得ただけではなかろうか。

 日本の多くのリーダーたちは、現在の生活を維持することに専念している。現在から異なる方向に踏み出さなければ、人類の未来は存在しない。日本人の最初のノーベル賞学者、湯川秀樹さんは、京都大学の退官記念講演で、「真理は常に少数から始まる」と述べている。現状に追随していると、誤った道を歩くことに成りかねない。
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腹壊した続き

腹壊した続き                     2007.11.7.  金森正臣

 昨日夕食に、近くのレストランにまた行った。いつかはグリーンパパイヤのサラダに、塩漬けカニが入っていて、腹を壊した。昨夕は、キュウリのサラダを頼んだら、やはり塩漬けのカニが入っていた。いくつかのレストランにあるキュウリのサラダは、キュウリとニンニクで、トウガラシが入っているくらいである。塩漬けのカニは入っていない。

 写真は、キュウリサラダの食べ残し。奇麗な物ではなく、申し訳ない。カニの塩漬けは極力食べないように残した。調理のお姉さんが、サービスのつもりでかなり沢山入れてくれた。どう見ても、足の先が10本以上あるから、1匹以上入れている。前回の時にはほんの数本だったから、かなりサービスしてくれた。唐辛子もサービスが利いて、かなり辛め。ピーナツの刻んだものやニンニク、干しエビが入り味はいける。食欲増進は、間違い無。右端の緑色は、ライム(酢橘)の絞りあと。香草も添えられて、結構だが、ウーン。明日の夕方が心配。

 食べなければ良いのだが、そこは戦中の生まれで、食べ物は無駄にできないたち。注文するとできるだけ残さないように食べるのも、礼儀であろうと思っている。何しろここのところ、なにも生産しないで、専ら消費にのみ回っている。気が咎める。自分の食べるくらいは生産しないと、何だかゴクツブシになったような気がする。宮沢賢治の、雨にもマケズ…の世界が良いと思っている。何かと言い訳をしながら、食べてしまうから悪いのだが。

 最初の時より2回目が軽かったので、3回目になってもたいしたことは無かろうと、勝手な算段をしている。菌が同じとは限らないが、前回と今回は同じであろうから、同じ抗体が働いてくれるはず。最も体調も影響するので、なかなか読みにくい。
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女と男・メスとオス 

女と男・メスとオス                  金森正臣 2007/11/3

 怪我をしてからあまり歩けないから、近くのレストランに出かけることが度々起こる。クメール料理の外人向けレストランで、カンボジア人も多いがあまり味は確かではない。普段は全く行かなかったが、止むを得ず行くことが多くなると、暇にまかせて余分なことを観察する。

 この店には、従業員が20人ぐらいいるが、半数は若い人である。調理場が道路の歩道上にあり、客席によっては全容が分かる。女性3人が、焼肉とクメールサラダを担当しており、歩道上で料理している。その内の一番若い女性Aは、美人ではないがなかなか可愛らしい。若いウエーターが、客から注文を取ると彼女等の所にオーダーに来る。若いウエーターの中で、彼女を好きだと思われる行動をとるaは、よく彼女をからかう。しかし彼女Aは、a君にはあまり気が無く、b君に気がある。

 なんだかチンパンジーの行動によく似ている。チンパンジーやニホンザルだと、気のある相手を巧みに誘って、群れからやや離れて行動するようになる。でも人間の社会で働いていると、そう群れを離れるわけには行かない。ママならないところがツライ。人間の社会は大きくなったために、異性への手続きも複雑になっている。基本には、同じ基礎行動が残っている。行動観察をしていると、言葉が通じなくても色々なものが伝わってくる。

 最近の日本の若者の間では、このような率直な行動が見られなくなっているように思われる。一つには自分に自信が無く、相手に拒否されるのが怖い。また、相手に自分の心の内を伝える方法が身に付いていない様にも思われる。社会関係をつかさどる行動が、未成長なのであろう。若い時の時間を、このような未成熟な状況で過ごすと、時間と共に見えるものが増して、冷めた目で人を見るようになる。こうなると異性を好きになることなど難しくなる。少子化現象などは、このような原因も関係があろう。
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カンボジアの中学校の体育授業 

カンボジアの中学校の体育授業         2007.11.2.   金森正臣

 カンボジアでは、体育の授業はあまり行われて来なかった様だ。体育大学はあったが、数年前に町の中心にあったぼろぼろの体育館が取り崩された。郊外の新しい団地に移転させられ、通うのが大変であまり先生も出てこないと聞いたことがある。土地ころがしにあったのだ。以前のカリキュラムでは、小学校では音楽・体育・図工が一つの科目になっている。体育館や校庭もほとんど見ない。かなり体育は軽視されている。体育大学も、小・中学校の体育とは関係なかったようだ。体育大学の卒業生が、先生になれる道はつくられていない。

 体育の授業を見たことがあるのは、いずれも小・中学校教員の養成所の付属学校の場合である。この写真も、バッタンバンの町にある中学校教員養成所の付属中学である。先生は出てきて、足を伸ばしたりしているが、我々のしていた体操に比べると、あまり筋肉を動かしていないし、様々な関節を動かしているわけでもない。立ったまましばらくして終り。何だか呆気ないし、もう少し仕様が有りそうなものだが、何ともならない。多分あまり習ったことが無いのであろう。一つ一つの運動の目的が、はっきりしていない様にも思われる。数年前に見た、スバイリエンの小学校教員養成校の付属中学で見た場合も似たようなもの。先生が来なくて、生徒たちが勝手にサッカーをしていた授業もあった。

 最近は金回りが良くなった人から、肥満が増えているのだけれど。もうチョット健康と運動の関係も正しく知った方が良いのだが。朝の公演では、散歩やジョッキングが流行っている。しかし柔軟体操などを見ていても、あまり効果的には動いていない。

  まあ、ボチボチ行くか。 
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階段  カンボジアの技術 3 

階段  カンボジアの技術 3            2007.10.30. 金森正臣

 今借りている家の階段。ちょっと狭いことを除けば、それほど支障はない。でも良くご覧あれ。一番下と一番上の段が低い。通常日本では、二階への階段は、1段毎に変化することは無く、全部同じ高さ。ところがカンボジアでは、普通にこの様な階段を見かける。

 上か下かどちら側かの一か所が、段が違っているのは理解できる。例えば下から作り始めて、一番上で段が違ってしまったと言うのはあるだろう。しかし上と下の両側が違っていると言うのは、どの様に作るとこうなるのか、理解に苦しむ。アフリカでも、階段の最初と最後が異なることは良くあったが、その場合には、木製や鉄骨製で、どこかで作って持ってきたら、据え付けるために上下が異なったと言う場合。

 階段の上り下りには、支障がないのだから、生活上の問題は無いのだが。まあ、役割を果たせば問題なしと言う発想は、理解できるような気がする。彼らの生活を見ていると。

 問題は、周辺の国々から押されて、工業化をせざるを得ない状況にある現在。この技術の発想では、工業化は難しい。
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牛車の車輪  カンボジアの技術 2

牛車の車輪  カンボジアの技術 2          2007.10.30. 金森正臣

 家に近くに最近開店した朝食専門のクメールレストラン。若い女性が4人ほどで切りまわしており、人気がある。メニューは、ご飯に焼いた豚肉を乗せたバイ・サッチュル(バイはご飯、サッチュルはブタ。肉は薄切りにして甘辛く味付けしてから焼いてある)だけ。キュウリとニンジンの漬物とスープが付く。2000リエルだから、0.5ドル。約60円。

 写真は、そこのインテリアとして飾られている、古い牛車の車輪。良く見ると車輪の外側は、かなり使い込まれている。ピンク?に塗られている左側の上から1本目と2本目の間、2本目と3本目の間の間隔が違う。2-3本目が広い。ピンクから右回りに、黒の1本目の間隔は狭い。車輪を支えているスポークの角度が異なっている。他にも幾つか角度が違っている所がある。もしかすると正確に測ると、全て違っているかもしれない。日本では見かけたことのない技。

 子ども時代には、まだ大八車も牛車も現役であった。しかしこの様に、スポークの角度が異なっているのを見たことが無い。考えてみると、牛がゴトゴトとゆっくり引いて歩くのであったら、これだけ強度があれば、十分であろう。写真の車輪は、以前に素焼きのつぼ売りが街を歩いている写真を報告したことがあるが、多分それと同じ牛車に使われていた物。

 日本人は几帳面で、昔からこのような車輪は作らなかったものと思われる。高速で遠心力がかかったり、荷重で動くたびに車輪が歪んだりしなければ、問題は起こらないであろう。見事に生活状況に適応した技術に感心。使えれば問題なし、の熱帯の発想になんとなく慣れてきた。

 算盤の作りをカンボジアの技術1とすると、これは2。
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