ドア  カンボジアの技術 4

ドア  カンボジアの技術 4          2007.10.30. 金森正臣

 写真のドアのノブ付近。左手が枠で、そこにドアのノブのフックがかかって、止まる仕組み。しかしこのドアは、最初は辛うじて止まっていたが、間もなく止まらなくなった。原因はドア自身が小さくて、入り口の寸法に合っていない。このため数か月使っている間に、ドアが止まらなくなってしまった。仕方がないので、入り口の枠に白い薄い板を足して、修理した。

 如何してこうなったのだろう。多分寸法は、図に示されているのだろうが、物指が十分に使えないから、微妙に狂う。当然枠とドアの両方で狂うから、場合によってはノブのフックがぎりぎりかかる程度になる。しばらく使うと、かからなくなる。カンボジアの伝統的家屋は、この様な構造の家屋は無く、何ら支障がなかったであろう。日本の伝統的家屋も、引き戸や障子で、寸法が合わなければ閉まらなくなうような構造ではない。しかし日本人の文化は、キチンと同じ寸法に作る。たとえば、部屋を仕切る障子が、大きさが異なるようなことは無い。熱帯では、風の出入りはあった方が良いし、キチンと締まる必要性は全くない。生活上は何ら問題が無い。

 日本の何事も計画的にする、技術を磨いて完璧にしようとする文化は、熱帯とは異なる自然によって形成されている。日本にいるとこのことが当然のように思っているが、熱帯の世界では異なっている。計画性は、厳しい冬を持つことによって発達した文化と思われる。他方、農耕文化と結びついた大乗仏教が、完璧を求める文化に結びついている。弓道、茶道、華道、剣道など、道と名のつく文化は、大乗仏教の悟りと関係が深い。現在の日本の大教団を中心とした葬式仏教は、すっかり仏教の本質を忘れている。しかし神髄は、無我であり、悟りである。この追求のための修行が、様々な「道」に影響を与えており、日本の文化を特徴付けている。「立ち居振る舞い」などと言われる行動は、この様な文化の影響であろうが、現在では死語になっているかもしれない。文化の相違の理解は、単純には行かない。

 同じ仏教でも、上座部仏教の世界は、大乗仏教とかなり異なった物に思われることが多い。修行よりも、お寺詣りなどの形式が重要視されている。もっとも最近の日本の仏教も、葬式や法事など形式だけで、内容が無い場合が多い。お盆に先祖供養をして安心するのは、本来の大乗仏教の真髄ではない。
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