書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

溝本章治 「『公孫竜子』における指と物」

2015年12月12日 | 東洋史
 『哲学』67、広島哲学会、2015年掲載、同誌127-140頁。

 中国哲学の研究領域の中で、論理学的思惟に対する関心は必ずしも高いとは言えない。古代において『公孫竜子』をはじめ、『墨子』や『荀子』等の中にはこの面から分析すべき叙述が含まれるとされる。
 (「1、はじめに」127頁)

 『墨子』は措き、『公孫竜子』と、それから『荀子』についてはたしかにそうであると思う。
 とても挑戦的な論考である。加地伸行・浅野裕一・天野鎮雄3氏の先行諸研究を取り上げ、歯に衣を着せることなく検討した上で自説を展開する。ただ、その加地説と浅野説がこれも遠慮会釈なく批判している宮崎市定説について、ひとこと言及があってもよかったのではとは思った。もっとも宮崎説は『公孫竜子』のテキストそのものへの批判(文字の誤りがあるという主張)を含むが、溝本氏の本稿は、加地・浅野説、そしておそらくは天野説とも同様(いま手元にないので不確か)、現行のテキストのままで読む、読めるという立場であるから、先行研究としては取り上げる必要を認めなかったのかもしれない。

仲長統 『昌言』 「中」より

2015年12月12日 | 抜き書き
 テキストは『中國哲學書電子化計劃』による。

 人主有常不可諫者五焉:一曰廢後黜正,二曰不節情欲,三曰專愛一人,四曰寵幸佞諂,五曰驕貴外戚。廢後黜正,覆其國家者也;不節情欲,伐其性命者也;專愛一人,絕其繼嗣者也;寵幸佞諂,壅蔽忠正者也;驕貴外戚,淆亂政治者也;此為疾痛在於膏肓,此為傾危比於累卵者也。然而人臣破首分形,所不能救止也。
 (下線は引用者)

 先の荀と同様、仲長統もまた後漢の人である。『後漢書』の彼の伝を読むかぎり、純粋な儒教徒とはかならずしも言えないかもしれないが、その思想系統の人であることは間違いない。そのこの人の言う「黜正」の「正」、また「忠正」の「正」は、何を指しているだろうか。“正しき(者)”とは。

荀 『(前)漢紀』「孝惠皇帝紀」 より

2015年12月12日 | 抜き書き
 テキストは『中國哲學書電子化計劃』による。

 荀曰。諸侯之制。所由來尚矣。易曰。先王建萬國。親諸侯。孔子作春秋。為後世法。譏世卿。不改世侯。昔者聖王之有天下。非所以自為。所以為民也。不得專其權利。與天下同之。唯義而已。無所私焉。  (下線は引用者)

 荀は後漢の人であり、この文章からうかがえるように儒教の徒でもあるが、その儒教が存在していなかった、あるいは存在していても諸子の一流にしかすぎなかった「昔者」の、「唯義而已」の「義」とは、いかなる内容のものであろうか。

伊東乾 「試験の高得点を喜ぶ人の危機は我が子に及ぶ」

2015年12月11日 | 哲学
 副題「子供の創造力を育む幾何学の精神」 
 『JBpress』2015.12.11(金)発表。

 元来の農地面積と同じ条理を割つけ、それに当たる分だけの年貢を取り立てる、といった原始的な行政による農地管理、あるいは課税管理で非常に重要な役割を果たしたのが「測地学」つまり幾何でした。
 何しろ年貢とか食料とか、生存の基本に関わることですから、誰もが真剣です。そこで、基本的な前提を認めるなら、そのあと誰が見ても絶対に文句がつけられない論理が構築されねばならなかった。
 それが『幾何学』という論理の体系を生み出した社会的背景であったと思われます。


 伝統中国で幾何学がほとんど発達しなかったことと、論理(形式論理)的な思惟とその自覚的な分析(論理学)の未発達とは、関連はあるかどうか。

笠智衆 『小津安二郎先生の思い出』

2015年12月11日 | 芸術
 私がこの役者さんを一個の役者さんとして認識したのは、伊丹十三監督『マルサの女2』(1988年)での廃業した元僧侶である。いまにして思えば、このひとにとってはセルフパロディのような役だったので、実に失礼なことをしたものである。無知不覚はおそろしい。

(朝日文庫 2007年5月)

岸田知子 『空海の文字とことば』

2015年12月11日 | 日本史
 出版社による紹介

 空海の“ことば”(文体)は、入唐前と後で変化しているという指摘がなされる。『聾瞽指帰』のいかにも六朝風の駢儷体を前とすれば、帰国後、それを『三教指帰』と名を改めたうえで付した「序」は、唐での滞在と体験をへて、そこで依然として行われているのは同じ駢文ながら、最新の、そこに見いだされる簡素さを取り入れたのが、後であるらしい。
 なお“ことば”おなじくタイトルに掲げられている“文字”(書・字体)については、当方まるきり門外漢で何も言えないのが恥ずかしい。

(吉川弘文館 2015年10月)

徳富蘇峰 『近世日本国民史』 89 「佐賀の乱篇」

2015年12月11日 | 日本史
 乱後薩摩に逃れた江藤新平と西郷隆盛の会談が行われた宿の庭先に政府の密偵が入り込んでいたという説については、その可否以前に言及がない。
 「私の云う様になさらんと当てが違いますぞ」という、宿の者が偶然漏れ聞いたとされる西郷の言葉については、記述がある(「七〇 江藤、西郷と会見す」)。ただしそこで話された内容はいっさい不明であるとし、江藤とその党与による後の口供と、それに基づいての推測によるほかはないと書かれている(「七一 会見の要領」)。なお原文は旧漢字・旧仮名遣い。

(時事通信社 1961年9月)

琉球新報社・新垣毅編著 『沖縄の自己決定権 その歴史的根拠と近未来の展望』

2015年12月11日 | 地域研究
 2015年08月25日「『琉球新報』「『沖縄、脱植民地への胎動』 「ワッター」の人生歩き出す」」より続き。
 ここでは旧慣温存政策は日本政府が押しつけた「差別政策」(編著者の言葉)であるという主張がなされている。

 琉球を当面安定的に収めておくために政府が採用したのが「旧慣温存」という名の植民地政策だった。対中国外交で不利な材料となる救国運動をやめさせるため、士族層に給与・地位を与えて手なづける一方、農民にとって苛酷な旧王政の徴税制度を利用して、より大きな利益を吸い上げるための政策だった。 (「Ⅱ 琉球王国 『処分』と『抵抗』」本書93頁)

 なお、以下のくだりが個人的には気になった。

 「琉球処分」という言葉は、でっち上げた天皇との“君臣関係”を根拠としている。中国との外交禁止や裁判権委譲などに従わず、「天皇の命令に背いた」として、一方的に罪を琉球にかぶせ、王国を葬り去る政府の意図が、「処分」の二字に含まれている。 (87頁)

 “処分”という語の意味をここまで拡大する根拠は何だろう。漢文脈の文語(さらにはその背後にある古代漢語)における「処分」は単なる“処理”“処置”という意味である。この同じ理由で、たとえば福澤諭吉「脱亜論」の“処分”も同様だ。

 琉球政府編集『沖縄県史』 15「資料編5」(国書刊行会 1989年10月)、「琉球藩処分方之儀伺」(明治八年5月8日付、内務卿大久保より太政大臣三条実美宛、同書24-25頁)。繰り返しになるが、内容は、琉球への侵略(植民地化)やその分割を策したものではなく、当時の清との外交関係を睨みつつ、沖縄に対してどのような政策を採用すべきかを、具体的に(主として行政の立場から)論じたものである。

(高文研 2015年6月)

松島泰勝 『琉球独立への道 植民地主義に抗う琉球ナショナリズム』

2015年12月11日 | 地域研究
 鉄道敷設のためには,膨大な建設費,民有地の買収費,運営費等が不可欠となるが,公債発行,米軍基地返還後の公有地売却益等によってまかなう。 (「第7章 琉球自治共和国連邦の将来像」本書239頁)

 時間的にはこちらのほうが後の出版だが、これは、来間泰男『沖縄の覚悟 基地・経済・“独立”』(日本経済評論社 2015年6月)における、「本気で独立する積もりならこれまで本土の援助を得て行ってきた社会資本整備はどうするのか」と(引用者の記憶によった要約)いう疑問への、偶然ながら部分的な答えとなっている。具体的な試算結果もあればよかったのにとは望蜀だろう。
 ただこの著、「観光植民地から脱却する」(238頁)など、「植民地」という用語をやや広く、比喩的な意味で使っているのはどうだろうかという感想を抱く。「琉球は日本の植民地である」(「はじめに」i頁)とあるが、「日本は〔アメリカから〕本当に独立しているのか」(同頁)ともある。独立していない国家はそれ自体ある意味植民地だとは言えまいか。このでんで行けば“日本は米国の植民地である”と言うことも可能である。そうすれば植民地が植民地を持てるだろうかという、下らぬ揚げ足取りがないともかぎらない。あえて毛を吹いて疵を求むる次第。

(法律文化社 2012年2月)

前野良沢 『管蠡秘言』

2015年12月09日 | 日本史
 再読

 読み返し、「和蘭、都有諸学校。其中有名窮理学校者。其主教也、即三才万物、而窮其本原固有之理」とあるのを見て、跳びあがるくらいに驚く。

 和蘭、都有諸学校。其中有名窮理学校者。其主教也、即三才万物、而窮其本原固有之。名曰本然学也。是以敬天尊神、秉政修行。明事理、精術藝、正物品、利器用、而帝王布徳教、公侯保社稷。 (「」 太線は引用者)