『哲学』67、広島哲学会、2015年掲載、同誌127-140頁。
中国哲学の研究領域の中で、論理学的思惟に対する関心は必ずしも高いとは言えない。古代において『公孫竜子』をはじめ、『墨子』や『荀子』等の中にはこの面から分析すべき叙述が含まれるとされる。 (「1、はじめに」127頁)
『墨子』は措き、『公孫竜子』と、それから『荀子』についてはたしかにそうであると思う。
とても挑戦的な論考である。加地伸行・浅野裕一・天野鎮雄3氏の先行諸研究を取り上げ、歯に衣を着せることなく検討した上で自説を展開する。ただ、その加地説と浅野説がこれも遠慮会釈なく批判している宮崎市定説について、ひとこと言及があってもよかったのではとは思った。もっとも宮崎説は『公孫竜子』のテキストそのものへの批判(文字の誤りがあるという主張)を含むが、溝本氏の本稿は、加地・浅野説、そしておそらくは天野説とも同様(いま手元にないので不確か)、現行のテキストのままで読む、読めるという立場であるから、先行研究としては取り上げる必要を認めなかったのかもしれない。
中国哲学の研究領域の中で、論理学的思惟に対する関心は必ずしも高いとは言えない。古代において『公孫竜子』をはじめ、『墨子』や『荀子』等の中にはこの面から分析すべき叙述が含まれるとされる。 (「1、はじめに」127頁)
『墨子』は措き、『公孫竜子』と、それから『荀子』についてはたしかにそうであると思う。
とても挑戦的な論考である。加地伸行・浅野裕一・天野鎮雄3氏の先行諸研究を取り上げ、歯に衣を着せることなく検討した上で自説を展開する。ただ、その加地説と浅野説がこれも遠慮会釈なく批判している宮崎市定説について、ひとこと言及があってもよかったのではとは思った。もっとも宮崎説は『公孫竜子』のテキストそのものへの批判(文字の誤りがあるという主張)を含むが、溝本氏の本稿は、加地・浅野説、そしておそらくは天野説とも同様(いま手元にないので不確か)、現行のテキストのままで読む、読めるという立場であるから、先行研究としては取り上げる必要を認めなかったのかもしれない。