goo blog サービス終了のお知らせ 

01 1518-8

2022-08-03 | 海外蒸機

8月3日と4日だけを目標に突っ走ってリハビリどころではない騒ぎでここまで来ました。

リハビリする必要な負荷が「10」だとすると「70」位の過重負荷で走ってきた感じです。

健康の留意もここへくると重要です.

報告できることもないので模型と実物のの絡んだ話を書いておきます.

Rocoの 01 1518-8 です.6月くらいに記事を書いた・・・現物の走行写真を取り込んでいたつもりだったが無かったと言うガッカリの状況でしたが、改めて取り込みました.

しかし、せっかくの写真もポップアップできないので指で広げてみるしかないのかもしれません.

1976年なのか1977年なのか記憶は曖昧です.多分1976年かな・・・

ドレスデン近郊バインベーラのベーラ寄り、大カーブの築堤の方から駆け降りてきた姿です.

人民ゼロイチ 01-5 はわざわざ撮影しませんのに、ちょうど時間だったからバインベーラ駅の跨線橋から撮っているみたいです.

やはり1976年ですね.

なぜなら撮ろうとしているからです.

人民ゼロイチはベルリンオスト機関区の所属で、原形タイプのワグナーデフのカマと共通運用でした.

我々がわざわざ位置取りして撮っているのは原形が来ることを期待してのことです.

模型製品になって我家に来る機関車だったら「撮った甲斐があった」と言えます.

この列車は国内急行です. 典型的な固定11両編成に荷物車が加わった12両編成、食堂車は前から6両目です.

急行列車と言っても必ず食堂車が付くと言うことは日本式でいうなら同じ時代の特急です.

一番ありそうな列車は D170 【シュタットシュネルフェルケール】西側で言うところのIC(インターシティー)

この写真で右側の信号機の向こうに見える丘から大カーブ(もちろん北行列車狙い)を俯瞰することができました.

線路は機関車の真上あたりの位置まで大カーブで、北へ向かう列車は右へ右へとカーブを切って丘の向こうへ走っていくことになります.

 


D924 Rostock行

2022-07-26 | 海外蒸機

今日の傷口です。

傷を守るガードに外部から水が侵入していたので、念のため明日まで観察することになりました。

左て(さてとも言います)

ケチなイモンですがこの写真は昔々三田会写真展に出したことあるなと思い付き、使ってしまいます。

01 2204-4  D924  1976-12  ヴァインヴェーラ 〜 ヴェーラ

D924 はドレスデンからベルリン・オスト経由ロストック行きの国内急行です。

夏の間は D1274 【Metropol】という国際列車ですが冬は運休し、同じスジの D924 となって走ります。

メトロポール号はハンガリーの首都ブダペストからチェコスロバキア共和国を縦断してドレスデン、ベルリン経由ロストック行きです。

ロストックはデンマークへの航路の港(ヴァルネミュンデ)がありますが、この列車のスジでは船の便が終わっているのでロストックで宿泊という形になるのだと思います。

メトロポールは夏の繁忙期の列車なのでもしかすると冬休んでいるDRの近代化改装車が多く、食堂車と1〜2両の寝台車がハンガリー国鉄の車両です。(まだ模型が無い車両です)

冬のD924になると食堂車はDRが自前で出さなきゃいけなくなります。 すると格調高い戦前型のMITROPA食堂車が使われていてなかなかインパクトがあります。 編成はご覧のようにいつも凸凹の混結編成です。

ヴァインベーラはドレスデン・ノイシュタット駅(エルベ川を東岸に渡ったゲルリッツ方面線と別れる駅)を発車し、ライプチッヒ線と別れて10km程進んだ街・駅です。 エルベ川近くの低い土地からやや高度を上げてひたすら平坦な大地に向かって駆け上がる途中、東岸に丘が迫ってベルリン線とライプチッヒ線が再び接近して丘に沿って大きなカーブが続くところです。

ヴァインベーラ 〜 ベーラ間は素晴らしい名撮影地でした。 駅間10km余。

この写真のポイントはヴァインベーラから3km位来たところ、一番重要な大築堤での大カーブのど真ん中くらいです。 この前後の大カーブの区間は比較的視界が開けていて実に都合が良くできています。

この列車のように北行はノイシュタットを出てライプチッヒ線との分離を終えてオーバークロスする登り勾配があり、ここの緩い上り勾配があるので全力加速中だがまだスピードに乗り切っていない90km/h位のスピードで駆け上がってきます。 ベーラの駅を100km/hで通り過ぎると直線となってすぐに120km/hに達してそのまま緩めることなく給気し続けます。

D924は真昼の列車ですがドイツの冬は特に暗いです。 残念ながら夏もほとんど日が差しません。 我々の「行い」が悪いのかもしれません。

 


ポーランド国鉄のゼロサン

2022-07-24 | 海外蒸機

この写真も1980年頃の交友社『鉄道ファン』に出して居ますのでここに出してしまいます。 (ケチですみません)

PKP(ポーランド国鉄)のPm2、元々はドイツ帝国鉄道BR03です。

反対方向へ走り去るTy2(ドイツの52形)単機の後ろ姿が見えます。

(単回はまさかのお巡り蒸機?)

場所はベルリン〜ワルシャワの東西大幹線の北側、ポーランドの国土の中央やや西寄り、ビドゴシチ〜トルンで撮影しました。

東ドイツでは運用上圧倒的に便利なウィッテデフに交換され、前側の蒸汽ドームも取り去られるなど原形をとどめなかったゼロサンですが、ポーランドに取り残された機関車は美しい原形を留めた状態で使われて居ました。

東ドイツですら 1976夏 → 76/77冬 → 1977夏 の3シーズン其々長期滞在撮影中、他に一人の撮影者も見なかった(原因は西独人に対して東独は絶対立入禁止)のですが、ポーランドは蒸機撮影にはその10倍も障壁が高かったです。

駅でさっと撮影した機関車の写真はそれなりに残って居ますが、本格的な装備で撮影地を選んで駅間で撮影するのは不可能と信じられて居ました。 と言うのは撮影した蒸機ファンは一人の例外も無くカメラ・フィルムを没収され、国境まで連れて行かれて強制国外退去だったのです。

我々(増田・井門組)はワグナーデフ装備で美しい原形を残したゼロサンを捉えるべく作戦を立てました。

半年ほど前からポーランド・ワルシャワの鉄道博物館に日本の蒸機写真をまめに送り続け「我々は日本の蒸汽機関車ファンです。世界中で蒸汽機関車を撮影しています。貴方の国の美しい蒸汽機関車を撮影する許可証を是非ください」と言う手紙を送り続けたのです。

仕上げにツテを使ってワルシャワ駐在の商社員に鉄道博物館との通訳・交渉役をお願いしたのです。

日本で宿泊代を払い込んで「バウチャー」を持ってビザを貰いに東独大使館に行き、東独当局に日程を任せなくてはならない東独と違って、難しい前代未聞の交渉を完遂するまで撮影には行けないので宿泊は全て現地で交渉することにしてワルシャワに入り、鉄道博物館に通いました。 三日目にその許可証(この者たちはこういう趣味の者であるとでも書いてある書類)をゲットしました。

ゼロサンが居るかもしれないと見当をつけた場所での撮影が始まりました。

撮影初日だったかもしれません。 夕刻撮影を切り上げ汽車で次の場所に移動しようと駅に向かって歩き、あと10mで駅という瞬間、駅舎の中に潜んでいた警官隊がわっと躍り出てきて我々二人を円形に包囲しました。

二人を挟んで2列縦隊になった警官隊に連行されたのでした。 ザッ!ザッ!ザッ!ザッ!と行進です。

許可証を見て関係各所に電話を掛けるやらの大変な1時間の尋問の後我々は無事解放されました。

目指すPm2はビドゴシチ〜トルンの客車列車牽引の仕業にPt47と共通運用で就いていました。

そんな数日を過ごした後、駅間ど真ん中での撮影を終えて駅から汽車に乗ったら車内は警官で混んでいます。 いつもは良い具合に空いているのになんでこんなにお巡りさんが汽車で移動するのだろう?と思いましたが乗り換え駅で我々が下車するとお巡りさんも全員一緒に降ります。 その瞬間また円形に包囲です。 そして二列縦隊で連行されました。

またザッ!ザッ!ザッ!ザッ!と連行されました。

驚いたことにあの日我々が撮影した普通列車の数々は皆「おまわり列車」だったのです。

どちらの駅に歩いてどの列車に乗るかわからない我々を捕まえるために全列車にたくさんの警官を配置して「おまわり列車」をず〜〜っと走らせていたのでした。

まさかの「おまわり列車」です。

ポーランドの思い出はお巡りさんも大きいですが、ポーランド人の優しさも大きな思い出です。 どこに行ってもすぐ友達のようになりました。 話題はバレーボール(知りませんでしたがポーランドが金メダル)とか猪木対モハメド・アリとかです。

ポーランドズロッチ(お金)の両替所が少なくて両替が出来ず二人とも何日も絶食で撮影を続けるということもありました。 我々の顔に「腹減った」とポーランド語で書かれていたのでしょう。 地元の若者にパンを貰いました。 当然我々はお礼を言って大喜びでパンを食べました。 美味しかったです。

縁を白く塗るのはいただけないですが驚くほど原形をとどめたゼロサン

砂箱も小振りでワグナーデフにも何の切れ目も入っていません。

運転室前窓の庇もそのままです。(写真は指2本で拡大できます)

予定に無かった物ですが、真横から見たゼロイチの比較画像をつけてしまいます。

ウールハイデ(ベルリン市内)の信号場で信号停止した珍しい状態です。

のちに動態保存された 01 2118-6 ですが2年前までは日本のC57やC62の様な形の後側1/3を切詰めたデフでしたが、原型と同じ長さの「C53の様な」長いデフに戻されました。 しかし中央部が取外し可能になっています。 ゼロイチとゼロサンは軸重20tと18tの違いですがボイラーのスカイラインはほとんど一緒です。 ドームの間隔(散り方)と火床両側のエアタンクが簡単に見分けられるポイントです。

ゼロイチは日本のC53より1年古いのですが動輪には小さな水掻きが付けられています。

そしてロッドの架かる所、短いスポークには徹底的な補強が付いています。

01−118 はシリンダーも新しい組立式に代わっています。

予定外だった話は終わりにして寝ます。

 


経棚峠の夜明け

2022-07-22 | 海外蒸機

この写真も鉄研三田会写真展に出した写真ですから、少ない「持ちゴマ」を減らさずに出せる写真です。

選択基準がナサケナクてすみません。

経棚峠(けいたなとうげ ジンペンパス)は夢のような撮影地でした。

熱水(ねっすい ガラデシュタイ)という撮影地そのものの中に温泉ホテル群が建っていてホテル脇で重連蒸機の峠越えのスペクタクルが終日展開されるという場所です。

集通鉄路は内モンゴル自治区集寧から内モンゴル自治区通遼まで約1000kmの内蒙古の地方鉄道。 両端で中国国鉄に接続して、北京を北廻りでバイパスする唯一の路線です。 設備も車両も全て中国国鉄の「お古」を使っているので腕木信号機(←ほぼ日本と同形)を使い、100%前進形蒸汽機関車でした。

200km毎に機関区、機関支区が有って機関車交換、転車折返が行われていました。

東西どちらから来ても3つ目の区間だけは最急勾配12‰で、他の区間6‰のところは単機、勾配が倍のこの区間だけ重連運転でした。

集通線ど真ん中には大興安嶺越えの難所「経棚峠」があり西の経棚から25km、東のガラデシュタイから25km連続勾配で上店駅近くのトンネルサミットを目指します。 勾配が緩いため「Ω」形のカーブで階段状に山の斜面を登ります。 峠の東に2箇所、西に3箇所のオメガカーブがありました。

宿はガラデシュタイですが、貨物が重車(積車)なのは主に東行列車ですから主に西側に撮影に行きます。

旅客列車は時刻通り運転されていますが貨物列車にはダイヤが無く、運転指令からの無線指示で走るアメリカ方式です。 ですから撮影に適した山の上に夜明け前に到着しておかなくては撮影は覚束ないです。 標高1200m前後で緯度の割に格別寒い経棚峠ですが撮影のチャンスは朝と夕の2回だけ、昼間はテッド・タルボットが言う「ゴミ」ですから昼寝に帰っても良いかなというのが本音です。 タルボットが言う「ゴミ」(←これだけ日本語です)は曇天の写真を言っていたのですが、朝夕から見たら昼はつまらないと思います。

この写真を撮影した年月日時は覚えていないのですが、衣服や荷物のあちこちに予備のバッテリーを入れて山に登る私が、たった一度だけ一つもバッテリーがなくて担ぎ上げた β-cam が回せなかったと言う屈辱の朝です。(バッテリーはアントンバウアーの14.4Vリチウムイオン電池です)

大興安嶺山脈の峰々に朝日が差し始めています。

谷底には白い雲が漂って居て、空には黒い煤煙が残っています。 これらはこの前進形重連貨物列車がオメガカーブを辿って谷底から上がってくる途中、眼下を通った時に吐き出した蒸汽と煙がその場に残ったものです。

寒く無風で極限まで白煙が消えない場合、白煙は地面近くに落ちて残り、煤煙成分はゆっくり上がって完全に分かれる訳です。

これを撮ったらもう帰って寝ても良いかもしれません。

しかしながら私は「手ぶら」で山を降りて、視界外に待たせてあるチャーター車“金杯”(トヨタライトエース)にバッテリーを取りに帰り、登り直してベーカムを回すことにしました。 「手ぶら」なら「ちょろい散歩」です、

朝から夕暮れまで撮って、夕食は金泉美食城でたらふく飲んで食って、宿に帰る時には満天の星空の下、時折前進形重連の焚口から漏れる光で白煙をオレンジ色に染める情景を見ながらゆっくり宿に入る。 この世の現実とは思えない天国でした。

 


D371 Pannonia Express

2022-07-21 | 海外蒸機

バケペン写真です。

ごめんなさい人民ゼロイチの写真です。 1976−12

変な写真で縁取りが有るですね。 ポジからではなくこれも紙焼(多分キャビネ)のスキャンだと思われます。

編成を見ると一瞬【Iatropolitan】かと思ってしまいますが、01−5 人民機関車が牽いているからあれっ違うかな? イストロポリタン号はドレスデン機関区の運用でワグナーデフのゼロイチが牽きます。 01−5 はベルリン・オスト機関区の配属でした。 ベルリン・オスト機関区はリヒテンベルク駅(パトカーに乗せられて連行された怖い駅)の近くです。 この秋(冬ダイヤ前)までベルリンオスト機関区に原形タイプが居て共通運用されていましたが冬ダイヤで消えたのです。

編成を見ると赤い客車が3つ入っているように見えます。 赤い客車は東ドイツの寝台食堂運営会社“MITROPA”に間違いありません。 先頭の“MITROPA”は見慣れた寝台車です。

そしてよく見ると編成中程に屋根の高さが低い・・・それも2種類の車両が見えます。 手前がDRの荷物車、後が“MITROPA”の食堂車です。 確実に【Pannonia Express】とわかります。

編成の参考は例によってVagonWeb(チェコ)です。

https://www.vagonweb.cz/razeni/?&lang=en

列車は 1976/77 D371 Pannonia Express です。

時刻は同サイトによると

Berlin Ostbhf 13.46, Děčín hl.n. 17.50-18.29, Praha střed 20.35-21.05, Bratislava hl.st. 2.34-2.49, Komárom 4.32-5.10, Budapest-Keleti 6.52-7.30, Subotica 10.20-10.50, Beograd 13.40-14.20, Niš 17.56-18.13, Сoфия /Sofija/ 22.53

ベルリンからドレスデン経由チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアを縦断してブルガリアのソフィアに向かう列車です。 全行程33時間少々です・・・意外に速い。

ワゴンウェブには1976−05から1977−05までといったようなことが書かれていますが冬ダイヤになるときに少し時刻は変わります。 一年に2回ダイヤ改正があるというところです。 ですから時刻は少しずれている可能性が高いです。

客車は日によって違いますが経由各国国鉄の客車が混ざって編成されています。

模型で揃えるのを阻んでいる障害はDRの近代化改造荷物車とチェコスロバキア国鉄の食堂車の2種類です。 リバロッシのHO【Pannonia Express】セットには入っていません、残念!

この撮影地はベルリン・シェーネフェルト駅から2km程北東、オストバンホフ寄りです。

シェーネフェルトは東ドイツ首都ベルリンの大環状線の途中にある「シェーネフェルト空港」隣接の全列車が停まる駅です。

シェーネフェルト空港はドイツ民主共和国首都ベルリンの空港です。

ベルリンの S-Bahn のシェーネフェルト行き路線の終着一つ手前のグリュンベルク・アレー駅は画面右線路と直角方向300m程です。 そして東ベルリン一日観光ビザで来られるのはこのグリュンベルク・アレーが最南端でシェーネフェルトには行けません。 するといかにもお巡りさんに捕まりそうですが此処では一度も捕まっていません。

 

この日この時間、まだ午後2時過ぎですが太陽が夕陽のような傾き加減なのはベルリンの緯度が高いからです。

我々はD924 ベルリン経由ロストック行がシェーネフェルトを発車してくるのを待ち構えています。 そんな時、逆から弱い順光を浴びた D371 が走って来たので振り返って頂いた訳です。

煙突を見ると僅かに煙が見えますが絶気です。 いや、まだ少し開けているかもしれません。 駅が近いです。

我々が狙うのは横浜発車、速度が乗り、尚且つ全開で加速するゼロイチを東神奈川で捉える考えです。(グリュンベルガレエ=仲木戸)この写真は横浜進入で東神奈川を減速中の列車という訳です。 しかしこんな市内でもこの路線に東海道本線のような急カーブはありません。(・・・いや、ドレスデンノイシュタット駅のベルリン側とウールハイデ信号場内にはカーブあったかも)

なにしろヘンシェルヴェーグマンツークの走った路線です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3

ゼロイチ末期のこの頃、ドレスデン〜ベルリン間(途中2〜4駅停車で)2時間少々で走っていた訳ですから中間走行中は常に加減弁全開に近い気狂いのように走っていたものです。