♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■訴えは神の前にある

2006年04月13日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 福井 誠です。今日は新約聖書の中の第一ペテロの手紙より聖書のことばを読んでみましょう。

 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一 2章24節)

 ゲッセマネの園という場所でイエスが弟子たちとお祈りをなさった後のこと、イエスは逮捕され裁判にかけられていきます。深夜から朝にかけての超スピード裁判。当時の裁判手続きを全く無視したものでした。イエスは最終的な判決を受けるため、ローマの法廷へと引きずりだされていきます。総督ピラトが裁判の席に着き、本当にイエスが訴えられている通り国家に対して陰謀を持っているのかどうか調べました。しかし、ピラトが確信していくのは、ユダヤ人たちが無実な人の血を流そうとしていることでした。ピラトは「私はあの人には罪は認めません。」(ヨハネの福音書19章6節)と宣言し、何とか釈放しようと試みようとします。しかし、「十字架につけろ」(ヨハネの福音書19章6節)と叫ぶ群衆の圧力に負けてしまうのです。イエスの裁判は終わり、イエスは死刑に定められました。

 ところで、もしあなたがこの裁判の場にいたとしたら、あなたはどうしたでしょうか。人々はイエスに対してそれぞれ異なった態度を取っています。ピラトはイエスと群衆に背を向け責任を放棄しました。群衆は自分たちのしていることを振り返る余地もなく拍手喝采です。弟子たちは暗闇に紛れてすごすごと逃げてしまいました。私はこの三者の中のどこにいただろうかと考えさせられます。この裁判の真ん中に自分の身を置いてみると、自分の心が探られます。人間には弱さがあります。大きな圧力がかかるとどんなに正しいことが分かっていてもそれを貫くことができないということがあります。しかし私たちが弱く、キリストを見捨てることがあっても、キリストが私たちを見捨てることはありません。イエスの十字架は私たちの罪が赦されるために自ら進んで受けたものであったと聖書が証言しているようにです。しかもイエスの十字架にある罪の赦しは、私たちが義のために生きるためのものです。私たちが自分たちの心の内にある弱さを素直に認め、イエスの罪の赦しとイエスの力を求めるならば、私たちは神様に喜ばれる新しい歩みをすることができるのです。
 

 (PBA制作「世の光」2006.04.13放送でのお話しより)

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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