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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社2008年例祭

2008年06月17日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2008 
 
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諏訪神社2008年例祭
氏子の諏訪神社2008年の例祭は、5月24、25日で孫が泊まりがけで遊びに来ましたが、今年は天気がくずれ初日の夕刻から翌日の午前中が雨にたたられました。

 大森西3丁目連合町会お神酒所

5月中旬から6月に掛けての土・日は夏祭りのシーズンで、あちこちの神社で祭囃子が聞かれますが他社の例祭が中止とかで、諏訪神社例祭では祭りを盛り上げる屋台の出店数が例年より多く並んで賑わいを見せました。

 諏訪神社本殿とお神楽殿

諏訪神社には、大森に移り住んできた1936年(昭和13年)から氏子となり、遊びにきた孫の親は他区住まいで現在は氏子ではありませんが、小学時代は神社門前にある大森第2小学校へ通っていましたので、当時は露天での買い物が50円でしたので朝から晩まで詰めていられた時代でもありました。現在では、買い物が1回あたり300円となり、貰ったお小遣いはあっという間に空っぽとなります。

 例年より多い露天出店の諏訪神社例祭

町会神輿物語
・戦時神輿
戦時中の小学生時代のお祭りは賑やかには催されず、当時は物資不足で露店などを見られる時代では無く、ただ軍事色で出征兵士の武運長久の祈願の神社祭事的に行われました。
当時は子供の人口が多い時代でしたが、一般の人心はまだ豊かさをもって助け合い過ごしていました。娯楽のない子供たちを喜ばそうと、当時隣組の床屋さんが子供樽神輿を仕事の合間に手造りで仕上げて、祭日当日には借家住居1階の事務所後を臨時御神酒所として、隣組(現在の町会)の子供達を集めて神社まで喜んで神輿担ぎを行いました。

この俄か子供神輿には後日談があり、本来神輿は神社に届出して祀りごとの仕来たりを執り採り行う必要があるのですが、隣組では子供たちを喜ばせればとの気持ちだけで進み、お小言を頂戴しましたが、何とか交渉で祭日には神輿を氏神様の諏訪神社へと担ぎ込みが出来、当時の暗い時代の中で仄かな想い出の戦時神輿(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その3」2006年参照)物語があります。

 戦時下のもの悲しい想い出の手造り樽神輿

・庭に入ってきた神輿
諏訪神社大森西連合町会には、大人神輿は無く子供神輿と曳き太鼓のみと寂しい状況です。そのかわり子供神輿と曳き太鼓ならば、町会内の細い路地でも入れます。15、6年前に、私宅前の路地の神輿巡行時に、たまたま所定の休憩所が使用できず、その年は臨時に庭を休憩所としました。その時には、長男の孫が「驚いたな! お神輿がお家に入ってきた」と大喜びをしたことも祭り神輿(同上諏訪神社その3参照)の想い出も一駒です。

 驚いたな! お神輿がお家に入ってきた

・大森警察署建屋内が神輿巡行ルート
大森東町会の神輿は、大人神輿、子供神輿と曳き太鼓があり、いつの頃からか第1京浜国道三叉路にある大森警察署の建屋内に入るのが巡行ルートとなっています。

 休憩中の東町会神輿巡行

神輿巡行ルートの終わりに近い、城南信用金庫大森店道路から第1京浜国道大森町交差点に出た歩道が休息場所で、休息後ここから大森警察署の玄関へと進みます。

 大森警察署内巡行の神輿

今年の子供神輿の担ぎ手には、子供の姿は見えず時代の様変わりで、戦時中の神輿に群がる子供たちを見た世代からは侘びしく思います。
さて、今年も休息を終えて大森警察署内への巡行神輿の出発です。国道の歩道を北上して警察署玄関入口で、神輿を傾けてエントランスホールへ入ろうとしましたが、担ぎ棒が閊えて中に入れません。よく見ると、担ぎ棒が昨年と比べてがっちりと太くなっており、入口より大きくなって入れません。急遽、担ぎ手を子供神輿に移らせて巡行神輿が目出度く警察内に入り、安全を祈願し平和を願ってお神酒所へと戻って行きました。

 警察署内への祈願神輿(:神輿がはいらないぞ、:子供神輿と交代だ、:警察署内で安全祈願)

大森警察署エントランスホール内に入った神輿(2006年2007年)風景。

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社2007年秋の例祭 その2

2007年09月27日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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三原通りの想い出
三原通りは、その昔品川宿と川崎宿の中間にあり、間(あい)の宿として立場茶屋(「大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)が置かれ、商店街としてたいへんな賑わいを見せておりました。その1に写真掲載の餅甚は享保年間の創業で、また環七通り交差点にある海苔の松尾は寛文年間の創業といわれております。

1904年(明治37年)の日露戦争の終わった頃から、三原通りでは毎日縁日が開かれるようになり、海苔の養殖が盛んで今の大森スポーツセンターの前は大森魚市場があり、魚問屋、呉服屋、陶器屋、菓子屋や本屋などの専門店が立ち並び、大正・昭和初期が最盛期でした。
第一次世界大戦を契機に工業の発展が進み、今の大森東団地のところに1915年(大正4年)に日本特殊鋼ができました。

戦前までは毎日夜店が出ていましたが、戦後は6の日に縁日が出て暫く続きましたが、15年ほど前からは時代の世相が変わり今では年1回開催のミハラ通り夜店フェスティバル(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル」参照)のみとなりました。

・わたり蟹の澤田屋
その頃の三原通りには、映画館や寄席があり、当時は東京湾ではわたり蟹が採れ、海沿いにはかに料理の澤田屋もあり、大衆的な料理で東京近郊から沢山の客で大繁盛してました。世界大戦の初期の頃に父に連れられて、わたり蟹料理の塩茹でを一度食べに行った記憶がおぼろげに残っております。澤田屋は、当時環七通りを澤田通りと呼び第一京浜国道の突き当たりが終点であり、その先は三原通りを越えると数百mで東京湾の海岸線でそこに料亭がありました。

当時の大森では、わたり蟹は割と大衆的な食材で、澤田屋は戦災で焼失したため第一京浜国道沿いに店を開いた澤田屋第一イン大森(現在は無い)において、1987年(昭和62年)の家事の祝い事の祝膳にわたり蟹を配善できたのが最後で、翌年の祝い事ではわたり蟹にはお目にかかれなくなりました。

町会神輿の渡御
大森神社の各町会の神輿は、メインの16日13時からの流し踊りと町会連合神輿渡御の祭りパレードの巡回の他、15、16日と各町会が思い思いに三原通りを中心に神輿の巡回が行われました。
・子供神輿
大森本町二丁目仲町会では、15日14時半過ぎに子供神輿と曳き太鼓の巡回が行われ、三原通り(旧東海道)の中原を南に進み、環七通りを渡り南原(東一丁目町会)から各町会を練り歩きました。


・女性神輿
大森東一丁目町会では、16日16時から恒例の女性神輿の出御です。神酒所は、元日本特殊鋼跡にできた東一丁目団地に通じる道路沿いにあり、神輿を担ぐ華やかな女性連で一杯です。
時間がくると、出御の手拍子をとり神輿に肩が入り、神輿が立ちあがりました。締め太鼓と篠笛は町会の子供たちによる品川拍子での巡回です。担ぎ手の出で立ちは、浴衣に白足袋の草履履きの優雅な神輿渡御です。町会の長老の話では、以前には大人の神輿を担いだとのことです。


南原だけでなく女性神輿は北原でも出御します。その模様をWeb(北睦Com)から参照しました。
女性神輿1女性神輿2

・大森本町北町会神輿
恒例の連合神輿渡御が済んで一休み後の17時頃北町会に行ってみると、神酒所前の三原通り上に神輿が最後の巡回のため待機しており、待ちかねた様に担ぎ手が集まりました。
宮納めのため、祭りを惜しんで北睦の神輿が締め太鼓と一人の篠笛による品川拍子で担ぎ納めの巡回をしました。


・大森本町二丁目仲町会神輿
17時半少し前に第一京浜国道の京浜急行電鉄平和島駅前を通りかかると、丁度待ち合わせしたかのように仲町会の神輿が、宮納めのため三原通りから通じている横丁より向かってきました。
仲町会の神輿も、城南前で第一国道に出ると神輿を差し上げて、馬に載せて暫く待機です。仲町会神輿は、担ぎ棒の横棒が丸太を使用しており、他の町会神輿が角棒の担ぎ棒とは異なり変わっています。


・大森東一丁目町会神輿
17時半に東一丁目団地に通ずる道の南原の神酒所に向かうと、東一丁目町会と東一丁目団地の神輿が連合で渡御(写真上)してきました。
東一丁目の神輿は、城南前で神酒所まで進み神輿を差し上げて、馬に載せて待機(写真中)しました。
東一丁目団地の神輿は、江戸前で信号機の所でユータンして、最後のもみあげを行い(写真下)ながら団地に向かいました。


・お祭りパレード
お祭りパレードは見られませんでしたので、その模様をWeb(祭歳時記と北睦Com)から参照しました。
仲睦北睦流し踊り1流し踊り2

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社2007年秋の例祭 その1

2007年09月25日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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大森神社(寄来神社)例祭
京浜急行電鉄平和島駅近くの第一京浜国道沿いの大森神社(寄来神社)(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)では、今年の例祭は本祭りで9月14日から16日にかけて行われ、新地、北原、仲原と南原の4町会の氏子の神輿五基が旧東海道の三原通り(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)を流し踊りの先導で連合渡御を行いました。

例祭は、14日11時から式典が行われ、15日は子供神輿や曳き太鼓のほか女性神輿など各町会毎に思い思いの出御が行われ、最終日の16日は13時から三原通りで祭礼パレードが行われます。
三原通り(地図参照)の名前(石碑)は、旧東海道のうち北原、中原、南原の三つをまとめて総称したものです。町会(町会区分図参照)は、大森本町北町会(北原)、大森本町二丁目仲町会(中原)、大森東一丁目町会(南原)の3町会に大森本町二丁目新地町会(新地)が加わり、さらに戦後大森東一丁目に団地ができたので大森東一丁目団地自冶会が誕生しました。


連合渡御
祭礼パレードの連合渡御(祭歳時記より参照)は、4町会の大神輿に自冶会の神輿が加わり5基で、大森スポーツセンターを出発して、南原まで城南神輿と江戸神輿の両方の渡御が見られます。
江戸神輿は、神田祭、深川八幡祭(「風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2)」参照)、三社祭など江戸の祭りでの神輿渡御の担ぎ方で、担ぎ手が全員前を向き掛け声にあわせて足並みを揃え調子よく担ぎます。鳳凰が舞っている姿はとても優雅で美しいものです。谷戸三輪神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2007年秋の例祭」参照)や糀谷祭り(「風景・風物詩 糀谷祭 糀谷神社・浜竹天祖神社・西仲天祖神社の宮神輿連合渡御」参照)は江戸前です。

これに対して城南神輿は、担ぎ棒が横に組まれ、左右の担ぎ手は神輿をはさんで向かい合い、進行方向は横になるため担ぎ手は蟹歩きになります。担ぎ手に気合が入ってくると激しく体を揺すり、神輿の左右のバランスは微妙になり蛇行しながら神輿が進みます。とても荒々しく勇壮な担ぎ方です。また、城南神輿の特徴としては、神輿の胴に神楽で使う大拍子(桶胴の締め太鼓) が括り付けられ、この締め太鼓と篠笛に合わせて担ぎます。同じ城南神輿でも大拍子が前向に付いたものと後ろ向きのものがあり、また篠笛の吹き手も神輿により、多人数で吹くものと一人で吹くものがあります。山王熊野神社(「風景・風物詩 山王熊野神社 歴史ある鎮守の森の大神輿池上通り渡御」参照)や磐井神社(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その2」参照)は城南前であり、品川区、大田区、世田谷区の限られた地域で渡御されています。

各町会神酒所巡り
連合渡御の時間帯は、都合が付かないため15日の午後と16日の16時過ぎにかけての時間に、各町会の神酒所や町会詰め所(地図参照)を回り、お祭りの雰囲気を取材してきました。
先ず最初に、大森神社の様子を見に行きましたが、境内はもぬけの殻でお祭りにつきものの露天はおろか、人っ子一人いませんでした。
昔は、お祭りと言うと神社境内には沢山の露天が出て、子供が大勢取り巻いているのが祭りの風景でしたが、糀谷祭りや穴守稲荷の献灯祭でも風船売りの露天が1店のみで、今回のお祭りでも三原通りに同じおじさんの風船売りが出ているのみでした。


・大森本町北町会
大森本町北町会地域の大森神社から第一京浜国道をやや北上して信号機の横断歩道を渡り三原通りに入りました。北町会には、大森第五小学がありますが、そこに疎開先から引き上げてきた直後は戦災で消失した当時の大森第一国民学校(小学校)が間借りしていたところで、三原通りは通学路でした。
北町会のお囃子殿、神酒所、神輿置き場は三原通り東側に沿って並んでありました。

                                      現大森第五小学校
・大森本町二丁目仲町会
大森本町二丁目仲町会は、北町会の大森スポーツセンターより南側で、道路での町会境界は無く老舗の餅菓子屋の大黒屋のある辺り(町会区分図参照)です。昨年の陰祭りでは、子供神輿を出しました。


・大森東一丁目町会
大森東一丁目町会は、ほぼ環七通りを境に南側の内川までの地域です。大戦中は、東端に軍需工場の特殊鋼があり、その空き地に団地ができ大森東一丁目団地自冶会があります。内川から南側は、諏訪神社の氏子町会(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社例祭」参照)です。

                     老舗提灯三浦屋         老舗餅菓子餅甚

・大森本町二丁目新地町会
大森本町二丁目新地町会は、仲町会の東側で対面は平和の森公園ですが、大戦直後の頃は東京湾に面しており、貸しボートを漕ぐことができた時代もありました。

                                    新地から見た大五小学校

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2007年秋の例祭

2007年09月11日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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三輪神社例祭
三輪神社の秋の例祭は、9月の第一土・日曜日と定めており、今年は1、2日が例祭で、昨年は都合でお神輿を見られませんでしたので、今回は17時から宮神輿の出御を1日に見てきました。


京急大森町駅の大森町商店街通りから一本南側の通りにある、谷戸三輪神社(大森西5-18-1 地図参照)は、昔西大森村谷戸と呼ばれ、品川宿と川崎宿の中間にあったので、馬子人足や旅人の休息のために立場茶屋(間の宿とも云う)が設けられ、谷戸の鎮守様として村人の崇敬を集めておりましたが、1874年(明治7年)により社号を三輪神社と改めたと云われ、世界大戦の戦災で消失し再建された神社(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」2006年参照)です。

                 大森西5丁目4番地先の祭囃子

三輪神社氏子の町会の大森三輪、鶴渡、邦西の地域は、氏子の南北の北限が京浜急行電鉄の大森町駅から東西に伸びる「大森町商店街通り」(大森西5丁目)からで、南限は同電鉄の梅屋敷駅から東西に伸びる「ぷらもーる梅屋敷」商店街(大森西6丁目)までの間の広い地域に亘ります。
氏子の東端は、大森中1丁目の27~29番地が氏子の貴管神社(「大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により本殿移動を要する社の夏祭り」参照)境内のある町会地区を除き第一京浜国道から、西端はJR東海道本線に接した大森西4丁目と7丁目の広範な氏子を擁しております。

   谷戸三輪神社氏子の大森三輪、鶴渡、邦西町会の地域地図(拡大)

宮神輿渡御
子供神輿と山車は、1日が13時、2日が15時に神社前から出発です。
宮神輿の渡御は、1日が17時に神社を出御して、大森町商店街通り、ぷらもーる梅屋敷、鶴渡公園、大森第三小学校横などを練り歩いて、20時半に三輪公園で宮納めです。
16時半頃には、境内や神社前の道路には沢山の神輿を担ぐ人が集まり一杯です。最近は、神輿を担ぐ女性の方の参加も目だってきており、時代の流れです。

                 神官による神輿宮出の儀(拡大)        (拡大)

17時になり、神楽殿前の境内で出立つの儀式が始まり、まず神官による神輿の宮出のお払いが済んだ後、地元町会代表の挨拶があり大森西4~7丁目の各町会代表の紹介が行われました。次いで、地元三輪会会長から渡御の神輿の担ぎ方についての注意があり、お神酒を振舞われて最初の担ぎ手が神輿の周囲に付きました。
担ぎ手全員の手拍子で宮出の準備が整い、神輿が持ち上げられました。三輪会の担ぎ手は、直接担がずに、神輿の前後や周囲の警護役に付きました。

                お神酒で清め神輿出立つの手拍子

神輿の宮出は先頭を神社側に向けたまま本殿前に進み祈願をして、参道上で神輿を半周させて鳥居方向に向きを変え、静かに灯篭、狛犬の間を抜けて狭い鳥居を注意して神社前の道路を東方向に出ました。
いよいよ、宮神輿の渡御です。三輪神社の宮神輿は、打ち出し模様の吹き返しを大きく立ち上げた、延軒屋根の勾欄造りです。祭神は大国主命で、台座が二尺四寸(73cm)の行徳・浅子周慶の作で製造年度は不明です。

                神殿に宮出を祈願して神輿の出初

神社を出立した神輿は、大森西5丁目4番地先の祭囃子を奏でている四つ角を左折して、大森町商店街通りに出て右折し、セブンイレブンの前を通りさわやか信金大森西支店の四つ角で右折して南下し、ぷらもーる梅屋敷を通り、鶴渡公園から大森第三小学校などを巡り、20時半に三輪公園での宮納めの長丁場の渡御です。

                鳥居を潜り3時間半に亘る渡御

渡御の2日目は、13時に大森西7丁目公園の邦西御仮屋を出て、大森町商店街通り、東邦医大通りなどを巡り17時に宮入です。両日とも、三輪神社で18時から演芸大会が開かれました。

                大森町商店街通りを渡御する宮神輿

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大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その2

2007年09月05日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007 文人の石碑群 

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鈴石伝説
磐井神社の霊宝に、鈴ヶ森の地名の由来となった「鈴石」があります。
鈴石の縁起は、幕命によって編術した山岡浚明の「武蔵志料」や大橋方長編の「武蔵演路」、岩井和三郎の「入新井町史」などの由来などによると、同工異曲に伝えられており、その要旨は、『神功皇后が長門国豊浦に舟を止めたとき、真砂の上に一つの神石があった。この神石を応神天皇誕生のとき産室に置かれた。その後、筑前国香椎宮へ納め置かれた。欽明天皇が豊前国宇佐宮に八幡大神を鎮座したときそこへ遷され、聖武天皇の時代に石川朝臣が宇佐宮へ奉幣のときに神勅によってこの石を授けられた。その後嫡孫の中宮大夫中納言豊人が武蔵国の国司として下向し荏原郡多摩川に居住し、この石を磐井神社に奉納した。石は鶏卵の形で色は青く、打つと鈴の音がしたので、鈴石といわれた。この石が磐井神社に鎮座したので、神社の地を鈴石森というようになった。』

・鈴ヶ森
品川区の旧東海道と第一京浜国道が交差する狭い三角地帯が、江戸時代に奥州街道の浅草小塚原と並んで、1651年(慶安4年)に間口40間(74m)、奥行き9間(16.2m)という広さの二大刑場が開設され、1870年(明治3年)まで使われていた東海道品川宿はずれの、大井海岸ふちに置かれた仕置場が鈴ヶ森という名前で知られている刑場跡です。
大森の不入斗村(いりやまずむら)にある磐井神社の別称を、鈴石伝説から鈴ヶ森八幡宮と呼び、地理的には隣接の品川区大井村の処刑場付近一体も含めて、鈴ヶ森と称したものと思われます。

磐井神社境内文人の石碑群

   烏石の碑(拡大)  狸筆塚の石碑(拡大)

本社殿の右奥に石碑群(トップ写真参照)があり、この中に文人の石碑群が4基あります。この4基の石碑(大田区文化財)は、かって弁天池周辺にありましたが、神社の境内整備に伴って現在の場所に移されました。
石碑群の本殿側左端にある烏石(うせき)碑は、1741年 (元文6年)3月に松下烏石が磐井神社に烏石を奉達した由来を刻したものです。烏石は、山型の自然石の上部に、墨絵の烏(からす)のような模様があるのでこう名付けられ、鈴石とともに社務所に展示(非公開)されております。
この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、文人の松下烏石(葛辰)が磐井神社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称したのだといわれております。

竹岡先生書学碑(拡大) たい筆塚の石(拡大)   江戸文人石碑群説明板(拡大)

烏石碑の左隣から順に、1786年(天命6年)の狸筆塚の石碑、1796年(寛政8年)の竹岡先生書学碑、1809年(文化6年)のたい筆塚の石で、いずれも文人たちが使用済みの古筆を埋め、その供養塚に建てた記念碑です。

磐井神社末社
境内の文人の石碑群の右手手前の神楽殿の横には、末社の海豊稲荷神社が合祀されています。

      神楽殿          末社海豊稲荷神社    柵で囲われた笠島弁天社
     
また、境内社務所の左手には柵で囲われた場所に池があり、池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られております。

          池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られている

笠島弁天社は、しょうしゃな社ですが東海七福神の弁財天で、鳥居、手水舎と石灯籠が整っており、大正期の社殿の柱には木彫りの獅子が見られます。

  笠島弁天社殿 東海七福神の弁財天石碑        

磐井神社夏祭り

          夏祭りの磐井神社本殿

磐井神社の2007年の夏祭りは陰まつりにあたり、8月3~5日に行われ町内神輿は、向睦、北六南睦と八幡睦の三町会で渡御しました。

 町会に戻る神輿        神社に戻って着た神輿

5日に、八幡睦の神輿が磐井神社に宮入りの様子を見てきました。

                 宮入りの神輿

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大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1

2007年09月03日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007 再三の第一京浜国道拡幅で削られた境内

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歴史のある磐井神社(いわいじんじゃ)
磐井神社(大田区大森北2-20-8 地図参照)は、京浜電鉄大森海岸駅(「京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)から5分ほど南へ第一京浜国道に接した、大森町北端にある大変歴史の古い神社です。
磐井神社前の第一京浜国道東側には平和島競艇場があり、世界大戦終戦の1945年(昭和20年)頃より以前には東京湾の海岸線でした。

         磐井神社地図(拡大)             磐井神社境内図(拡大)

磐井神社の創記は、849年(嘉祥2年)の「続日本後期」に“奉授武蔵国伊波比神従五位下”とあり、859年(貞観元年)の「三代実録」に“武蔵国従五位下磐井神列官社”の記述が見られます。また、磐井神社の名は、927年(延長5年)にまとめられた全国の神社の一覧の延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に記術によると、式内社(10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社全国2861社)に、東海道武蔵国荏原郡に磐井神社と薭田神社の二座の名があります。

式内社の社格には、神社の重要度や社勢によって定められた大社と小社があります。また、幣帛の受け方により、神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられております。
薭田神社の座には、(薭田神社大田区蒲田)、御田八幡神社(港区三田)、六郷神社(大田区東六郷)、八幡神社(大田区久が原)の四社があり、二座の神社の社格は国幣小社に属しております。

1590年(天正18年)に徳川家康が江戸下向の際に磐井神社に参詣しており、五代将軍綱吉は1689年(元禄2年)に参詣の折、磐井神社を幕府の祈願所としたと伝われております。

磐井神社の祭神は、1812年(文化9年)の「社伝略記」に、神座正面が応神天皇、左が大己貴命、仲哀天皇、右が神功皇后、姫大神とあります。
1732年(享保17年)の「江戸砂子温故名跡誌」の記述に、天正年中に山城國男山八幡宮から八幡大神を移遷して鈴森八幡宮と称したとあります。

磐井神社境内
国道などの主要道路に接している神社は、その道路が拡幅されると何れも境内を削られる(「大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により現境内で最後の夏祭り」参照)ことになり、磐井神社もその定めに従ってきました。

・戦災に遭った大イチョウ

            第一京浜国道拡幅で境内が削られた磐井神社

現在の境内(磐井神社境内図参照)は、第一京浜国道に接した鳥居をくぐると正面が本殿で、右手に手水舎があります。境内に入ると、左右にイチョウの大木があり、いずれも樹齢が300年以上で、樹高が16mほどで、幹周りは手水舎側のイチョウが4.9m、もう一方が3.5mあり、このイチョウには黒焦げの痕があります。

                         樹齢300年、幹周り4.9mの大イチョウ

イチョウの焼け痕は、1945年4月15日の世界大戦の大森町大空襲の戦災(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7~10回)」参照)の時期に被ったもので、この時に磐井神社の本殿も戦火に遭い消失しました。本殿は1954年9月に再建され、1972年5月に社務所が新築されました。

1954年戦火で再建の本殿   1972年新築の社務所 新築記念碑(拡大) 

・磐井の井戸
鳥居の外の第一京浜国道の歩道に、大田区文化財の磐井の井戸(磐井神社境内図参照)があります。この井戸のある場所は、昔は磐井神社の境内であり、1965年(昭和40年)の国道拡幅時に歩道上にかろうじて残されました。

 磐井の井戸は鳥居の外 歩道の磐井の井戸(拡大) 大田区文化財磐井の井戸(拡大)

昔の旧東海道は、現在の第一京浜国道の東寄りの歩道上に幅員6~7mの道幅であり、北側では北品川(「風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その1~4)」参照)から鈴ヶ森処刑場跡付近までの旧東海道と結ばれ、南側では大森本町二丁目の大森スポーツセンター付近から大森東二丁目の大森警察署付近を通る三原通り(「大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)と結ばれております。
旧東海道時代には、磐井神社の東の沖合いの海浜までが境内であったとも云われております。

第一京浜国道は、旧東海道を西側に現国道幅のおよそ1/2の幅員に拡幅して、1918年(大正七年)に完成しました。その後、再三にわたり拡幅が進められ、1965年(昭和40年)に現在の幅員の国道となりました。

当時境内にあった磐井の井戸は、大田区の文化財であり、「日本総国風土記」の「武蔵の国風土記」の社名の由来の記載によると、『社のほとりにある磐井という井戸は、祈る者の願いが妄願であれば水は変じて塩味となり、正直であれば清水となる。近国の人々はこれを奇瑞とし、病者に飲ませると効験まさに神の如く、たちまちに病気が癒えたので、これを薬水とよんだという。』。
この伝説は、伴信友(1775~1846)の「神名帳考証」などで広く知られるようになったと云われています。

この井戸を調べてみると地下に大きな岩盤が存在し、その岩盤を掘りぬいたもので、海辺にありながら岩間から湧き出る水は真水であり、東海道筋にあたっており、往き交う人々の乾きを癒し、名水として知れわたり神水、薬水の伝説がうまれたものと思われるとあります(大田の史話その2より)。

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大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により本殿移動を要する社の夏祭り

2007年08月30日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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第一京浜国道の拡幅工事
貴管神社(大田区大森西5-27-7)の夏祭りは、8月最後の25日(土曜日)と26日(日曜日)の両日に行われました。
貴管神社(「大森町界隈あれこれ(L31) 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社」参照)は、前面が第一京浜国道(15号線)に接しており、その国道は大森町駅付近から多摩堤通りまでの区間が、東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)により拡幅されることで工事が進められており、すでに大森町駅付近からエンゼルハイム大森町第二マンション(大田区大森西5-29)までの拡幅が終了しております。

        東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)拡幅工事 再掲

現在その先の国道沿いにある、ナイルス、エンゼルイン大森とファームストーンの各ビルは、すでに国道拡幅のラインに合わせて建てられており、その前では道路の工事が始められております。

 第一京浜拡幅前の貴管神社(拡大)   貴管神社境内の第一京浜拡幅予定(拡大)

貴管神社の場所
貴管神社は、ファームストーンビルと地続きにあり、1922年(大正11年)に第一京浜国道の建設が行われた状態の位置のままで鎮座しています。
国道の拡幅ラインは、貴管神社本殿と社務所は半分ほどが引っかかり、末社のお稲荷さんは完全にかかります。先の谷戸交番は道路の中に入り、奥の葬儀社の金子会館が前面に出る形になります。

こうした中で、7月21、22日に境内移転前の盆踊り大会(「大森町界隈あれこれ 国道拡幅により現境内での貴船(貴菅)神社盆踊り大会」参照)を開催しました。

貴管神社現境内最後の夏祭り


今後は、国道拡幅工事のため西側の京浜急行電鉄の方向に、 1952年(昭和27年)竣工の本殿と社務所に末社などを移設するか建て替えるかを決定する貴管神社の、例年行事である夏祭りを迎えました。
貴管神社の夏祭りは、例年の様に2日間にわたり氏子出演の夜の演芸が主体で行われ、子供神輿と山車が午前中に町内を巡行しました。


今年は、祭り囃子は小型車搭載の車が国道脇の工事による空き地で、景気をつけて奏でられておりました。露天は境内が狭いので金魚すくい、綿あめとポップコーンにかき氷屋さんのかわいいミニ露天が出てました。


貴管神社夏祭り恒例の演芸大会は、2日間とも19時から21時までで、初日は梅屋敷太鼓、カラオケとおどりにフラダンスの競演で、2日目は盛り沢山でふれあいこどもクラブの太鼓演奏、かっぽれおどり、三味線にうた、合唱、カラオケ、おどりに付け加え昨年と同じく、地元の大森第一小学校校長先生の南京たますだれの披露がありました。

       演芸プログラム:(左)第一日演芸、(右)第二日演芸 (拡大)

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 浅間神社例祭

2007年06月07日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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浅間神社
好天に恵まれた6月2、3日は、浅間神社(せんげんじんじゃ)の例祭でした。
浅間神社(大森西2-2-7 地図参照)は、環七通りに面してありますが、昔は沢田村の鎮守様で1716-1736年の享保年間に富士山本宮浅間神社を勧請した神社であり、鳥居の傍には冨士講の記念石碑があります。
浅間神社の由来(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺(2) 浅間神社」参照)によりますと、1918年(大正7年)に耕地整理のため移転し、その後また、氏子の増加と道路拡張のため1940年(昭和15年) 現在地に遷座したといわれております。


例祭前の道草
大森町駅から商店街通りを西に、さわやか信用金庫の四つ角を右折して北に直進すると左手の大森学園高(「大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1)」参照)の前に、「おもちゃの病院」のプラカードを生徒が掲げて立っておりましたので、興味を持ちちょっと寄道しました。
おもちゃの病院は、エントランスの上階の多目的スペースで実施しており、ちょうど修理中のおもちゃが直ったところに遭遇し、待っていた子供が喜んで修復したおもちゃ動かしておりました。
修理を行う生徒に聞いてみたところ、「故障のおもちゃの部品が入手できないのが悩みです」と言っていました。


例祭の露天出店数は大森町随一
「おもちゃの病院」の寄り道を早々に退散し、例祭へと向かいました。内川を渡り右手に氏神様の諏訪神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社例祭」参照)の脇を抜けて直進し、環七通りが見える傍に沢田東町会神酒所があります。


浅間神社の氏子は、大森北六丁目沢田町会、大森沢田西町会、大森西二丁目三和会、大森沢田東町会の各地域が氏子会となっております。
環七通りに出ると歩道の角から露天が立ち並び、東邦医大通りの角まで隙間なく続き、神社境内の露天と合わせると、大森町の神社例祭の露天数では最大の出店を誇ります。
例祭初日の夜は、奉納演芸があり遅くまで大変と賑わい、明かりに灯された夜店はどことなく哀愁が漂いお祭りの気分を盛り立てます。


大森町以外の大田区の露天の出店数の多い祭事には、池上本門寺のお会式(「風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式」参照)や、大森鷲神社の酉の市(「風景・風物詩(B10) 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社」参照)などは、特に群を抜いております。

浅間神社の神輿と太鼓曳き巡行
例祭2日目は、神輿と太鼓曳きの巡行です。浅間神社は、東京では名うての交通量が激しい環七通りに接しております。神輿と太鼓曳きは、神社からの宮出しと宮入の巡行は環七通りがメインとなりますので、通りが空いている日曜日に行われます。


浅間神社の神苑内には、浅間(あさま)幼稚園があります。例祭の2台の太鼓曳きには、幼稚園児をはじめとして、沢山の幼児や児童が参加して、とても賑やかでした。


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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社例祭

2007年06月03日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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夏日で快晴の5月26、27日は、氏神様の諏訪神社の例祭でした。

諏訪神社氏子
諏訪神社(大田区大森西2-23-6)は、大森三丁目連合町会と大森山谷自治会の地域が氏子会となっております。1949年から居住している私宅の現住所は、大森三丁目連合町会ですので諏訪神社が氏神様です。大森町には、戦前の昭和13年頃から大戦時の学童疎開までの間にも、現在の大森東二丁目に居住しておりましたので、諏訪神社の氏子でした。
ただ、終戦後は大森町周辺一体は焼け野原で、疎開から引き揚げの仮住居は、現住所の大森東二丁目に一時期居りましたので、その間の氏子は貴船神社(前回ブログ参照)でした。

          快晴に恵まれた例祭(文政七年と刻まれた鳥居)

諏訪神社との触れ合い
大森町に住んで66年の間、貴船神社の氏神様が、戦時下の悲惨な生活時代から、現在の平和な時代までの家族の成長を見守って頂いたのですが、幼少年期の戦時体験や疎開などで、我々年代は現在のような楽しいお祭りの体験などはできなかったのです。
戦時中の諏訪神社祭礼風景として、町会の人気者の床屋さんが少しでも子どもたちを喜ばそうと、違法を知らずに自作の樽神輿を作り、祭礼当日神社に担ぎ込んだ貴重な写真が、一年前のブログに掲載(「大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3」参照)してあります。戦時下の影響を受けって暗い生活でしたが、隣組の付き合いでは下町の人情は残っており、いまでは遠い昔のノスタルジアな、ちょっと悲しい想い出の一コマです。

戦後の復興期の社会にでてからの時代は、仕事の忙しさにより神社との接触は殆ど縁が無い状態でした。その頃は、まだ国も個人も貧しく余裕の無い時代でした。
1965年(昭和40年)代に入ると、日本もやっと成長が始まり、暮らしが少し豊かになってきましたが、諏訪神社では大人神輿の担ぎ手がいなく、地方に神輿を寄付した経緯もあります。ある年の子供神輿巡行に、例年の休憩場が使用できず、自宅の庭を臨時に使用したことが有り、お神輿が庭に入ってきたと孫が大喜した記録も上記ブログに掲載してあります。

                        ちびっ子お囃子連

諏訪神社の由来と漁業納畢之碑
諏訪神社の由来についても、昨年のブログ「大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1」に掲載してありますので参照してください。

大森町では、1964年 (昭和39年)に、 300年にわたる海苔養殖業に幕をおろすこととなり、その終焉を記念して「漁業納畢之碑」を、諏訪神社と貴船神社に建てられ、諏訪神社の碑についての経緯と碑文が上記ブログで見られます。
また、貴船神社の漁業納畢之碑については、貴船神社(前回ブログ参照)に掲載してあります。

                          大繁盛の露天

諏訪神社例祭
今年の例祭は、快晴の夏日に迎え例年より参詣人は多かった様です。例祭の模様を2日にわたりスナップしました。
大森西三丁目町会では、太鼓曳きと子供神輿のパレードが、お囃子車を先頭にして、町内を一巡しました。

                    大森西三丁目町会パレード

大森山谷自治会パレードは、27日の午後お囃子車の先導で、大人神輿、子供神輿と太鼓曳きが、旧東海道、羽田街道(するがや通り)を通り町内を一巡しました。


                  旧東海道を往く大森山谷自治会パレード

あっ! 大人神輿が大森警察署に入りました。続いて子供神輿も警察署に入りました。パレードで交通違反を起こして、お神輿が逮捕されたのかな。
おめでたい例祭に何としたことかと思っていると、警察のお偉いさんと共に、手締めがはじまりました。
なんだ、警察署も諏訪神社の氏子なんだ。これは、大森山谷自治会恒例のパレード終了の手締めの儀式でありました。


                  大森警察署内に入る大人神輿


                  大森警察署内に入る子供神輿        
奉納演芸
奉納演芸は、諏訪神社の恒例の催しで、2日間にわたり開催されます。
初日には、日中にちびっ子お囃子の演奏から始まり、夕方からシニアのコーラスと踊りに、カラオケ大会とあり、2日目には踊りを楽しめます。
特に、今年はコラボからちびっ子の、よさこいソーラン踊りの飛び入りの出演があり、人気を博しておりました。

                   奉納チビッコよさこいソーラン踊り


                    奉納演芸シニア大会

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 貴船神社

2007年05月30日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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5月の19、20日は、貴船神社(大田区大森東3-9-19)のご祭礼が行われ賑わいを見せておりました。19日の昼の一時、貴船神社の祭り風景を見てきました。

貴船神社は、世界大戦終戦直後に疎開先から戻り、焼け野原の東京での仮住居地(「大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回」参照)で4年ほど暮らした時代の氏神様でありました。また、疎開前には母校の大森第一国民(小)学校正門から東方に向い、するがや通り(羽田街道)から厳正寺脇を経て数分のところが神社(地図参照)ですので、時折学校から出かけていました。
幼稚園に入園前の頃から学童疎開をするまでの間の大森町住居は、大一小学校が接する産業道路の北方の大森警察署に対面した国道沿いにありましたので、そこでの氏子の諏訪神社より近い貴船神社(氏子自冶会)の方へ良く遊びに行った縁りの神社でした。

        南入口              東入口         奉納掲示板の裏側が西入口

貴船神社は、T字形の境内(境内参照)で東西と南の3か所から入れ、南向きの本殿の前には小さな太鼓橋が架かっており、子供には人気の場所でした。
昔から貴船神社の周辺は、のり養殖の漁師業の方を中心として、沢山住んでいた地域ですので、都会というよりは地方の漁村という感じの街でした。したがって、戦後の何も無いころの貴船神社のお祭りには、地元の青年団が稽古した素人芝居を演じると周辺の住民で埋まり、当時唯一の娯楽として楽しんだ時代であり、懐かしくも哀調のある想い出深い神社でした。


貴船神社
大森町駅から貴船神社(地図参照)には、駅東口から第一京浜国道(15号)を渡り、東へ直進すると産業道路(131号)に出ますので横断します。さらに東進すると「するがや通り(羽田街道)」に出ます。そこを右折して南下しますと、直ぐ厳正寺(「大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞」参照)が左に見えます。厳正寺のはずれの石塀に沿った細い路地を左折し、突き当たりを右に折れさらにカーブすると貴船神社の西口に到着で、およそ10分程の距離です。

貴船神社の前社殿は、1813年(文化10年)に建立された大森村の村社で、旧別当は蜜乗院、祭神は高龗神です。社伝によると、1266年(文永3年)に厳正寺の開山法円の篤信者で、鎌倉の田中大夫が同寺建立の時に同道して、捧持した氏神の熊野社を貴船神社の末社にしたと云われます。
また、貴船神社は、厳正寺の二世法蜜の祈雨、止雨にも関係したと伝えられており、かなりの古社と推定されます。羽田街道沿いにあり江戸・明治・大正と・昭和と参詣者が絶えなかったと云われております。


前社殿は、関東大震災により倒壊し、現在の本殿は1955年(昭和30年)に一間社流造りで建立したものです。境内には、昭和期の大森地区の漁業興廃に関する各種の記念碑があります。
特に、1964年(昭和39年)に貴船神社と諏訪神社(「大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2」参照)に建立された漁業納畢之碑は、江戸時代より前から、海苔漁業を営んできた大森海苔漁場の埋め立てにより、東京オリンピックを境に終焉を迎えた記念の碑です。

両境内の碑文は同様の銘文であり、貴船神社の碑文を示します。
漁業納畢之碑
徳川時代に入って天和貞享の頃より大森に海苔製造が始められ、正徳五年、時の幕府に御膳海苔を上納、は初めて海苔場が確定、本格的海苔製造の華が開いた。
明治初年有栖川宮大総督の御用金仰付に対し全大森村漁民と共に当時としては破格の金五千両を献上、明治維新の大業を翼賛した美挙により新たに海苔場弐万参千五百坪を免許され、官軍場の名をもって今日に及んでいる。
かくして漁業は歳を追うて盛となり、とりわけ海苔製造業は本場海苔として日本国中に大森の名を高らしめた。

碑文から読み取れるように、大森村の人々は政治・経済体制の変化に対して、積極的に新時代を先取りする途を選び、献金により官軍場を獲得し、先祖代々血と汗で築いてきた広大な海苔養殖場と、海苔業界の指導的地位の維持と発展を期することに努力してきたのです。

貴船神社ご祭礼


ご祭礼は、案内によると大曳き太鼓巡業、祭礼パレードやカラオケが2日間にわたり行われました。残念ながら大森東睦会の神輿は見られませんでしたが、想い出の神社の夏祭りのひと時を懐かしく、楽しく過ごすことができました。


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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大林寺

2007年04月19日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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花まつり
4月8日は、お釈迦様の誕生日です。
釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う行事で、別名を花まつりと云い毎年4月8日に行われます。
釈迦誕生の時に、龍が天から飛来して、香湯(ソーマ、アムリタ)をそそいだという故事に基づくものです。
ソーマ:ヴェーダなどのインド神話上で、神々の飲料とされるある植物の液汁。
アムリタ:インド神話に登場する神秘的な飲料の名で、飲む者に不死を与えるとされる。乳海攪拌によって醸造された。(Wikipediaから)

日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たします。誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝います。
甘茶は参拝者にもふるまわれ、甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりもしたと云われます。

                              花御堂(写真拡大)

大林寺
大森町界隈の大林寺(大田区大森中2-7-19)では、毎年花祭りを行っており、遠い昔の戦時中の小学生の頃花祭りに行き、甘茶をふるまって貰ったことを思い出して、午後、京浜急行電鉄大森町駅から徒歩10分の大林寺(地図参照)に行ってみました。

大林寺は、日蓮宗長亨山薬王院で池上本門寺の旧末寺です。
寺伝によると、もとは真言宗であったが、1488年(長亨2年)海徳阿闍梨日位を迎えて改宗したといわれます。七世日了は、1573~92年(天正の頃)七面大天女を境内に祀り、大森の七面様とよばれ、戦前まで縁日には大変にぎわいましたが、戦災で堂宇を消失して再興されておりません。
一二世日好は、1716~36年(享保期)に、村民の窮乏をのぞくため副業として麦藁細工を村民に教えて、製品を近くの東海道筋で土産物として販売させて困窮を救ったと伝えられてます。それ以来、麦藁細工は大森村の名物として広く知れわたりましたが、現在では継承されず麦藁細工を作れなくなっております。

         正門                本堂                 遠景 

池上道道標
1729年(享保14年)に、大森村の甲子講という日蓮宗の信者たちが建てたもので、もと池上本門寺に至る道は、東海道から今の京急梅屋敷駅あたりで分かれていました。この道標は、その分かれ道に建てられていました。
池上道道標は、高さが1.62mの大きな道しるべであり、正面は鬚題目と「池上道」と刻しており、側面には「一五町で品川へいきぬけ」と書かれています。
これは、池上本門寺を参詣してから、品川宿へ行けることを示したものです。
現在は、現在は東海道の工事などにより、大林寺境内に移されており、区指定の文化財になっております。

                                     左 池上道道標

三面大黒天画像
着彩の紙本画の三面大黒天画像は、1564年(永禄7年)戦国武将の武田道遙軒野信綱の作品であります。武田道遙軒野信綱は、武田信玄の弟で、1582年(天正10年)に織田信長に滅ぼされましたが、絵が大林寺にどのように伝えられたのかはわかりません。

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大森町界隈あれこれ(L34) 大森町の社寺 堀の内三輪神社

2006年10月11日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
堀の内三輪神社は、京浜急行電鉄の大森町駅近くの大森警察署付近から、第一京浜国道と枝分かれして南々東に伸びる産業道路との中間(地図参照)にあり、蒲田に近接する大森町の南端部にあります。堀の内三輪神社の近辺は、旧東海道(第一京浜国道)が三原通り(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)からはしり、500m以内に中世に開創された密乗院や大林寺があり、また三輪厳島神社や八幡神社もあります。

このあたりは、旧東海道の間中の宿の大森宿があったところで、近くには梅屋敷の梅園(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)、常備薬の和中散を売る店、麦藁細工を売る店、梅びし・梅干の売店や海苔茶づけの茶店などがあり、このあたりは古くから開けておりました。寛永年間(1624-44)に創立したといわれる三輪神社は、村人からの信心も厚く堀の内の鎮守様として祀られてきたものと考えられます。しかし、残念ながら今は何も面影は残っておりません。

堀の内三輪神社
堀の内三輪神社(航空写真参照)は、1915年(大正4年)に近くの貴船神社と天祖神社を合祀して小字堀の内の鎮守となり、祭神は大国主命、天照皇大神、高麗神、菅原道真が祀られております。
大森には、長くおりますが、なかなか他地区の鎮守様にはお参りする機会がありませんでしたが、10月7、8日が例祭でありましたのでお賽銭をあげてきました。


堀の内三輪神社(地図参照)へは、京浜急行大森町駅の南隣の梅屋敷駅(「大森町界隈あれこれ 京急駅シリーズ(1) 梅屋敷」掲載予定)から向かいます。現在、高架化工事(「大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1) 」参照)で足元の悪い梅屋敷駅を降りると、駅の東方向に第一京浜国道が見えますので、交差点を渡り梅屋敷東通り商店街を産業通りに向かって東に進むと、中間点あたりで左側に大林寺「(大森町界隈あれこれ 大林寺」掲載予定)を過ぎて、次の四つ角を右折して暫く南進すると左手に見えてきた、角地の神社が堀の内三輪神社です。
神社の入り口は、角を左折すると鳥居があり、入って右手が本殿です。本殿と並んだ右に、末社の北村神社があり、祭神の北村大人が祀られております。また、末社の右手前には、地元に残る大森海苔採取に関する口碑伝承を伝える碑が建立されております。参考に、名碑の内容を巻末に記載してあります。

堀の内三輪神社祭礼
当日は、祭礼で角地のお囃子やぐらで、祭り囃子の景気をつけておりました。なお、神社の裏口は、角地を右折しないで、直進すると左側に本殿の裏から社務所へと直進できます。
この付近には、祭りの祭壇お神酒所奉納者芳名板などがありました。
神輿殿には、大人神輿と子供神輿が鎮座しており、反対側の仮設演芸奉納舞台の脇には山車が待機しておりました。

東海道の常夜灯
旧東海道の常夜灯(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」参照)は、今の谷戸の交番付近に建てられておりましたが、1923年(大正12年)の関東大震災では、灯篭が倒壊して破損し、その後東海道を拡幅して第一京浜国道が建設の時に、堀の内三輪神社に移転されました。その後、1986年(昭和61年)には三輪神社の社殿の改築のため、移転する必要を生じ大田区教育委員会に寄付されました。教育委員会では、前方の八幡神社(大森中3-3-8)の神前燈籠が、この燈籠を模して建立したと伝えられていたところから、それを参考にして火袋、竿石といった中間部分を復元し、大森西図書館前に保管されております。

北村神社由来
当社は、大森海苔養殖業に特に功績のあった北村石見守を祀り、当地の海苔養殖業者の崇敬するところとなっております。
本場浅草海苔の中心となった当地の海苔養殖業は、今より二百八十有余年前の天和二年、当大森村字堀之内の野口六郎左衛門が有志と計り、幕府より海苔篊(ひび)建の免許を請け、その基礎が確立されたのでありますが、その後文政三年九月二十二日境界紛争から、海苔篊建場を全面的に改めるという海苔養殖史上最悪の事態を招いたのであります。
このような危機に際し、当大森村の窮状を理解し、海苔養殖業継続の決断を考えたのが北村石見守であり、村民の崇敬するところとなったのであります。かくてその尽力を徳とし永く祀ろうと、同氏の烏帽子(大東亜戦争で消失)を請い受け、神社を建立したのが当社の起源であります。
尚、現在の社殿は昭和三十六年九月堀之内の海苔業者と有志の手により再建されたものであります。
  行く水や何にとどまる海苔の味    其角
昭和四十二年九月一日

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大森町界隈あれこれ(L33) 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)

2006年09月28日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
大森神社(大田区大森北6-32-12 地図航空写真参照)は、京浜急行電鉄平和島駅から第一京浜国道沿いを北に約2分ほどのところに鎮座しております。境内は、第一京浜国道に面し、裏は京浜急行電鉄に挟まれた奥行きの狭い神社で、鉄道と国道の敷設工事の時に削られたのではと思われます。
大森神社は、大森村の旧東海道三原通り(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)の鎮守様で、昔は寄来大明神 寄来神社と称し、1886に現在の大森神社に変わりました。御祭神は、久久能智命(くくのちのみこと)が祀られておりす。


大森神社は、第一京浜国道に面して大小の鳥居が二つ並んで建立しており、向かって右側が本殿で、左側は末社です。大鳥居の左には手水舎があり、その脇には百度石が置いてあります。本殿脇には、御神木が植えられており、狛犬はないが大森魚市場から寄進された立派な青銅の燈籠があります。

大森魚市場
「東京市史稿」によると、江戸時代に付近の漁師が魚貝類を持ち寄り商売したのが始まりといわれ、1880年(明治13年)9月4日に大森魚市場の開設が許可されるたと記録が残っております。
慶長年間、江戸八辻ヶ原(今の神田須田町あたり)に始まった青果市場をもととして発展した神田市場。昭和11年蒲田配給所(蒲田分場)とともに開場した荏原市場と共に、平成元年に、この3市場1分場が統合され、新たに東京都中央卸売大田市場として生まれ変わりました。
大森魚市場のあったところは、現在は大森スポーツセンター(大森本町2-2-5 地図参照)となり、大田区の公共施設として利用されています。

大森神社例祭
大森神社の例祭日は、隔年の9月14日(神社式典)に近い土日に執り行われ、本祭りの時は美原通りの氏子町会毎(「大森町界隈あれこれ(M31) 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル」参照)に神輿の渡御りや山車が繰り出され賑やかなお祭りが行われますが、今年は陰祭りに当たり、9月17日の日曜日に大森本町二丁目仲町町会だけの、美原通りを交通止めして子供神輿山車だけでの質素な仲町会祭が行われました。大元の大森神社は、ひっそりとして、お祭りの雰囲気は何もありませんでした。
仲町会祭風景1

・本祭り
平成17年の本祭りは、盛大に行われ、その祭り風景をWebで覗いて見ました。
大森本町北町会には、昭和初期に製作された一尺八寸の総彫神輿と平成14年に旧大森魚市場から奉納された二尺三寸の神輿があります。子供神輿は中神輿と小神輿があります。
また、昭和八年製作の北町の太鼓山車があり、天狗様が上に乗り彫刻が立派な城南地区でも有数の山車で、大祭時に子供連が曳きます。

由緒
旧東大森村三原の鎮守で寄来大明神と称していた。創建年代は不詳だが、1720年(享保5年)再建時の棟札に、1616年(元和2年)に社殿を改築したとの記述がある。
社伝によれば、ある時、黄金色に輝く御神体がこの地の浜に流れ着いた。里人は非常に畏れて沖へと流したが、再び浜に帰ってきた。これを三度繰り返して、三度戻ってきたため、神意がこの地にあることを悟り、寄来大明神として祀ったという。
1868年(明治元年)神祇伯・白川資訓王より「大森神社」の社号と額面を賜る。1932年(昭和7年)東京市への編入にあたり、寄来神社の社号を正式に大森神社と改めた。1945年(昭和20年)米軍の無差別爆撃により社殿焼失。1963年(昭和38年)再建された。

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大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭

2006年09月15日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
9月2、3日の第1土・日曜日は、谷戸三輪神社のお祭りでした。
谷戸三輪神社(大森西5-18-1)は、京急大森町駅の大森町商店街通りから一本南側の通りにあり、通りは大森西図書館に面しております。神社(地図参照)に行くのには、大森町駅西口の商店街通りから京急線路脇に沿って路地を南下すると、すぐ右に斜めに折れる道に出ますので、その道を進むと左手に三輪神社境内の大きな木と鳥居が見えてきます。

谷戸三輪神社の変遷
昔、谷戸三輪神社のある大森西4、5丁目や大森中1、2丁目付近は、西大森村谷戸と呼ばれ、品川宿と川崎宿の中間にあったので、馬子人足や旅人の休息のために立場茶屋(間の宿とも云う)が設けられました(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)。
谷戸三輪神社は、西大森村谷戸の鎮守様として村人の崇敬を集めましたが、1874年(明治7年)の神仏分離令により社号を三輪神社と改めたと由緒にあります。また、三輪神社は、太平洋戦争の大森町空襲(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第1~11回)」参照)で消失しましたが、戦後氏子の努力により再建し、1954年(昭和29年)に宗教法人三輪神社となりました。


神社本殿には、祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと) が祀られております。
末社稲荷社には、江戸末期の創祀で、祭神 宇迦之御魂命が祀られております。

谷戸三輪神社周辺
三輪神社は、大森三輪、鶴渡、邦西の三町会が氏子であり、丁度大森三輪町会の北の境が大森町商店街通り(「大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル」参照)に接しており、商店街通りの北側は大森三丁目町会(諏訪神社)で商店街の南と北とで氏神様が別れております。
谷戸三輪神社の通りの周辺には、三輪公園と大森西図書館(地図参照)があります。この公園では、祭りの夕方になりますと、神輿を担いだ人や地元氏子の方が集まり大勢でお祝いの酒宴が行われる慣わしとなってます。

常夜灯
公園に隣接した大森西図書館(5-2-13)の入り口の横には、大田区文化財に指定された常夜灯が置かれてあります。この常夜灯は、説明によると、江戸後期に東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎などの富士講の人々が、谷戸の交番(大森中1-18)付近の天神社前の旧東海道に建てられた(地図参照)と云えられてます。
1923年(大正12年)の関東大震災では、灯篭が倒壊して破損し、その後東海道を拡幅して第一京浜国道が建設の時に、堀の内三輪神社(大森中3-17-15)に移転されました。現在の常夜灯は、1986年(昭和61年)に太平洋戦争戦災で失われた、火袋と笠石を修復し灯篭として復元したものです。

谷戸三輪神社神輿渡御り
3日の日曜日には、東邦医大通りの交通を止めて、神輿渡御りが行われました。残念ながら、大人神輿の渡御りを見に行くことができませんでしたので、前日2日の子供神輿(子供神輿1)と山車曳き(山車1)を見てきました。
どこでも見られる祭り風景ですが、神楽殿では お囃子が賑やかに祭りを盛り上げ、神輿を担ぎ終えた子供たち がお菓子を貰いはしゃいでいる光景は、和やかなものです。

谷戸三輪神社由緒
住吉、鎌倉時代幕府の家人、此地を領せし故、谷戸の地名興りしと謂れます。口碑、伝承に因れば、此集落の西端れ杜木立のうちに氏神さまを祀りたる小祠ありしが、江戸時代の初期の頃、地震、洪水など天災地変相次で起りし故、里人ら相計り、当時、出雲信仰が朝野の崇敬を集むる時勢に鑑み、里人らもまた、深く信仰する大黒さま(大国主命)を勧請し、諸災祓除五穀豊饒の願いをこめて、堂字を改め、第六天社と称え奉ったとされます。
比頃、谷戸は二十数戸と覚しき辺鄙の里に過ぎざりしが、人々の信仰心厚く、夙し早くから社殿を整備し、之を宜く護持した別当寺は蜜乗院大森寺でありました。

爾来、幾星霜ともなく西大森村の鎮守として人々の崇敬を集め、里言葉にて、“でえろくさま”と、親しみ称え奉り、また、数尠ない北向きの社としてもその名が知られ、文化文政時代の御社殿は、間口二間、奥行九尺と古書に記されております。
時代降って、明治維新に際しては、神仏分離令の布告、神社明微化の機運に伴い、明治七年、社号を三輪神社と改め奉りましたが、此頃の氏子は四十二戸、二百三十六人でありました。更に時移り、太平洋戦争中、空襲に因り、全社殿を消失しましたが、氏子一同宜く再建に努め、また、戦後の宗教改革に当り、宗教法人の承認を受け、昭和二十九年宗教法人三輪神社と改りました御末社、稲荷社は年代不詳ながら江戸末期の創祀と伝えられ、祭神は宇迦之御魂命と称え奉り、宇迦はウカ(食)にして食物一切を司さどる霊験あらたかな庶民の守護神であります。

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大森町界隈あれこれ(L31) 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社

2006年07月25日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
大森には、国道に面している神社が数多くありますが、中でも、大森町に位置する貴船(貴菅)神社は、第一京浜国道の本宿の路傍にただずむ小さな小さな神社です。
こじんまりとした境内で、7月の21、22日に盆踊り大会が開催され、翌日の23日に役員さん方があと片付けをしてるところ訪れてみました。貴船(貴菅)神社(地図参照)は、京急の大森町駅から、第一京浜国道を南下して5分足らずの所にあります。

貴船(貴菅)神社
通りに面した鳥居をくぐると、左手に水屋 があり、正面が社殿で前に可愛い狛犬が鎮座しており、右手に お稲荷さん が祀ってあるだけのあっさりとした神社です。
貴船(貴菅)神社説明版の略縁起を見ると、御祭神は、貴船神社には高龗神(たかおかみのかみ)・菅原道真公が祀られ、稲荷神社には宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) が祀られております。

由書では、創建の年代は明らかではない。江戸時代には大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守であった。明治42年7月東海道をはさんで当社の真向かいに祀られていた菅原神社を合祀した。その後、昭和に入って、貴菅神社と俗称する様になったとあります。
祭神の高龗神は、伊邪郡岐命の御子にして、水を司る神であり、神霊を授け給う産土神である。農業、漁業、航海、醸造等をはじめ、各種生産富貴の神として、又、干ばつに際しては雨乞いが行われる等、常に御神徳広大である。菅原道真公は、分道の大祖、文学詩歌の霊神であり、金世、文芸教育の興隆につれて、文教の祖神としての崇敬いよいよ厚く、又、火防の神としても神威嚇々たるものがある。宇迦之御魂命は、稲魂として、万民豊楽の神霊と称え、広く商売繁昌の守護神と敬愛されている。

神社の社殿は唐破風向拝付瓦葺・入母屋造りで昭和27年(1952年)竣工のもので、鳥居は石造・明神型で大正14年建之、狛犬は石造で大正4年建之、神狐像は石造で昭和2年建之とあまり歴史を有さない、比較的新しい神社であります。氏子の戸数も本宿町会の一町会のみの住民だけですので、大森の神社では最も小さい神社であります。
神社の例大祭は、八月最終の土・日曜日に定めれており機会があれば、その模様を日記で紹介したいと思います。


狭い境内がさらに狭くなる
この神社には、将来に問題を抱えているのです。盆踊り大会のあと片付けをしていた役員さんのお話では、神社に面した第一京浜国道が五年後には道幅が拡幅されて、境内を削られることが決まっているとのことです。現在、第一京浜国道は神社の北側近くまでは、道路の拡幅が済んでおり、神社から南側の拡幅工事がこれから開始する予定なのです。それによれば、神社境内はおよそ半分(地図赤線参照)となりますので、将来神社を他に移転するか、狭い境内に二階建ての社屋にするか、他の神社と合祀するなど神社の存続を決めることになります。神社の役員さんでなくても、頭の痛い問題です。
貴船(貴菅)神社の航空写真

ちなみに、貴船(貴菅)神社の執務を行っておられる神主さんは、諏訪神社(大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1~3 日記参照)と、貴船神社(大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞 日記記載の巌正寺の東南裏手近く)の神主と兼務執務されておりますので、大森町の神社は仲良しの兄弟と云えます。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
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