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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞

2006年07月23日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
大森町の社寺の中には、母校の大森第一小学校の東裏手の羽田通りに面して、開創が文永2年(1272年)と大変古い「柳紀山巌正寺(ゴンショウジ)」(地図参照)と云うお寺があります。
この、巌正寺では毎年、盂蘭盆会(うらぼんえ)の七月十四日の午後、六百八十年以上続く都の無形民族文化財に指定されている、「水止舞」(みずとめまい)が演じられます。

大森第一小学校生時代の戦前・戦中の頃の住まいは、巌正寺と目と鼻の先の大森警察署の産業道路の対面(地図参照赤丸印)に住んでおり、戦後から現在の住まいは京浜急行の大森町駅近傍にすんで都合65年になりますが、一度は見たいと思いながらなぜか「水止舞」を見に行ったことはありませんでした。
そこで、今年は地元郷土の無形民族文化財に指定されている「水止舞」を、ブログに掲載したいと七月十四日の午後、巌正寺に出かけました。巌正寺へは、自宅近くの大森町駅から、第一京浜国道の交差点を渡り、城南信用金庫前を直進して産業道路の交差点に出ます。産業道路の交差点から南方に大森第一小学校校舎が見えますが、交差点を渡りさらに直進すると羽田通りと交差します。交差した羽田通りを右折して南下すると、左手が巌正寺で大森町駅から徒歩10分ほどです。

巌正寺
巌正寺の門前には、「水止舞の寺」の石碑があります。門の二階にある梵鐘は、安永元年(1772年)に地元の人たちによって造られ、地元の講中の存在を感じさせます。また、羽田街道沿いにあることから、戦前は大いに賑わいボロ市が立ったと云われております。
巌正寺水止舞保存協力会などの資料によりますと、巌正寺の由来は、住職と檀家は鎌倉幕府第六代執権職の北条長時の一族郎党で、長時の一番下の弟・時千代が巌正寺を開基した法円上人で、伯父の巌正寺第一世法円から継いだ第二世法蜜上人は、文永4年(1274年)北条茂候の子として生まれ、18歳より高野山で真言密教を学んだとあります。
一族郎党で流れてきたからか、住職と檀家の関係は密接で、この代から密教系の天台宗から浄土真宗に宗旨替えして、妻帯できるようになった住職の子孫が代々お寺を継ぎ、大森の住民の安心(仏教用語で「仏に帰依して心に疑いを持たない」の意)を願ってきたとあります。

羽田通り
大森町には、旧東海道が大森本町二丁目交番付近から、大森東二丁目の大森警察署前交差点までの通称「三原通り」(現在の美原通り)として、往時の幅員と面影を残して現存しております。
「三原通り」の「三原」は、大森村小字名の北原・仲原・南原に由来します。
羽田通り(羽田道)は、旧東海道(美原通り)から内川橋際で分かれ、羽田方面に至る道です。分岐点付近に、歌舞伎でもでてくる「駿河屋」という旅籠屋があったことから、「するがや通り」とも云われます。内川橋際から大鳥居交差点までで、産業通りができるまでは、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路であったそうです。

水止舞
由来
大森村の地域は、多摩川の河口付近が埋め立てられる前は、寺近くまで海岸線がせまっていた事がうかがえます。多摩川の最下流に位置し、古くから水害に苦しめられていた地域です。戦後の1949年頃に住居を大森町駅付近に移したころでも、地面を30cm程度掘ると、泥水がしみ出すという土地柄で昔は水はけが悪く、水害に悩まされておりましたが、いつ頃からか高度成長時代には、1m以上掘っても水は染み出さなくなりました。しかし、二年後の元亨三年(1323年)には、「数十日間雨降り止むことなく田畑はことごとく海となり人びとは難儀して他国に逃げるものも数多く」あり、長雨が法蜜上人の雨乞い祈祷のせいだと恨む農民まででてきた。そこで上人は、三頭の龍像を彫って「水止」と命名し、それを農民達にかぶらせて舞を舞いわせ、太鼓を叩かせ、法螺貝を吹かせたところ、黒雲は消えて太陽が姿を現したという。喜んだ人々により「寺に水止舞を奉納するならわしとなり、その後天変地変の度に水止舞を奉納し霊験をあらたかにした」とあります。

大森村の地域は、多摩川の河口付近が埋め立てられる前は、寺近くまで海岸線がせまっていた事がうかがえます。多摩川の最下流に位置し、古くから水害に苦しめられていた地域です。戦後の1949年頃に住居を大森町駅付近に移したころでも、地面を30cm程度掘ると、泥水がしみ出すという土地柄で昔は水はけが悪く、水害に悩まされておりましたが、いつ頃からか高度成長時代には、1m以上掘っても水は染み出さなくなりました。

水止舞奉納
水止舞は、大森東中学校の校門前から午後一時スタートの「道行き」(龍神の練り行列)から始まります。
行列の先導は、とぐろに見立てた七五三縄状の太いわらでグルグル巻きにされた、法螺貝を持った若者二人(雄雌の龍神)で、高らかに吹き鳴らす法螺貝は龍の咆哮である。龍神は、大勢の男たちに担がれて移動し、その後を竹筒を持ち扇をかざした警護役の少年たち、次に笛師連そして、花笠をかぶった花籠(けこ)二人が「ささら」(竹製の楽器)打ち鳴らしながら続き、隊列の最後は、舞で主役を勤める三匹の獅子たちであります。(笛師連、花籠、三匹の獅子たち)
行列は、数メートル進むごとに立ち止り、先頭の龍神にはバケツの水が容赦なく掛けられ、近くの信者や見物人にも水が浴びせられる。
龍神に掛ける水は、龍神を元気づかせる雨で、その度に法螺貝を吹き鳴らすのも、喜んで雄叫びを上げているところなのです。


寺に着くと、嫌がる龍神を無理やり舞台上に担ぎ上げて、ほどいたわらを舞台の周囲に巡らすと水止舞奉納の準備が完了です。
水止舞は、花籠二人を従えた赤い面の雄獅子と黒い面の若獅子、金の面の雌獅子による舞で、初めは牡丹の花(花籠)が咲き乱れる中で雄獅子だけが舞い、次いで雄獅子と若獅子による「出羽の舞」、その後には、三匹の獅子で舞う「トーヒャロ」、雌獅子を奪い合う「雌獅子隠し」などと続きます。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
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大森町界隈あれこれ(24) 大森町の社寺(2) 浅間神社

2006年06月06日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
先週の土・日の諏訪神社の例祭に続いて、今週の6月3、4日の第1土・日曜日は、浅間神社のお祭りでした。浅間(せんげん)神社(大田区大森西2-2-7)は、大森町の社寺(1)に記載の諏訪神社(大田区大森西2-23-6)の裏通りの道を一路北上し、環七通りで左折すると通り面した(地図参照)所にあります。諏訪神社とは、同じ丁目でおよそ400mほど離れた徒歩5分の所にある、ごく近くの隣組みの様な大森町の社寺です。

先週に続き、浅間神社のお祭りの見物に出かけました、諏訪神社の裏道を北上すると環七に出る少し前右手に町会の御神酒所があり祭囃子が気分を盛り上げておりました。そこを通り過ぎると、環七通りの歩道には沢山の出店で賑わっておりました。
鳥居を潜り、狛犬を前にした本殿に参詣を済ませると、昼時なので神社の近くにある環七沿いの創業八十余年の老舗うなぎの「はせ川」(地図参照、「大森町界隈あれこれ 大森町の老舗」に掲載予定)で、国産うなぎ、紀州備長炭、三代引き継いだ秘伝のタレに、地元のお店で舌ずつみを打って午後の神輿し練り歩きをを待ちました。

環七車道を進む神輿、曳き太鼓
車道を通る神輿や曳き太鼓を見るのは初めてであり、日曜日なので比較的空いているとは言え何し追う環七通りです。曳き太鼓と神輿の出発時間となりましたが、思ったより車の交通量は少なく、スムースに練り歩きは進みました。
環七歩道橋から見た浅間神社
環七通り車道を進む曳き太鼓
環七通り車道を進む神輿1
環七通り車道を進む神輿2
先週に続きお祭りを見物しましたが神社や町会が異なると、それぞれ特徴のある神輿や曳き太鼓の練り歩きが見られました。

御祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が祭られております。
浅間神社の御朱印

浅間神社由来
旧大森村の内、沢田地区の鎮守で、地名の沢田とは、古くは馬込・池上の山より海へ出る処の一面沢地であったところから生れた。
8代将軍吉宗の時代(300年前)に、富士山本宮浅間大社を勧請したことに起こる。当時盛んであった富士講ゆかりの神社で、毎年の富士登拝の際、近郷の先達はまず当社に参拝して道中平安を祈願したという。
また、安産・子育ての神、又火防の神として知られております。

大正7年(1918)耕地整理のため移転、さらに氏子の増加と道路拡張のため、昭和15年(1940)現社地に遷座した。大森町大空襲では、戦災を免れて、現在に至っております。

<前回 大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3  へ
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大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3

2006年05月30日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
ちょっとハメを外した面白くもまたうら悲しいお神輿3題
諏訪神社の今年の神輿の練り歩きは、27日が雨のためお流れとなり、28日は朝方のうち雨が残りましたが午前中には上がり、昼過ぎには日が差してきましたので時間を遅らせて、午後一時からのスタートとなりました。
お祭りには、神輿が付きものです。年一度の楽しいお祭りです、お目出度い行事ですから少し位ハメを外してもよいのではと思います。そこで、今回は、面白くもうら悲しい神輿に関しての話題を3つ記述します。

驚いたな! お神輿がお家に入ってきた
大森西三丁目町会の神輿は、残念ですが子供神輿と曳き太鼓しか無く大変と寂しい。以前は町会で立派な大人神輿を所有していましたが、今から数十年程前には、東京では神輿を担ぐ人がいない時代がありました。そこで、町会では大人神輿を地方に寄付をしてしまった経緯があります。ところが、時代が変わり、最近では神輿を担ぐことに人気がでてきたのです。後の祭りで、今では大人神輿は高価で調達ができません。

そこで、大森三丁目町会の神輿の練り歩きは、子供神輿だけですので、細い路地でも通れます。28日の神輿練り歩きもそうですが、毎年私宅の横の路地を通る様になりました。
 1 私宅横の路地を練り歩く子供神輿(ここをクリック)
私宅の横の路地を通る様になった訳は、御神酒所を出発した神輿は、一巡して御神酒所に戻るまでに数ヶ所の休憩所を設け、菓子や飲み物を配り一休をするのが楽しみなのです。休憩所は、役員の私宅や事務所などを定めて設けます。
14年ほど前に、役員さんの休憩予定場所が改築のため、その年は使用できなくなりました。そこで、その年に限り臨時的に私宅を休憩所に提供することになりました。この日は天気がよく気候も高く、休憩の飲み物には子供たちが大喜びでした。それ以来、子供神輿は私宅横の路地を通る様になったのです。
私宅にお神輿の入ってきたのをみて、孫は「驚いたな! お神輿がお家に入ってきた」と大喜びでした。
 2 私宅に入って来たお神輿(ここをクリック)
 3 庭で休息中のお神輿(ここをクリック)

大森警察署内に平和の神輿珍入
大森三丁目町会と第一京浜国道を挟んだ東隣の大森山谷自冶会には、大人用の神輿があります。28日は、天気も回復しましたので、久し振りに大人神輿の練り歩きを見たいと思い、第一京浜国道で休憩中の大人神輿、子供神輿と曳き太鼓を見学に行きました。
大人の神輿はやや小ぶりで、三社祭りで見る神輿と比べると見劣りしますが、担ぎ手は若い男女が楽しそうに休息しておりました。

休憩が済み、神輿の練り歩きの出発です。どこへ行くのかと見ていると、国道の歩道を大森警察署方面に進みましたので、付いて行きました。
 1 国道を大森警察署に向かって進む神輿(ここをクリック)
警察署前にくると、やおら向きを変えて警察の玄関に入って行き、署員と折衝しておりましたが、ハメを外して署内に珍入です。
 2 警察署内珍入を図る神輿(ここをクリック)
 3 「頼もう」!神輿が入って署内を厄払いに来たぞ(ここをクリック)
続いて、子供神輿も同じ様に中まで乱入という珍ずらしく楽しい光景に出会いました。
 4 子供神輿も警察署内珍入を図る(ここをクリック)
 5 大小の神輿が警察署内で威勢を張る(ここをクリック)
 6 意気揚々と凱旋更新の曳き太鼓(ここをクリック)
これを見て、日本は平和国家で素晴らしいと、気持ちが和らぎました。今年のお祭りは、面白く楽しく、とても素晴らしい諏訪神社例祭でした。

戦時中のうら悲しいちょっとハメを外した樽神輿
小学三年生頃の戦時中の諏訪神社例祭の写真がでてきましたので、ちょっとハメを外した樽神輿事件を思いだしました。
向こう三軒両隣の隣組みに小池理髪店がありました。そこのマスターは、陽気なタイプの朗らかな方でした。戦時中で、世相もやや暗く、子供達もそれを感じてかワンパクさが潜んでいるのを見た小池さんが、子供達を明るくしてあげようとの気持ちで、諏訪神社例祭に合わせて樽神輿の作成を考えました。店が終了してから、夜遅くまで子供達のために連日孤軍奮闘して、素人ながら立派な樽神輿を作りあげたのです。

諏訪神社例祭当日には、借家の私宅の1階事務所跡が空いていたので、まがりなりの御神酒所を用意し、子供達は大喜びで神輿を担いで隣組みの周囲を練り歩きました。
ところが、樽神輿や御神酒所は神社に届けが必要とは露知らず、ただ子供達を喜ばそうとの一心での行為でしたが、神社から待ったがかかりました。
当時は、小学低学年生でしたので、折衝の経緯は定かでありませんが、1枚の残っていた写真は、諏訪神社に神輿を担ぎ参拝した光景のものです。
この戦時中の諏訪神社本殿前での、先端の鳳凰が僅かに見える樽神輿を前にした例祭のスナップ写真の公開は、戦後61年を経過した今日の平和を迎え、ブログで大森町大空襲を連載中でもあり、戦争中の1コマを伝えることも諏訪神社への供養かとの思いで掲載しました。

戦時下の諏訪神社例祭樽神輿

当時は、戦時中でしたが、人々の心は優しく隣組では相携えて行動し、経済的には今より貧しかったのですが、人心の気持ちはずっと豊かであったとの感じが強く残っております。
写真の中の人物は、一番前のお面を付けた得意気の方が小池さんで、左後ろが隣家の佐々木さん、その左後ろが私です。私の左前が同級生の栗原さん、小池さんの後ろが同じく同級生の太田さん、その右隣が太田さんのお兄さん、その右隣が栗原さんのお兄さんです。その他の方は、名前を失念しました。写真に写っている幼馴染の友達は、1年後には疎開で別れ別れとなり、それ以来再開が果たせておりません。写真を見る度に、あまり楽しい想い出のなかった小学生時代の遠い昔を想いおこして、なにか侘びしくもの悲しい感じがするのです。

前回 大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2
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大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2

2006年05月29日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
諏訪神社には、金山神社と云う衛星の神社を持っております。
諏訪神社その2では、金山神社を廻ってみました。

漁業納畢之碑
「漁業納畢(のうひつ)之碑」は、大森海苔の養殖が江戸時代から幕府の許可を得て江戸湾内に漁業を行い、明治時代には漁場を拡大し拡張しつづけました。昭和14年(1939年)には、時局に応じ、京浜運河計画により漁業権の大部分は東京府に買い上げられたが、戦後になって運河計画は白紙となりました。昭和24年(1949年)に新漁業法が成立し、東京湾岸海苔漁業者は再び漁業権が復活しました。
しかし、戦後しばらく続いた大森海苔の伝統は、昭和30年(1955年)代になると、漁業環境は悪化とともに再び東京港の港湾整備計画が浮上して、昭和37年(1962年)12月に東京港の改修と引き換えに、300年にわたる海苔養殖業に幕をおろすこととなり、輝かしい終焉を記念して「漁業納畢之碑」(碑文)が昭和39年(1964年)に建てられたのです。

漁業納畢之碑

諏訪神社周辺は吾が学びやの地
前回にも記述しましたが、子供たちが通学した元大森第二小学校(現開桜小学校)の他に、元大森第六小学校(学童数減少により開桜小学校と統合、跡地は現在大田区区民活動支援施設こらぼ大森として活用)と大森学園(元大森工業高等学校)があり、さらに、戦前に通園した日新幼稚園の跡地は諏訪神社の隣にありました。

前回に続き、諏訪神社参詣の順路(順路図再掲参照)に従い、諏訪神社の境外末社の金山神社に向かいます。諏訪神社の鳥居を出て、南北に走る通路の北方を見ると元大森第六小学校の校舎跡の建物(地図④)が見られます。ここに、入居している「こらぼ大森」については何れ先に記述したいと思います。一方、通路の南方には、日新幼稚園の跡地(地図⑤)は現在住宅が建ち並んでおります。これから進む内川沿いにある金山神社の対岸には、元大森工業高等学校(地図⑥)が見えます。
幼稚園から高等学校時代につきましては、別のカテゴリーの「大森町界隈あれこれ 大森町の学びや」で記述する予定です。

諏訪神社境外末社 金山神社
金山神社は、諏訪神社南方の内川沿いにあり、境外末社として金山彦大神(カナヤマヒコノオオカミ)を祭ってあります。

金山神社の由来
この地は、北条氏以来、数度の古戦場にして、幾多の遺跡と共に、付近諸所に、大小古墳の散在せるも、いつの頃か崩壊して、今は残存せるもの、殆ど稀なり。案じるに、これなる古墳の中には、彼の上代民族にかかわるものあるべきも、あるいはまた、当時の土民が、戦没将士の屍を葬り、塚を築きて、もって、その例を祀りしもの、尠からざるべきは、推定に難からざるべし。
その古墳、今なお原型を存して、今日に到しは、いろいろの神秘的伝説と共に、古来小祠を設けて、金山大神を斉し、もって土民の信仰を結んだため、幸いに、その崩壊をまぬかれた。現に今存在するところの、金山神社古碑は、元禄年間の物たるを見ても暸かなり。
爾来、幾星霜、今や後古墳上は、雑木の繁茂するに任せ、小祠もまた頽廃するに至れしが、隅々、今次大東京市域拡張に当り、本町の有志、神社を中心とする諏訪会を発起し、その事業の一として、墳域を整備し、社祠を改築し、もって古墳を永遠に保存し、敬神の実を挙げんとす。その由来を記して、後代にのこす。
続く

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大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1

2006年05月28日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
諏訪神社例大祭
5月27、28日は、氏神様の諏訪神社のお祭りでしたが、生憎の空模様で初日は雨にたたられましたが、2日目は天気が回復し午後からは晴れ間が見えてきましたので、両日とも参詣をしてきました。
諏訪神社(大田区大森西2-23-6)は、大森町の中心にある京浜急行本線大森町駅より北方の内川沿いの開桜小学校から北西のところに位置します。

諏訪神社参詣の順路(順路図参照)には、吾が母校や子供たちの通った母校と戦前の幼稚園の跡地などがあります。
27日の12時頃には、雨がほとんど上がったので、先ずはぶらりと大森町商店街の通りにある御神酒所(地図① 1.神殿、2.町会神輿と太鼓車、3.奉納者御芳名板)に奉納しました。
奉納を済ませて、東京信用組合横の路地を北上すると、内川に面して開桜小学校(元大森第二小学校)(地図② 1.内川沿いの開桜小学校、2.開桜小学校正門付近) があり、左折すると諏訪神社の参詣路(諏訪神社鳥居)です。氏神様に参拝して神社御神酒所にも奉納してきました。

諏訪神社正門の鳥居文政七年建立

諏訪神社(地図③)には、1.建御名方神(タケミ ナカタノカミ)を祭る諏訪神社本社と、2.八坂刀賣命(ヤサカ トメノミコト) を祭る諏訪神社下社に、3.宇迦之御魂命(ウカ ノミタマノミコト) を祭る稲荷神社末社の3つの社があります。
また、境内には、貴船神社(大森東3-9-19)と共に両社に輝かしい大森漁業の終焉を記念して4.「漁業納畢之碑」が建てられております。

諏訪神社の由来
諏訪神社の由来を見ると、御鎮座の年代は明らかではないが、その昔、大森海岸袖ヶ浦へ着岸された御神体を、村民が尊崇して、一祠を建立したといわれ、御創建は江戸初期ともいわれているが、区内の社寺の多くが、鎌倉時代を機として、その源を発していることを考えると、更に遡るものと思われる。古老の多くも、この様に語られ、昭和39年(1964年)には、五百年祭が盛大に施行された。
御祭り神の建御名方神は、大国主命の第二子にましまして、風水害や流行病を防ぎ、農耕の神として、又漁業の神としての信仰厚く、特に武神としての誉れ高く、はなはだ霊力強き神として、氏子の敬神の念ますます厚く、神威あらたかに、今日に到っている。

昭和11年(1936年)に村社に定められ、東京府下荏原郡大森村字山谷(東山谷:大森東二丁目、南山谷:大森西三丁目、北山谷:大森西二丁目)の鎮守であった。
現在の御社殿(銅板葺・流れ権現造り)は、平成16年(2004年)に修復された。境内には、文政7年刻の鳥居をはじめ、狛犬、灯篭、手水屋、玉垣、記念碑等が多数建立されている。又、昭和54年(1979年)には、社務所を改築し、続く昭和56年(1981年)には、神楽殿の新築をし、氏子崇敬者一丸となって神慮を畏み、氏神様を心のよりどころとして、豊かな人間生活形成の原点として、いよいよ道の精華を発揮している。

なお、伝承として、境内に一匹の白蛇が住んで、祭礼の時、氏子の多数がお参りして、知らずに白蛇の尾端を踏んだので、古来祭礼には、必ず雨が降ると伝えられている。

雨の祭礼
今年の諏訪神社のお祭りも雨の多い5月で、言い伝えの通り雨模様でした。天気予報の通り27日は雨の週末となり神輿は中止となりましたが、28日は朝方で雨もあがり神輿も繰り出されました。
続く

次回 大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2 


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