波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

清洲城にハイテンション武者あらわる!あと、姫様も

2018-11-28 01:19:36 | お城
こんばんは、白黒茶々です。
前回から、白黒茶々家は清須市の清洲城に来ています。 そこに到着したときから雨に見舞われたということもあって………



箔母さんたつぴの3人は、案内図内では「清洲城」となっている模擬天主の中に、は「清洲ふるさとのやかた」のところのP(駐車場)に止めておいたウチの車の中に、それぞれ分布しております。 模擬天主の最上階の回廊に出ても、あいにくの天気でそこからの視界はあまり良くなかったのですけど………



なんか、箔母さんとたつぴはその内部に飾ってある鯱ほこを撫でて、楽しんでいました。 そういう私は、同じ空間に置いてあった太鼓を叩きながら「 こ~のいち~げきで~、しょ~ぶを~きめろ~………」と、ファイターズのチャンステーマを歌って、遊んでいましたけど。 その建物内の展示を見終わって、すぐに外に出ると思いきや………



模擬天主と棟続きになっている、芸能文化館へ。そこの黒木書院には、甲冑や打ち掛けの無料試着&撮影コーナーがあるのですよ そこに常駐しているスタッフのおいちゃんがテキパキと着付けをしてくれて、さらに雨の影響もあって、そこはウチの貸切り状態でした。



たつぴも装着が済んだみたいですね。 ちょっとテレが入っていますけど。武者が2人揃ったので………



ここで、勝ちどきを挙げておきましょう パソコンやスマホの前の皆さんもご一緒に
エイ、エイ、オ~~~!
ちなみにこの撮影は、おいちゃんの勧めというか、監修のもとでおこなわれました。私たちだけでやるのもナンなので、箔母さんも何か着てみてくださいよ。



………とお願いしたら、姫になってくれました。 打掛けのズッシリ感は、結婚式のとき以来みたいですね。 やはり、こうなったからには………



3人で記念撮影をやっておかなければ ちなみに先ほどから一緒に写っている小姓(森蘭丸?)はマネキンなので、私たちがどんなにハメを外しても、表情を崩したりしませんでした。この3ショットを年賀状写真に使うことも考えたのですけど、叔父叔母(伯父伯母)や恩師など、目上の方にも送るので、あまりめでた過ぎるのはどうかと……… はい。
この写真を、私のカメラで写してくれたスタッフのおいちゃんは、昨年井伊谷の龍潭寺に行ったと言っていました。「実は私もそこには、前の週に行ってきたばかりなんですよ 」このようなところにも直虎効果があって、私のテンションは上がりまくりでした。 つい時間が経つのを忘れてキャッキャしてしまいましたけど、そういえば外の様子はどうなっているのでしょうか?



………と出てみたら、空の具合は不安定ながらも、雨はやんでいました。 そうしたら、開放的な南側のこちらの広場でも………



家族写真を撮っておきましょう 私としてはこのアングルが気に入っているのですけど、あとで検証してみたときの箔母さんは「う~ん………」でした。服装からして、黒隠れしかけているのが引っ掛かるのでしょうか?



それよりも、天気のほうは心配なさそうなので、波を連れ出してお城の散策をすることにしました。



こちらはかつて天守があったところで、その名残と思われる土盛りの上に、江戸時代中期に建てられた「右大臣織田信長公古城跡」と刻まれた石碑があります。といったトコで、前回の日記から途切れたままになっている、清洲城の説明をさせていただきます。 清洲城は15世紀初頭に、斯波氏の支城として築かれたのが最初と云われています。弘治元年(1555年)に織田信長が那古野城から移り住み、この城を拠点にして尾張統一を果たしました。



線路の西側の本丸跡には、戦前に作られた織田信長の銅像があります。 永禄3年(1560年)に桶狭間を目指して清洲城から出陣するときの姿を表したもので、銅像もその方角を向いています。 その桶狭間で信長は、兵の数で圧倒的に不利ながらも、敵大将の今川義元を討ち取ったのは、あまりにも有名な話。



またこちらには、平成に入ってから製作された濃姫の銅像もあります。彼女は美濃の斎藤道三の娘で、信長の正室でもあるのに、正式名も生没年も不明。帰蝶という名もあったそうですけど、美濃から来た姫なので、濃姫なのですよ。 それから、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長と一緒に憤死したとも、生き長らえたとも云われていて、謎の多い女性であります。 そんな彼女の像は、以前は私たちが記念撮影をした広場の片隅にあったのですけど、お城の中で夫婦別居状態ではあんまりではと、思われたのでしょうか?6年前に濃姫像は、信長像のすぐ近くの現在の位置に移されました。



ちなみに2つの像の位置関係は、このようになっています。 濃姫は信長を見つめているのに、彼は明後日の方向、いや、桶狭間に向いていますね。それでも、夫婦仲を疑ったりしないでください。 彼女は戦に向かう夫を見守る一途な妻と、解釈しておくことにしましょう。
その後入城した織田信雄によって清洲城は大改修され、以降は豊臣秀次福島正則松平忠吉徳川義直が城主となりました。慶長15年(1610年)に徳川家康が名古屋築城を決定したことにともなって、清洲城は廃城に。 石垣や建物はもちろんのこと、城下町までまるごとごっそりと名古屋に移されました。世にいう「清洲越し」であります。時代を経て、その清洲城跡の対岸(こちらも一応城域です)にふるさと創成の1億円を活用して平成元年(1989年)に建てられたのが、今日見られる模擬天主であります。 そうそう、雨の心配がなさそうなので………



お城をバックにして、記念撮影をしておきましょう。 こちらはワンコ用年賀状の候補にも挙がったのですけど、惜しくも落選してしまいました。 代わりに採用されたのは……… お正月までのお楽しみということで、ご了承くださいませ。



もちろん、改めて人間用も撮りましたよ 今度は波も入っているのですけど、みんなしていい感じで写っているので、人間用のほうはこちらの写真を使うことにしました。
清洲城での目的を果たした白黒茶々家は帰路に就いたのですけど、せっかくこちら方面に来たので………



同じ清須市内にある、貝殻山貝塚(朝日遺跡)に寄っていくことにしましょう こちらは弥生時代初期の集落の跡で、東海地方最大の規模を誇り、国の史跡にも指定されています。 しかし、先ほどまで降っていた雨の露が草に付いていることもあって、家族は車の中に待機し、私だけが見学することになりました。



その敷地内には、復元された縦穴式住居があります。 今からン十年前の大学生のときに、私はこちらを訪れたことがあります。しかし、その時は復元住居は不審火か浮浪者のたき火で焼失し、焼け跡となっていました。 その後再建されたみたいですけど、そのまわりには鉄柵が設けられ、見学の時間外は厳重に施錠しているみたいです。



こちらの資料館は昔から変わらず、無料で入れるようになっていました。 気になる展示物は………



貝殻山貝塚から出土した弥生式土器はもちろんのこと………


※なかにはショックを受ける方もいるかも知れないので、画像を加工させていただきました。

屈葬で埋葬された人骨もありました。こちらの遺跡の南側には、2020年までに新しい資料館が建設されるそうです。これから貝殻山貝塚がどのように整備されるのか、楽しみにしています。 あとは帰るだけなのですけど………



やはりまっすぐ行くのもナンなので、ちょっとムリヤリなコースを取って、新東名高速道路の岡崎サービスエリアにも寄れるようにしました。 こちらは地元で人気の飲食店が入っていて、お土産も充実しているのですよ。 ちなみにこちらのSAは、上下線共有となっております。



さらに、小さなドッグランも併設されているのですけど、日没後ということもあって、静かでした。
そうしたら、さらに新東名を東に進んで、今度は箔母さんとたつぴを長篠設楽原パーキングエリアに案内してあげましょう。そちらは織田・徳川連合軍をモチーフにしていて、展望台や喋る自動販売機があり、戦国武将グッズも充実しているのですよ



………というつもりで入っていったら、武田側でした。織田・徳川側のほうは反対の下り線だったみたいで、こちらは規模が小さく、グッズや飲食コーナーも小規模となっています。
なんか、締まらない終わり方となってしまいましたけど、今回の私たちは最初から飛ばし過ぎてしまったので、静かに締めるのも、またいいのかと。 また、昨今すっかり出不精となってしまった箔母さんを連れ出したら、意外と楽しんでもらえたみたいで、よかったです。 それから次回こそは、延び延びになっているスピッツクラブ展覧会のレポート……… の前段階の道中記に、触れさせていただきます。


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