何をするにしても、自分のために行うのか、他の人のために行うのかによって、自分の中の考え方に、欲が出てきてしまうような気がします。
私自身が、一心不乱に座禅(静功)を行えたのも、自分のために座禅を行ったのではなく(結果的には自分のためにはなりましたが)、人の病が治るように念じながら行ったからかもしれません。
その念じる人がいなくなった今、なんとなく真面目に座禅を行う機会が、少なくなってきました。 全ての丹田が活性化し、小周天も通り(全身の気の通りがよくなること)、天目も開き(私の場合はおでこの真ん中)、気を通して色々なことを感じるようになったせいかもしれません。
他の人からの刺激を、受けるような機会があればよいのですが、本だけですと情報も限られてしまいます。
新しい年は、自分をどれだけ高められるか、自分のために様々な機会を捕らえて刺激を受け、次のステップに進んで行こうと思います。
私自身が、一心不乱に座禅(静功)を行えたのも、自分のために座禅を行ったのではなく(結果的には自分のためにはなりましたが)、人の病が治るように念じながら行ったからかもしれません。
その念じる人がいなくなった今、なんとなく真面目に座禅を行う機会が、少なくなってきました。 全ての丹田が活性化し、小周天も通り(全身の気の通りがよくなること)、天目も開き(私の場合はおでこの真ん中)、気を通して色々なことを感じるようになったせいかもしれません。
他の人からの刺激を、受けるような機会があればよいのですが、本だけですと情報も限られてしまいます。
新しい年は、自分をどれだけ高められるか、自分のために様々な機会を捕らえて刺激を受け、次のステップに進んで行こうと思います。
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