ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

初めて発心をする時すなわち正覚を成す

2014-06-16 06:46:20 | 気づき

 昨日の早朝のテレビ「こころの時代」で、さとりへの道・華厳経に学ぶというタイトルで、木村清孝さんがお話をされていました。

 

 その中で華厳経の中で「初めて発心をする時すなわち正覚を成す」という言葉について、わかりやすく解説をされていました。

 

 初めに何かをやろうと思ったときに、既にその真理をつかむことが約束されたようなものだ、というような解説であったと思われます。

 

 私は、その言葉を知ったときに、親しくしている友人のことを思い出しました。 私が、色々と話しても、なかなか実践されないことがあります。 まだそのような状態(気持ちが)になっていない、そのような環境になっていないといっては、実践の道を歩まないのです。

 

 表題の言葉を知ったときに、そうだ、友人は具体的に実践する気持ちになったときに、急激な変化があるに違いないと思ったのですが、どうなるんでしょうか。


心の余裕がないからこそ心の余裕を持つように心がける

2014-03-19 06:36:47 | 気づき

 私は、前の事務所を辞めたときには、あらかじめ算段があって辞めたわけではありません。 10年勤めたら辞めようと思っていたのですが、満8年で辞めました。 当然、当面の仕事があるわけではなく、母からも借金をして過ごすことになりました。

 結婚もして、その後、子供も生まれていたと思います。 そんなときに、学生時代のときの、級友のことを想い起こしたのです。 設計の演習課題で、いつも楽しいスケッチと提案をしていた級友のことです。

 学校に藤沢の住まいから、パブリカという名の車に乗って、通っていたのです。 あいつは経済的に余裕があるから、精神的にも余裕があるんだな、したがって面白いことが考えられるんだな、と思ったのです。

 よし、自分は現在、仕事もなく経済的にリッチではないけれども、精神的には余裕は持てるのではないかと考え、あえて、すぐ近くのテニスコートで、朝6時から9時ごろまで、汗びっしょりになって、テニスを始めたのです。 雨が降らない限り毎日3時間、3年間テニスをやりました。

 練習方法を一緒に行うようになった友人と考え、最後はシングルスの試合を行っていました。 したがって、家に帰っても仕事どころではなかったのですが、少なくとも心に余裕は持てるようになりました。 お金が入るべき仕事が、ないにもかかわらずです。

 連れ合いからは仕事もないのに、朝からテニスをやっていて、とそれなりの小言はいただいたのですが、幸いにしばらくしてから、順調に設計の仕事が作られていきました。

 生まれて初めて座禅(静功)を行うようになったときにも、必ずしも経済的には余裕はなかったのですが、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、はじめたのです。 結果的に、呼吸法が、座禅が、私に心の余裕を与えてくれました。

 私の親しくしている友人には、これまで色々と実践するように話をするのですが、心の余裕がないからとか、まだそのような気持ちにならないだとか、何かにつけて、実践しない理由を並べては、何もしないのです(ちょっぴりはしているのかもしれません)。 親しいからこそ、いいにくいことを、ずばずばいうのですが。


私たちには家族というぬくもりの場が必要なのかもしれない

2014-01-02 12:45:00 | 気づき

 72時間テレビという番組で、健康センターやファミレスやアスレチッククラブに密着して取材した映像を、深夜流れてきました。 同じ場所に3日間通しでカメラを利用者に向けて、取材するというものでした。

 船橋の健康センターでの取材で、家があってもその健康センターに来ては、家の代わりにして過ごすという方がいました。 その方は家族がおられない方でした。 そのほかに家がなく、そこを根城にして仕事に出かける方もいました。

 息子さんと二人暮しの母は、忙しくて息子さんとも話す時間がないので、センターに来て、黙々とパッチワークを編み創っていました。 誰かと話すわけでもなく、人が行きかうというだけにもかかわらず、そのぬくもりを感じるというのです。

 調布駅前のアスレチッククラブでは、もくもく歩き、ひたすらバールを持ち上げながら、ある種の無心状態の中で、疲れを癒しながらも、なおかつ仕事上の難問に答えを見つけ出したり、しているようなことを利用者が話しておりました。

 鳥取の砂丘での取材もありましたが、遠くから来られた若い女性が深夜の真っ暗闇の中で、何も考えず、疲れを癒し、無心の中から何かを掴むということも(結果的にではありますが)、話しておりました。

 お正月のテレビ番組としては、秀逸な報道でした。 改めて家族という見えないけれど、「ぬくもり」を感じさせるものに、感謝したいと思います。


困難があれば自分が試されているといつも感じていて

2013-12-12 07:16:38 | 気づき

 昨日は、タイトなスケジュールの中で一つの仕事が完了し、次なる仕事の解決しなければならないことに、いくつかの関係機関に問い合わせをし、それでも打合せ時間直前までに解決案が浮かびませんでした。

 ちょっとの時間を駅前のドトールでコーヒーを飲みながら、関係書類を眺めながら、どういう風に考えたらよいかを考えていました。 打合せ時間も近づいてきたとき、ふと違う角度から考え直してみました。 ふと浮かんだアイデアを、すぐに関係者に連絡し了解を得た上で、打合せに臨みました。

 私は昨日のことを思い出しながら、これまでの自分の生き方を反芻してみました。 いつも何らかの困難が、自分を待ち受けていましたが、そのときに考えてきたことは、自分がいつもその困難を乗り越えられるかどうかを、試されているのではないか、否、乗り越えられるからこそ試されていると感じてきました。

 自分が何らかの病になったときにも、自分の普段の行いに、何らかの問題があったので、それを問われているのだとも、感じてきました。

 どんなときでも後ろ向きにならず、いつも謙虚な態度で、明るく前向きに建設的に考えるように心がけなければいけないなあと、改めて感じさせる昨日の出来事でした。


ストレスは外に向かって発散させるものなのか

2013-11-17 07:57:40 | 気づき

 我が家では、連れ合いだけがストレスを、外に向かって発散させているようです。 私は一時期、ストレスを感じ寝汗をかきながら、1ヶ月間過ごしたことがあります。

 そんな経験を2度ほどしてからは、今では殆んどストレスを感じないで(感じないようにして)、生活をしてきております。

 そのような体験を通して、一度起こってしまったことを、くよくよ考えても決して事態は良くはならないことを感じました。 したがって、そんなときには、どのようにその事態を良くしようかと、考えることにしました。

 すると、体全体を覆っていた嫌なものが、体から抜けていき、意外と思わぬ考えに思い至ることが続くのです。 そんな経験から、ストレスを自分の生活サイクルの中で、吸収するようにする癖がついてきているからです。 

 毎日の生活のリズムの中で、自然と吸収してしまう生活習慣がついてしまったというべきでしょうか。 そのためのコツは、あらゆる出来事を楽しむということでしょうか。 

 私たちの毎日の生活は、必ずしも自分の思うようには行かないものですが、いつも明るく、前向きで、建設的な考え方でいれば、決して考え方は後ろ向きにはならず、したがってストレスは感じないものなのです(ストレスには感じないといったほうがよいかも知れませんが)。


何ごとも楽しむ感覚を持つほうが良い

2012-09-30 07:29:19 | 気づき

 私の友人と出会って、改めて考えさせられることがあります。 いつも何かを楽しもうとしている姿を、表しているのです。

  大学の級友の加藤三尋君と、研究室の先輩の宮下博さんです。 加藤君は、いつもどうやって皆に楽しんでもらおうかと、笑顔で企画し。その姿を素直に表現しています。

  宮下さんは、いつもニコニコして、今からでもいつでも楽しむぞというものを、顔や体全体で満ち溢れています。 勿論、自分だけでなく加藤君同様に、皆にどのように楽しんでもらおうかと、目もランランと輝いています。

  私も呼吸法を伴いながら静かに座禅を行なっていることが、楽しく感じているのですが、改めて友人たちの立ち振る舞いを省みて、何ごとも楽しむ感覚を持つほうが良いのではないかと、思うのです。

  経文の中には、否定的な言葉が並んでいるようですが、本来的な意味は、そのようなものはないのではないかと、感じてはいるのですが、私には相に合わない感じがします。

 ただ座っているだけが楽しいのですから、日中は動きがあるのですから、これ以上喜びはありません。 否定的な考え方を持つよりも、肯定的な考えを持って生活をしたほうが、より楽しくなるのではないかとも思うのですが。


自分の仕事を通して自身の人間性を高める

2010-12-22 09:50:15 | 気づき

 先日、私のところに逆腹式呼吸について、どのような呼吸法であるかを聞きにこられた知人が、「自分の仕事を通して座禅する」ということが大切ではないか、そのような考え方があっても良いのではないかと話してくれました。 それ以来、そのことが心に引っかかっていました。

 大学の級友が、自分の心情を述べていたときに、「私は自分の仕事を通して、自分自身の人間性を高めることが、信条です」と書いてある記述をみて、そんな考え方があるんだなあと思っていたのです。 そのことも私には、心ひかれるものがあったのです。

 そんなときに、知人から上記のようなことを聞き、改めて級友の言もあり考えてみました。

 私自身は座禅を始めてから、自然とあらゆる物事に対して、深く考えるようになったのですが、それまでは体を動かすのが好きで、動きの中でしか物事を考えることを、してこなかったきらいがあります。 そんな自分を省みますと、静かに物事を考える癖のある人はいいのですが、なかなか深く考えることは難しいかもしれません。

 そんなときに千葉に住む別の級友から、自分は今度私の近くで座禅(静功)をすることになった、との呼び掛けがあったのです。 私は自分の健康問題から気功のなかの静かな功(静功)を、行うようになっただけですが、暗闇の中で静かに深く呼吸をしながら、生まれて初めて座禅を行うようになって、物事を静かに深く考えるようになって行ったと思っています。

 座禅を行うようになってはじめて、知人の話や級友の話の意味が、ある程度分かるようになってきました。 その意味では、意識しなかった呼吸を意識し、吐く息を出来るだけ長く吐き、吐く息をイメージで体の中へ吐き、吐く息だけに意識を集中する呼吸法は、私を良い意味で変革してくれていると、感じております。

真の苦労人とは・欽ちゃんのお兄さんの話を聞いて

2010-11-10 08:43:38 | 気づき

 駅前のホテルで早朝の倫理法人会のモーニングセミナーに参加して、萩本欽一さんのお兄さんの(功さん)話を表題のテーマで、聞いてきました。 テレビ対談で話をされた先生の名前は忘れたということで、アナウンサーが対談者の先生にずいぶん苦労をされたんですねといったところ、その方がいう「真の苦労人」の条件として7つの条件を上げたとのこと。

 一つ目は貧乏したことがあること、二つ目は倒産の経験があること、三つ目は大きな借金を抱えたことがあること、四つ目は大病をしたことがあるか、五つ目は投獄されたことがあるか、六つ目は大きな失恋をしたことがあるか、七つ目は浪人したことがあるか を上げました。

 私は7つの条件の内、それなりの数が当てはまっていますが、それだけの経験をすることによって、人間の幅を広げるということでしょうか。 欽ちゃんのお兄さんは、商業j高校を中退して、お父さんの家業を手伝っていますので、浪人だけはしなかったといいます。 他の6つの条件は全て経験済みですし、現在進行中のものもあるとのこと。

 そのほか、70歳から人生は始まる、という話の中で、70歳になったときに、天からお呼びがかかったときには、留守ですと答えよ、80歳で声がかかったならば、未だ早いと答えよ、90歳でお呼びがあったときには、急がないでもよいでしょと答えよ、100歳で声がかかったときには、時期をみてボツボツ行きますよと答えなさい、という話をしてくれました。

 いつもの早朝の歩きは、時間を端折りましたが、朝から楽しい話に感謝致します。

苦しい時こそ頑張るから楽しむに変化する

2010-08-05 07:27:41 | 気づき

 私は子供のころから、父の影響でよく走っていました。 小学校3年のときには、上野不忍池の前に住んでいましたので、早朝から父は池の畔で大きな声で、詩吟を謡い、その声を聴きながら池の周りを、走っていました。 専修大学の駅伝チームのお世話を、父がしていたこともあり、チームが走っている姿を見たこともあります。

 中学の時には仲間と、王子から赤羽までよく走っていました。 自分ひとりでも飛鳥山を大きく周回するような形で、走ってもいました。 長距離を走るのは苦しいのですが、よく走っていました。

 高校では公立でありながら、バスケットボールでインターハイに行くような伝統校で、その部に入って練習でも、よく走っていました。 

 坂道になると誰でも苦しいのですが、私はみんなが苦しいともう時ほど、頑張って人以上に早く走るように、しておりました。

 社会に出てからは、高校時代に痛めた右ひざの不完全骨折部分に、走ると水がたまってしまいますので、走らなくなってしまいました。 走らなくなったのですが、勤めていた事務所をやめ、あえてゼロからのスタートを切りました。

 勿論、ゼロからのスタートですから、依頼される仕事はあるはずもありません。 そのときに、ふと大学時代の級友のことを思ったのです。 彼はいつも面白いデザインをしていたけど、どうしてあんな面白く楽しいデザインをするのだろうと。

 彼は大学には当時、トヨタのパブリカという車で通っていました。 そうか、彼は経済的に豊かだから、精神的に豊かになるのだな、精神的に豊かだから発想が豊かになり、面白いデザインができるのだと感じたのでした。

 私は独立したばかりで仕事も無く、経済的にも厳しかったのですが、あえて精神的に豊かになるために、早朝からテニスを始めました。 それまで、テニスは片腕偏重のスポーツで、近所でやっている方が、自分勝手な方が行なっていましたので、敬遠していたのですが。

 雨が降らない限り、朝の6時から9時過ぎまでプレイしていました。 たまたま自営で仕事をされていた方が、いたことも幸いでした。 練習方法も自分達で考え、最後はシングルの試合です。 終われば、くたくたで仕事どころではありませんでした。

 大学の級友の呼びかけで10数年前に始めた座禅(静功)。 毎日の1時間の座禅を通して、感じるのは、全ての行為を楽しむ感覚です。 楽しいことは勿論、普段の生活も苦しいことも、全てを楽しむ感覚が大切だということです。

 苦しいことをクリアする、できることは、ある意味ではノウハウなのです。 企業でも、米国の原子力発電所の事故で、その事故処理で日本の企業が、ノウハウ料として、その負担金の支払いを求められたことも、あるのです。

精子と卵子が最高の状態で受胎する仕組みがセクシャルなエクスタシーです

2010-02-27 09:33:50 | 気づき
 日本人の奥さんが、ご主人に言われて半信半疑ながら、二人でお腹の中の胎児に話しかけながら育て、4人の女の子が産まれ、4人が4人とも特別な教育をしたことがないのに、3年も4年も飛び級してしまったという本を読んだ時のこと。

 早速、自分でも実践しようと思ったものの、自分の家の外で誰かさんとの間で、子供をつくってもいつも一緒にいられず、期待する子供は育つわけではありません。 今の連れ合いと別れる以外は、実践は難しい。 それでは、少なくとも子づくり現在進行中の若い方に、話をしようと切り替えました。

 そんなことを思いながら、では胎児になる以前の受胎時には、どのような環境がよいのだろうかと考えました。 私達が何故セクシャルな行為の時に、エクスタシーを感じるのかと思ったのです。 多分、エクスタシーを感じた時の精子も卵子も、最高の状態になっているんではないかと考えました。

 自分だけ喜んではいけないのです。 相手にも喜んでもらい、お互いが同時に喜びを分かち合えるように、なっているのではないか。 それが自然の摂理ではないかと感じたのです。 ややもすると、男は自分だけ喜んでしまいがちです。

 むしろ、自分が様々な行為を通して、相手に喜んでもらい、それも最高な喜びをもたらすような、努力をする必要があるのです。 そのためには、ある程度の我慢も必要になってきます。

 そんなことを思いながら更に発展させて、男女のセクシャルな行為から、人間の喜びとは、自分が色々なことをして、周りの人に喜んでもらい、その喜ぶ姿を見てはじめて自分も喜ぶのが、本当の喜びではないかと感じたのです。