「Ⅲ-2 中世の典型ー2:鎌倉時代の寺院」 日本の木造建築工法の展開

2019-05-13 09:58:16 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー2」A4版7頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅲ-2 中世の典型-2:鎌倉時代の寺院・・・大仏様は継承されなかった

 木造架構をで強化する工法:貫工法は、中国から伝来した大仏様に始まり、その後普及する、とりわけ、一般庶民の建物に使われるのは近世以降である、と考えられています。

 しかし先に触れたように、きわめて計算しつくされ完成度が高い浄土寺 浄土堂の設計・施工から考えて、中国から導入された工法・技術が僅かな時間で花開いたとは考えられず、また実際、中国の建築史図集等にも、大仏様を想起させる寺院建築は見あたりません(住居には見られます。65頁参照)。

 これらのことから、先に触れたように、を用いて架構を固めることは、古来工人たちにとっては手慣れた工法であったにもかかわらず、中国伝来の工法を重視する古代寺院に於いては使われることがなく、それが平安末期(鎌倉初期)になり、古代的な権威の凋落ともあいまって、東大寺の再建という大事業に採用されたために脚光を浴びるようになった、と考えた方が無理がありません。 

 

 一般に、いわゆる大仏様貫工法のみが注目されますが、より重要な点は、その空間のつくりかたにある考えられます。

 すなわち、中国伝来の工法・技法にならった古代の寺院建築は、屋内の空間は架構そのものによって形づくられていましたが、すでに見たように、その架構方式を日本の環境に馴化する過程で生まれた二重屋根(野屋根)工法:桔木(はねぎ)の活用:の普及により、平安時代に入ると、架構と空間上部の意匠を分離して考える建物づくりが「常識」になってきます。  

 それに対し、東大寺再建事業で採られた建物づくりの方法:いわゆる大仏様は、この「常識」をくつがえし、単にを駆使しただけではなく、建物の原初的なつくりかた、すなわち、架構そのもので空間をつくるというつくりかたを復活してみせたのです。それは、日本の環境に適合し、なおかつ空間の構成のために、化粧だけが目的の付加的部材は一切必要としないつくりかたにほかなりません。 

 しかし、東大寺再建以後、つまり鎌倉時代、大仏様が全面的に寺院建築で継承されたわけではありません。鎌倉時代はそれ以前の時代に比べ多くの建造物遺構が現存していますが(1980年代で、重要文化財建造物が約333棟、そのうち寺院157、神社53、石塔等123、住居の遺構はない)、その大半は先に紹介した秋篠寺浄瑠璃寺と同じく、桔木を用いた二重屋根で、空間上部を化粧屋根・天井で覆い、化粧斗栱を付し、古代寺院を想起させる形体の建物です。

 たしかに東大寺再建の仕事を通じて世に広く示されたで架構を固める方法は、寺社建築でも長押に代り徐々に使われるようになりますが、大仏様の重要な特徴であった架構=空間とするつくりかた:空間を架構だけでつくりあげる方法を継承した事例は、皆無と言ってよいでしょう。 

 大仏様が全面的に継承されなかった理由は、一つには、架構=空間のつくりかたは、その実現に熟考を要するのに対して、化粧でいかようにも繕える野屋根によるつくりかた(いわば書割かきわりのつくりかた)は容易だったからと考えられます。以下に、鎌倉時代の特徴を示す寺院建築事例を挙げます。                   

 

 

大報恩寺 本堂 1227年(安貞元年)建立  所在 京都市上京区    

 

 全景 日本建築図集より

 平面図・断面 日本建築史図集より

 

   

  隅 部 見上げ    文化財建造物伝統技法集成より    内 陣          日本の美術198 鎌倉建築より

 大報恩寺は、京都市街に現存する最古の建造物。通称千本釈迦堂。密教系の寺院。

 一間四面堂に前庇を付加し、その四面にまた庇を設ける、という形を採っている。 四周庇部は、念仏を唱えながら巡るための場所という。部分的に引戸が使われている(後補?)。ここでの桔木(はねぎ)は、軒を支えるためのもの。

 東大寺再建後間もない頃の建設ではあるが、大仏様工法の影響は見られない。 

 下の断面図の頭貫(図の赤色部分)の継手および根太(黄色部分)の継手は、原理的には目違い付き相欠き(下図継手詳細)。 これらは、当時、常用される方法であったと考えられる。 赤丸部は、主たる梁上の小屋束を挟んで取付いている二重梁。断面図の次に分解図。束柱を優先。見えがかりを気にしないで済む野屋根ゆえにできる方策。

   桁行断面図

梁行断面図

  

 全般にの使用は見られない。柱~柱をつないで大引が入っているが、足固の意識は感じられない。組入れ天井上の屋根がさらに二重になっている。その理由は不詳。

 

 

                        根太継手大引上か。 目違い付き相欠き栓打ち

 

 

棟木継手は、下側の棟木肘木束柱上に設けることで、継ぎ位置を直上:芯に置ける。これは、古来の方法。 は、束柱の箇所だけ、を挟み、他の箇所では、片側だけに通る。を介しての継手と考えることができる。

桁行断面図梁行断面図継手詳細は、文化財建造物伝統技法集成より

 

 

蓮華王院本堂三十三間堂 1266年(文永3年)再建(創建1164年) 所在 京都市東山区

 三十三間四面の堂 二重屋根・桔木を駆使した典型的な例。 繋梁を挿して取付ける、大引き足固め扱いにするなど、大仏様の技法が部分的に使われている。

  平面図 

 

   桁行断面図 

 

梁行断面図

梁行断面図 正門部

  庇部(外陣)

 

 南東からの外観                 図面・写真:日本建築史基礎資料集成五仏堂Ⅱより

 

(「Ⅲ-2 大善寺」に続きます。)


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「Ⅲ-2 大善寺 元興寺 明王院」

2019-05-13 09:56:18 | 日本の木造建築工法の展開

(「Ⅲ-2 三十三間堂」より続きます。)

 

大善寺(だいぜんじ)本堂 1286年(弘安9年)建立  所在 山梨県 甲州市 勝沼

 平面図

桁行・梁行断面図 建築史基礎資料集成七仏堂Ⅳより

 床組伏図文化財建造物伝統技法集成 より)

 密教:真言宗の寺院。 鎌倉時代には、畿内だけではなく、全国各地域に密教系、禅宗系の寺院が建立されている。概して西国に多いが、大善寺は東国進出の一例。

 基本的には、二重屋根でつくる平安期に多いいわゆる和様の建築であるが、床まわりに足固貫を入れてある点に、大仏様の影響がうかがわれる。四周の軸部の横材は、足固貫長押頭貫で構成。 ただ、長押は床位置の切目長押(きりめなげし)は四周全部、内法位置の内法長押は開口部上のみで、古代の方式にならっている(56頁、新薬師寺本堂参照)。  なお、足固貫は、外周だけ四周に入れ、内部では梁行方向だけ入れ、桁行は根太が代行している(上図床組伏図参照)。

 鎌倉時代の仏堂には、内法長押を用いず、頭貫の下に飛貫を通す大仏様の方式にならう事例もあるが、数は少ない(次 元興寺参照)。

 

 

元興寺(がんごうじ) 極楽坊(ごくらくぼう) 本堂および禅室 1244年(寛元2年)再建   所在 奈良市 中院町

  

外観     日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より      詳細 長押に代り飛貫を仕込む。日本の美術198 鎌倉建築 より

 飛鳥時代に蘇我氏により飛鳥に創立、平城京遷都に際し移設された寺院。 後に僧房を残し消滅。 鎌倉時代初期、本堂禅室に分離され、さらに1244年(寛元2年)現状の姿に改修。 長押に代り飛貫を入れ、頭貫の端部は、大仏様風。

  

左:禅室 右:本堂 平面図  日本建築史図集より


 

明王院(みょうおういん)本堂 1321年(元応3年)建立  所在 広島県福山市草戸町

 真言宗の寺院。 頭貫の一段下に飛貫を入れ、長押はない。足固貫も採用。  大仏様の技法と、禅宗様の意匠が見られる。

 

 桁行断面図

梁行断面図

 

 平面図                     

 

 

 外観 頭貫の下に見える横材は飛貫

図・写真は、日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より 

 

 鎌倉時代の寺院建築では、大仏様の技法は局部的に用いられるが、架構の造成をもって空間とするつくりかたは、まったくみられない。

 

 

 以上のいわゆる和様の寺院建築のほかに、鎌倉時代には、中国から移入されたとしか考えられない建築様式があります。禅宗とともに入ってきたいわゆる禅宗様の建築です。 

 禅宗様の建築は、その装飾的な形式に特徴があり、明らかにわが国の建築にはなかった形です。ただ、禅宗様の建築も基本的には貫工法ですが、工法・技法の面で他の建物に大きな影響を与えたわけではなく、禅宗寺院にのみ用いられたと言ってよいでしょう。

 なお、現存する禅宗様の建物で鎌倉時代につくられたものは少なく、禅宗様の代表とされる円覚寺舎利殿も15世紀初め:室町期の建設です。 

 禅宗様の建築は大仏様とはちがい、下の写真のように、中国にそのモデルが存在します。   

  

 浙江省 延福寺大殿 1324~1327   図像中国建築史より    円覚寺 舎利殿 15世紀前半      日本建築史図集より

 

 禅宗が武士階級に好まれた結果、禅宗様の寺院は鎌倉幕府の所在地である鎌倉だけではなく、京都にも建てられます。そのうち、京都五山(きょうとござん)と呼ばれた臨済宗天竜寺相国寺建仁寺万寿寺そして東福寺には、壮大な伽藍が建立されます。下はその一つ京都の南部、宇治の近くにある東福寺三門禅堂の外観および三門断面図です。  

  三門正面

   禅堂          写真は日本建築史図集より

 断面図         文化財建造物伝統技法集成より

 

 三門の架構は大仏様に類似しているが、に割裂が生じていることが解体修理時に判明した。これは、浄土建寺 浄土堂、東大寺 南大門の架構に比べ、挿肘木の間隔が近接しているためである(69頁~86頁を比較参照)。

 各層の小屋組を二重にしていることから見て、挿肘木も、構造よりも意匠に重点が置かれ、それゆえ、割裂の危険性への配慮が欠けたものと考えられる。                                                                                                                                      


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