十数年前の引越しのときから放置してあった物品の中に、「筑波通信」の原稿が埋まっていました。
「筑波通信」とは、1980年代、大学教員をしていた頃、ほぼ毎月、私の思っていること、考えていることを、主に卒業生諸兄姉や懇意にしていた知人諸氏に「勝手に」送って読んでいただいていた「通信」です。
体裁は、B5判・左綴じ見開き10ページ前後の小冊子。
まだパソコン、ワープロの普及していなかった時代なので、和文タイプライターで原稿を書いていました(このタイプライターの機械は、今も健在です)。
原稿は、ほぼ5年分ほどありますから、60篇はあります(その後、ハガキによる「筑波短信」をしばらく続けています)。
各回の内容・趣旨は、今このブログで書いていることと大差ありません。と言うより、このブログの前身、あるいは予行演習であった、と言ってよいかもしれません。
あらためて読んでみて、自分で言うのも何ですが、今の文章よりも分りやすい。多分、その話を書くことになったいきさつ・経緯なども端折らずに書いているからではないか、と思います。
40年近く前なのに、今もほとんど同じこと言っている・・・!この間の進歩がない・・・?
なぜ、こんなことを始めたのか?
その初回の「発行の辞」という一文に、動機の「解説」がありました。今回の末尾に載せます。
そこで、各回の内容を、「復刻・筑波通信」として、このブログで、随時、順番に紹介させていだこう、と考えるに至りました。それは、いわば、私の「軌跡」と言ってよいでしょう。
これまでブログで書いてきたことと重複することもあると思いますがご容赦ください。
PDF にして載せようか、とも思いましたが、誤字等の校正の意味も含め、あらためて全文打ち直すことにします。
誤字の修正、および不要と思われる個所を省く等以外、原文には手を付けません(段落は読みやすいように変えることがあります)。
打ち直しに時間がかかりますので、開始は三月からになる、と思います。
*************************************************************************************************************************
「筑波通信」発行の辞 (1981年4月6日 記)
大学の教師として、建築をはじめとする我々が具体的に住んでいる居住空間のありかたについて、たとえ信ずることを語ったからといって、それでほんとに十分なことをしているといえるのだろうか。
学生諸君は世のなかへでて、たとえ「ありかた」など説かれたところで現実はそうはいかない、それが現実だ、自らの生活を維持するために「つくる」のだ。おとぎばなしをいったって始まらない、と思っても、少しも不思議でない。
その一方で、そうやってつくられる環境のなかで、自分たちと何の関係もないところで有無を言わせずつくられる環境のなかで、まさに生活せざるを得ない人たちにも会ってきた。その人たちの、まさに「やり場のない」「やるせない」重い思いも見せられてきた。
そういうとき、教師の私が、それこそこの「現実」に対していわば目をつぶり、信ずるところを語ったところで、ほんとにそれでいいのだろうか。それだけでいいのだろうか。
「つくる」人と「つくられる」人の間の接点は、ほんとの意味の接点:共通の世界は、いまやそれをも求めること自体、おとぎばなしなのだろうか。
筑波にはや五年、都会の雑踏から離れていると、なおさらそう思うのかもしれない。
そしてたぶん、最近また中野・江原の人たちの、あの絶えまなく熱くそして冷静な活動に触れ(*1)、そしてあるいはまた、あの小金井の人たちの、子どもたちへのあの透明な熱意にくらべ(*2)、ぬるま湯につかったような大学教師のぶざまなすがたがまる見えになってきたからなのかもしれない。
そしてあるいはたぶん、卒業生A君の、「生きているか」と訊ねるような、そんな彼の息吹きの聞こえるような定期通信が刺激となっているのかもしれない。
そしてまた、ことし卒業していったB君の、「なにかしなければ、だめです」という分れぎわの一言が「とどめ」になったのかもしれない。
*1 東京・中野区の江原にある小学校の改築にあたり、地域・校区住民の意向を重視することを区に要望した「運動」。
この「運動」は、結果として中野区独自の「教育委員準公選制」の実現に至った。
*2 東京・小金井など多摩地域の、いわゆる知的障碍のある子どもを抱える親たちが、子どもたちの「生涯を支える施設」設立を願って起こした運動。
この運動は知的障碍者支援施設「そだち園」として結実した。
いずれにしろ、私のなかに、安易に流されてゆかないための支えとして、何かをしなければならない、という気が沸々とわいてきたのである。しかし何ができるか。
とりあえず、ばかげたことなのかもしれず、単に自己満足にすぎないのかもしれないが、毎月一度のつもりで、「つくる」人と「つくられる」人の接点であるはずの身辺のことどもをとりあげ、私見を述べさせてもらい、共通の話題となることを願いつつ、いままで私の会ってきた人たちに、まったく一方的にお送りすること、それならばできそうだ、もしそれで、はなれていても話ができるなら、そんなうれしいことはない。
そんなこんなで、これから息の続く限り、押しつけがましくもお送りさせていただきます。ご笑覧ください。そして、ご意見があれば、是非お聞かせください。
下山 眞司
「筑波通信」とは、1980年代、大学教員をしていた頃、ほぼ毎月、私の思っていること、考えていることを、主に卒業生諸兄姉や懇意にしていた知人諸氏に「勝手に」送って読んでいただいていた「通信」です。
体裁は、B5判・左綴じ見開き10ページ前後の小冊子。
まだパソコン、ワープロの普及していなかった時代なので、和文タイプライターで原稿を書いていました(このタイプライターの機械は、今も健在です)。
原稿は、ほぼ5年分ほどありますから、60篇はあります(その後、ハガキによる「筑波短信」をしばらく続けています)。
各回の内容・趣旨は、今このブログで書いていることと大差ありません。と言うより、このブログの前身、あるいは予行演習であった、と言ってよいかもしれません。
あらためて読んでみて、自分で言うのも何ですが、今の文章よりも分りやすい。多分、その話を書くことになったいきさつ・経緯なども端折らずに書いているからではないか、と思います。
40年近く前なのに、今もほとんど同じこと言っている・・・!この間の進歩がない・・・?
なぜ、こんなことを始めたのか?
その初回の「発行の辞」という一文に、動機の「解説」がありました。今回の末尾に載せます。
そこで、各回の内容を、「復刻・筑波通信」として、このブログで、随時、順番に紹介させていだこう、と考えるに至りました。それは、いわば、私の「軌跡」と言ってよいでしょう。
これまでブログで書いてきたことと重複することもあると思いますがご容赦ください。
PDF にして載せようか、とも思いましたが、誤字等の校正の意味も含め、あらためて全文打ち直すことにします。
誤字の修正、および不要と思われる個所を省く等以外、原文には手を付けません(段落は読みやすいように変えることがあります)。
打ち直しに時間がかかりますので、開始は三月からになる、と思います。
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「筑波通信」発行の辞 (1981年4月6日 記)
大学の教師として、建築をはじめとする我々が具体的に住んでいる居住空間のありかたについて、たとえ信ずることを語ったからといって、それでほんとに十分なことをしているといえるのだろうか。
学生諸君は世のなかへでて、たとえ「ありかた」など説かれたところで現実はそうはいかない、それが現実だ、自らの生活を維持するために「つくる」のだ。おとぎばなしをいったって始まらない、と思っても、少しも不思議でない。
その一方で、そうやってつくられる環境のなかで、自分たちと何の関係もないところで有無を言わせずつくられる環境のなかで、まさに生活せざるを得ない人たちにも会ってきた。その人たちの、まさに「やり場のない」「やるせない」重い思いも見せられてきた。
そういうとき、教師の私が、それこそこの「現実」に対していわば目をつぶり、信ずるところを語ったところで、ほんとにそれでいいのだろうか。それだけでいいのだろうか。
「つくる」人と「つくられる」人の間の接点は、ほんとの意味の接点:共通の世界は、いまやそれをも求めること自体、おとぎばなしなのだろうか。
筑波にはや五年、都会の雑踏から離れていると、なおさらそう思うのかもしれない。
そしてたぶん、最近また中野・江原の人たちの、あの絶えまなく熱くそして冷静な活動に触れ(*1)、そしてあるいはまた、あの小金井の人たちの、子どもたちへのあの透明な熱意にくらべ(*2)、ぬるま湯につかったような大学教師のぶざまなすがたがまる見えになってきたからなのかもしれない。
そしてあるいはたぶん、卒業生A君の、「生きているか」と訊ねるような、そんな彼の息吹きの聞こえるような定期通信が刺激となっているのかもしれない。
そしてまた、ことし卒業していったB君の、「なにかしなければ、だめです」という分れぎわの一言が「とどめ」になったのかもしれない。
*1 東京・中野区の江原にある小学校の改築にあたり、地域・校区住民の意向を重視することを区に要望した「運動」。
この「運動」は、結果として中野区独自の「教育委員準公選制」の実現に至った。
*2 東京・小金井など多摩地域の、いわゆる知的障碍のある子どもを抱える親たちが、子どもたちの「生涯を支える施設」設立を願って起こした運動。
この運動は知的障碍者支援施設「そだち園」として結実した。
いずれにしろ、私のなかに、安易に流されてゆかないための支えとして、何かをしなければならない、という気が沸々とわいてきたのである。しかし何ができるか。
とりあえず、ばかげたことなのかもしれず、単に自己満足にすぎないのかもしれないが、毎月一度のつもりで、「つくる」人と「つくられる」人の接点であるはずの身辺のことどもをとりあげ、私見を述べさせてもらい、共通の話題となることを願いつつ、いままで私の会ってきた人たちに、まったく一方的にお送りすること、それならばできそうだ、もしそれで、はなれていても話ができるなら、そんなうれしいことはない。
そんなこんなで、これから息の続く限り、押しつけがましくもお送りさせていただきます。ご笑覧ください。そして、ご意見があれば、是非お聞かせください。
下山 眞司