信州・松代「横田家」-1・・・・真田藩士の住まい

2009-08-22 11:03:15 | 日本の建築技術
[註記追加 19.46]

信州・松代は、現在は長野市松代になっていますが、それは市町村合併に伴うもの。
上掲の航空写真(google earth より)で分るように、善光寺の門前としての長野市街からは、千曲川を隔て東南20㎞ほどのところに位置します。東から南、西南にかけて山に囲まれ、その山系から千曲川へそそぐ河川によってつくられた低地です。東南方向へ山を越えると、中山道・「上田」に出ます(現在も街道があります)。

この千曲川周辺一帯が「川中島」。「上杉氏」と「武田氏」との合戦の場。「松代」は、その「武田氏」の居城「海津城」のつくられた場所、後に、17世紀初め、「真田(さなだ)氏」の居城となり、「松代城」となり、以後、城下町が形成されます。
明治の廃藩置県により、松代は「松代県」になりますが、後に「長野県」に併合、中心は善光寺門前町の「長野」に移り、県庁も鉄道も「長野」になります。
しかし、その結果、「松代」には「近代化」の「開発」の波は押し寄せず、そのため「城下町」の姿を後世に残すことになります。

「横田家」は、「真田家」の家臣。奥会津・横田の出ゆえに「横田」を姓としたと伝えられています。
「旧・横田家住宅」は、「横田家」の七代が1794年:寛政6年に建てたもので(「墨書」があった)、敷地も当時の大きさを維持し、「表門」「隠居屋」「土蔵」もすべてその当時に建てられたようです。
このように、屋敷全体にわたり当初の様子を維持している武家住居の事例は少ないようです。
なお、敷地の大きさは約3600㎡あり、その北半分を屋敷地にあて、南半分は畑地としていました。

   註 「旧・横田家住宅」と称するのは、
      現在は「横田家」はここに居住せず、長野市に土地家屋とも
      寄贈されているため。

「松代」は、第二次大戦中に、「大本営」の地下壕が設けられたこと、そしてまた1965年:昭和40年から数年にわたって、最大震度5、最大M5.4 の地震が頻発したことでも知られています(有感地震だけでも数千回あったようです)。
そして、その地震を機に、旧大本営地下壕内には「精密地震観測センター」が設けられました。

   註 「精密地震観測センター」の設置は、「松代地震」の前だ、
      とのご指摘がありました。
      むしろ、「歪計」の設置が済んだら、それを験すかのように、
      地震が頻発したのだそうです。
                      [註記追加 19.46] 

上掲の図版は、松代地域の航空写真、これは上方が北です。
次は「横田家」の屋敷全図で、これは右方が北になります。
次は「横田家」の「当初復元平面図」と「修理前平面図」で、これは下方が北になります(このようにしたのは、屋敷前の道路から建屋に向う動きに合わせるためです)。首をひねりながらご覧ください。

写真や断面図などは次回にまわし、今回は「配置図」「平面図」だけ紹介します。それには理由があります。
見ての通り、この建物は、普通見慣れた農家や武士の住居とは、大分趣(おもむき)が異なります。
「修理前」の複雑な形は、「当初」の建屋に増改築を施した結果ですが(解体調査の結果、建てられた直後から、かなりの頻度で改造が行われたことが分っています)、「当初」の建屋も相当に「異型」です。
屋根は茅葺で、しかもほんの一部に、飛び出した形で二階があります。
いったい全体がどのような形体になっていたか、架構ともども想像してみてください。
そしてまた、式台から「客」として訪れた場面、住まいの主としての日常の場面で、空間がどのように捉えられるのか、想像してみてください。

間取りは何の変哲もなく見えます。しかし、そうではないのです。
初めて尋ねたとき、私は、その空間構成の妙に感心したことを覚えています。

なお、「松代頻発地震」による建屋の被害はありません。

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