復刻・「筑波通信」―5:「無名」考・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?

2016-06-14 17:30:09 | 復刻・筑波通信

ベニシジミ

筑波通信 -5 : 「無名」考・・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?     1981年8月1日 刊 の復刻

   以下の内容と同趣旨の記事を以前に載せた記憶があります。重複ご容赦ください。

今回は、山について書かれた文章をもとに話を進めようと思う。
下に載せるのは、臼井吉見のエッセイ「幼き日の山やま」の一節である。
この一文を読んで、私が何を言おうとしているか、察しのついた方もおられるのではないか、と思う。

この文章には、私たちの「もの」への対しかた、「もの」の見かた、知りかた・・、の根本的な問題が、「思い出」というかたちでさりげなく、しかし見事に言い表されていると思う。
私たちは今、「もの」について「知る」ということは、その「『もの』の名前を知ること」に等値であるかのように見なして済ませてしまうことが多分にありはしないだろうか。
あるいはまた、「目の前に在る」というだけで、つまり、「目に見えている」というだけで、それらの「全てが均質・等質・等価に見えている・・・」、と思い込んでいないだろうか。
「存在するもの」を全て対象化してみるいわゆる「自然科学的なものの見かた」が隆盛を極め、当たり前になってからこのかた、「もの」の全てが等値に見え、それゆえ、その「ものの名前」もまた、それら等値の「もの」の《単なる区分上の符号》になってしまったような気配さえ感じられる。
いったい、私たちにとって、「あることを知る」ということ、「知っている」ということ、あるいは、「あるものの『名前』を知る」ということ、「知っている」ということ、より根本的には、「あるものに『名前』をつける」ということ、これらは本来どういうことであったのか、いろいろな知識や情報が数限りなく溢れている今、一度落ち着いて考えてみてもよいのではないか、と思い、この文章を話題にしようと思ったのである。

この文章の中の番頭と中年の客のやりとりが書かれているが、このようなやりとりが何故生まれたのだろうか。
番頭は、「木曽の御岳」と呼ばれる山が在ることは知っているようだ。しかし、毎日自分の目の前に見えている山やまのなかの一画にそれが在るなどということは全く「知らない」。ここで「知らない」というのは、そういう呼び名の山が在るということは、何となく知ってはいるが、その呼び名に対応する山については具体的には知らない、ということである。おそらく、そういえば、何処かで聞いたことが在りますね、という程度ではなかろうか。
これに対して、中年の客は、毎日見ていて(見ているはずで)しかも「あんなに有名な山」を、どうして知らないのだ、と不思議に思ったのである。そこには、毎日目の前にしているもの、しかもそれが世に有名なものであるならばなおさら、常にそれを目の前にしている人びとは、必ずそれを(直ちにそれを指し示せるぐらいに)知っていなければならない、知っていて当たり前だ、という考えが、彼の頭のどこかに潜んでいる。
だから「どこかよそから来たのかね」という言葉の裏には、「そんなことも知らないの!」という番頭の「無知」に対する非難の響きが、明らかに覗いている。文中にもあるが、今、私たちの大方は、この中年の客に右同じだろう。
しかし、この「無知」は、はたして、そんな単純に非難したり笑いものにしたりすることのできる類のものなのだろうか。
この中年の客:私たち大方の代表:の「知っていること」というのは、いったい何なのか?何故彼は木曽の御岳を知っているのか?彼がその「実物」を知らないことは、彼がそれを指示できないことで明らかだ。ところが、御岳について、いろいろと「知っている」ようだ。具体的に目の前にしたことのないものの具体的な胃兪について結構「知っている」ようだ。しかし残念ながら、それが現実に目の前に見えていても(現にそうなのだが)「あれ」を「これ」と比定する手段は、自らのものとして持ちあわせていない。人に訊ねるか地図を見ることになる。もちろん「勘」によって、これはこれだ、と思うことはあるが、それは、あくまでも、「これに違いない」である。
そうなると、この中年の客が「知っていること」というのは、実に不可思議なものだ、という気がしてこないだろうか。

中年の客が、木曽の御岳の「名」を知っていること、木曽の御岳について「知っていること」、それは多分、彼が何処かで仕入れた《知識》と思われる。本で読んだのかもしれないし、人から聞いたのかもしれない。あるいは、学校で「教えられた」のかもしれない。いずれにしろ、彼は、中部地方の一画、信州の南の方に「木曽の御岳」という山が在り、それは高さは〇〇ぐらいの際立つ山で、信仰の対象にもなっている・・・といったこと:《知識》:を持っていたに違いない。その《知識》を持った彼が、その先何を思っていたかは分らない。そんなに有名な山なら、一度は目にしてみたいと思っていたかもしれないし、ことによると、登ってみたいと思っていたかもしれない。ともあれ、おそらく彼は、「木曽の御岳」の他にも、こういった《知識》を数多く仕入れてあるに違いない。だから、おそらく、何処へ行っても、これと同じようなことが起きただろう。


シロ ツメクサ

そして今、私たちもまたこの中年の客同様だから、たとえば、「あれが槍」「こっちが穂高」・・・といった具合に、私たちが「知っている名前が」具体的に一つ一つその「対象」をあてがわれてゆくと、何だか長年の宿題が一つ一つ解けてゆくような快感が味わえ、何となく何かが分ったような《満足な気分》となり、《感慨》にふけったりすることになるわけだ。
けれども、「あるもの」の「名前」を知っている、何の名前であるかも知っている、それがどんなものなのかも知っている。しかし実物は知らない。「実物に拠って知った」のではない。では、そのとき、その「知っている」というのは何なのか。そしてまた、それに実物があてがわれて「分った気分になった」とき、いったい何が「分った」のだろうか。単なる《カード合せの快感》に過ぎなければ幸いである。
今、私たちの頭の中には、見たこともないものも含め、おびただしい数の「ものの名前」が詰め込まれている。それは何なのだろうか。何のために詰め込まれたのだろうか。それは、自分の「知識」の世界が広くなっているということなのだろうか。そのために詰め込んでいるのだろうか。それは、「自分の世界が広くなった」ということと同じだろうか。もちろんなかにはそれが等値の人もいるかもしれない。しかしそのときでさえ、その人にとって、その「詰め込むべき知識」の選別・選択の拠りどころは、いったい何なのだろう。そして多くの場合、もしも目の前に現れてきたものが、どこか際立ったものでもあればまだしも、何の変哲もない、それこそそれまで「名も知らないもの」であったとき、彼にの目には何の「気も引かないもの」としてしか映らないであろうから、彼はそれを《単なる雑物》の一として見過ごしてゆくだろう。
けだし、この中年の客的私たちの多くは、「綺麗な花を付ける」草木には(それが「際立って見えるということなのだが)、それなりの名前を付け、あるいはそれを見たことがなくてもその名前を知り、知ろうとし、そうでないものは、その他大勢、雑物・雑草として、「名もなきもの」として(ときには、あたかも「存在しないもの」の如くに)扱い済ませてしまうのだ。
単に「名前」がない、「名前」を知らないというだけで、そのときそれらは、たとえ彼らの目の前に在ったとしても、彼らの目に映らないのである。彼は何を見ていたのだろうか。彼の眼には、「知識」という「眼鏡」がかかっている
のである。
一言で言えば、彼の中年の客すなわち我が近代人代表のこれらの「知識」は、いわゆる「教養」なのだ。おそらく彼は、「専門家」ではないにしても、いろいろなものごとについて、それは「かくかくしかじかのものなり」という(誰かがつくってくれた)「知識」を、どこかで身に着けたのである。しかしそれは、あくまでも《吊るし》の「知識」を知識として仕入れたのであって、それが日ごろの自分の生活とどのように結びついているかなどということとは、全く別の話として、ただ自分がそういう諸々の「知識のかたまり」と結びついているということ自体に《意義を見出している》のだろう。《そういう博識こそが自分の人格を向上させる》のだ、何かそういう気分さえ感じているに違いない。
今、私たちの周りを見渡したとき、こういう「物識り顔」「訳知り顔」の人たちが幅をきかし、あの番頭のような《無教養な人びと》が小さくなっている、ならざるを得ない、そんな状景があちこちに見えてこないだろうか。このエッセイのエピソードは大正中ごろの話である。この中年の《教養人》と《無教養》な番頭の話の食い違いのような例は、今よりもずっと多かったかもしれない。そして《無教養》な番頭の方は、少しも《無教養》など気にもかけず、気の毒そうな顔つきの裏側で、「変な客だ、何で私が木曽の御岳を知ってなけりゃいけないんだい」などと思っていたに違いない。
しかし、今だったら、番頭も、それがサービスというものだと思って、訊かれもしないのに、観光バスのガイドの如くに、山やまの名前を得々と説明しだすに違いない。
このエピソードが大正の中ごろだというのが象徴的である。
おそらく、その頃から、こういう中年の客的人間が増えだしたのではなかろうか。自らの手で獲得したものではなく何処かで仕入れた諸々の「吊るしの知識」が、人びと(特に「教養あること」を誇りに思う人びと)の頭の中を占拠しだしたのである。
ことによると、今はもっと激しくなっているかもしれない。
そして、そういう意味で「無教養な」人びとは、由無く肩身の狭い思いを強いられるである。

では、彼の番頭は、何故《あの有名な》御岳を、それが目の前に在るにもかかわらず、指し示すことができなかったのか。
その答は、既に先の一文中に書かれている。
すなわち、「生まれたときから里近くの山に特別に深くなじんでいるので、奥の高い山などにはとんと無関心で過ごしてしまう」からなのだ。
それは何故なのか。そこにははっきりそうだとは書かれてはいないが、それは、里近くの山やまが、彼ら(その地に暮す人びと)の生活の「範囲:領域」として取り込まれたもので在ったからなのだ。そこは、彼らの生活:暮しと切っても切れない関係にある。単なる景色・景観ではないのである。
故に、目の前にするもの全ては決して等質ではなく、その内の彼らの生活・くらしに具体的に関わるものが、先ず浮き上がって見えてくるのである。しかもそれらは、「教養ある人びと」の目に見えている以上に、彼らの生活なりに、より細やかに、彼らには見えているはずだ。
そしておそらく、「よそ者」でも、中年の客的ではなく、番頭と同様の生活基盤を持つ人たちには、それが見えるだろう。そういう山やま:「もの」には、彼らに拠って、それなりの「名前」が付けられたのである。そのとき、狭間に見える遠くの高山などは、文中にある如く、どこか遠くの彼らには何の関りもない山の一つに過ぎないのであった。もちろん、それがもっと近くにあって、どうしても「日常気になってしょうがない」山であったならば、たとえそれが直接的に彼らの生活・暮しの領域に関りがなくても、それなりの「気遣い」が見られるだろう。例えば、<strong>諏訪</strong>でならば、<strong>蓼科山</strong>や八ヶ岳などは決して放って置かれたり、」ましてやその名前も知らず、「どれでしょうね」などということはあり得ない(実際それらは、諏訪(大社)と密な関係にある)。それに比べれば、木曽の御岳は、彼らとの関りで言えば「遠い」山なのである。早い話、御岳という名の山は各地に在る。それぞれの地域の人びとが、そのように「尊称」をもって呼んだのである。「木曽の」とわざわざことわるようになったのは、各地に御岳が在るということが分ってきたから、その区別が必要になってからのことである。彼の番頭にとって、いくら目の前に見えていようとも、それは「地元の」山でなかった、ということなのだ。

つまり、彼の番頭に代表されるその地に暮す人びとが日常的に名付けて呼んでいるものは、彼らのその土地での生活の都合上「知っている」ものに限られ、従ってそれは、決して「全国的に知られるようになる」とは思えない類のものが大半を占め、それゆえまた、この中年の客が興味を示すような類のものでも決してないのである。番頭が木曽の御岳(の名)を知っていたのも、たまたま泊り客からでも聞いていたことに過ぎず、せいぜい、そういう山があるんだってさ・・、という程度の、言わば、彼にとっては《余計な知識》でしかなかったのだ。実際、その地で長く暮してきた人たちのなかには、木曽の御岳も富士山も、そしておそらく東京さえも知らないで生きてきた人たちがいたに違いないのである。そういう《知識》に対しては「無知」であっても生きられたのである。
すなわち、中年の客と番頭では、その「知っていることのなかみ」が明らかに異なるのだ。だから、番頭に代表される「地元に根付いた生活をしてきた人たちの『知識』」は、いわゆる「教養」「教養的知識」などではないのである。「こういう知識」を、この現代において、いったい何と呼んだらよいのだろうか。

今私たちが「教養的知識」として得ている立えば山の名前にしたところで、私たちは、その名前によって、その名前の付いたものについての《ある程度詳細な事実》をも思い浮かべ、「名前」=「もの」のように見なして当たり前のようになってしまっているわけだが、実は、その「名前」は、私たちによって名付けられたわけではないこと、また《ある程度詳細な事実》というのも、私たちが直接それに「触れて」得たものではないこと、従って、「もの」と私たちの「知識」との間には一つ「回路」が挟まっているのだ、ということに、今こそ改めて気が付かなければならないのではないだろうか。その「回路」が問題なのだ。
そしてまた、実は、多くの場合、例えば山の名前は、彼の番頭のような暮しかたをしてきた人びと:《無教養》《無知》な人びとに拠って名付けられてきたものなのだ、ということにも気が付かなければなるまい。同じく、それらについての詳細な知識の「根」も、彼らが「暮しのなかで獲得した知識」にあることにも気が付かなければならない。
このことは、国土地理院の地図に記されている山などの地名は、それらについてのその地元の人びとの呼び名が取集され、そのなかから選ばれたということ、たとえば、ある山の名は、測量チームが、その山のどちらの側から最初に近付いたかにより(たとえば飛騨側か信濃側か)、最初に近付いた側で呼ばれていた名が与えられることが多かった、ということなどから明らかだ。つまり、一つの山に対して、「幾つもの呼び名」があったこと:「幾つかの地元」があった、ということだ(このような「地元の呼称」が無視されるときには、エヴェレスト、K2などのように、最初の測量者の名前や、測量上の符号などで済まされる)。
しかし、このような《近代的》命名は、地元の人びとの心からはかけ離れてしまう。何故なら、地元の人びとの呼称に備わっているはずの深い「根」「地下茎」をきれいさっぱり切り落として、単なる「符号」と化してしまうからである。そうなった後は、地元以外では、名前は「単なる名前」としてのみ通用するようになってしまう。
昭和初期以降、新興住宅地に、「語のにおわすイメージ」や「語のひびきだ」けで呼称が付けられることが増えたのもこのことと関係あるだろう。たとえば、自由ヶ丘、桜丘、桜台、希望ヶ丘・・・の類である。実際に「その土地」からイメージが出てくるのではなく、名前が先行するのである。
そして逆に、こういういわば「文学的」イメージを切り捨て「物理的」イメージに徹すると、最近の住居表示のごとき「中央〇丁目」などというのになる。

以上で明らかなように、彼の番頭(に代表される人びと)には、「目の前に在るもの」は、彼らの「生活体系」のなかで、その生活との関りの遠近あるいは濃淡の度合いに応じて整えられ位置付けられ、彼らの「知恵」となってゆくのに対し、中年の客(に代表される人びと)においては、《彼らの生活自体とは無関係な何らかの「基準・物差し」》によって選択される《「知識」体系》のなかに位置づけられてゆくのである。
おそらく、この違いは、重要かつ決定的な違いのはずである。端的に言えば、近代的教養人にとって、その日常は、取るに足らない、下らないものとの鬱陶しい付き合いに他なるまい。何故なら、彼らにとって大事なのは、自分の仕入れた《高尚な》「知識・教養」との付き合いだからである。
自ずとそれは、自分を懸けて
社会に関るのではなく、自分の主たる興味の中心たる「知識体系」を通じてのみそれと関り、それ以外については、我関せずとしてすごしてゆくことになる。こういう者にかぎって自ら「専門家」と称したがる。彼らは虚構の世界に遊んでいるのであり、具体的な生活に根を下ろしていないのだ。逆に言えば、泥臭い根や地下茎に触れることを避けることで、私たちは簡単に「今様の教養人・知識人・専門家・・・」になれるのだ。そして今、彼の番頭に代表されるような「草の根付きのものの見かた・知識」は一般的ではなくなっているから、そのような存在の意味さえ分からなくなりつつある、と言ってよいだろう。
つまり、番頭と中年の客の「違い」自体が分らなくなってきているのである。しかし今、私たちが突然絶海の孤島にでも放り出されたことを想定してみると、この「違い」は歴然と露になってなってくるはずだ。そのときはじめて、虚構の世界はあくmでも虚構に過ぎないこと、つまり、星座ではなく、それを構成する「星」の大事さが、そして「星座」の意味が、はじめて分ってくるだろう。「知識」というものの本当の意味が見えてこよう。しかしこんなことは、絶海の孤島に出かけずとも、それこそ「日常」において分らなければならないのだ。私たちは今、ものを「常識」という二重三重にも重なった星座でしか見ない癖がついて(つけられて)しまったのだ。


カタバミ

私は別に、「知識体系」や「教養」を持つことを否定しているのではない。日常の「営為」とそれとの遊離、言い換えれば、生活という根や地下茎を切り捨てて済ますこと、それを問題にしているのだ。正当な理由もなくそれを切り捨て済ます癖がついてしまったからこそ、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」になってしまったのだ、と私は思うのだ。このような傾向、状況は、冒頭に引用した文にもあったように、大正の中ごろから《当たり前に》なってきたように思える。
そして今、私たちの身の回りの「もの」や町や建物などが、ほとんど全て、根や地下茎を見失ってしまった彼の中年の客的発想で語られ、そして造られるようになってしまってはいないだろうか。人びとは抽象的人間として「対象化」され、生身の人間は雲散霧消してしまい、なおかつ、それが「科学的」ということなのだと愚かにも思い、目の前のものも全て「景色」「景観」としてのみ扱われ、その《見えがかり》言うなれば「写真映り」ばかりが問題にされ、それらの私たちの生活・暮しにとっての「思い意味」は決して省みられもしない。私たちの日常には、必ず、大なり小なり、彼の番頭の生活・暮し的な局面があるはずだ。そうでありながら、番頭に代表される人びとの立場・発想が切り捨てられる。
それゆえ、そういう状況下でつくられる「もの」のほとんど全ては、私たちとの語らいを許さない、白々しい、私たちの神経を逆なでするような、あるいはまた、私たちに所定の行動しか許さないような、ある詩人の言葉を借りて言えば「体験の内容となり得ないもの」「魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎないもの」になってしまっている。
   この詩人の言葉の当該部分を邦訳原文から下に転載します。
   ・・・・・・
   今の世では、嘗てなかったほどに
   物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。それは
   それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな用具に過ぎぬからだ。
   拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
   内部から行為がそれを割って成長し、別の形を定めるなら、おのづから忽ち飛散するだろう。
   槌と槌のあひだに
   われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
   歯と歯のあひだに
   依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
   ・・・・・・
                      リルケ 「ドゥイノの悲歌」: 第九の悲歌

この詩人は、別のところで、次のようにも記している。すなわち、
・・・・・・
私たちの祖父母にとっては、まだ『家』とか『井戸』とか、なじみ深い『塔』とか、それのみか彼らの着物やマントさえも、今日より段違いに大切なものであり、また親しみ深いものであった。
彼らにとっては、すべてのものが、その中に人間的なものを見出したり、またそれを貯えたりしている器であった。
ところが今は、アメリカから中身のない殺風景な物品が殺到してくる。
それらはただの仮の物、生活の玩具にすぎない。アメリカ式の考えによる住居、アメリカの林檎、アメリカの葡萄には、私たちの祖先がその希望と心やりをこめていた家やくだものや葡萄とは、少しも共通なところはない。
私たちからいのちを吹きこまれ、私たちによって体験され、私たちと苦楽をともにするところの「もの」は、いまだんだん消滅しつつある上に、もはやこれを補う道もない。
たぶん私たちは、このような「もの」を知っている最後の人びとであろう。
・・・・・・
                                     リルケ「ミュゾットの手紙」(唐木順三「事実と虚構」より孫引き)

この「手紙」は1925年に著されている。それから五十余年、今私たちはヨーロッパから半世紀遅れて「最後」に直面しているのだろうか。それとも、もう「最後」を通り過ぎてしまったのか、まだ辛うじて「最後」を引きずっているのだろうか。
そして私は、「もはやこれを補う道もない」という暗い気分に、ともすれば陥りそうになりつつも、しかし、どうしてもそのまま済ます気にもなれないのである。むしろ、補えるという確とした見通しがあるわけではないが、私たち(の世代)がそれをしなくて、いったい誰がそれをするのか、そう思うだけである。
それがきっと、今生きている私たちの、私たちに課せられた「義務」なのだ。そのように思いたい。私たちは、精一杯、切り捨ててしまった根や地下茎を再び探して繋げ直す責を、きっと背負っているのである。

ここしばらく、幸いなことに、私は「学識のない」「無知の」「専門家でもない」人たちが、一般に素人は口をさしはさむべきではないとされるいわゆる専門的なことがらについて、《学識ある》《専門的知識溢れる》専門家に対して、おずおずと、しかし「したたかに」「素朴な」問いかけをする場面に何度も会ってきた。
彼らが「おずおずする」のは、必ず専門のことは専門家の言う通り聞いていればよい、とか、専門的なことだから、どうせ説明したって分らない、などと門前払いをくらうのが常だからである。そして彼らが「したたか」なのは、そうされても彼らは酔い続けるからだ。
何故彼らは諦めないか。それは、全く単純な理由に拠る。自らの体験で「おかしい?」と思ったことは「おかしい」と言う、そして、どう考えても分らないことに対しては、素直に、分らないから説明してくれと言う。それだけである。しかしこれがいかに並大抵のことでないか。世の中の「常識」「慣習」という峠を何度も越えなければならないからだ。
実は、こういう「問いかけ」こそが、まさに学識ある専門家たちを根底から揺さぶることになる、という場面に、ことあるたびにぶつかったのだ。
彼ら専門家のほとんどは根無し草だから、ひとたまりもない。生活・暮しにがっちりと根を張っている人たちの素朴な問というのは、根源的( radical )だからである。
そして、このいわゆる素人たちは、その専門家とのやりとりの中から、自分たちなりに「知識」をどんどん吸収し、自分たちの生活体系に組み込んでゆく。そこには、生活体系と知識体系の二本立てはない。根から幹へ、幹から枝へ、そして葉へと、一本のしたたかな樹木となる。ますます自分たちの生活・暮しを取り囲むものが「分って」くる。言うなれば、あたらしい型の彼の番頭的人びとが生まれてくるのである。この「無知」で「無名のひとたちが、「知識溢れる」「有名」「高名」な人たちと、対等に、ときには対等以上に話を交わすまでになる。
そしてそのとき、あらためて、「専門家」とはいったい何か、ということが問われることになる。


モン シロチョウ>

もちろん、このような「したたかな」人たちの数は、未だ絶対的に少ない。多くの人たちが、自らを「無知」と決めこんで、雲の上の《偉い》人たちの言いなりになっている。だから雲の上の人たちは、ますますいい気になる。雲の上にいることこそ知識人、専門家の望むべき姿だとさえ思うようになる。
けれども、あちらこちらに、自分たちの上に覆い被さるこういう「暗雲」を取り除こうとする人たち、自分たちの生活・暮しに根を張ることを大事にする人たち、こういう人たちが現実に居るということ、そしてその周りに、このことの大事さに気付く人たちが増えていること、そういう現実を目の当たりにするとき、未だ決して「最後」ではないのだ、と思うのは楽観的に過ぎるだろうか。
明らかに、根や地下茎を切り捨てることを拒み、「間抜け」を嫌うひとたちが、いつも踏みつけられながら、そしてそのたびに強くなりながら、したたかに生きている。
こういう素晴らしい「無知な」人たちに、いつも私は勇気づけられてきた。それはほんとに「幸いなこと」であった。



あとがき
原文は、ワープロのない時代、和文タイプで書いています。したがって、誤字などの修正、文章の改定などは、別途タイプ打ちし、それを字の通り「切貼り」して行ないます。今回の文にまとめるにあたり、ときには、糊がとれて剥落している個所もあり、その箇所の「修復」に、結構気を使いました。
しかし、ワープロを使う現在よりも、文章の「推敲」の度合いは、数等高かったように思いました。
あらためて、「便利さ」の持つ「危うさ」について考えさせられています。


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