区画整理と「心の地図」・・・・暮しと防災

2008-01-12 01:23:25 | 居住環境

間もなく阪神・淡路震災から13年。
数日前の現地の新聞:「神戸新聞」のネット版に、「震災13年」という特集として、上掲の記事が載っていた。

震災後、復興に際して、防災上の観点から区画整理が行われた結果、目の見えない人にとって、自由に歩けない「分らない町」に変ってしまった、という記事。
なぜかと言えば、長年暮していると、目が見えなくても、実際に街並みが見えなくても、心の中に町の地図が自由自在に描かれていたのだが、区割りが変った結果、一から「心の地図」のつくり直しが必要になってしまったのである。
記事では、この自由自在に描けていた地図を「心に描いた地図」と表現している。別の言い方をすれば「頭の中に描く地図」「頭の中の地図」である。

   註 ことによると、目の見えない人は、見える人よりも、
      震災後でも、町なかを自由に歩けたのかもしれない。

   註 あの地震の直後、道幅が狭く、消防車が入れなかった、
      だから、区画整理で道路拡幅が必要、と説く《識者》がいた。
      私は、道幅の狭い所向きの消防車を用意してないのか、と
      訝った記憶がある。
      私の住む農村地帯には、大小の消防車がある。
      そうでなければ道の狭い集落の火事に出向けないからだ。 


実は、目の見える人たちも、皆「心の地図」「頭の中の地図」を、常に描いて日ごろ行動しているのだが、それに気付いていないだけである。

最近カーナビゲーションシステムが車の常備品のようになっているが、日ごろ住み慣れた地域でカーナビに頼る人はいないだろう。どこになにがあり、どう行けばよいか、即座に分るからだ。なぜ分るかと言えば、日ごろ目の前に広がる事物を見て、「心の地図」、「頭の中の地図」が描けているからである。

見慣れたものがすっかり変ってしまうと、目の見える人でも、元の「心の地図」「頭の中の地図」は使えなくなるが、目が見えるだけに新版をつくることは見えない人に比べれば数等容易である。
しかし、目の見えない人にとって、それがかき消されてしまうことは、しかも人為的に急激に消されてしまうことは、きわめて耐え難いことなのは想像に難くない。

町というのは常に変化するものではあるが、それは徐々に変ってゆくのが通常。そうならば、目の見えない人でも、見える人よりも時間はかかっても、「心の地図」「頭の中の地図」も、描き換えられる。しかし、広範囲にわたり、短時間のうちに変ってしまったら、それはきわめて難しいことだ。


常磐新線、通称TXの開通とともに、つくば市近在の農村地帯では、かつての道が新道に付け替えられ、様相がすっかり変ってしまい、これまでのイメージが激変し、わけが分らなくなってしまっている。
もともと「筑波研究学園都市の開発」は、一言で言えば、農村に暮す人びとの「心の地図のぶち壊し」だったのだ(2006年12月6日「道・・・・つくばの道は・・」参照)。

農村地域の道は、微妙に曲がりくねり、道の分岐点はきまってY字型やカーブの地点である。つまり、車にとっては危ない箇所が分岐点、交差点になっている。
これは何故か。
歩くことが基本であった時代、人は無理をしないで地形に素直にしたがって歩くから、ほぼ等高線状に道ができ、あるいは分りやすくかつ歩きやすさを重視するため、尾根筋や谷筋を道に選んだ。
そして、道が分岐するときは、目印になる場所で分かれる。目印は、地形が大きく変る場所であったり、地物であったりする。それは、遠くに見える景色(たとえば筑波山)の場合もある。

目的地へ行くためには、直角に曲がるよりも斜めに分かれる方がスムーズ。
ある地域の人たちが、ある目的地へ向うことを主に考えて道がつくられる。だから分かれ道はY字型になることが多い。
Y字の片方の先端から来てもう一つの先端へV字型に曲がることは、めったにないこと。今、そういったV字の道を車で通るには、ハンドルを数回切り替えすことも必要になる。しかし、もともとこれは人の道、車の都合など考えていないのである。

こういう農村地域の道は、初めて訪れるときには、どこにいるのか不安になるが、住み慣れてしまうと何のことはない。なぜなら頭の中に地図が描かれてしまっているからだ。よそ者は、まわりが見えない夜は歩けないが、そこに暮す人は楽に歩ける。これも、「頭の中の地図」を基にして行動しているからだ。


かつての町や村は、こういう「人のあたりまえの行動」を基にして生まれていたと言ってよいだろう。なぜなら、町や村は、人があたりまえに毎日を過ごす所だからだ。
それに対して、近代的な町の計画は、いわば「ベルトコンベアの計画」になってしまった。人は、自らの感覚であたりまえな行動をすることが出来ない。案内板、サインが必要不可欠になっている。そして、そういう所ほど、「心の地図」「頭の中の地図」を描きにくいから、カーナビが必要になるのである。
住み慣れた町、住み慣れることの出来る町には、案内板はいらない。


人はコンベア上の物品ではない。目の見える人も、見えない人も、基本的に、「心の地図、頭の中の地図を拠りどころにして暮している」という事実、真実を、あらためて見直す必要があるように私は思う。

「防災」のために「日常の暮し」が壊される。「人にやさしくない防災」。「防災のためだけの防災」。これは、「耐震のためだけの耐震」同様、やはりどこかが間違っている、ボタンの掛け違いがあるのではなかろうか。
人は防災、耐震のために毎日を過ごしているのではない。
毎日を過ごしてゆくことを護る、これが防災であり耐震、つまり「対震」なのではないだろうか。

   註 「道」については、同様のことを 2006年11月23日、同11月25日にも書いています。 
コメント (1)
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